『演技指導論草案』伊丹万作

2021年5月5日 オフ 投稿者: animeoyagi

伊丹 万作(いたみ まんさく、1900年1月2日 – 1946年9月21日)は、日本の映画監督。

長男は映画監督・俳優の伊丹十三

『演技指導論草案』は彼が40歳の時に書かれたものである。

現在でも十分に使え、また考えさせられる文章である。

以下の文章は抜粋しているので、全文を読みたい方は青空文庫の『演技指導論草案』より確認していただきたい。

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○演技指導という言葉はわずかにこの仕事の一面を表出したにすぎない。この仕事の真相は指導でもなく、監督でもなく、化育でもなく、叱正でもない。最も感じの似通った言葉をさがせば啓発であろうが、これではまだ少し冷たい。
 仕事中我々は意識して俳優に何かをつけ加えることもあるが、この仕事の本質的な部分はつけ加えることではなく、き出すために費される手続きである

○演技とは俳優が「自己の」肉体を通じて、作中人物の創造に参与し、これを具体化し完成せしむることによって自己を表現せんとする手続きをいう。

○演技指導とは演出者が「俳優たちの」肉体を介して、作中人物の創造に参与し、これを具体化し完成せしむることによって自己を表現せんとする手続きをいう。

演技指導は行動である。理論ではない。

○読書の中から演技指導の本質を探り取ろうとするのは地図をにらんで戦争を知ろうとするようなものだ。いくらにらんでも地図は地図だ。戦争ではない。

○演技指導の方法論に関して私にできるただ一つのことは、その具体的な手続きのうちに比較的法則めいたことを発見してこれを書きとめるということだけだ。

○法則というものに対する信頼にはおのずから限界があるべきを忘れてはいけない。
「美のためには破ってはならない法則は存在せぬ。」(ベートーヴェン)

○法則とは自分が発見したら役に立つが、人から教わるとあまり役に立たぬものだ。

○演技指導の本質の半分は「批評」である。

○演技指導について少し広義に記述しているといつかそれは演出論になる。

○演技指導について少し末梢的に記述しているといつかそれは演技論になる。

○自信と権威ある演技指導というものはすぐれた台本を手にしたときにだけ生れるものだ。作のくだらなさを演技指導ないし演出で補うなどということはあり得べきこととは思えない。

○演技の一節を、あるいは一カットの演技を顔に持って行くか、全身に持って行くか、あるいはうしろ姿にするか、それとも手の芝居にするかというような問題はすでに演技指導を離れて広く演出の分野に属するが、これらのコンティニュイティ的処理のいかんが演技の効果に影響する力は、ときに演技指導そのものよりも、はるかに根本的であり、その重量の前には区々たる演技指導の巧拙などはけし飛んでしまうことさえある。

○演技指導における俳優と演出者の関係は、ちょうど一つの駕籠かごをかつぐ先棒と後棒の関係に似ている。先棒の姿は後棒に見えるが、先棒自身には見えない。

○演出者と俳優と、二つの職業的立場を生み出した最大の理由は、人間の眼が自分を見るのに適していないためらしい。

○俳優に対する演出者の強みには個人的なものと一般的なものと両様ある。個人的なものとはもっぱら演出者の個々の眼の鋭さに由来するが、一般的なものは、演出者がいつもカメラの眼を背負って立っているという職分上の位置からくる。

○カメラの眼の位置はすなわち観客の眼の位置である。

○演出者とは、一面観客の象徴である。

○どんなに個性の強烈な演出者と、どんなに従順な俳優とを結びつけても、俳優が生きているかぎり、彼が文字どおり演出者の傀儡かいらいになりきることはあり得ない。

○どんなに妥協的な演出者と、どんなに専横な俳優とを結びつけても、演出者が機械を占領しているかぎり、俳優はいつまでも彼を征服することができない。

○どの俳優にでもあてはまるような演技指導の形式はない。

○演技指導をそれ以外のものから明瞭に切り離し得るのは観念の中においてのみである。
 実際には種々なものと複雑にからみ合っていて、純粋な抽出は不可能である。

○演技指導はそれが始まるときに始まるのではない。通例配役の考慮とともにそれは始まる。

○百の演技指導も、一つの打ってつけな配役にはかなわない。

○最も能率的な演技指導は成功せる配役である。その逆もまた真である。
(したがって純粋な立場からいえば、配役は演出者の仕事であるが、実際には必ずしもそうは行かない場合が多い。)

○私の見るところでは、俳優は偉大なる指導者(それは伝説的であってもいい。)の前では多少ともしゃちこばってしまう傾向を持っている。したがって駈け出しの演出者こそ最も生き生きした演技を彼らから抽き出し得る機会に恵まれているというべきであろう。
(このことを方法論的にいうならば、演出者は威厳を整えるひまがあったら愛嬌を作ることに腐心せよということになる。)

○演技指導の実践の大部分を占めるものは、広い意味における「説明」である。しかし一般に百を理解している人が百を説明しきれる場合は稀有に属する。(中略)将来の演技指導者たらんとするものはまず何をおいても「説明」の技術を身につけることを資格の第一条件と考えるべきであろう。

○俳優の一人一人について、おのおの異った指導方法を考え出すことが演技指導を生きたものたらしめるための必須条件である。

○演出者の仕事の中で演技指導こそは最も決定的でかつ魅力的なものだ。カッティングやコンティニュイティを人任せにする演出者はあっても、演技指導を人任せにする演出者はない。

○演出者は平生から日本中のあらゆる俳優についてできるだけ多くのことを知っているほうがいい。しかしもしそれが困難だとすれば、せめて近い将来において仕事のうえで自分と交渉を持つことを予想される幾十人かの俳優についてだけでも知り得る範囲のことを知っているべきである。そのためには直接彼らと知り合って談笑のうちにその特質や性癖を見抜くことはもちろん必要であるが、一方ではまたできるだけ彼らの出演している舞台や映画を見てまわって、その演技や肉体的条件をよく記憶しておくことが必要である。
 しかしかくして得た予備知識がどんなに豊饒であろうとも、それがただちに俳優に対する評価を決定する力になるとはかぎらない。

○俳優に関するどんな厖大な予備知識も、演出者として半日彼と交渉することとくらべたらほとんど無意味に等しい場合がある。

○厳密な意味において俳優を批評し得る人は、その俳優と仕事をした演出者以外にはない。

○俳優のほとんど残らずは、彼が自身のいかなる演技中にも決して示さないようなすぐれたアクションや、魅力的な表情や、味の深いエロキューションを日常の生活の中に豊富に持っているものである。演出者はそれらをよく観察し、記憶していて、彼の演技の中へこれを移植しなければならぬ。

○演技指導の基本的な二つの型として、おもに演技をやってみせる方法と、おもに説明に依拠する方法とがある。前者は端的であり成功した場合は能率的であるが、ただしこれは指導者が完全な演技者に近い場合に限るようだ。ところが実際においてかかる実例は極めて乏しい。不完全な演技を示すことの結果は、往々にして何も示さないことよりもっと悪い場合がある。かくして極めて迂遠ながら第二の説明に頼る方法が取り上げられる。現在は日本の演出者の大部分はおそらくこの方法にもたれかかっていると想像されるが、さてここで用心しなければならぬことは、説明ということの可能性には限界があり、しかもその限界がかなり低いということと、我々の説明技術の貧困がその限界をさらに低下させているということである。

○私自身の演技指導はいったいどの型であろう。演技をやってみせることは私にはできない。説明の才能はほとんど落第点である。それにもかかわらず私はあくまでも自分の意志を相手の肉体のうえに顕現しなければならない。そこで私は無意識のうちに次のような方法にすがりついて行った。つまり私は第一にできるだけ動いて見せることを避け、説明をもってこれにかえよう。そして次には、さらに、できるだけ説明することを避け、「何か」をもってこれに代えよう。「何か」とは何であろう。この「何か」の説明くらい困難なことはない。あるときはそれは沈黙であり、あるときは微笑であり、あるときは椅子から立ち上って歩くことであり、あるときは瞑目することであり、あるときは――。これでは際限がないから、私はこれにへたな名前を与えよう。いわく、「暗示的演技指導」。

○俳優をしかってはいけない。彼はいっしょうけんめいにやっているのだから。私は公式主義からこんなことをいうのではない。私は俳優を打ったこともある。私も人間であり相手も人間であるからには、ときとして倫理も道徳も役に立たない瞬間があり得る。しかし法則を問われた場合には私はいう。どんなことがあっても俳優をしかってはいけない、と。

○俳優にむかってうそをついてはならぬ。たとえそれがやむを得ない方便である場合においても。

○演技に際して俳優が役に成り切るべきであるように、演技指導に際して演出者は俳優になりきるべきである。このことは一見俳優に対する批評的立場と抵触するようだが、実際には抵触しない。万一抵触するにしても、そのためにこの法則を撤回するわけには行かない。

○俳優の演技を必要以上に酷評するな。
 それは必要以上に賞讃することよりもっと悪い。

○俳優をだれさすな。カメラマンをだれさしても、照明部をだれさしても、俳優はだれさすな。

○いかなる演技指導もむだだと思われるのは次に示す二つの場合である。
 一、俳優の芸がまったく可撓性かとうせいを欠いている場合。(※ 可撓性(かとうせい)とは、物質の弾性変形のしやすさを示す)
 二、俳優が自己の芸は完全だと確信している場合。
(以上のような実例はおそらくないだろうとだれしも考えがちであるが、既成スターの中には右の典型的な例が珍しくない。)

○可撓性のないものを曲げようとすれば、それは折れる。

○自分は健康だと信じているものは薬をのみはしない。自分は完全であると信じきっているものは決して忠告を受けいれない。

○演技の中から一切の偶然を排除せよ。
 予期しない種々な偶然的分子が往々にして演技の中へ混りこむ場合がある。
 たとえば俳優が演技的意図とはまったく無関係にものにつまずいたり、観客の注目をひいている俳優の顔に蝿がとまったり、突然風が強く吹いてきて俳優のすそが乱れたり、などなど、その例は枚挙にいとまがないが、要するにあらかじめ演出者の計算にははいっていない偶発的できごとは一切これを演技の中に許容しないほうがよい。ところが我々は実際においては、ともすればかかる偶然を、ことにそれが些事である場合は、いっそう見逃してしまいたい誘惑を感じる。
 そしてその場合、自分自身に対する言いわけはいつも「実際においてもこういうことはよくあるじゃないか」である。
 しかもかかる偶発的些事というものは、もともと自然発生的であるだけにその外見は極めて自然で受けいれられやすい姿をしている。我々の経験によるとこれらの偶然のほうがときには計量された演技よりもむしろ立ちまさって見える場合さえある。だからなおさら我々は偶然に対していっそう用心深くならなければいけないのである。
 あらかじめ計算されざる偶然はなぜ排除しなければならぬか、その理由はただ一つ。
 作中の世界は作者によって整理された世界でなければならぬから。(後略)

○演出者によってあらかじめ計量し採択せられたる「偶然」は、もはや「偶然」ではない。

○十分なる理解と、十分なる信頼と、そして十分なる可撓性と。俳優の中にこれだけのものを発見した瞬間に演技指導の仕事は天国のように楽しくなり、演出者は自分が天才のように思えてくる。

○この仕事の制度上の位置が俳優に対して上位を占めていることを過信し、無反省に仕事の優位性の上に寝そべることは極めて危険である。しかし実際においては我々はたえず彼らの上に立ち、ときには叱※(「口+它」、第3水準1-14-88)し、ときには命令しなければならぬ。つまりこの仕事を成り立たせるためには俳優に対して少なくとも形式的には自分自身を上位に保つことが必要なのである。しかしただ漫然と形式上の優位性にあまえることは厳に戒めなければならない。
 我々はむしろ仕事の価値観のうえではまったく俳優と等位にあることを信ずべきである。しかしそれにもかかわらず我々はあくまでも自分の仕事に権威を持たなければならない。そしてそのためには仕事自体の持つ形式的な優位性などはすっかり抛擲ほうてきしてしまうほうがいい。そして微量でもいいから自分一個の実力による権威ができあがってきて、つまりは極めて自然に自分自身を優位に導き得るように人間として芸術家としての自分を高めて行く努力をつづけるよりしかたがない。そしてかかる実質的な権威以外に真に自分を優位に支えてくれる力は決してあり得ないことを知るべきである。

○一般に演出者がある俳優を好きになることはいけない。好きになった瞬間に批判の眼は曇ってしまう。
 しかしもしも意地悪きしゅうとのごとく冷い眼を持ちつづけることさえできるならば、演出者は安心して俳優に惚れこむべきである。

○演出者以外のものが、演技指導に関係のあることを直接俳優に言ってはいけない。
 たとえば録音部が直接俳優にむかってせりふの調子の大小を注文したり、カメラマンが直接俳優にむかってアクションの修正を要求したりしてはならぬ。それらは必ず一度演出者を通じて行なわれねばならぬ。

○非常に低度の演技、つまり群衆の動きや背景的演技などを対象とする場合は必ずしも右の原則によらない。
(ただし群衆撮影の場合あまりカメラマン任せにすると、カメラマンの多くは群衆を一人残らず画面内に収めようとしすぎるため、画面外には人間が一人もいないことがわかるような撮り方をする傾向があるから注意を要する。)

○衣裳小道具などを俳優が勝手に注文してはいけない。

○俳優がはじめて扮装して現われた場合、演出者は必ずやり直しをさせるつもりで点検するがよい。でないと眼前に現われた俳優の扮装にうっかり釣りこまれてしまうおそれが多分にある。
 演出者のいだいているものはいくら正しくても畢竟イメージにすぎないが、これに反して俳優の扮装はいくらまちがっていてもそれは実在であるから我々はともするとその現実性にだまされて「うむ、このほうがいいかな」と思ってしまうのである。

○仕事の場にのぞんで「さあ何かやってみせてください」という顔で演出者を見まもる俳優がいる。そういう俳優にむかって私は言う。「やって見せなきゃならないのは君のほうだよ」

○俳優のつごうによるせりふの改変を許してはいけない。一つでもそれを許したら、あとはもう支離滅裂である。しかしこれを完全に遂行するためには、演出者のほうでも仕事の途中でせりふを書直したり、未完成のシナリオで仕事にかかったりすることをやめなければいけない。
(これは秘密だが、もしも私が俳優だったらせりふをなおさずにやれるシナリオはただの一つもないじゃないかと言いたいような気がする。)
 右の括弧の中は俳優に読まれたくないものだ。

○地面に線を引いてあらかじめ俳優の立ちどまる位置を確保したり、移動するカメラと俳優との間隔を一本の棒で固定したり、かようなあまりにも素朴な機械主義とは、もういいかげんに訣別したいものである。
 人間がこんなにも機械の侮辱にあまんじていなければならぬ理由はない。

○テストのとき、厳密には本意気になれない性質の俳優があるようだ。これは理論的にはもちろんいけないことだが、実際問題としては多少の考慮をはらってやるべきである。かかる俳優の演技のテストに際しては微妙な計算が必要である。

○テストの回数はしばしば問題となるが、私の考えでは、一般的な法則としては、それは多ければ多いほどよい。
 テストが多過ぎるとかえって演技の質が落ちると主張する俳優はみずから自己の演技が偶然に依存している事実を告白しているようなものだ。
 このことはその反対の場合の、あらゆる古典芸術の名人芸を思い浮べてみたら容易に納得の行くことである。彼らの芸は練習回数の夥多によって乱され得るほど偶然的ではない。

○演出者が意識して演技の中に偶然を利用しようとする場合は無反省にテストをくり返してはいけない。たとえば非常にアクロバティックな演技や、子役を使う場合などにはある程度以上のテストは概して無効である。

○経験の浅い女優などに激情的な演技を課するような場合は、偶然的分子が結果を支配する率が多いからテストの回数を重ねることは危険である。
 なお一般に激情的なカットを撮る場合に考慮すべきことは人間の感情には麻痺性があるという心理的事実である。通例いわゆる甲らを経た俳優ほど感情を動かすことなくして激情を表現し得るものであるが、多くの俳優は演技の必要に応じてある程度まで自分の感情を本当に動かしてかかっているのである。したがって前者の演技は持続的な麻痺の上に立っているがゆえにもはや麻痺の心配はないが後者は麻痺によって感激が失せると演技が著しく生彩を欠いてしまう。
 ことに演技中に落涙を要求する場合などは、いかなる俳優といえども麻痺性の支配を受けないものはないのであるからテストは最小限度にとどめ、でき得るならばまったくテストを省略するように工夫すべきである。

○演出者は演技指導中はできるだけ俳優の神経を傷つけないように努めなければならぬ。そのためには文字どおりはれものにさわるような繊細な心づかいを要する。なかんずく俳優が自信を喪失する誘因になるような言動は絶対に慎しまなければならない。
 演技指導とは俳優を侮辱することだと思っているらしい演出者がいるのは驚くべきことだ。

○演出者は俳優がテストに際してどんなに拙い演技を示しても、決してそれによる驚きや失望を色に現わしてはいけない。彼の示した演技と、自分の望む演技との間にたとえ非常な距離があるにしても、いきなりその距離の大きさを俳優に知らせることはよくない。数多いテストによって少しずつ俳優を引きあげて行って次第にその距離を縮めて行くように試みるべきである。

○俳優がすぐれた演技を示した場合には何らかの形で必ず賞讃すべきである。

○俳優がせりふを暗記しようと努めているふうが見えるときは話しかけてはいけない。

○俳優は実生活では軽い化粧カバンさえ持つのをいやがって弟子と称するものに持たせるくせに演技中には絶えず何かを持ちたがる。
 しかし彼らの望みに任せてむやみに物を持たせてはいけない。芝居が下品になる。

○俳優は常に手を内懐かポケットの中へ隠したがる。ある俳優のごときは娘の結婚式の来客を迎える紳士の役を、両手をズボンのかくしへ突込んだままで押し通したのを私は見て人ごとながら冷汗を流した。
 彼らの手をかくしから引っぱり出せ。でないと折目正しい演技はなくなって、すべてが猿芝居になってしまう。

○俳優のしゃべるせりふが不自然に聞えるとき、そしてその原因がはっきりつかめない時は、ためしにもっと声の調子を下げさせてみるがよい。それでもまだ不自然な場合は、さらにもっと調子を下げさせる。こうすれば大概それで自然になるものである。
 一般に、こうして得たせりふの調子がその人の持ちまえの会話の声の高さであり、せりふが不自然に聞える場合のほとんど九十パーセントまでは持ちまえの声より調子を張っているためだといっていい。したがって録音部の注文で無反省に俳優に声を張らせるくらい無謀な破壊はない。
 我々はいかなる場合にも機械が人間に奉仕すべきで、人間が機械に服従する理由のないことを信じていてまちがいはない。

○声を張ることを離れてはほとんど表現ということの考えられない舞台芸術の場合には前項の記述はまったく役に立たない。
 たとえどんなにリアルな舞台でももしも我々が映画に対するとまったく同一の態度でこれを見るならば、そこには自然なエロキューション(朗読・演説、俳優のせりふなどの発声の技術。発声法。朗読法。)などは一つもないのに驚くだろう。

○しぐさに関する演技指導の中で、視線の指導くらい重要でかつ効果的なことはあまりない。その証拠に、俳優が役の気持ちに同化した場合には別に注文しなくても視線の行き場所や、その移行する過程が、ぴたりぴたりとつぼにはまって行く。
 ちょうどその裏の場合、たとえ俳優自身はその役のそのときの気持ちを理解していなくても、視線の指導さえ正確緻密に行なわれるならばその結果はあたかも完全なる理解の上に立った演技のごとく見えてくる。
 気持ちの説明が困難な場合(たとえば子役を使う場合など)、もしくは説明が煩雑で、むしろ省略するほうが好ましいような場合には、私は俳優の私に対する信頼にあまえて、理由も何もいわず、ただ機械的に視線の方向と距離とその移行する順序を厳密に指定することがしばしばあった。その結果、彼あるいは彼女たちの演技は正しく各自の考えでそうしているように見えてくるのであった。

○私の経験によると多くの女優は演技よりもなお一層美貌に執着する。(後略)

○演技にある程度以上動きのある場合には、演出者は必ず一度俳優の位置に自分の身を置いて、実地に動いて見るがよい。それは人に見せるためではない。そのおもなる目的は俳優に無理な注文を押しつけることを避けるためである。演技のような微妙な仕事を指導するためには、終始おのれを客観的な位置にばかり据えていたのではいかに熱心に看視していてもどこかに見落しや、俳優に対する理解の行きとどかない点が残ってくるものである。しかもこれは自分で動いてみる以外には避けようのないことであると同時に、動いてさえみれば簡単に避けられることである。
 要するに我々は原則として自分にできない動きを人に強要しないことである。自分には簡単にできると思っていたことが、動いてみると案外やれないことは珍しくない。(この場合の動きの難易は技術的な意味よりもむしろ生理的な意味を多く持っている。)
 自分で動いてみて始めて自分の注文の無理をさとった経験が私には何回となくある。

○俳優の動きにぎごちない感じがつきまとい、何となく見た目に形がよくないようなときは、俳優自身が必ずどこかで肉体的に無理な動きや不自然な重心の据え方をしていながら、しかも自身でそれを発見し修正する能力を欠いている場合にかぎるようであるが、この場合も演出者が客観的にいくら観察していても具体的な原因を突きとめることはかなり困難である。しかし一度俳優の位置に身を置いて自分で動いてみると実にあっけないほど簡単にその原因を剔出てきしゅつすることができるものである。

○エロキューション(朗読・演説、俳優のせりふなどの発声の技術。発声法。朗読法。)の指導に関しても前二項とほぼ同様のことがいえる。

○俳優に信頼せられぬ場合、演出者はその力を十分に出せるものではない。
 また演出者を信頼せぬ場合、俳優はその力を十分に出せるものではない。

○「信頼」が飽和的な状態にあるときは、たとえば演出者が黙って出てきて椅子に坐っただけで既にある程度の効果を挙げ得るものだと私は信じている。
 そして私が心の中に描いている理想的な演出、もしくは完成されつくした演技指導の型といったようなものの特色は、著しく静かでほとんど無為に似た形式をとりながら、その実、当事者間には激しい精神の交渉、切磋、琢磨がつづけられ、無言のうちに指導効果が刻々上昇して行くといった形において想像される。
 このことは一見わらうべき精神主義的迷妄のごとくに誤解されるおそれがないでもないが、たとえば我々が実生活における幾多の経験を想い出してみても、我々が真に深い理解に到達したり、新しい真実を発見したりするのは、言葉のある瞬間よりも言葉のない瞬間におけるほうが比較にならぬくらい多くはなかったか。あるいはまた、最もすぐれた説明は、何も説明しないことであるような例が決して少なくない事実に気がつくならば、私の意図している方向が、まんざら荒唐無稽でないことだけはわかるはずである。
 こうはいっても、私はそのために別項で強調した説明技術の重要性に関する主張をいささかでも緩和する気持ちはない。むしろそこを通らずして一躍私の意図する方向に進む方法はないといってもまちがいではない。
 しかしいずれにしてもよき演技指導の最初の出発点は指導者に対する「信頼」であることを銘記すべきである。

○「信頼」の上に立たない演技指導は無効である。


(『映画演出学読本』一九四〇年十二月)


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