いつから江戸時代という言葉が使われるようになったのか調べてみた
「大正時代」「明治時代」ときて今回は「江戸時代」を調べてみることにする。
調べるのに使うのはもちろん「青空文庫」の全文検索だ。
さっそく右上に「江戸時代」と書き込んで全文検索をしてみた。
明治時代の中期ぐらいに「江戸時代」という単語が頻出するのではないかと思っていたが、出てくるのはいずれも大正・昭和初期の文章ばかりで、明治時代の文章はいっこうに見当たらない。
そんな中でひとつのタイトルが引っかかった。
『俳句上の京と江戸(初出:「種ふくべ」1900(明治33)年4月)』という文章に、
徳川時代の俳句界の中心は何処でありましょうか。
とあり、著者は「明治時代」の検索でも登場した正岡子規だ。
ひょっとすると江戸時代という言葉が使われだしたのは大正期で、明治の頃は「徳川時代」と言っていたのではないか?
そう考え直して、全文検索に「徳川時代」と打ち込んでクリックしてみた。
するとどうだろう、結構な数が表示されたのである、
以下に上げてみると、
『徳川氏時代の平民的理想(「女學雜誌 三二二號~三二四號」女學雜誌社
1892(明治25)年7月2日、16日、30日)』北村透谷
わが徳川時代平民の理想を査察せんとするは、我邦の生命を知らんとの切望あればなり。
『明治文学管見(「評論 一號~四號」女學雜誌社 1893(明治26)年4月8日、4月22日、5月6日、5月20日)』北村透谷
余は次号に於て、徳川時代の文学に、「快楽」と「実用」との二大区分ある事。平民文学、貴族文学の区別ある事。平民文学、貴族文学の区別ある事。倫理と実用との関係。等の事を論じて、追々に明治文学の真相を窺うかゞはん事を期す。(病床にありて筆を執る。字句尤も不熟なり、請ふ諒せよ。)
『病牀瑣事』正岡 子規(まさおか しき、1867年10月14日〈慶応3年9月17日〉 – 1902年〈明治35年〉9月19日)
病やゝおこたりて詩思いまだ動かず。熱のさしひきこそあれ、苦痛すくなくなりしに、始めて日の長きを知る程なりしかば、書読みたしの念起りて、徳川時代の漢学者の随筆を見初めぬ。
『那珂先生を憶ふ(「大阪朝日新聞」 1908(明治41)年3~4月(五回に分載))』桑原隲藏
徳川時代の林大學頭は、一生の中に一度は必ず支那の正史を通讀し終る定めとなつて居つたとか聞き及んだが、其は兔に角『九通』を悉く通讀した學者は、わが國では古今先生の外恐くは一人もあるまい。
『小石川臺(明治四十三年)』大町桂月
そこに徳川時代の小説家の泰斗なる瀧澤馬琴の墓あり。これも小石川臺の一名物なるべし。
『『辭林』緒言(「辭林 四十四年版」三省堂書店 1911(明治44)年4月8日発行)』金澤庄三郎
辭書の如きも、未だ多く徳川時代の著作の羈絆を脱せず、中古以往の語にのみ詳にして、現代の活きたる言語に粗なり。
という具合に江戸時代を表すのに「徳川時代」を使うのが優勢だったようだ。
他のサイトでも調べてみようと思い国立国会図書館デジタルコレクションを検索したところ、年代のはっきりしている「江戸時代」は、
日本文学史. 下巻 国立国会図書館/図書館送信限定 図書 三上参次, 高津鍬三郎 合著[他] (金港堂, 1890)
目次:第六篇 江戸時代の文學
そして「徳川時代」は、
東洋学会雑誌. (8) 国立国会図書館/図書館送信限定 雑誌 (東洋学会, 1887-09)
目次:德川時代風俗の一斑 / 關根正直
というのが見つかった。
「江戸時代」と「徳川時代」が使われはじめた年代はそんなに違いがなさそうだが、用語の使用頻度としては明治から昭和中期までは「徳川時代」が優勢といったところかもしれない。
ちなみに他の用語はないかと調べてみたら、『黙々静観』という「清譚と逸話」で、ある人物がこう語っている。
政治をするには、学問や智識は、二番めで、至誠奉公の精神が、一番肝腎だ。と云ふことは、屡話す通りであるが、旧幕時代でも、田沼といふ人は、世間では彼是いふけれども、矢張り人物サ。
語っているのはあの勝海舟である。