黒澤映画の作劇術について

2021年6月9日 オフ 投稿者: animeoyagi

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※ 以下の文章には映画の内容に関するネタバレがあります。

 黒澤明は1910年に誕生した日本の映画監督で脚本家。

生きる』(1952年)、『七人の侍』(1954年)などを監督しており日本映画の巨匠というより、世界の映画史に残る巨匠の一人と言って良い。

 私が黒澤映画と出会ったのは自分が二十代前半の頃でテレビで『天国と地獄』(1963年)を観たのが最初だ。

 まだ業界に入っていない頃で、映像の理屈だの作劇のコツだの何も知らない素人の時代であった。

 天国と地獄を観た感想は、この映画は尋常じゃない密度を持った面白さだと思った。

 素人の自分が見ても、この映画は他とは何かが違うと感じたものだ。

 ただ初見の時点では他との違いを見抜けなかった。

 何がどうなっているのか分からないが凄いものを観たという気分だったのだ。


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 それからアニメ業界に入り将来の監督を目指して映像論などを勉強しつつ黒澤映画を分析するようになった。

 最初は何をとっかかりにして分析すればよいのか分からなかったが、ひとつ取っ掛かりがあると芋づる式に見えてくるものである。

 今回はその中でも脚本上の作劇テクニックについて語る。

 黒澤映画は力強いドラマチックなシーンがよく現れるのだが、それについて自分が気がついたことがある。

 それは、物語における登場人物や観客の感情の「最底辺」と「頂点」をシーン内で直接(または直後のシーンで)くっつけて構成することがよくあるのだ。

 例を挙げると、

 天国と地獄で犯人を追跡する手がかりを消失し万策尽きたそのシーン内で刑事たちは決定的な手がかりを発見する。

 生きるでは癌に侵された主人公が生きる希望を見つけ精神的高揚感が生まれたその直後が彼の葬儀のシーンとなる。

 七人の侍では侍の最初のひとりの戦死後に一同が落ち込んでいるシーンで、三船敏郎演ずる菊千代が共同体の旗を屋根の上に掲げ皆の気持ちを鼓舞したところに野武士の騎馬軍団が山を駆け降りてくる。

 なぜ「最底辺」と「頂点」をくっつけているのかというと、そのほうが観客の感情の上下動の幅が大いに増すからである。

 希望の頂点から奈落の底へ。

 絶望の淵から感情の頂点へ。

 これほど劇的なことはない。

 黒澤映画ではシナリオ上で手練手管を使って物語の「最底辺」と「頂点」の位置を調節している。

 観客の感情は大いに振り回され面白く感じるわけである。


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