名将・戦術辞典『エパメイノンダスの斜線陣』
■エパメイノンダス(古希: Επαμεινώνδας, 紀元前420年? – 紀元前362年)は、古代ギリシアテーバイの将軍・政治家である。欧文表記からエパミノンダス(Epaminondas)とも呼ばれる。
レウクトラの戦いで、斜線陣を用い当時最強と謳われたスパルタ軍を破った。
斜線陣は戦術用語としては試験に必ず出てくる、覚えなければならない必須項目。
紀元前420年頃、エパメイノンダスはテーバイの貧乏貴族の子として生まれた。
それでも高い教育を受け、中でもピュタゴラス派の哲学を愛好した
紀元前371年、エパメイノンダスはボイオティア諸都市から集められた軍勢の総司令官として、スパルタ率いるペロポネソス同盟軍と対決した。
このレウクトラの戦いで彼は斜線陣を用い、劣勢でありながら圧倒的な勝利をもたらした。
スパルタ軍のファランクスの弱点である右側に対応する自軍の左側に主戦力を配置し、自軍の戦力の弱い右側へ行くに従って突撃を遅らせ、敵陣を左から崩壊させる。
※ファランクスの最右翼の兵は右半身を露出していることにより弱点となる。
この戦術においては兵力のバランスと突破のタイミングの正確な予測が必要となる。(主力翼に兵力を集中しすぎると敵戦列を突破する前に自軍の他の部隊が突破され、主力翼の兵力が不十分だと敵戦列を突破しきれない恐れがある)
ファランクスでの一般戦列が8列から16列であったのに対し、エパメイノンダスの斜線陣左翼の厚みは50列あったと言われ(スパルタ軍の戦列は12列)、この重厚な戦力でスパルタ軍右翼にプレッシャーをかけた。
ファランクスは縦深が深いほうが、盾での押合いにおいて有利であり、消耗しても隊形を維持して持ちこたえることが可能となり、縦深は極めて重要な要素であった。
ペロポネソス同盟軍は最精鋭のスパルタ軍が右翼を担っていたが、突撃を遅らせたボイオティア軍右翼がペロポネソス同盟軍左翼と激突する頃にはすでにペロポネソス同盟軍右翼は崩壊し、指揮官のスパルタ王クレオンブロトス1世は敗死した。
その後エパメイノンダスはギリシアの覇権を求めて紀元前370年、ペロポネソス遠征を決行する。
途中、指揮権の任期が切れたが進軍を続け、スパルタの要衝を攻撃した。
しかしアテナイがスパルタの支援を決め、進軍も困難になったため、テーバイに帰国した。
帰国後、母国の指擦官は、無許可の指揮権延長を違法とし、彼への死刑裁判を求めたが、エパメイノンダスは自身の演説によって窮地を脱した。
この後、再び遠征し、スパルタとアテナイに打撃を与えたが、反撃の機会をうかがっていた国内の政敵により、戦果不足を糾弾されて政界から追放される。
その後の戦闘では一兵卒として参加、自軍が敵の待ち伏せに遭い全滅の危機に陥った際には、彼は指揮権を委譲されて自軍の危機を救った。
このあたりのエパメイノンダスは異常にカッコイイ。
実に小説向きのエピソードだと思う。
紀元前362年、テゲアの出兵要請に応えたテーバイは、マンティネイアと結んだスパルタ、アテナイと再び対立し、四度目のペロポネソス遠征を行った。
エパメイノンダスはスパルタやマンティネイアを奇襲するも戦果が上がらず、会戦に訴えた(マンティネイアの戦い)。
この戦いでエパメイノンダスは自ら突撃隊を率い敵を敗走させたが、自身は戦闘の最中に槍を受けて戦死した。
テーバイはマンティネイアでエパメイノンダスを初めとする上級将校を全員失い、もはや彼の戦闘教義を継承できるテーバイ人はいなかったために覇権を維持することが困難になった。
それを受け継いだのは、テーバイで3年間の人質生活を送っていたマケドニア王国のピリッポス2世であり、その子アレクサンドロス3世であった。