手品・奇術 マジックの歴史

2020年9月16日 オフ 投稿者: animeoyagi

※Wikipediaの記事を使用しています

■マジックの語源は、香木を火に捧げる祭儀や夢占・占星術を司る古代ペルシアの祭司階級であるマゴスから派生したギリシア語「マゲイア」である。

古代ギリシア・ローマ世界において、マゲイアという言葉は本来、マゴスの業や知識を指す語であるが、呪術、まじない、奇術、さらにはイカサマやペテンといった悪い意味でも使われるようになった。

マジック(魔術)という語が呪術と奇術というふたつの意味を併せもつのは、彼らが行った各種の奇跡や魔術が現代的意味での奇術に相当することに由来するという説がある。

バイスクル ブラックブルー
トランプ バイスクル ライダーバック 赤

★バイスクル (Bicycle) とは、アメリカ合衆国のU.Sプレイング・カード社によって製造されているトランプのブランドの一つである。U.Sプレイング・カード社は世界最大のトランプの売り上げであるが、そのなかでもバイスクルが売り上げトップである。名称は自転車(英語で bicycle)に由来する。

素材はほとんどのバイスクルは紙製だがプラスチック製のものもある。

バイスクルはカード表面に独特な加工(エアクッション加工。エンボス加工とも言われる。プラスチック製のものは施されていない)が施されており、とても滑りが良く、リボンスプレッド(テーブル上などにトランプを直線状、または弧状に広げること)がやりやすい。そのためマジシャンに好んで使用されている。

紙のケースを包んでいる透明ビニールにも「世界中のマジシャンに愛されて~」と宣伝文を書いたシールが貼ってあることから、会社側でも手品用を想定していることが窺える。

■【カップ・アンド・ボール】奇術の歴史は古く、演目の1つ「カップ・アンド・ボール en:Cups and balls」は古代エジプトのベニハッサン村の4000年以上前のものと推測されている洞窟壁画にそれらしきものが描かれている。

ただし、これはカップ・アンド・ボールを演じているところではなくパンを焼いているところだと考える学者もいる。

紀元前1700年頃のものと考えられている書物(ウェストカー・パピルス)には当時のファラオの前で演じた奇術師の様子が詳細に描かれている。

ギリシア・ローマ時代には奇術師を「小石を使うもの」という意味の言葉calculariusや「カップを使うもの」という意味の言葉acetabulariiで呼び、これは「カップとボール」(ラテン語acetabula et calculi)を表している。

この時代の文書には、奇術師に関連する逸話や見聞録が数多く存在する。

カップアンドボール / Brass (Copper) Cups and Balls — 魔法を閉じる/Close Up Magic

■1世紀頃にはすでにヤンプリュスという奇術師が空中を飛行したという記録があるが、どのような方法を用いたのかはわかっていない。

■日本における奇術の歴史は、奈良時代に唐より仏教とともに伝来した「散楽」が始まりとされ、狂言や能などと同じ源流を持っている。

大道芸として発展し、「放下」「呪術」「幻術」と呼ばれたが、戦国時代には芸として完成している。ただし、室町時代以降はキリシタン・バテレンの妖術と非難され、一時禁止された。陰陽師(安倍晴明など)の術も奇術の原理を使用していたとされる。

■1584年にイギリスの地方地主レジナルド・スコットen:Reginald_Scotが、『妖術の開示en:The_Discoverie_of_Witchcraft』をロンドンで出版。

この中には奇術の解説も含まれており、世界最古の奇術解説書となっている。

しかし権力者にとって不都合な書物であったためか、英国国王ジェームス一世は自身が王位につくと、この本を異端の書として全て燃やすように指示した。

このためこの本の原書はほとんど残っていない。

★カードマジックの解説が登場した初めての文献は1584年にイギリスのレジナルド・スコットによって出版された『Discovery of Witchcraft』(『妖術の開示』)である。この本には5つのカードマジックが解説されている。

■ニコラス・オーウェン(英: Nicholas Owen、生年不詳 – 1606年3月2日)は、イエズス会のブラザーである。通名は「リトル・ジョン」。エリザベス1世およびジェームズ1世の時代に弾圧されていたカトリックの司祭たちのために司祭の隠れ場を作り、大勢のカトリック聖職者を救った人物として知られる。

1606年に逮捕され、ロンドン塔で拷問を受け獄死した。

死後、カトリック教会によって殉教者と称えられ、1929年、教皇ピウス11世によって列福され、1970年に教皇パウロ6世によってイングランド及びウェールズの40殉教者の一人として列聖された。オーウェン個人の祝日は3月22日である。

★16世紀のニコラス・オーウェンは幽閉されていたロンドン塔からの脱出に成功し、2人のイエズス会士の仲間を牢獄から脱出させる手はずをとったため、脱出術を得意とするカトリックのマジシャンからは守護聖人として大事にされている。

オーウェンはドン・ボスコと並んで、カトリックのゴスペル・マジック(マジックを利用して神のメッセージを伝えるジャンル)のパフォーマーにとっても大事な守護聖人である。

■【人体切断】15世紀から16世紀頃には人間の首切り術を行っている絵画が存在し、1584年にレジナルド・スコットが出版した『Discovery of Witchcraft』(『妖術の開示』)で解説がなされている。

【注文品】手品屋 ニュージャムキューブイリュージョンマジック 人体切断  美女が消える 宴会 ステージ

■17世紀のインドで演じられていた『ヒンズー・バスケット』という奇術では、竹で編んだかごに子供を入れて消失させている。

ヒンズーバスケットの一例

■江戸時代頃から手妻(てづま)、品玉と呼ばれ、柳川一蝶斎や塩屋長次郎らが舞台で活躍した。特に塩屋長次郎は世界に先駆けて「ブラック・アート」(イリュージョンを参照)を完成させた人物である。

■江戸時代以降は奇術解説書が多く出版されるようになり、日本最古のものは「神仙戯術」(元禄10年、1697年)であり、これは明の文人画の大家、陳眉公の翻訳である。

江戸時代、奇術は知的な座敷芸として認知されていた。

趣味人や知識人が著し、当時のプロが演じていた大掛かりなものから、座敷で演じるものまでが解説され、当時の日本人は既にエンターテイメントとして奇術を楽しんでいたことがわかる。

「キリシタン・バテレンの妖術」という評判も、むしろ宣伝文句として使われた場合があった。

江戸時代の著名な奇術解説書としては、「座敷芸比翼品玉」「秘事百撰」など。幕末から明治維新に掛けて来日した外国人は、手妻(特に胡蝶の舞)に驚嘆したという記録が残っている。

■【ブラック・アート(黒技)】舞台から客席へ強い照明を当てると、背景が黒い場合は舞台上の黒いものが見えなくなるという原理を用いた奇術のこと。

この原理を用いると骸骨にダンスをさせたり樽の中から幽霊がでてくるといった様々な現象を起こすことができる。

西洋では19世紀頃に盛んに演じられたが、日本ではそれに先駆けて元禄時代(1688年から1704年)の塩谷長次郎が『呑馬術(馬呑術)』として演じていた。

また江戸時代の歌舞伎でもこの原理を用いて大がまが火を噴いたり人の首がとぶといった演出が行われていた。

ブラックアートの一例

■【弾丸受け止め術】

17世紀頃には演じられたと考えられている。イギリスのフィリップ・アストレーは、軍隊において友人が銃で決闘することになり、そのときにどうすれば友人を傷つけずにすむかを考えたことがきっかけで弾丸受け止め術を考案したということを自著『自然奇術(Natural Magic)』で述べている。

ロベール・ウーダンは1856年にフランス政府の依頼を受けてアルジェリアへ行き、弾丸受け止め術を見せて回教徒の反乱をおさめたことがあると伝えられるが、これは作り話だと考えられている。

多くの奇術師が演じているが、必ずしも成功していたわけではなく事故も多発している。例えばドクター・エプスタインやミッシェル・ヘータルはそれぞれ1869年12月と1899年10月に射殺されている。

日本においても、明治時代に中村小登久が弾丸受け止め術による事故で左目を失明している(命に別状は無かった)。

弾丸受け止め術の最も有名な事故は1918年3月23日に発生したチャン・リン・スーの死亡事故である。

その日、チャン・リン・スーはロンドンのウッド・グリーン・エンパイア劇場で弾丸受け止め術を演じていたが、観客が銃を発砲すると彼はそのまま被弾して死亡してしまった。

弾丸受け止め術の一例↓

★初期の弾丸受け止め術では、銃をハンカチで拭くときなどに装填された弾丸をひそかに抜き取ることによって解決していた。

そのまま抜き取った弾丸をハンカチといっしょに助手にわたし、助手がひそかにその弾丸を林檎に埋め込んだ上でその林檎を演者にわたして演技を行う。

弾丸を密かに抜き取るときには、銃口の内側に底つきの筒をつけておき、装填するとその筒の中に弾丸が入るので筒ごと弾丸を抜き取るという方法などがとられた。

また、鉛の弾丸を蝋でつくった中空の弾丸とすりかえ、その中空の弾丸を銃に装填するときに粉々にしてしまって空砲しか発射できなくするという方法もあった。

スコットランドのジョン・ヘンリー・アンダーソンはスズと水銀の合金でつくった鉛に見えるが実際はもろい弾丸を使って同様に粉々にしている。

以上は仕掛けの無い銃で行う方法であるが、弾丸が発射されなくなるような特殊な銃を用いて行う方法もあり、チャン・リン・スーはこの方法を使っていた。

■【脱出術】日本では、正徳2年(1712年)成立の『和漢三才図会』に「籠脱(かごぬけ)』として記載されている他(同時代では「釜抜け術」などもある。

詳細は「和妻」を参照)、軍学書『甲陽軍鑑』巻四品第七において、武田信玄の軍配者である小笠原源与斎が風呂の中に入り、人々に上から蓋を押さえさせ、知らぬ間に脱出していたという記述(これは消失マジックにも当たる)があり、認識は古くからみられる。

■【日本のカードマジック】1725年に早水兼山によって書かれた『万世秘事枕』や1727年の『和国知恵較』にカルタを用いた奇術(和妻)が紹介されている。

■砲弾抱き止め術については、1772年の『ロンドン年報』に掲載されており、19世紀末まで演じられていたとされる。

★砲弾抱き止め術については、大砲に火薬をつめるとき、大量の火薬を入れるとみせて実際には少しだけしか入れないのが秘密である。少量の火薬によって発射された砲弾であれば10m離れたところで受け止めることができる。

■ファンタスマゴリー(フランス語:Fantasmagorie, 英語:Phantasmagoria, Fantasmagoria)は、18世紀末にフランスで発明された、幻灯機を用いた幽霊ショーである。

ベルギーのリエージュ出身の物理学者のエティエンヌ=ガスパール・ロベール、通称エティエンヌ・ロベールソン(1763年 – 1837年)がパリで行った興行によって有名となり、ヨーロッパ、とくにイギリスで、19世紀を通して流行した。

18世紀のファンタスマゴリー

■1820年頃にはインドのマドラスでブラミンというヒンドゥー行者が空中であぐらをかく技を披露している。これを改良して、1847年10月10日にロベール・ウーダンは息子のウジェーヌ(当時6歳)を浮揚させる奇術を初演した。

人体浮遊術の一例

他にはジョン・ネヴィル・マスケリンの「忘我の行者」(1901年)やハリー・ケラーの「カルナック王女の人体浮揚術」(1904年)といった演技がある。

ハリー・ケラーのポスター(1894年)
スポンタスイリュージョン 人体浮遊イリュージョンの決定版!J-STAGE

★ジャン・ウジェーヌ・ロベール=ウーダン(Jean Eugène Robert-Houdin, 1805年12月7日 – 1871年6月13日)は、フランス人のプロマジシャン。今までとは違う奇術を行い、尊敬をされたことから近代奇術の父と呼ばれている。

★1805年、フランス・ブロワ生まれ。 出生時の名前はジャン・ウジェーヌ・ロベールであり、ウーダンの姓は結婚後に妻から貰ったものである。

青年期は家業である時計職人として機械装置に精通し、いくつかの精巧な自動人形を作成した。

40歳のとき、かねてから憧れていたマジシャンへ転身。1845年パリでデビュー。

プロデビュー後は古くからあるマジックに加え、元時計職人ならではの新技術に基づいた数々のオリジナルマジックで人気を博した。それらは現代においても、行われているものもある。

このときウーダンは、夜会服(燕尾服)といった正装を着用。また明るい照明を使用したことなどで、それまでのマジックに対する「黒魔術的な」イメージを払拭した。

この革命的な演出形態は、たちまち世界中へと広がり、夜会服(燕尾服)にシルクハットは「マジシャンの代名詞」となった。

このことからウーダンは、しばしば「近代奇術の父」と呼ばれる。

また、「マジシャンとは魔法使いを演じる役者である」という名言を残した。

これを奇術の歴史に名を刻んだ多くのマジシャンが大切にしてきた。故に奇術師には秘密を守る義務がある。

★【弾丸受け止め術】

1850年代のフランス領アルジェリアでは、イスラム教の一派である聖者崇拝思想(マラブーティズム)勢力が大道芸的な「奇跡」を見せる事で大衆を扇動し、武装蜂起寸前の状態となっていた。

フランス政府は軍事的に対応するよりも、マラブーが見せるトリックが見劣りするような腕前を持つマジシャンを送り込み、マジック対決を行うことが良策と考えた。

1856年にウーダンは政府からの要請でアルジェリアに渡り、当地の有力者や一般客が集う中、電磁気を利用した最新のステージマジックを披露した。

観客はウーダンのマジックに魅了されたが、その中のひとりである有力シャイフボウ・アレムはウーダンを自宅に招き、特別公演を依頼した。

ウーダンはシャイフの部下たちの前でマジックを披露し喝采を受けたが、屈辱を感じたシャイフ配下のマラブーはウーダンは詐欺師であると非難し、銃による決闘を申し込んだ。

ウーダンはこれを受諾したが、決闘用の弾を偽の弾丸にすり替えるため、口実を付けて決闘を翌日に引き延ばした。

翌日、決闘の場でマラブーの放った弾丸を歯で咥えて受け止める弾丸受け止め術を披露し、マラブーに敗北感を与える事に成功した。

一連のマジック対決によって影響力の低下を悟ったマラブーは蜂起を断念し、ウーダンは褒賞として装飾を施した巻物を贈られた。

帰国後、引退したウーダンは記憶を頼りにアルジェリア旅行記を著した。

このエピソードは中島らもの小説「空のオルゴール」や日本で公開された映画『トリック劇場版』でも語られたが、真意は定かではない

■ヨハン・ネポムク・ホーフツィンザー(Johann Nepomuk Hofzinser, 1806年6月19日 – 1875年3月11日)は、19世紀にオーストリア、ウィーンで活躍した奇術師。本職は、ウィーン市の役人であった。

様々な分野に興味を持ったホフジンザーは、やがて奇術に目覚める。その後、自宅にサロンを構え、オリジナルの奇術を披露した。そうして、セミプロからプロへ転向している。

近代・現代奇術の重要な原理のいくつかは、ホフジンザーの発明によるもので、現在でもマジシャンに使われているものも多い。

また、現象の発明という意味でも功績を残した。

自身は著書を残しておらず、また「道具とメモの廃棄」という遺言のせいで資料は多く残っていない。

だが、残されたメモや道具類をまとめた書籍は何冊か出版された。

その中で、現象だけを記録した事項は「ホフジンザー・プロブレム Hofzinser’s problem」と呼ばれ、多くのマジシャンが「解法」を研究・発表している。

■【脱出術】1860年代には、体を縛っている縄をほどく技を持っていたダベンポート兄弟(英語版)が、自分たちは拘束されているという印象を持たせながらその裏でこの脱出術を使っていた。もっとも彼らは奇術師というよりも、心霊現象を実現しているという触れ込みではあった。

ジョン・ネヴィル・マスケラインのような奇術師は、このダベンポート兄弟が脱出術を駆使しているのを見抜き、仕掛けを再現してみせて超自然的な力を持っているという彼らの主張を論破した。

とはいえ、この再現は公開の場で実際に脱出術をみせたわけではなく、それを言葉で説明して心霊術というより奇術師の秘密の技でもって脱出したのだと論じただけだった。

★「脱出術」に当たる英語そのものは、フーディニと同時代に活躍した、オーストラリアのノーマン・マレー・ウォルタースの造語だとされている。

■1862年12月24日【ダークスのファンタスマゴリア(のちのペッパーズ・ゴースト)初演】ペッパーズ・ゴースト(英語:Pepper’s ghost)は、劇場などで使用される視覚トリックである。板ガラスと特殊な照明技術により、実像と板ガラスに写った「幽霊」を重ねて見せることで、効果を発揮する。実像と「幽霊」はぶつかることなく交差し、照明の調整により「幽霊」を登場させたり消したりすることができる。

イギリスの王立科学技術会館(Royal Polytechnic Institution、現在はウェストミンスター大学(University of Westminster))の講師(のちに館長)であったジョン・ペッパー(John Pepper)に由来する。

赤い枠を通して舞台を見ている観客には、テーブルの横に「幽霊」が見えている。この「幽霊」は、観客から隠された舞台にいる実体を、緑の枠に置かれた板ガラスが反射したものである。
隠された舞台が暗いと、板ガラスはなにも反射せず、 「幽霊」のいない舞台が見える。

この仕掛けを最初に考案したのは、ヘンリー・ダークス(Henry Dircks)で、発明者の名前をとって「ダークスのファンタスマゴリア」(Dircksian Phantasmagoria)と名付けられた。1862年に、ダークスは王立科学技術会館(Royal Polytechnic Institution)で展示を行い、これを見たのがペッパーであった。

ダークスの展示を見たペッパーは、仕掛けを改良し、1862年のクリスマス・イヴに興行を行った。チャールズ・ディッケンズ原作の『憑かれた男』(”The Haunted Man”、「クリスマス・ブックス」の第5話)の舞台である。

この興行は好評を博し、翌年、ペッパーとダークスの連名で特許を取得する。やがて、「ダークスのファンタスマゴリア」は「ペッパーズ・ゴースト」として大流行することとなった。

■1865年10月16日【人体切断マジック】【スフィンクス】机の上に旅行カバンを置き、それを開けると人間の頭部が出現する(首から下は無い)。

その人間は最初は目をつむっているが、合図とともに目を開き、詩を朗読したりする。

最後に箱に戻すと首は消失する。

1865年10月16日にロンドンのエジプシャン・ホールでストダー大佐が初演した。初演の前から『タイムズ』誌には広告が載せられていた。1877年頃には日本に伝来して横浜で演じられた。

■1880年【天一一座旗揚】

★初代松旭斎 天一(しょうきょくさい てんいち、1853年3月11日(嘉永6年2月2日) – 1912年(明治45年)6月14日[1])は、日本の奇術師である。福井城下(現在の福井県福井市)生まれ。本名は服部 松旭(はっとり しょうきょく)、幼名は牧野 八之助(まきの はちのすけ)。

「日本近代奇術の祖」であり、松旭斎派の祖。弟子で養子に松旭斎天二(二代目松旭斎天一)、松旭斎天勝、松旭斎天洋、松旭斎天秀(柳妻麗三郎)らがいる。

父は福井藩の国家老・狛家の家臣で剣術師範の牧野海平[3]。家が断絶となり、万延元年(1860年)に阿波在住の叔父が住職を勤める西光寺に預けられたが[4]、両親が相次いで病没、得度して瑞山と名乗る。

以降いくつかの寺を放浪。維新のころには淡路で浮れ節の前座で、講釈を始める。その後、土佐の剣渡りの太夫となるが、紀州で火渡りに失敗。立川松月という芸名を名乗っていたが[6]、その後音羽瀧寿斎と改名。

明治9年(1876年)に阿波に戻り、服部松旭と改め戸籍を得る。大阪の見世物小屋で柳川蝶玉斎の西洋手品を見て感動、大阪で貿易商を営み、興行や見世物も行っていた西洋人ジョネスと知り合い、西洋手品を学ぶ。

明治11年(1878年)、ジョネスと上海へ巡業。西洋と中国の手品を学び、翌年帰国。

大阪千日前の興行師奥田弁次郎の手で、イギリス帰りと偽り手品を行う。

当時人気絶頂の帰天斎正一にあやかり、芸名を松旭斎天一と改め、明治13年(1880年)に天一一座を旗揚げ。

「切支丹バテレンのハリツケ」や大礼服姿で演じる「陰陽水火の遣い分け」(水芸)で評判をとる。

同年結婚後、阿波に戻り、後年海外で話題となる「サムタイ」を演じたりする。以降人気が上がり、十数名の一座で、明治18年には道頓堀の角座や東京浅草猿若町の文楽座(許可の関係で「文楽亭」と改称)で興行する。

当時としては飛び抜けて高価な一円という入場料を取って、「三剣バクス積入」などの大掛かりな奇術で大成功を収めた。

天一はスライハンドよりも大仕掛けの奇術を得意とし、「十字架の磔」「噴水自在の術」「大砲芸」などを見せた。また、「手妻」「放下」「手品」等の総称として「奇術」という用語を定着させる。

台覧公演や天覧公演もたびたび行った。明治33年(1900年)に一座を解散し、天一、天二、天勝の師弟三枚看板で欧米を巡業する。

著書に「西洋手品種明し」がある。

■1891年にアメリカで出版された『霊媒術の暴露』(著者匿名)という霊媒のトリックを詳細に解説した本に書かれていた「縄抜け」のテクニックに興味を持ったフーディーニがマジシャンへの道を志す。

★フーディーニことハリー・フーディーニ(Harry Houdini [ˈhæri.huːˈdiːni]、1874年3月24日 – 1926年10月31日)は、「脱出王」の異名を取った、ハンガリーのブダペスト市(エルジェーベト町)出身のユダヤ人で、アメリカ合衆国で名を馳せた奇術師である。

本名ヴェイス・エリク (Weisz Erik) [ˈvæjsˌerik]。「不可能を可能にする男」という評価を得て。現在でも「アメリカで最も有名な奇術師」と呼ばれるほど認知度は高く、奇術師の代名詞ともなっている。

飛行機や陸上競技への造詣も深かった。超能力や心霊術のいかさまを暴露するサイキックハンターとしても知られる。

ハリー・フーディーニ(1899年の宣伝写真)

ハリー・フーディーニの芸名は、当時アメリカで活躍していた奇術師ハリー・ケラーの名前とフランスの奇術師ロベール・ウーダンの姓の綴り “HOUDIN” の最後に “I” を加えたもの。

脱出術を得意とし、各国の警察の留置場や刑務所に収監されての手錠外しによる脱出や、また凍った運河やミルク缶からの脱出を行い、話題となった。

「フーディーニに脱出できない所は無い」「不死身の男」「脱出王」と大規模に宣伝するなど、マスコミを利用した売り込み技術はずば抜けた才能があり、当時のアメリカのトップスターとなった。

また、それまであったトランクからの脱出を、助手と奇術師が一瞬で入れ替わるトリックへと進化させ、奇術にスピード性と鮮やかさをもたらした。

妻のベアトリスと行ったこの入れ替わりマジックは「メタモルフォーゼ」と呼ばれる。

俳優としても数本の映画に出演し、そのいくつかは日本などの世界各地で上映されている。最初の出演作「マスター・ミステリー」(1919年)は、ロボットが映画史上初めて登場していることでも有名。

1926年10月22日、モントリオールプリンセス劇場の楽屋に訪れたマギル大学生のジョセリン・ゴードン・ホワイトヘッドに「腹部を強く殴られて耐える」芸を見せる際、フーディーニが準備していない段階で殴られたことが原因の急性虫垂炎を発症、数日後虫垂が破裂し、びまん性腹膜炎で10月31日に死亡した。(ただし、その後の研究では殴打による外傷と虫垂炎・腹膜炎の因果関係について懐疑的な見解もある)。

フーディーニ!!!

事故死と認定されたため保険金は倍額支払われた。

葬儀に参列したフローレンツ・ジーグフェルドは、棺の前で「賭けても良いが、彼はこの棺の中にもういない!」と言ったという。

フーディーニは死の直前、妻ベスに対して「死後の世界があるのなら、必ず連絡をする」と伝えたが、その後何のコンタクトも無かったとベスは語っている。

★弟もハーディーンという芸名で同じく奇術師をしていた。


ハリウッドにあるマジックの殿堂マジックキャッスルの2Fレストランの一角に、フーディーニの部屋がある。この部屋で食事をすると、フーディーニの霊がやってくるという仕掛け部屋になっている。
とある脱出ショーで、元船員の作家ウィリアム・H・ホジスンに縛られ脱出に苦労した。フーディーニは「あの男にだけは二度と縛られたくない」と語ったという。(ホジスンは死後は忘れ去られていたが、1938年にコリン・デ・ラ・メアによるアンソロジーThe Ghost Bookに海洋綺譚の短編「夜の声」(The Voice in the Night)が収録されて再評価されるようになった。日本では「夜の声」が東宝の特撮映画『マタンゴ』の原作となった事で有名である)


ラヴクラフトとクリストファー・M・エディJr.に『迷信の癌』の執筆を依頼したがフーディーニが病没したので中断されてしまった。後に未発表の原稿が見つかっている。

■1902年にアメリカのS・W・アードネスが出版した『The Expert at the Card Table』(邦訳『プロが明かすカードマジック・テクニック』)がはじめてのカード・テクニックの専門書となる。

この本は本来はカードマジックの紹介ではなくイカサマ師の手口の紹介を目的として書かれた本であるが、ダイ・バーノンやロベルト・ジョビーなど多くのマジシャンが高く評価している。

■マジックキャッスル(The Magic Castle)は、アメリカ合衆国・ロサンゼルスのハリウッドに建てられている奇術専門の会員制クラブ。

数千人を超える奇術愛好家で構成されるアカデミー・オブ・マジカル・アーツ(Academy of Magical Arts,(AMA))が運営している。

1908年に創立。ミルト・ラーセン(Milt Larsen)により1963年に会員制クラブが創設された。マジックキャッスル自体の持ち主はグローバー家である。

世界中から奇術愛好家が集まり、「奇術の殿堂」とさえ言われる。会員か、会員から招待を受けた場合しか入場することは出来ない。

内部では、レストランやバー、ステージが多く設けられており、毎晩世界中からやって来た一流マジシャンの演技を楽しむこともできる。また、レクチャーという催し物も人気。

ここでのショーに出演することは、ある程度の高評価へ繋がる。

会員に名を連ねるのは、スティーヴン・スピルバーグやモハメド・アリなどの著名人も多い。

■1912年9月【脱出術】ハリー・フーディーニの「中国の水牢」の演技がよく知られている。1.5m×0.6mほどの水槽に手枷と足枷で拘束された状態に入れられ、そこから脱出した。1912年9月初演。

■初代松旭斎 天勝(しょうきょくさい てんかつ、本名:金沢 カツ(旧姓:中井、野呂)、1886年(明治19年)5月21日 – 1944年(昭和19年)11月11日)は、明治後半から昭和初期まで興行界で活動した女流奇術師。東京、神田生まれ。

女奇術師・松旭斎天勝

1895年(明治28年)、神田松富町(現・外神田四丁目)の質屋の娘だったが家業が失敗、門前仲町の天ぷら屋に奉公人として勤める。

店主が当時の一流奇術師・松旭斎天一(しょうきょくさい てんいち)だった事が縁で、器用さを見込まれ弟子として採用された。

後に天一に妾になるよう迫られ、自殺を図るも一命は取り留める。

それからは「奇術を積極的に自分の物にする」と決心し、妾を宿命とし受け入れた。弟子70人を数える「天一一座」でスターとして頭角を表し、「天勝」と名乗って舞台へ出演した。

松旭斎天一一座のポスター(明治41年公演分)左が天勝

日本人離れした大柄な体格とキュートな美貌で人気を博し、数度に渡るアメリカ興行も成功させた。

帰国後の公演では、スパンコールの衣裳に付け睫毛、という日本初の欧米風なマジックショーを披露。モダンさと目新しさに大衆は熱狂した。

1911年(明治44年)、27歳で独立。

座員100名を越す「天勝一座」を名乗り、座長に就任。

天勝と助手

一座のマネジャーを務めた野呂辰之助と結婚した(が、奇術師の立場が強くなかった当時、一座と天勝の名を守るために野呂が考慮した便宜上の入籍だといわれている)。

「奇術といえば天勝」という代名詞にもなった程の知名度を誇り、キャラクター商品なども大ヒット。当時の得意芸は水芸だった。人気と知名度にあやかった「ニセ物」の天勝一座も複数現れていた。

日本歌劇俳優写真名鑑 図書 藤山宗利 著 (歌舞雑誌社, 1920

1936年に引退後は姪の正天勝に二代目天勝の名を譲り、50歳を過ぎてからスペイン語の学者金澤一郎と出逢い、一生を添い遂げた。墓所は台東区西徳寺。夫の菩提寺である萬福寺 (大田区)にも分骨され墓が設けられている。

弟子に2代目松旭斎天花がいる。

女流イリュージョニストである二代目・引田天功(プリンセス・テンコー)の師、初代引田天功は天勝の弟弟子である松旭斎天洋の門下であり、遡れば彼女もまた「松旭斎一門」である。ほかにも女優の桜むつ子も師事していた。

既出してあるように美貌の持ち主であり、当時の男性は虜になったと言わしめるほどであった。

様々な逸話も作られており「前歯にダイヤモンドの差し歯していた」、「人魚の肉を食べていた」という突飛なエピソードが作られたほどである

■松旭斎 天洋(しょうきょくさい てんよう、1888年9月21日 – 1980年9月30日)は日本の奇術師。敦賀市生まれ。本名は山田(旧姓:島田)松太郎。初代・第3代日本奇術協会会長。

日本における奇術の発展と普及に貢献した業績により、日本奇術界の「中興の祖」とも呼ばれた。

読売新聞社『家庭よみうり』377号(1954年)より

★母親は奇術師の松旭斎天一の姉であった。子供の頃は大阪で丁稚奉公をしていた。

1904年(明治37年)頃に松旭斎天一に弟子入りして松旭斎天松という芸名をもらった。兄弟弟子には松旭斎天勝や松旭斎天二らがいた。「天一一座」では天一の手伝いをやりながら、奇術の腕を磨いた。

師匠の天一が死去してからは松旭斎天洋と改名し、1912年(大正元年)に「天洋一座」を旗揚げして座長として独立し活躍した。

この頃の得意技としては師匠の天一から継承した、客に両手の親指同士を紐できつく縛られるが、日本刀を両腕の間に入れたり外したりすることができるという「柱抜」(サムタイ)があった。

サムタイの一例

昭和恐慌を端緒とした不景気の影響により天洋一座は財政が圧迫されていった為、困った天洋は手品を趣味としていた緒方知三郎の所に相談に行った。すると緒方から「手品の世界を一般の人たちにも開放してはどうか」 とアドバイスされた。

当時、手品の商品を一般人に販売することはタブー視されていたが、天洋は1931年(昭和6年)に東京の新富町に「天洋奇術研究所」を設立して三越日本橋本店で手品商品の実演販売をおこなった。

この実演販売をきっかけとして三越各店での実演販売を行っていくと好評を得ていき、天洋一座の財政も好転するようになっていった。

1936年(昭和11年)4月には初代・松旭斎天勝の発案で、「奇術界の発展、奇術師同士の技術向上、親睦」を目的として32名の職業奇術家が目黒雅叙園に集まって「職業奇術家団体同好会」創立の会合が開かれた。

名誉会長に初代・天勝、会長に天洋が就任した。この同好会が後に日本奇術協会となった。

1941年(昭和16年)には太平洋戦争により手品商品の材料が手に入らなくなり、「天洋奇術研究所」は一時閉鎖となった。

終戦後、再び「天洋奇術研究所」を活動再開させたものの天洋は進駐軍での舞台公演に時間を取られて販売まで手が回らず、売上げは伸びなかった。

1953年(昭和28年)に天洋の六男である山田昭が「天洋奇術研究所」を新たな発想のもとに刷新していった。

その後1960年に株式会社化、これが後の株式会社テンヨーの前身である。なお、天洋の弟子である初代引田天功や島田晴夫らはデパートでの実演販売を行っている。1964年引退。

日本奇術協会では多年にわたって世界に通じる活躍をし、日本の奇術界に貢献をした奇術師に対して天洋の名を冠した「松旭斎天洋賞」を12月3日の「奇術の日」に贈っている。

弟子に松旭斎滉洋、松旭斎天正らがいる。

■ダイ・バーノン(Dai Vernon, 1894年6月11日 – 1992年8月21日, 本名:David Frederick Wingfield Verner)は、カナダのオタワ生まれのマジシャン。後にアメリカへ移住し、ニューヨークなどでボードビリアンとして活躍。紙切り芸人なども経験した。

1900年代の近代マジックに大きな功績を残したマジシャンの一人。 数々の独自な理論や技術、マジックを発表し、一時代を築いた。有名な理論・概念としては「Be natural, Be yourself」など多数。その理論は「バーノン・タッチ」と呼ばれる。

若いころ、脱出王ハリー・フーディーニにマジックを披露するなど、多くのマジシャンと交流があった。ニューヨークを中心に活躍していたマジシャンとは特に交流が深く(クリフ・グリーンら)、グループを形成していた時期もある。

本人による著書は少ないが、彼の理論を分析・解説した書物、ビデオ、DVD、冊子は数多く存在する。

「カップ・アンド・ボール」といった古典マジックから「リング・シンフォニー」等のステージマジック、コインやカードのクロースアップ・マジック、メンタルマジックの分野でも活躍した。

多くは古典の改良などで作品を残したが、まったく新しい原理の開発でも活躍した。

バーノンの手にかかったマジックは、バーノン・タッチと呼ばれる独特な雰囲気を帯びる。誰の手でも演じられるように構成された作品が多い。

膨大な知識量から「プロフェッサー」の尊称で呼ばれ、世界中のマジシャンから親しまれた。「マジックの神様」とも謳われ、マイケル・スキナーやラリー・ジェニングスといった弟子を残す。

インタビューで「3歳からマジックを始めた。0歳からの3年間が惜しい」(5歳という説もある)と答えたという逸話がある。

なお、息子もマジシャンである。

1963年頃からはハリウッドにある会員制レストラン「マジック・キャッスル」の常駐となり、ここを拠点として多くのマジシャンを育成した。

1969年にテンヨーの招きで初来日。沢浩を絶賛。

■松田 昇太郎(まつだ しょうたろう、1903年8月17日 – 1987年8月26日)は、日本の奇術師である。

経歴
東京の本所石川の銭座と味噌醤油問屋を兼ねる大店に生まれ、趣味人として、民芸品や切符の収集、手品のネタの開発や普及で活躍した。

たけとんぼの会会員。松田は、松旭斎天一のサムタイなどのクロースアップ・マジックを継承しており、成城に移り住んで、戦後、多くの進駐軍将校たちに披露し、また、彼らから米国の先進的なネタや資料を得て改良、テンヨーの商品開発に協力、1956年に創刊された季刊『奇術研究』に欠かさず寄稿し、アマチュア手品の普及に努め、多くの奇術師や手品研究者に慕われた。

■1918年3月23日【弾丸受け止め術による死亡事故】

★チャン・リン・スー(Chung Ling Soo、程連蘇、1861年 – 1918年3月24日)は、20世紀前半にイギリスで活躍したアメリカ合衆国のプロマジシャン。本名はウィリアム・エルワース・ロビンソン(William Ellsworth Robinson)。

1918年3月23日夜のショーの最中に事故が発生し、翌日(3月24日)死亡した。後に、事故を起こした弾丸受け止め術で死亡したマジシャンの一人としても知られることとなった。

中国服に身を包み、長い弁髪を垂らした格好で行う中国風のショーで人気を博し、大成功を収めた。東洋人のアシスタントや豪華なセットは異国情緒に溢れ、それらに見慣れないイギリスで主に活動した。

大砲や巨大地球儀を使った大掛かりなものから、煙や通貨といった手練マジックに加えて、火喰い術や弾丸受け止め術といった危険術もレパートリーとして行った。

本人は「中国人」として生活し、インタビューといった会話も常に中国語通訳を付けていた。顔はドーランによって東洋人風にし、濃いメイクを施した。そのため、誰もスーを白人とは思わなかったと言われる。

1918年3月23日夜に行われたショーで、トリネタだった弾丸受け止め術の際に銃が暴発。スーは被弾し、翌3月24日に息を引き取った。被弾時に、初めて英語で「撃たれた!」と叫んだことから身元を調べた結果、本当は白人だったことが分かり、大きな驚きを与えた。

過去、弾丸受け止め術によって20名以上のマジシャンが死亡しているが、その中で最も有名な事例となっている。

■【人体切断】上半身と下半身を切り分けるものとしては、P・T・セルビットが1920年12月に「美女の胴体切り」を見せたのが最初。

彼は助手であるジャン・グレンローズを木箱の中に入れ、木箱に薄い板や剣を突き刺して8分割した。そのあと板と剣を取り除き、木箱をノコギリで切断してしまうが、そのあと助手は無傷で箱から出てお辞儀をする。

翌年の1921年1月27日に舞台で初演された。

しかし、この後ゴールディンが人体切断は自分が1909年に開発していたとクレームをつけている。

■1927年【石田天海 アメリカ残留】

★石田 天海(いしだ てんかい、1889年〈明治22年〉12月1日 – 1972年〈昭和47年〉6月6日)は、日本の奇術師。本名は石田 貞次郎。愛知県名古屋市出身。アメリカで活躍したマジシャンの一人であり、特にスライハンドマジックで評価を得た。

スライハンドマジックの一例

1889年(明治22年)12月1日名古屋市弥宜町に髪床屋・石田林之助の三男として生まれる。

小学生の時、お化けの見世物を見て興味を持ち、仕掛け「幻茶屋」を自分で作った。18歳の時、上京して楽士(活動写真の音楽家)となったが、兵役で名古屋に戻る。22歳の時、明治天皇の御前で手品を披露する栄に浴する。

天勝一座
1922年33歳で再び上京、一時松旭斎天洋一座に入るが、乞われて当時大人気を誇った松旭斎天勝一座に参加する。1924年天勝一座とアメリカ合衆国巡業に発ち、ハワイ、サンフランシスコ、シカゴ、バンクーバー、ニューヨークとまわる。

アメリカ残留
1927年ニューヨーク公演中、サーストン一座など有名奇術師のスピード感溢れるスマートなショーに感銘を受け、発奮して天勝一座と決別、妻おきぬとともにアメリカ残留を決意する。

カーディニの公演を見て、「腕さえあれば舞台道具がなくとも立派なステージに立てる」と知り、腕を磨くことに専念、「天海の時計とタバコ」[2]を生み出す。

ニューヨーク公演
1931年42歳からニューヨークの一流劇場を廻り大好評を博す。ボストン、シカゴでも公演する。天勝一座の要請で一時帰国し、各地で国内公演をおこない、新橋演舞場では天海自身が命名した「ミリオンカード」というファンカード・プロダクションを日本に初めて紹介した。

ミリオンカードの一例

手品屋 ファンカード&ミリオンカード上口龍生DVD<空の手からトランプカードがたくさん出たりするマジック>

1942年から1945年の間、太平洋戦争における排日感情が高まる中、ハワイで米兵の慰問活動をおこなう。

戦後の活動
ハワイで終戦を迎え、帰還米兵の慰問や地元での公演をおこなう。

1949年、一時帰国して学童慰問で各地をまわる。

昭和天皇に1時間余にわたって奇術をご覧に入れた。明治、大正、昭和の三代の天覧に浴したことになる。東京アマチュア・マジシャンズ・クラブ(TAMC)でクロースアップ・マジックを日本に初めて紹介した。

ロサンゼルスなどの西海岸を中心に公演をおこない、テレビにもたびたび出演した。

1958年、シカゴにて狭心症発作で倒れ、ロスアンゼルスで療養生活を送る。

全米各地のコンベンションに出場、「グレート天海」の称号を受ける。SAM(Society of American Magicians)終身名誉会員となる。

凱旋帰国
1958年(昭和33年)34年間のアメリカ生活に別れを告げ日本に帰国、天海69歳のことであった。

杉並公会堂の舞台を皮切りに、全国各地で帰朝公演をおこなう。テレビのレギュラー番組にも数多く出演した。。

■1935年 アマチュアの研究家だった坂本種芳が1935年に海外の著名な賞であるスフィンクス賞を受賞した。

■高木 重朗(たかぎ しげお、1930年8月8日 – 1991年1月7日)は、日本の奇術研究家・アマチュアマジシャン。東京生まれ。

★1935年頃、新橋演舞場で松旭斎天勝のイリュージョン(人体浮揚や美女の胴体切り)を見て奇術に興味を持つようになった。

1952年、慶応義塾大学経済学部卒業、1954年、慶応義塾大学法学部卒業。

衆院事務局参事を経て、国立国会図書館参考書誌部索引課主査。1986年4月退官。

1950年代~1960年代ごろ、日本国外の奇術の書籍・雑誌があまり日本に流通していなかったころから、日本国外の専門書の翻訳や解説書の執筆を精力的に行って日本の奇術界に貢献した。

特に専門季刊雑誌『奇術研究』を通じてのクロースアップ・マジックの紹介は、当時の日本では非常に貴重なものだった。

日本奇術連盟副会長をつとめたほか、日本催眠学会理事(後副会長)なども経験している。日本推理作家協会会員。

緒方奇術賞を受賞。1985年にアメリカのアカデミー・オブ・マジックのスペシャル・フェローシップを受賞している。

■ラリー・ジェニングス(Larry Jennings, 1933年2月17日 – 1997年10月17日)は、アメリカ出身のマジシャン。

デトロイトでボイラー技師をしていた頃、近所にプロ・マジシャンのロン・ウィルソンが引っ越してくる。

このロン・ウィルソンに見せてもらったマジックの数々に感動してマジックを始める。その後カリフォルニアに引っ越し、マジック・キャッスルに常駐していたダイ・バーノンに弟子入りした。

1969年に来日。演技者としても研究者としてもとても優秀な人物であった。

代表作は「ワンカップルーティン」、「スタック・オブ・クォーター」など多数。

■松田 道弘(まつだ みちひろ、1936年 – )は、日本の著述家、奇術研究家。父は医師・育児評論家・歴史家の松田道雄。

京都府京都市出身。同志社大学経済学部卒業[1]。学生時代から海外奇術文献の研究を始め、ラジオ関西勤務を経て[2]、著述家として奇術やゲーム、ジョーク、ミステリ小説などについての著述に専念。日本推理作家協会会員。

日本奇術界の大御所、高木重朗と親交があり、また自身も奇術への造詣が深く膨大な知識量を誇る。1979年には第12回石田天海賞を受賞している。

1980年『とりっくものがたり』で第33回日本推理作家協会賞・評論その他の部門で候補作。1989年『ミステリ作家のたくらみ』で第42回日本推理作家協会賞・評論その他の部門で候補作。

松田道弘のカードマジック
世界のマジシャン・フーズフー―マジシャン人名録

■島田 晴夫(しまだ はるお、1940年12月19日 – )は、日本のマジシャン。四つ玉、鳩出し、傘出し、ドラゴンイリュージョンといった演技で知られる。東京都出身。現在はハリウッド在住。

経歴
15歳のとき、デパートで手品の実演販売を見て、マジックを始めるようになる。その後、初代引田天功と出会い、彼に誘われてテンヨーのディーラー(実演販売する人)として働くようになった。

当時は高校生だったため、昼は実演販売をして、夜は学校に行っていた。高木重朗と親交があり、彼からも奇術を習っていた。

17歳のころ、アメリカから帰国した石田天海に四つ玉の演技を認められ、週に1回の頻度で習いに行くようになる。

19歳のときに昭和天皇の還暦祝いでマジックを披露した。

1960年頃になると、映画『ヨーロッパの夜』が公開され、そこでのチャニング・ポロックの鳩出しの演技が日本のマジシャンの間で話題になる。

チャニング・ポロックはそこで7羽の鳩を出していたが、松旭斎天洋に「10羽出せたらリサイタルを開いてやる」といわれたため島田は本当に10羽の鳩を出現させるルーティンをつくり、約束通りにリサイタルを開いてもらった。

その後も鳩出しの演技は大きな支持を得て、米軍キャンプやキャバレーなどの仕事で十分な収入を得ることができたが、1965年には日本を離れ、それ以降は主にオーストラリア、イギリス、メキシコなどの日本国外で活動するようになる。

イギリス滞在時には、四つ玉・鳩出し・ミリオンカードといった日本でおなじみの演目ではなかなか評判を得ることができず、「なぜ日本人らしい演技をしないのか」といわれたことから、和傘を出すルーティンを開発し、メキシコでまとめあげた。

マジックキャッスルで演技を終えたあと、すでに引退していたチャニング・ポロックからビバリーヒルズの彼の邸宅に誘われ、その後ポロックは島田のマネージャーとなった。

しかし、ポロックから島田は「傘出しのルーティンは美しいがガッツが無い」との指摘を受ける。

そのころ大阪で日本万国博覧会が催されており、そこで石見神楽の八岐大蛇に触発され、架空の動物などのファンタジックな要素をルーティンに組み入れたいと考えた。

その後2年の歳月をかけて、ドラゴンを登場させたイリュージョン(ドラゴンイリュージョン)を開発し、ラスベガスなどで長期にわたって演じ続けた。

また、1973年にはフランスのオリンピアで開催されたFISM国際大会のガラショーに出演している。

1974年にマジックキャッスルが優れたマジシャンに贈る「マジシャン・オブ・ザ・イヤー」を受賞。

■リッキー・ジェイ(Ricky Jay, 1946年6月26日 – 2018年11月24日)は、カード投げなどで有名なアメリカ生まれの奇術師、俳優。活動は多岐にわたる。アメリカ合衆国ニューヨーク市ブルックリン生まれ。

Ricky Jay

リッキー・ジェイは、カードマジックの名手。特にカード(トランプ)投げの技術に優れ、カード1枚を135フィート(約40メートル)投げてギネス記録に登録されたこともあるほど。

■マイケル・スキナー(Michael Skinner, 1947年 – 1998年)は、アメリカのクロースアップ・マジック専門のプロマジシャン。

ダイ・バーノンやエディ・フェクターに指導を受ける[1]。ラリー・ジェニングス、ブルース・サーボンなどと並んで、ヴァーノンの高弟のひとり。

ハリウッドにあるマジック中心のナイトクラブであるマジック・キャッスルやラスベガスで長年クロースアップ・マジックを見せていた。

日本には1972年、1973年に来日。

■デビッド・ロス(David Roth、1952年 – )は、コインマジックを専門としているニューヨーク出身のプロマジシャン。「コインマジックの分野では現代最高のマジシャン」と、マジック界のプロフェッサーであるダイ・バーノンが最大級の賛辞を贈ったほどのテクニックを持つ。

11歳のとき、両親から「ギルバート・マジック・セット」をプレゼントされ、それがきっかけとなりマジックのおもしろさに魅了された。その後17歳のときJ.B.ボウボウの「モダンコインマジック(Modern Coin Magic)」というコインマジックの辞典に出会ってコインマジック一筋になることを決意する。

1979年から1988年まで、ニューヨークにある玩具専門店、F.A.O.シュワルツでマジックのタネを売るディーラーをやっていた。これは、コインマジックだけを専門に見せていくだけでは当時は食べていけなかったからだといわれている。

また、コインマジックで用いられる「シャトル・パス(Shuttle Pass)」という技法の考案者。

代表作は「ウイングド・シルバー」、「ポータブルホール」、「チューニング・フォーク」など多数。

NEWふじいあきらが教えるスーパーコインマジック

■株式会社テンヨーは、日本の東京都江東区に本社をおく玩具メーカーである。マジック用品が主力商品であり、他にもパズル玩具やジグソーパズル、パーティーグッズなどを扱っている。

社名は、創業者の父である奇術師の松旭斎天洋に由来する。

初代引田天功がここから育っている。

★前身の「天洋奇術研究所」は、1953年に設立された。

1960年4月に「株式会社天洋奇術研究所」が設立される。1962年に「株式会社天洋」、1970年に「株式会社テンヨー」と商号を変更して現在にいたる。

主な商品
奇術研究所が前身であるため、商品の多くが奇術(手品)用具である。主な商品に「マジックテイメント」シリーズ、「ターベルコース・イン・マジック(書籍)」日本語版などがある。

ターベルコースインマジック第1巻

奇術用具の他にはプラパズル等のパズルや、奇術と同じ原理を使った「コインが消える貯金箱」などの不思議グッズなどがある。

ダイナミックコイン

他にジグソーパズルも有名である。普通のものの他に、ギネスブックに認定された世界最小のパズルや、自分の顔写真を携帯カメラで撮影したものがジグソーパズルになるジガゾーパズルなどがある。

ミラクルフィッシング

■奇術研究(きじゅつけんきゅう、1956年春号 – 1979年春号、全86号+臨時)は、力書房から発行されていた奇術を紹介するプロの奇術師向けの日本の季刊雑誌。

国立国会図書館に勤務する高木重朗や趣味人松田昇太郎らが、各号の特集を中心に、オリジナルのネタや先進の米国奇術などを事細かに説明する。

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■ダロー(Daryl、1955年8月13日 – 2017年2月25日)はアメリカのマジシャン。マジシャンネームはダロー・イーストン(Easton)。改名前は本名のダロー・マルティネス(Martinez)を使用。単にダローと表記する(呼ぶ)ことのほうが多い。

主にクロースアップマジック、パーラーマジックを演じる。世界中にその名を知られているマジシャンの内の一人である。

ホットショットカット(選ばれたカードがブーメランのようにデックの中から飛び出す。ブーメランカットとも呼ばれている)やアルティメイト・アンビション(デックをロープで縛った状態でアンビシャスカードを行う。)の考案者である。他にも考案マジックは多数に及ぶ。

ダローはこのアルティメイト・アンビションをクライマックスに使用したアンビシャスカード・ルーティンでFISMゴールドメダルを受賞している。

初めてマジックに触れたのは1962年、7歳の頃。友人の家族がプレゼントしてくれたスベンガリ・デックがすべての始まりであった。このトリックデックで何ができるのかと考えるうちにマジックに魅了されたという。

初めは家族や友達に見せる程度であったが、その後、サンディエゴでストリートマジックを始めるようになり、昼はストリート、夜はナイトクラブでタキシードに身を包み、上品なクロースアップマジックを演じる生活を数年間続ける。

1973年、18歳の頃、カイザー・アルミナム社の展示会での演技が好評で、その後同社が行う世界中の展示会に同行し、演技を行う。

2001年、1月には第43代大統領ジョージ・W・ブッシュの大統領就任祝いの席でマジックを演じた。

1982年2月、1983年3月、1985年、1990年9月、2000年9月、2005年11月来日。

■デビッド・カッパーフィールド (David Copperfield 、本名、David Seth Kotkin 、1956年9月16日 – )、アメリカ、ニュージャージー州生まれのロシア系ユダヤ人、世界を代表するプロマジシャン(手品師)。

フォーブスの「アメリカで最も裕福なセレブリティ」にて7位の人物である。

★幼少時からマジックに目覚め、その後14歳という最年少でSAM (The Society of American Magicians) へ入会。

16歳になるころにはニューヨーク大学で『マジック講座 The Art of Magic』を持ち、教鞭をとる。 高校卒業後、フォーダム大学へ入学。しかし、シカゴで行われるミュージカル『The Magic Man』の主役に抜擢され、演出など全てを手がける事情により3週間で退学。

ミュージカルが成功を収めたことで、マジシャンとしての地位が上がった。 その後、テレビ番組『The Magic of ABC Starring David Copperfield』に出演。ここでも高視聴率を得たことから、この番組はシリーズ化しており、現在でも年に1回ペースで製作されている。

年に数百を超える公演をこなし、米フォーブス誌による著名人長者番付 (Forbes Celebrity 100) には常連として名を連ねている。1980年と1987年にマジシャン・オブ・ザ・イヤーを獲得している。

エピソード
代表的なマジックとしては「Flying」「Snow」など。あまりに現実離れした瞬間移動などを繰り返すため、双子、あるいは三つ子説がまことしやかに流れている。

芸名はチャールズ・ディケンズの小説『デイヴィッド・コパフィールド』の主人公に由来。

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■益田克也(ますだ かつや、1958年 – )は、石川県出身のアマチュアマジシャン、マジッククリエーター。

本職は写真の製版業務だが、マジックの道具を考案するマジッククリエーターとしても活躍している。デビッド・カッパーフィールドも顧客の一人である。 2005年には第15回厚川昌男賞を受賞している。

代表作

以下の作品は全て商品化されており、東急ハンズの手品道具売り場でも入手できる。

  • WOW!

カードマジック。半透明のカードフレームの中に入れられたカードが、あらかじめ観客にサインしてもらったカードへと徐々に変化する。このマジックを深井洋正がアメリカでランス・バートンに見せたところ、彼の第一声が「WOW!」だったのでこの名がついた。今では「WOW!ブランク」という名でも売られている。

  • Vランクカード

カードマジック。2枚のカードを用いる。カードの絵柄が変化する。

マジック Vランクカード ET-50
  • アンビリーシャスカード

カードマジックのひとつであるアンビシャスカードになぞられたマジック。観客にサインしてもらったカードをデックの中ほどに差し込む。このあとデックのトップからサインカードが出現するのがアンビシャスカードの現象だが、本作品の場合は、残りのデックが消えてサインカード1枚だけになってしまう。テレビでも放映された。

  • ジョーカーなのに

カードマジック。ジョーカーをカードケースの中に入れて弾くと、あらかじめ観客に選んでもらったカードに変化する。

  • お星さま返して

カードマジック。カードの片隅にあいた星型の穴が消失する。

  • ドラマティック・エンビロウ

観客に5枚のESPカードから任意に1枚を選んでもらうが、それが予言されている。

  • ザ・ブレイド

カッターナイフで紙幣を切り裂くが、なぜか紙幣には傷ひとつない。

  • あわてない、あわてない!

黒のアクリルケースに観客のカードが予言されてある。

  • なぜか写っちゃうんです

白いカードがケースの中で観客のカードに変化する。

F. B. H. : Five Black Holes

3枚のカードダス

隠してもムダ


Xゾーン


あながあくほど見つめて

あなたの好きな時間

DVD Masuda’s Item 益田克也 アンビリーシャス カード

■ロベルト・ジョビー(Robert Giobbi (1959年5月1日、バーゼル生まれ))は、スイスのマジシャン、マジック研究家。 カードマジックの分野を得意としているマジシャン(カーディシャン)である。 マドリッドのエスコリアル・マジッククラブの会員のひとり。

★「ロベルト・ジョビーのカード・カレッジ」は彼の代表作ともいえるカードマジック専門書のシリーズで古くからある技法から最新のものまで体系的に書かれている。

現在、第5巻まで発行されており、4巻までは以下のように和訳が出版されている。和訳は原本からの翻訳ではなくスティーブ・ミンチによる英語版からの訳である。

内容については、それぞれの章においていくつかのテクニックが解説され、章末にはその章で解説されたテクニックを用いたカードマジックがいくつか紹介される。

この本はテクニックをただ解説した本ではなく従来からあるテクニックに説得力を持たすようなちょっとした工夫もされており、収録マジックの解説には演技に必要な台詞回しからマジシャンの視線の動き方まで解説されている。

彼の妻バーバラによる挿絵の総数は4巻で1200にのぼる。

ロベルト・ジョビーのカード・カレッジ〈第1巻〉
ロベルト・ジョビーのカード・カレッジ〈第2巻〉
ロベルト・ジョビーのカード・カレッジ〈第3巻〉
ロベルト・ジョビーのカード・カレッジ〈第4巻〉
ロベルト・ジョビーのカード・カレッジ第5巻

■ランス・バートン(Lance Burton, 1960年 – )はアメリカのケンタッキー州、ルイビル出身のプロマジシャン。

5歳のとき、クリスマスパーティに来ていたマジシャンが、ランス・バートンに鼻や耳からコインを取り出すマジックを見せてくれ、これに感動。その後両親からマジックセットをプレゼントしてもらったりしているうちに、ますますマジックの魅力に取りつかれていった。

高校生の頃にはローカルなマジックコンテストでいくつかの賞を獲得。

その後、1982年にスイスのローザンヌで開かれたマジックのオリンピックともいえるFISM国際大会でグランプリを受賞。

ランスはアメリカ人としては初めての受賞者であり、史上最年少(当時22歳)受賞者でもあった。これにより彼は一躍世界的に有名になる。

FISMでの功績が認められ、ラスベガスのトロピカーナに8週間の契約で入る。しかし、結局9年間も出演することになった。

その後、ハシエンダ(現、マンダレイ・ベイ)に移り、自ら脚本、演出、プロデュースをしたショーを作る。

これが大好評で、ハシエンダでの観客動員数の記録を更新。

そして、ホテル・モンテカルロがオープンするとき、オーナーから見込まれ、ホテルの中にランス自身の設計による専用劇場「ランス・バートン・シアター」を作り、13年間という破格の長期契約を結んだ。

1986年と1992年にマジシャン・オブ・ザ・イヤーを獲得している。

また1986年には、テレビドラマ「ナイトライダー」シーズン4第14話「死の魔術・アリバイに隠された謎(原題:DEADLY KNIGHTSHADE)」に、マジシャンで事件の犯人でもあるオースティン・テンプルトン役でゲスト出演し、数々のマジックを披露している。

2000年5月に日本公演を行った。

2009年7月には更にホテル・モンテカルロと2015年まで6年間の契約を結んだが、 5年の契約期間を残し2010年9月4日をもって同公演は終了した。

■1963年【ゼンジー北京、独立】ゼンジー北京(ゼンジー ペキン、本名 渡辺重信、1940年1月3日 – )は、広島県出身のタレント、手品師である。和光プロダクション所属。

広島県呉市に生まれ、4歳の時、大阪府三島郡(現在の摂津市)へ転居した[2]。大阪府立春日丘高等学校を卒業[3]後、ゼンジー中村に弟子入りし[2]、「魔法のグループ」で後見で初舞台。1963年に独立し[3]新花月を皮切りに角座に出演。

「タネモシカケモ、チョトアルヨ」「ヨークミテ、チョウダイ」などの怪しげな語り口は、たまたま事務所の隣が中国料理店で、そこの店員の喋り方を真似たもの。

元々人前に立つと緊張のあまり声が出なくなる程の極度のあがり症で、新人時代はまともに舞台をこなせず苦労していたが、この会話手法を取り入れて別の人格で舞台で演じていると意識することにより、あがり症を克服したという。

コスチュームも中国風に変え「ハイ! ワタシ中国ハ広島ノウマレアルヨ!」(中華人民共和国(中国)と広島のある中国地方をかけた)という協和語のような口上と共に舞台に立ち、これが大いに受けてテレビに出るようになった。

喋りながらマジックをするコミックマジックの第一人者である。

最初はすぐにタネがバレるような稚拙なマジックで笑いを取るが、ショーの終盤では必ず高度なマジックを披露して締めるのが定番。

持ちネタは200種類。ラーメンどんぶりを抱えて前転し、こぼさないというのが鉄板のネタである。

1984年9月には、フジテレビ系『花王名人劇場』の企画で芸名縁の地である中華人民共和国の北京にて公演した。

■沢 浩(さわ ひろし)は、岐阜県関市生まれのアマチュアマジシャン。本業は歯科医師。日本大学歯学部卒。歯科医師であるから別名Dr.SAWA(ドクターサワ)と呼ばれる。マジッククリエーターとしても名高い。

1969年、ダイ・バーノンが初来日したとき、彼は沢のマジックを見て「沢のマジックにはポエムがある」と言わしめた。彼の発言がきっかけとなり、口コミや専門誌などで沢の名は世界中に知れ渡った。また海外では、マジック専門誌『ジニー』の編集長リチャード・カウフマンの解説による作品集や、オリジナルマジックのビデオも発売されている。

沢浩が世に送ったマジックは数多い。カードやコインといった仕掛けだけでなく、貝殻や水晶といった自然素材を使うことも沢の特徴である。

弟子には、Mr.マリック(当時 松尾天昭)、マギー司郎、スピリット百瀬他多数。

★1960年、大学一年の時に、小児科の研究室にいた神谷省吾からマジックの指導を受けた。当時、神谷から言われた言葉が「沢君、自分で奇術を創ることは、自分の服を着ることだよ」である。

1969年、27歳のときクロースアップ・マジシャンのダイ・バーノンが初来日した際、日本人5人がマジックを見せた。

その時、沢は『真珠物語』を披露し、このマジックがダイ・バーノンをうならせた。ダイ・バーノンから唯一「天才」と呼ばれた。

はじめて沢のマジックに接したバーノンの驚きが尋常ではなかったため、口コミや専門誌などでも、沢の名前はいっぺんに世界中に知れ渡ることになった。

■初代・引田 天功(ひきた てんこう、1934年7月3日 – 1979年12月31日) は、日本のマジシャン(イリュージョニスト)、催眠術師。本名は引田 功(ひきた いさお)。師匠は松旭斎天洋。

水中や爆発などの極限状態からの脱出マジックを得意とし、「日本の脱出王」の異名を取った。

★1968年から1975年まで7回にわたって日本テレビの特番(主に木曜スペシャルの枠内)として放送された脱出イリュージョンは「死のジェットコースター大脱出」、「死の火煙塔大脱出」「死の水道管大脱出」「油地獄水面炎上大脱出」といった従来のマジックからは考えられないほどのスケールの大きさで毎回高視聴率を記録し、日本中に脱出ブームを巻き起こした。

脱出のアイデアは自身が尊敬する“脱出王”ハリー・フーディーニの脱出劇にヒントを得たものであり、大量の火薬をセッティングした大掛かりなパフォーマンスであった。

彼はこれらの脱出を成功させるため、練習中に瀕死のアクシデントを経験している。脱出の際の爆薬の威力は凄まじく音と熱と煙に相当悩まされたとも自身の著書に記している。

■マルコ・テンペスト(Marco Tempest、1964年12月3日 – )はスイス人の手品師。日本ではバーチャル・マジックを行う奇術師として有名。ニューヨークを拠点に活動している。

■前田 知洋(まえだ ともひろ、1965年11月10日 – )は、東京都品川区生まれのプロマジシャン。東京電機大学工学部電気通信工学科(現情報通信工学科)卒。日本奇術協会クロースアップ委員長。

★1988年、大学卒業後に留学していたアメリカのロサンゼルスでアカデミィ・オブ・マジカルアーツのオーディションに合格。世界的に有名なマジック専門会員制クラブ「マジックキャッスル MAGIC CASTLE」に日本人最年少で出演。

帰国後は、当時東洋最大規模を誇ったレストラン「タイクーン」にて2000万円の専属マジシャン契約を結ぶ。

その後「マジック界のオリンピック」とも言われる、FISMの1994年横浜大会ゲストや1997年ドレスデン大会へ出演。また、1990年には優れたマジシャンへ贈られる厚川昌男賞(泡坂妻夫)を受賞している。

2002年には日本のマジック愛好家の投票で「その年最も活躍したマジシャン」に贈られる第一回マジシャン・オブ・ザ・イヤー(ジャパン・カップ)を受賞した。

翌2003年はアメリカの歴史あるマジック専門雑誌『GENII』の表紙や特集を組まれるなど、世界的な知名度は高い。

2005年には、再びジャパン・カップのベスト・クロースアップ・マジシャン賞を受賞した。

2004年には『スーパーテレビ特別版』『ザ!世界仰天ニュース』(ともに日本テレビ)などへ出演した。

また、アメリカ留学前にナポレオンズのアシスタントをしていたこともある。

2004年に、世界最大のアメリカのトランプメーカーU.Sプレイング・カード社に依頼して、専用のトランプ「Tomohiro Maeda MODEL TALLY-HO GOLD FRAME」を製造する。既存のデザイン変更が行われている。

基本的に初めてマジックを見せる相手には、新しいトランプを使う。

理由は、トランプを並べた際に順番がキレイに揃っているため、イカサマでは無い(仕掛けのあるカードを使っていない)ことを相手に証明できるからである。

マジック専門書への寄稿や挿絵の担当、翻訳も多い。

2006年11月25日に、CASIOとのコラボレーションで誕生したマジックのできる腕時計、マジックウォッチ(カーラーはゴールドとシルバーの二色)が発売となる。時計に内蔵されたマジックの数は5種類となっている。

■セロ(Cyril、1973年9月27日 – )は、アメリカ合衆国のロサンゼルス生まれのプロマジシャン(イリュージョニスト)。クロースアップ・マジックからステージマジックまで幅広いジャンルをこなす。2007年、マジシャン・オブ・ザ・イヤーを受賞した。

海外ではセロ・タカヤマ(Cyril Takayama)名義で活動している。

■1974年【ユリ・ゲラー来日】

★ユリ・ゲラー(אורי גלר Uri Geller, 1946年12月20日 – )は、テルアビブ生まれの超能力者を名乗る人物。現在イギリス在住。正式名ウリ・ゲレル・フロイド(אורי גלר פרויד Uri Geller Freud)、生まれた時の姓名はハンガリー名でジェルジ・ゲッレール(György Gellér)。

当時の人気番組『11PM』や『木曜スペシャル』(日本テレビ)に登場。スプーン曲げやテレビの画面を通じて念力を送ることで止まっていた時計を動かすといったパフォーマンスで日本での超能力ブームの火付け役となった。

■1977年【ナポレオンズ デビュー】ナポレオンズは、日本の2人組プロマジシャンである。ステージでのショーを中心に活動を行い、テレビ番組にもたびたび出演している。コミックマジックの範疇に分類されることが多い。日本奇術協会広報委員長。

やさしいマジック (NHK趣味百科)

1977年に「マジック・ナポレオンズ」としてデビュー。その後、「ナポレオンズ」と改名。のちに、ナポレオンという名を使わせてもらっていることを報告し、その「許可」をもらうためにフランスのナポレオン・ボナパルトの墓前を訪ねた話が知られている。

当初は「正統派」マジックを演じたが、現在ではギャグを取り入れた形式へ転換。400種を超えるバラエティ豊かなレパートリーで活躍し、1988年のFISMハーグ大会にて「グランドイリュージョン部門第3位」に入賞の実績を持つ。

そのほかにも国内での受賞歴は多く、大会など様々なイベントへのゲスト出演も多い。

ナポレオンズのマジックの一例↓

■二代目・引田 天功(ひきた てんこう)は日本のイリュージョニスト。別名プリンセス・テンコー (PRINCESS TENKO)。日本奇術協会国際交流委員長。初代引田天功の死後、1980年12月15日に襲名した。新潟県妙高市出身。ラスベガス在住。

「UFOに乗って地球に降り立った」とアメリカのプロフィールでは紹介されている。公式プロフィールでは、1995年より全てのパーソナル・データが不詳、又は未公開になっている。アメリカでテンコー人形800万体が売れるなど、海外で人気の高い日本人の一人である。

★子供の頃に難病を患い「18歳まで生きられないかもしれない」と宣告され、アメリカの子供病院で治療し奇跡的に完治。帰国する際に母親から「何でも好きな事をやっていいよ」と言われ「舞台女優になりたい」と話したところ、母親に連れられ、初代引田天功に1976年から師事。

これは母の従兄弟が引田天功事務所の社長だった縁からである(同社長がのちに森企画事務所を設立し、二代目天功のマネージメントを担当)。

1977年に初代引田天功の代役で「空中ケーブルからの大脱出」(日本テレビ)を行った後、1978年6月21日に『朝風まり(あさかぜ まり)』の芸名でデビュー、マジックを披露しながら歌う異色のアイドル歌手としてデビューし、しばらく歌手として活動、

デビューシングルは『ザ・マジック』、セカンドシングル『くせになるから』だったが、後年、純粋にアイドル歌手としてデビューしたかったためマジックしながら歌うのはちょっと嫌だったと発言している。

初代の死去後、初代が心筋梗塞で倒れた際に天功が「女性の方がインパクトがある」と言われ代役を務めあげた。

その際に両耳の鼓膜を破ったが、初代に劣らぬ完璧に仕上げた。

この功績により、初代の後援会の要望で1980年12月15日に二代目を襲名(襲名披露はホテルニューオータニ)。先代の遺志を受け継ぎ、大がかりな脱出イリュージョンを展開するようになる。

その後は日本国内より国外に活動の比重を置くようになり、世界各地で公演を展開し「プリンセス・テンコー」の愛称で知られようになる。朝風まり時代から後援会長は、佐川急便創業者であり会長であった佐川清である。

■1980年【マギー司郎 お笑いスター誕生!!』で7週勝ち抜き】

マギー司郎(マギーしろう、1946年(昭和21年)3月17日 – )は、日本の手品師、タレント。日本奇術協会相談役。本名、野澤 司郎(のざわ しろう)。

1963年 – 趣味で始めた手品に没頭する余り、プロを目指して17歳で家出し上京。水商売のアルバイトをしつつ、マジックスクールに通う。
1966年 – 20歳で道頓堀劇場で初舞台。当時の芸名はジミー司で、正統派のスライハンドマジックを見せていた。
1968年 – 正統派マジシャンのマギー信沢に入門する。
『田端グループ』盟友のゆーとぴあ・ホープの助言を容れて、茨城弁を活かした客いじり中心の「おしゃべりマジック」に転向したことで売れ出す。
キャバレー巡業時代に、歌手・桜一平(現:我修院達也)と知り合い意気投合、桜に歌を習ってテレビの歌番組で優勝したこともある。
1980年 – 『お笑いスター誕生!!』で7週勝ち抜き、テレビにも活躍の場を広げる。
1981 – 1982年 – 「日本放送演芸大賞ホープ賞」受賞。
現在はマギー一門の領袖として多くの弟子を抱える。

■エスケープ・マスターズ(脱出術師国際連盟)は有名なマジシャンであるノーマン・ビゲロウによって1985年に設立された。

この組織の最上位にはトーマス・ブラックが就任し、組織運営および2001年からは会誌の編集発行も行っている。

■人体切断マジックの一例

■1988年【Mr.マリックTVデビュー】1988年(昭和63年、39歳の年)、日本テレビ系の人気番組『11PM』でテレビ界にデビューし、クロースアップ・マジックに超能力的な演出を付け加えた「超魔術」を披露すると、視聴者からの大きな反響を得た。

大がかりな設備を必要としないマリックのスタイルはテレビ局にとっても番組を組みやすく、その後たびたび出演するようになった。

「超魔術」はマリックが番組制作スタッフらと考え出した造語である。同番組への出演を含む1974年(昭和49年)の初来日以来、世界でも日本でも数年前まで“超能力”ブームを巻き起こしていたユリ・ゲラーの番組を観てきたのが、「超魔術」のスタイルを編み出すきっかけになった。

★Mr.マリック(ミスターマリック、英語表記:Mr. Maric [2]。1949年〈昭和24年〉1月1日〈※ただし戸籍上に限り[3]、実際の日付は1948年12月29日〉- )は、日本のマジシャン。本名・出生名は 松尾 昭(まつお あきら)。

別名義として、栗間 太澄(くりま たすみ)と 松尾 幻燈斎( – げんとうさい)がある。著名な親族として、実娘のLUNA(ラッパー)がいる。

所属する芸能事務所は有限会社マリックエンターテイメント。関連会社に株式会社マリックプロモーション(芸能事務所)もある。「超魔術師」「サイキックエンターティナー」を名乗る。

マリックがきた!!Mr.マリック公式 https://www.youtube.com/channel/UCdiP7y6qJ-NR3XZt5V0aYVg/featured

■HIRO SAKAI(ヒロ・サカイ)は、日本の奇術師。1989年にデビューして以来、デビッド・カッパーフィールドのテレビ番組にマジックのアイディアを提供するなど、国際的に活躍している。

また、厚川昌男賞(1989年)、石田天海賞(1993年)の両賞を受賞した唯一のマジシャンである。FISMのコンテストの審査員を務めたこともある。2000年にはアメリカのマジック団体F.F.F.F.からDoctor of magic Deplomaの称号を受けている。

■2001年より山上兄弟が活動開始。

山上兄弟チャンネル https://www.youtube.com/channel/UCRqKiwHZ_TNIJXmtAkHyBgA

■デビッドカッパーフィールドのレーザーイリュージョンは、いくつかのマジックショーでデビッドコッパーフィールドによって実行されるイリュージョン。

魔術師または彼のアシスタントは、「レーザー」によって2つ以上の部分に切断され、歩き始めます。


★2001年のテレビ特別番組「カッパーフィールド:トルネードオブファイアー」で行われたように、コッパーフィールドはレーザービームを振り回して、アシスタントによって1人で「半分にカット」されました。

■2004年には、イギリスのエスケープ・アーティストの認知度向上と国内の脱出術の保存を行うイギリス脱出術師協会(The United Kingdom Escape Artists) が結成された。構成メンバーは、プロのマジシャン、拘束具の収集家、熟練の錠前師、歴史学者であり、年次で総会を開いている。

ふじい あきら(1967年3月4日 – )は、日本のマジシャン(クロースアップ・マジシャン)。本名、藤井 明(読み同じ)。広島県広島市安佐南区沼田出身。マセキ芸能社所属。

★テレビで見たMr.マリックの超魔術ショー、特にシガー・スルー・コインに大きな衝撃を受け、少年時代のマジック熱が再燃。

プロのマジシャンになりたいという思いが募り、独学でマジックを練習。

仕事の後にスナックやバーでマジックを夜更けまで披露するようになる。

その結果、会社で居眠りや遅刻を繰り返し、本業が疎かになったことから、5年間務めた会社を退職し、プロのマジシャンを志す。

クラブマジシャンを経て尊敬するMr.マリックの事務所に入り、2001年までアシスタントとして雇われる。

当時の芸名は「元神」。しかし下積みの愚痴を周りに漏らし、マリックに伝わる事を恐れ逃げ出す。その後、芸名を本名の平仮名表記「ふじいあきら」に改名、更に独力で修行を積む。

『爆笑おすピー問題』(フジテレビ)に出演し注目を浴びる。ウルトラマンの人形を空中へ浮かせたり、風船飲みなどのインパクトの強いマジックで2004年のマジックブームの一端を担った。

中でも口からトランプが滝のように出てくるカードフロムマウスは彼の代名詞的演目で、あいさつ代わりにテレビ出演の際にはこの手品を演じる。また一般に、マジシャンは長袖の上着を好むのに対して、彼は半袖の普段着でマジックを演じること多いのが特徴的である。

第9回厚川昌男賞を受賞するなど確かなテクニックを持つが、独特の飄々としたキャラクターとのギャップも特徴のひとつ。最近ではその風貌から『お笑いタレント』に分類されていることもある。

同じ事務所に所属するマジシャンのマギー審司と、コンビで芸を披露することもある。

2006年1月に、関係の途絶えていたマリックと番組内で競演、マジック対決を果たした。

■クリス・エンジェル(1967年-)はアメリカの著名な奇術師、マジシャンである。

6歳のとき手品と出会い、カードマジックで人々を驚かせる楽しみに目覚めた。以降、練習にのめりこんでいった。

1998年にマディソン・スクエア・ガーデンでマジックショーを開催。

2005年には、マジシャン・オブ・ザ・イヤーを受賞した。

2007年にはブリトニー・スピアーズとの交際を報じられている。

クリス・エンジェルの人体切断↓

■2012年、カナダのマジシャンであるルーカス・ウィルソンは、拘束具をつけて吊るされた状態から脱出する史上最速記録を打ち立てた。彼は足首から1メートルの高さで逆さに吊るされ、そこから8.4秒で脱出に成功した。

Lucas Wilsonのパフォーマンス この時は19.2秒

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