地球と天体そして宇宙 発見・発明の歴史図鑑

2020年9月12日 オフ 投稿者: animeoyagi

※Wikipediaの記事を使用しています

人は地球と天体、そして宇宙をどのように認識してきたのか。

その歴史をWikipediaなどから集めて時系列で並べました。

観測可能な宇宙対数スケールで表した図。太陽系を中心としており、各天体には名称を付けている。太陽からの各天体の距離は、中心から端に向かって指数関数的に増加している。また、天体の形状が分かるように各天体を拡大している。
ハッブル・ウルトラ・ディープ・フィールド。130億年前(ビッグバンから4億–8億年後)と推定されている宇宙の画像。現在までに撮影された中で最も深い宇宙の画像である

■ビッグバン(英: Big Bang)とは、宇宙は非常に高温高密度の状態から始まり、それが大きく膨張することによって低温低密度になっていったとする膨張宇宙論(ビッグバン理論 (Big bang theory)における、宇宙開始時の爆発的膨張。

インフレーション理論によれば、時空の指数関数的急膨張(インフレーション)後に相転移により生まれた超高温高密度のエネルギーの塊がビッグバン膨張の開始になる。その時刻は今から138.2億年前と計算されている。

ビッグバン理論では、宇宙は極端な高温高密度の状態で生まれた、とし(下)、その後に空間自体が時間の経過とともに膨張し、銀河はそれに乗って互いに離れていった、としている(中、上)。 png: User:Fredrik; vectorized:Waterced – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=70283721による

■直角三角形の3辺の長さの比は、測量や天文学の要請によって古代から研究されてきた。イエール大学のバビロニア・コレクション No.7289(前2000年頃)には、正方形と2本の対角線が描かれていて、それぞれの長さが楔形文字により60進法で記されている。

■タレス(タレース、紀元前624年頃 – 紀元前546年頃)は、古代ギリシアの哲学者。タレスの定理の生みの親である。ミレトスのタレスとも呼ばれる。

彼は多才な人物であったが、特に測量術や天文学に通じており、ヘロドトスによればその知識を用いて日食を予言したといわれている。

これは天文学上の計算から紀元前585年5月28日と考えられる。また地に落ちた影と自分の身長とを比較して、ピラミッドの高さを測定したとも言われている。

プラトンが伝える有名な逸話に、夜空を見上げ天文の観察に夢中になるあまり、溝(あるいは穴)に落ちてしまった、というものがある。そばにいた女性(若い女性とも老婆とも言われる)に、「学者というものは遠い星のことはわかっても自分の足元のことはわからないのか」と笑われたという。

■アナクシマンドロス(Αναξιμανδρος Anaximandros、紀元前610年頃 – 紀元前546年)は古代ギリシアの哲学者。

ミレトスに住んでいたようで、タレス、アナクシメネスと共にミレトス学派(イオニア学派)の代表とされる。自然哲学について考察し、タレスとともに最初の哲学者とされることが多い。

万物の根源(アルケー)が「無限なるもの」(アペイロン, ἄπειρον)であることを論じた。

彼が残した断片によれば「事物の起源は、限りのないものである。事物がそこから生まれたものへと、その死も必然的に帰っていく。なぜなら、事物はその不正の償いとして、時の秩序にしたがって、互いに正しい返報をするからである」と記されている。

つまり、有限なもの(ペレス)はこれより生じ、寒熱をもち、罪によって滅び無限なものに再び帰するとする。

この発想の画期性とはタレスが「水」という自然界に存在する要素を用いて世界の起源を説明しようとしたのに対し、「火」や「水」といったあらゆる対象物の根源を抽出するために「無限なもの」を概念化したことである。

その他、アナクシマンドロスは「地球」が空に浮いており地球の下側にも空が広がっていること、動物や植物は環境の変化に対応して進化することなど、現代人に共有されている世界を理解するために必要な基本原理を築きあげたと考えられている。

■アテナイのメトン(Meton of Athens)は、紀元前5世紀のギリシャの数学者、天文学者、技術者である。

メトン周期に名前が残されている。

メトン自身は、19太陽年 = 235朔望月 = 6940 日ちょうど、として計算していた。これは1太陽年を約365.263日、1朔望月を約29.5319 日としていたことになる。メトン周期は、後にカリポスやヒッパルコスによって修正された。

紀元前432年のアッティカ暦で、太陰太陽暦で閏月を入れる回数を求めるのにメトン周期は用いられた。

メトンはアテナイの生まれで、ギリシャで最初に正確な観測を行った天文学者の一人である。

弟子のエウクテモンとともに紀元前432年の夏至の日を観測し、これがアテナイの新年の始まりとしたことが伝えられている。メトンの著作は現在に伝わっていない。

■甘 徳(かん とく、紀元前4世紀頃)は、中国・戦国時代の天文学者。斉の人。同時代の魏の石申とともに、世界最古級の星表を記したと伝えられている。

★甘徳は、紀元前364年に、木星近傍に暗い星があることを記録している。

1981年、中国の科学史家である席澤宗は、この記録が木星の衛星を発見したことを示すものと指摘した。

実際にそうであるならば、望遠鏡を使ってガリレオ衛星を観測したガリレオらよりも2000年近くも前に、裸眼によって衛星を視認していたことになる。しかし、非常に明るい木星の光にさえぎられること、裸眼によって木星の衛星を観測した記録が他に知られていないことから、この見解に広い同意は得られていない。

■エウドクソス(Eudoxos)は、紀元前4世紀の古代ギリシアの数学者、天文学者。エジプトで長く暮らし、後にアテネに移住した。

彼は紀元前4世紀ごろに天動説を唱えた。円錐の体積は、同じ半径、同じ高さの円柱の体積の3分の1になることを証明した。これらの成果は、ユークリッドの著書に記載された。

★天文学者としては、地球が中心にあり、他の天体がその周りを回る天動説を唱えたとされるが、著書は残っていない。ただし、この考え方は後にアリストテレスプトレマイオスによって体系化された。

■アリストテレス(アリストテレース、古希: Ἀριστοτέλης[1]、羅: Aristotelēs、前384年 – 前322年3月7日)は、古代ギリシアの哲学者である。

プラトンの弟子であり、ソクラテス、プラトンとともに、しばしば西洋最大の哲学者の一人とされる。知的探求つまり科学的な探求全般を指した当時の哲学を、倫理学、自然科学を始めとした学問として分類し、それらの体系を築いた業績から「万学の祖」とも呼ばれる。

また、マケドニア王アレクサンドロス3世(通称アレクサンドロス大王)の家庭教師であったことでも知られる。

『天体論』(希: Περὶ οὐρανοῦ[1]、羅: De Caelo、英: On the Heavens)とは、古代ギリシャの哲学者アリストテレスによって書かれた、天体(宇宙)についての自然哲学書。

従来の四元素説に加えて、第5の元素(第一元素)としてのいわゆる「アイテール」(エーテル)と、それに支えられた宇宙の円運動、「アイオーン」としての宇宙の唯一性・不滅性、地球が宇宙の中心で静止しているとする「天動説」等が述べられている。

アリストテレス全集4─天体論・生成消滅論
ペトルス・アピアヌス (en:Petrus Apianus) による Cosmographia 。アリストテレスの説に沿ったコスモス像。天球の多層構造(アントワープ、1539年)

■カリポス周期(英語版)は、76太陽年を940朔望月に等しいとした周期である。

キュジコスの天文学者・カリポスはメトン周期を修正して、1太陽年を365.25日ちょうどとして計算した。したがって19年間では6939.75 日となる。これを4倍した76年間では27759 日となり、メトン周期の4倍(6940 日 × 4 = 27760 日)より1日少ない。

月数は235朔望月を4倍した940朔望月とし、日数を27759 日とした。したがって1朔望月は、27759/940 = 約29.530851 日となる。76年間に、28回(= 940 − 76 × 12)の閏月を入れることになる。

この76太陽年 = 940朔望月 = 27759 日のカリポス周期は紀元前330年に採用された。中国では四分暦に採用され、76年を1蔀と呼んでいる。

■アリスタルコス(希: Αρίσταρχος, 羅: Aristarchus、紀元前310年 – 紀元前230年頃)は古代ギリシャの天文学者、数学者。ギリシャのサモス島に生まれた。

同名の人物と区別するために、サモスのアリスタルコス(希: Αρίσταρχος ὁ Σάμιος, 羅: Aristarchus Samius, 英: Aristarchus of Samos)と呼ばれることも多い。

【世界最初の地動説】

宇宙の中心には地球ではなく太陽が位置しているという太陽中心説を最初に唱えた(このため彼は「古代のコペルニクス」と呼ばれることもある)。

彼の天文学の学説は広く受け入れられることはなく、ずっとアリストテレスやプトレマイオスの説が支配的だったが、約2,000年後にコペルニクスが再び太陽中心説(地動説)を唱え、発展することとなった。

★月の大きさ

アリスタルコスの『太陽と月の距離と大きさについて』の写本(10世紀頃)
アリスタルコスは月食の際に月が地球の影の中を通過する様子を観測した。

彼はこの観測から、地球の直径は月の直径の約3倍であると見積もった。

地球の外周を(現代のメートル法で)約42,000kmであると求めたエラトステネスは、このことから月の外周を約14,000kmであると結論した。実際の月の外周は約10,916kmである。

アリスタルコスの『太陽と月の距離と大きさについて』の写本(10世紀頃)

★太陽までの距離
アリスタルコスは、月が上弦または下弦の時には太陽と月と地球がほぼ直角三角形を作ると述べた。

彼はこの時の地球から見た月と太陽の離角を約87度と見積もった。この値を用いれば三角形の幾何学から太陽までの距離を求めることができる。

アリスタルコスは計算によって、太陽は月よりも約20倍遠い距離にあると結論した。

実際には上弦または下弦の時の月の離角は約89度50分で、太陽は月よりも約390倍遠い距離にある。

アリスタルコスが用いた幾何学は正しかったが、観測した離角の値があまり正確でなかった。

また彼は、月と太陽は見かけの角直径がほぼ等しいため、両者の実際の直径は各々の地球からの距離に比例するはずだと指摘した。

ここから彼は、太陽は月よりも20倍大きいという結論を観測データから論理的に導いた。

この数値自体は観測が不正確だったために間違っていたが、この推論は太陽が地球よりも明らかに大きいことを示唆しており、太陽中心説を支持する材料となりうるものだった。

■蓋天説(がいてんせつ)とは古代中国天文学における宇宙構造論の一つである。渾天説・宣夜説とともに古代中国を代表する天観である。

蓋天説には大きく2通りの考え方があり、天は円く広げられた傘のようであり、地は方形の碁盤のようであるとされ、後に、天はドーム状(蓋笠)で、地はひっくり返した皿(覆槃)の形をしているとした。

天は石臼を挽くように北極を中心に左回転しており、太陽や月は右へ向かっているが、天の回転に引っぱられて左回転する。蓋天説はノーモン(髀)による日影の観察に基づいたもので、周髀説(しゅうひせつ)ということもある。数学書の『周髀算経』にも収められている。

蓋天説では、天と地は平行しており、太陽や月が地下へ潜ったりする考え方はなく、南極という考え方もない。このため夜が生じるのは、太陽が観察者の視界から遠く離れるためなどと説明される。

また1年を通じて昼夜の長さが変化すること、すなわち太陽が南北に上下することは、太陽の日周運動の軌道である北極を中心とした同心円の大きさが季節により変化すると考えられた。

昼の最も長い夏至のときは円が最も小さくなって北極に近い軌道をとる。これを「内衡」と呼ぶ。

逆に昼の最も短い冬至のとき円が最も大きくなって北極から離れた軌道をとる。これを「外衡」と呼んでいる。

さらに内衡と外衡の間を6分割し、その境界となる7つの同心円を内衡から順に第一衡・第二衡・第三衡…第七衡とし、それぞれを二十四節気の中気に当てはめ、その衡と衡の間を第一間・第二間・第三間…第六間とし、それぞれ二十四節気の節気に当てはめた。

これを総称して七衡六間と呼ぶ。蓋天説ではこの七衡六間を平面上に写し取った七衡六間図が用いられた

【周髀算経】周髀算経(しゅうひさんけい)は、古代中国の数学書。九章算術とともに中国最古の数学書の1つとされている。

本来は単に『周髀』(しゅうひ)と称されており、蓋天説(周髀説)を説明するために編纂された天文学のテキストと考えられる。数学以上に中国の暦学・天文学の発展に対して貢献するところが大きかった。

成立時期は不明であるが、『呂氏春秋』からの引用と考えられる箇所があることから戦国時代末期から前漢にかけての著作とされ、蓋天説が発生した紀元前2世紀前後の著作と考えられている。

■ペルガのアポロニウス(古希: Ἀπολλώνιος, 羅: Apollonius Pergaeus, 英: Apollonius of Perga、紀元前262年頃 – 紀元前190年頃)はギリシャの数学者・天文学者である。

小アジアの町ペルガに生まれた。ムセイオンで教育をうけ、アレキサンドリアでプトレマイオス3世およびプトレマイオス4世の時代に活躍した。

現トルコのペルガモンでしばらく暮らしたとされる。アレキサンドリアで没した。

★著書『円錐曲線』 (Κωνικά) において、円錐を頂点を通らない平面で切断した断面の図形「楕円(だえん、ellipse)」・「放物線(ほうぶつせん、parabola)」・「双曲線(そうきょくせん、hyperbola)」について詳細な研究をおこなった。

離心円ならびに従円と周転円の概念の発案者でもある。

Íomhá

■ヒッパルコス(Hipparchus、ギリシャ語綴り Ἳππαρχος、紀元前190年ごろ – 紀元前120年ごろ)は、古代ギリシアの天文学者。現代にすべてつながる46星座を決定した(ヒッパルコスの星表(紀元前2世紀))。
クラウディオス・プトレマイオスの『アルマゲスト』で、最も引用回数の多いのがヒッパルコスであることから、天動説を含む古代の天文学の体系を成立させたのはヒッパルコスであるという説がある。これは広く支持されているが、決定的な証明がなされていない。

★主な業績

・恒星を1等星から6等星までの6段階に分けた。これは若干形を変え、視等級として現代でも使われている。
・三角法による測量を行った。
・メトン周期の改良。【ヒッパルコス周期】ヒッパルコス周期は、304太陽年を3760 朔望月とする周期である。ニカイアのヒッパルコスはカリポス周期をさらに4倍して1日を差し引いて、304年 = 3760 月 = 111035 日とした。これにより1太陽年は、約365.24671 日、1朔望月は約29.530585 日とされた。304年間に112回(= 3760 − 304 × 12)の閏月を入れることになる。
・アンティキティラ島の機械はヒッパルコスの理論に基づいているとされる(あるいはヒッパルコス自身がこの装置を発明したのかもしれない)。天体観測機器のアストロラーベも発明したとみられる。

アンティキティラ島の機械(アンティキティラとうのきかい、希: Μηχανισμ?? των Αντικυθ?ρων, Mechanismos ton Antikythiron)は、アンティキティラ島近海の沈没船から発見された古代ギリシア時代の遺物で、天体運行を計算するため作られた歯車式機械であると推定されている。
この機械は1901年に考古学者ヴァレリオス・スタイスによってアンティキティラの沈没船から回収された。

ヒッパルコスは、紀元前300年頃に書かれたティモカリスやアリステュロスらの星表と自分の実際の観測結果を比較して春分点歳差(precession of the equinoxes.歳差運動の一種)を発見した。また、彼は、注意深い観測によって、古代ギリシャ天文学に幾何学的データを導入した。それは発展して、彼が観測した天体の運動を説明し、彼の天文学的な趣味・姿勢・教養は、そのあと三世紀ものあいだ影響を与え続けたとされる。この発見は、紀元前146年から127年のこととされる。

★アストロラーベの発明者は知られていないが、18世紀に六分儀が発明されるまでは航海における主要な測定機器であった。アストロラーベの発明者としてヒッパルコスヒュパティアを挙げる歴史学者もいる。

アストロラーベ

■紀元前150年前後にキリキア地方(現在のトルコ)のマロスでキュニコス派のギリシア人の哲学者クラテス (Crates of Mallus) によって作られた地球儀が、最古のものとされている。

■渾天説(こんてんせつ)は古代中国天文学における宇宙構造論の一つ。

渾天説では、天は鶏の卵殻のように球形であり、地は卵黄のようにその内部に位置し、天は大きく地は小さいとする。

天の表面・裏面には水があり、天と地は気に支えられて定立し、水にのって運行している。

天の半分は地上を覆い、半分は地下を囲んでいる。このため二十八宿は半分が見え、半分が隠れて見えない。

天の両端には南極・北極の両極があり、天は極を軸として車のこしき(轂)のようにぐるぐる回転して端がない。天体はこの天に付随して日周運動をしている。

蓋天説はノーモンの観測にもとづいていたのに対して、渾天説は赤道環・地平環・子午環といった環を組み合わせて天体を観測する渾天儀と呼ばれる観測器にもとづいている。

はじめて渾天説を唱えたのは前漢の武帝の太初改暦(太初は、中国、前漢の元号。紀元前104年 – 紀元前101年)を行った落下閎らであったという。水の下に天があるという説は当初は大きな攻撃を受けた。

中国古代紀年の研究―天文と暦の検討から (東京大学東洋文化研究所報告)

ニーダムによれば渾天説は、古代ギリシアの学問でいえばエウドクソスが唱えたということになっている地球を中心とする天球の運動という概念に相当する

■プルタルコス(希: Πλούταρχος、羅:Plutarchus、46年から48年頃 – 127年頃)は、帝政ローマのギリシア人著述家。著作に『対比列伝』(英雄伝)などがある。英語名のプルターク(Plutarch [ˈpluːtɑrk])でも知られる。

プルタルコス像

★プルタルコスは、月には太陽の光が届かない深い窪みがあり、月の斑点は川や深い裂け目の影であると唱えた。彼はまた、月に生物が存在するとも考えた。

■張 衡(ちょう こう、78年 – 139年)は、後漢代の政治家であった。字は平子。南陽郡西鄂県(現在の河南省南陽市臥竜区)の人。太史令や尚書などを歴任した政治家である一方で、天文学者・数学者・地理学者・発明家・製図家としても優れた才能を発揮した。また文人としても優れ、賦や絵画の名品を残した。

張衡を天文学者、渾天儀と地動儀の発明者として顕彰した中華人民共和国の切手(1955年発行)

★張衡は力学の知識と歯車を発明に用いた。

彼の発明には、世界最初の水力渾天儀(117年)、水時計、候風儀と呼ばれる風向計、地動儀(132年)、つまり地震感知器などがある。

地動儀は500キロメートル離れた地点の地震を感知することができた。

張衡の地動儀(模型)

ある日、地動儀の設置場所からみて西北方向の地震の揺れを感知したが、人々は少しの揺れも感じないことがあった。一部の人は地動儀の誤りを疑った。

しかし数日後、甘粛から急使が来て、地震の発生のことを報告した。このことがあって以来、地動儀の正確性を疑うことはなくなったという。

張衡は「渾天説」の立場に立ち、天文学書として『霊憲』『霊憲図』『渾天儀図注』を著した。

令月、時は和し 気は清し―張衡『帰田賦』

2500個の星々を記録し、月と太陽の関係も研究した。

著書の「霊憲」において月を球形と論じ、月の輝きは太陽の反射光だとした。「霊憲」には以下の記述がある。

月光生于日之所照、魄生于日之所蔽;当日則光盈、就日則光尽也。

また続いて以下の記述があり、

当日之冲、光常不合者、蔽于地也、是謂暗虚、在星則星微、遇月則月食。

張衡が月食の原理を理解していたことがわかる。

月の直径も計算したとされ、太陽の1年を、365日と1/4と算出した。

なお、彼の天文の研究や地震計の発明には、2世紀に入り、後漢に天災が多発しだした時代背景がある。

また月光の原理は紀元前1世紀頃の書物にはすでに現れており、張衡の理論もこれら伝統的な天文学の成果を踏まえたものである。

数学書としては「算網論」を著した。彼は円周率を算出してπ=3.16強としており、この近似値を得たのはインド・アラビアに比べて400年ほど早い先駆的なものであった。

■クラウディオス・プトレマイオス(古代ギリシア語: Κλαύδιος Πτολεμαῖος, ラテン語: Claudius Ptolemaeus, 83年頃 – 168年頃)は、数学、天文学、占星学、音楽学、光学、地理学、地図製作学など幅広い分野にわたる業績を残した古代ローマの学者。英称はトレミー(Ptolemy)。エジプトのアレクサンドリアで活躍した。

1584年にパリで出版されたVrais portraits et vies des hommes illustrésに描かれたプトレマイオスの想像画。アンドレ・テヴェ(フランス語版)作。

『アルマゲスト』、『テトラビブロス』、『ゲオグラフィア』など、古代末期から中世を通して、ユーラシア大陸の西半分のいくつかの文明にて権威とみなされ、また、これらの文明の宇宙観や世界観に大きな影響を与えた学術書の著者である。

主著『アルマゲスト』で、地球が宇宙の中心にあり、太陽やその他の惑星が地球の周りを回るという天動説を唱えた。

天動説にもとづく天球図

ただし、天動説などはプトレマイオスが初めて唱えたわけではなく、『アルマゲスト』の内容は、アリストテレスやヒッパルコスなど、それ以前の古代ギリシアの天文学の集大成である。

幾何学におけるエウクレイデスの『原論』のように、『アルマゲスト』はそれまでの天文学を数学的に体系付け、実用的な計算法を整理したことで、何世紀もの間天文学の標準的な教科書としての地位を得た。

この中で、当時火星などの惑星で見られた逆行を星が「周転円」という小さな円を描きながら地球の周りを回転することによって起こると説明し、これによって天動説の地位を守った。

エカント(Equantまたはpunctum aequans)は、天体の運動を説明するためにクラウディオス・プトレマイオスによって2世紀に作られた数学上の概念である。

パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=486480

天体観測の方法や天体の軌道計算、太陽までの距離やその大きさといったあらゆる知識をひとつにまとめたことが天文学におけるプトレマイオスの業績である。

アルマゲスト』(George of Trebizond によるラテン語版、1451年頃)
プトレマイオスの地図(150年ころ)、15世紀の複製品

★プトレマイオスの著書『テトラビブロス』(Tetrabiblos、四つの書)は、西洋占星術の古典として知られている。

本書がもたらした権威故にプトレマイオスはルネサンス期ヨーロッパの占星術師・学者から「最も神聖なるプトレマイオス」と呼ばれることとなった。

『テトラビブロス』の原題は「影響」である。プトレマイオスは、本書を通して、常に変化する星々の位置が世界にもたらす「影響」について説明(ロゴス)を与えることを意図した。

星々の位置は、地球、太陽、月、惑星、星辰の運動により常に変化する。この運動については前著『アルマゲスト』において、数学を道具として用いて論じた。

これに対して、星々の位置の影響について論じる『テトラビブロス』においては、哲学を道具として用いて論じた。

このように『アルマゲスト』を第一部とした場合、『テトラビブロス』は第二部に相当する。

★四分儀についての初期の記録は、プトレマイオスによる『アルマゲスト』(西暦150年ころ)にまで遡る。

この書でプトレマイオスは、ペグの影を90度の、目盛のついた弧に投影することによって、正午の太陽の高度を測定できる道具について言及している。

ガリレオ博物館に展示されている四分儀(1550年~1600年ころのもの) Sailko – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=31259003による

■中国の星表(3世紀?)
殷の巫咸、あるいは斉(楚とする説もあり)の甘徳と魏の石申が星表を作ったとされており(現在では後漢時代に成立したものであり、三氏の名前は権威付けのために使われたと考えられている)、のちに呉の陳卓がそれらを整理してまとめたものが長く用いられた。

■宣夜説(せんやせつ)とは古代中国天文学における宇宙構造論の一つ。蓋天説や渾天説と違い、天には形体というものがなく虚空であるとする。

宣夜説では天には形質というものがなく、仰ぎ見れば、高く遠く果てがない。遠道の黄山を望み見ると青く、千尋の深谷をのぞき込むと窈黒であるように天の青も本当の色ではなく、黒も形体があるからではないとされる。

天体は形体ある天にくっついているようなものではなく、虚空のなかにおのずから浮かんでいる。どこにも繋がれていないからこそ天体ごとに動きに遅速が異なるとされる。

宣夜説を唱えたものには中国ではじめて歳差を発見した虞喜(281年 – 356年)がおり、宣夜説にもとづいて『安天論』を著した。

なお、当時の中国ではあまり発展せず、やがて滅んでしまった。

【歳差】地球の歳差運動により、天文学上の現象として、春分点・秋分点は黄道に沿って少しずつ西向きに移動することになり、これを歳差と呼ぶ。

この歳差の周期は約25,800年である。このため、太陽年(回帰年)は恒星年より約20分24秒短い。

■真鍮製のアストロラーベはイスラム世界の各地で発達し、主に用途としては天体や地上の目標物の高度を測定したり、時刻の算出、占星術に必要な特定の天球上の星座配置の再現など。四分儀と並ぶ携帯用の天体観測儀として普及し、このため航海中の時刻や位置測定、地上におけるキブラを見付けるためなどに広く使われた。最初の例は315年(ヒジュラ暦で927-8CE)のものである。

アストロラーベ

■陳 卓(ちん たく、230年代 – 320年代)は、中国三国時代の呉・西晋・東晋の政治家・天文学家。

天文学と星占いが得意で、著書を多く残した。

著書には『天文集占』、『四方宿占』、『天官星占』、『甘・石・巫賢三家星官』、『五星占』、『五星出度分記』、『陳卓分野』、『渾天論』などがあり、その中の『甘・石・巫賢三家星官』は3垣28宿に整理され、明代末期まで使用されていた。また、『全天星図』にて全天の1464星を記載している。

■アレキサンドリアのパップス(Pappus of Alexandria)はアレキサンドリア生まれのエジプトの数学者。4世紀の前半に活躍した。

彼はギリシャ数学を幅広く渉猟し、その技法を修得して8巻に及ぶ数学上の著作を残した。

彼はその第七巻において、パップス=ギュルダンの定理と呼ばれる定理を証明しているが、これは後世の数学者に大きな影響を与えた。その他、射影幾何学におけるパップスの定理(パップスの六角形定理(英語版))など平面幾何学のいくつかの定理に彼の名前が残っている。

★現代に残っているアリスタルコス(世界最初の地動説を提唱)の唯一の著作である Περί μεγεθών και αποστημάτων Ηλίου και Σελήνης (『太陽と月の大きさと距離について』)は地球中心説(天動説)の世界観に基づくものである。

しかし、記録に残されている引用句を通じて、アリスタルコスがこれに代わる太陽中心説の仮説を提唱した別の書物を著していたことが明らかになっている。パッポスの論文集「小天文学」に収録されている。

■テオドシウス1世(フラウィウス・テオドシウス、Flavius Theodosius, 347年1月11日 – 395年1月17日)は、古代ローマ帝国の皇帝(在位:379年 – 395年)。

テオドシウス大帝とも呼ばれる。わずか4か月ではあったが、東西に分裂していたローマ帝国を実質的に1人で支配した最後の皇帝となった。

テオドシウス1世が刻まれた硬貨

392年にキリスト教を東ローマ帝国の国教に定め、のちに西ローマ帝国においても同じくした。

■ヒュパティア( Hypatia、350年~370年頃 – 415年3月)は、東ローマ時代のエジプトで活動したギリシャ系の数学者・天文学者・新プラトン主義哲学者。ハイパティアともヒパティアとも呼ばれる。暴徒によって殺された。

1908年の想像画

★彼女のアストロラーベ(天体観測儀)とハイドロスコープ(液体比重計としてピエール・ド・フェルマーによって17世紀に確認された)の発明については、彼女に意見を聞いたシュネシオスの手紙の中で知られていることから、彼女が特に天文学と数学に専念していたことを示している。また、彼女による哲学の著述も全く存在は知られていない。

新プラトン主義の他の学校の教義より、彼女の哲学はより学術的で、その関心のためか科学的で神秘主義を廃し、しかも妥協しない点では、キリスト教徒からすると全く異端であった。

それでも、「考えるあなたの権利を保有してください。なぜなら、まったく考えないことよりは誤ったことも考えてさえすれば良いのです」とか「真実として迷信を教えることは、とても恐ろしいことです」という彼女のものであると考えられている言動は、当時のキリスト教徒を激怒させた。

その時すでに彼女は、キリスト教から見て神に対する冒涜と同一視された思想と学問の象徴とされた。

■【破章法】

中国では章法と呼ばれていたメトン周期に従って太陽太陰暦が編纂された。19年7閏によって構成される周期を章と呼び、その切替の年を章首と呼んだ。そして章を開始する基準日として章首の年における冬至を11月1日と定めて、19年7閏を経て再び同じ日が巡ってくるように暦が編纂されていた。

この冬至は特に朔旦冬至と呼ばれ定期的な朔旦冬至の到来は暦の安定、ひいてはその暦を作成・頒布する王朝の安定の象徴として宮廷においては盛大な祝賀行事が行われた

ところが五胡十六国時代、北涼の玄始暦(412年施行)からメトン周期によらない暦法(これを「破章法」という)が行われた。

例えば、玄始暦では600太陽年 = 7421朔望月(7421/600 = 12.368333333…)とし、南朝の大明暦(510年施行)では391太陽年 = 4836朔望月(4836/391 = 12.368286445…)としている。

高度な計算に基づく破章法によって暦の精度が良くなったのであるが、その代償として章首の冬至が必ず朔旦冬至になるとは限らなくなり、冬至の日がずれたり逆に章首以外の年に朔旦冬至が発生する事態も起こった。

中国の朔旦冬至の儀式と破章法暦法の両方を継承した日本ではこうした事態を不吉として捉えて、月の大小や閏月の順序を入れ替えることで強引に章首の朔旦冬至を実現させていた。

■アーリヤバタ(IAST: ?ryabha?a、476年3月21日 – ?)は、古典期インドの天文学者、数学者。

著作に『アーリヤバティーヤ(英語版)』(499年)と『アーリヤシッダーンタ』がある。

アーリヤバタが学究生活を送ったと推定されるナーランダー大学跡(世界遺産

各種の天文常数や円周率などの定数の精密化、ギリシア数学(英語版)を取り入れたインド数学の発展、インドの数理天文学の開拓といった業績がある。

★6世紀インドのアリヤバータ (Aryabhata) は太陽中心の地動説に基づいたと思われるいくつかの計算を残している。インドには古代ギリシアの天文学が入ってきており、その影響が指摘されている。彼の著作は8世紀にアラビア語に、13世紀にはラテン語に翻訳されている。

■セビリャのイシドールス(西: San Isidoro de Sevilla、羅: Isidorus Hispalensis、 英語:Saint Isidore of Seville、560年頃 – 636年4月4日)は、中世初期の神学者で、後期ラテン教父の中でも最も重要な神学者の一人であり、カトリックでは「インターネット利用者およびプログラマー」の守護聖人。

30年以上セビリャ大司教を務めた。中世のヒスパニアの地域で書かれた後の歴史書はすべて、このイシドールスの歴史を範としていた。

セビリャのイシドールス
イシドールスは思想家としては二流で、その本領は知識の収集とその簡潔で明快な紹介にあるが、それゆえにこそ「無知の暗闇に沈みかけた」古代末期から中世初期の時代において、思想史上重要な位置を占めたのである。その後の思想史の展開において、イシドールスの影響は非常に幅広い

イシドールスは『語源』で、地球が球体をしていることを説いている。『語源』での言及の仕方は曖昧であったので、一部の著述家は円盤状と書いてあるのではないかと考えた。しかしイシドールスの他の著作を参照すれば、彼が明らかに地球を球体と考えていたことがわかる。イシドールスは伝説的で証拠がないにもかかわらず、地球の裏側に人が住んでいる可能性を認めていた。

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『語源』の12世紀ごろの写本に記載されたTO図

■アル=フワーリズミー(الخوارزمي al-Khuwārizmī)ことアブー・アブドゥッラー・ムハンマド・イブン・ムーサー・アル=フワーリズミー(أبو عبد الله محمد ابن موسى الخوارزمي)は、9世紀前半にアッバース朝時代のバグダードで活躍したイスラム科学の学者である。アッバース朝第7代カリフ、マアムーンに仕え、特に数学と天文学の分野で偉大な足跡を残した。アルゴリズムの語源となった人物である。


生没年は諸説あり、780年あるいは800年の生まれ、845年あるいは850年の没とされる。

テヘランのアミール・キャビール工科大学にあるフワーリズミー像


★天文表を作り、フワーリズミーの天文学に関する学問を集大成した書となった。インド天文学の理論を取り入れた初期アラビア天文学の代表作。太陽・月・惑星の運動や食などを計算する多数の表からなっていたが、現存するものは不完全なラテン語訳のみである。

8世紀にインドの使節団が持ち込んだ『スーリヤ・シッダーンタ』や『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』を、ファザーリがアラビア語に翻訳して『シンドヒンド』という書にまとめた。

フワーリズミーは、この『シンドヒンド』とバビロニアやプトレマイオスの天文書を参考に天文表を作り上げた。中世ヨーロッパにも大きな影響を与えた天文書となり、アンダルスの天文学者マスラマー・マジュリーティーによるラテン語訳が残っている。


★数学や天文学での活躍に比べて有名ではないが、地理学の分野では、プトレマイオスの世界論を受け継いだ世界地図の作成に携わった。


また、プトレマイオスによる地中海の長さの見積りを修正し、アジアやアフリカの地形描写を精密にした。インドやビザンティンには調査で3回出向いている。

■アル=バッターニー(al-Batt?n?, 850年? ? 929年)は、アッバース朝時代にシリアで活躍した天文学者、数学者。

アストロラーベを持つアルバテグニウス。近代の画家による想像画。

著作のラテン語訳を通して、三角法の多くがヨーロッパに伝わった。また、著作の『天文表』はコペルニクスなどの多くのヨーロッパ中世の天文学者に引用された。

★バッターニーのよく知られた業績の一つが天文学に関するもので、一太陽年が365日と5時間46分24秒であると算出したことである。

また、何世紀もの間、権威として受け入れられてきたプトレマイオスの算出した計算結果を訂正することに成功し、太陽と月の関係を表す表を新たに作った。

バッターニーの計測は、さらに何世紀ものちのコペルニクスによる計測よりも正確であることすらあった。このことについては、バッターニーが南方の緯度に比較的近かったことがこのような観測に有利に働いたのではないかと補足する研究者もいる。

また、プトレマイオスが記録した近日点・遠日点の方向が変化していることを発見した。

現在の地動説の用語で説明すると、これは地球軌道の離心率ベクトルの向きが変化することによる。

また、おそらく5世紀インドの数学者・天文学者アリヤバータとは独立に、正弦(サイン)を用いて計算を行うことを始めた。部分的には正接(タンジェント)も使用した。

また、春分点(秋分点)の歳差運動の値も計算し、1年で54.5秒(66年で1度)と算出した。また、黄道傾斜角は23度35分を算出した。なお、バッターニーは同僚のサービト・イブン・クッラが唱えたとされている「トレピダチオ説(英語版)」を採用することはせず、自著の歳差を示す表においては規則正しい率を示した。

■1208年のペルシアのアストロラーベ

■1270年頃 アルフォンソ天文表(西:Tablas alfonsíes)は、13世紀にカスティーリャ王アルフォンソ10世が作らせた惑星の位置の表である。

パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=777363

それまで用いられていた、11世紀にアッ=ザルカーリーらによって作られたトレド天文表を改良したものである。

1年の長さの平均値を365日5時間49分16秒とした。これは、その後の精密な観測による値、365日5時間48分46秒 と比べて、30秒の誤差でしかない。

1252年頃に着手、1270年頃に完成した。

はじめスペイン語で出版され、後にラテン語に翻訳された。16世紀にコペルニクスの『天球の回転について』に基づくエラスムス・ラインホルトの天体運行表『プロイセン表』(Prutenicae Tabulae)が作られるまで、ヨーロッパで最も一般的な天体運行表であった。ゲオルク・プールバッハの『惑星の新理論』(Theoricae novae planetarum)の中で用いられている。

■ナスィールッディーン・トゥースィー(ペルシア語: محمد بن محمد بن حسن طوسی Muḥammad ibn Muḥammad ibn Ḥasan Ṭūsī アラビア語: ナスィールッディーン・アッ=トゥースィー Naṣīr al-Dīn Abū Ja‘far Muḥammad b. Muḥammad b. Ḥasan al-Ṭūsī、 نصير الدين ابو جعفر محمد بن محمد بن حسن الطوسي 1201年2月18日 –1274年6月25日)はシーア派を代表するペルシャ人の神学者である。またイブン・スィーナーら系譜に連なる逍遥学派の中興の祖と目される哲学者であり、数学者、天文学者であり、13世紀のイスラーム世界を代表する偉大な学者である。

Nasir al-Din Tusi

★チンギス・ハーンの遠征によってトゥースが滅ぼされると、イスマーイール派のもとになどに逃れ、転々とするが、最終的にイルハン朝フレグのもとで働くことになった。

フレグはトゥーシーのために1259年、マラーガに天文台を建て、天文学の進歩に貢献したマラーガの天文学者の最初の一人であると考えられている。マラーガで天文学を学んだ有名な学者にはムアイヤドゥッディーン・ウルディーや医学者クトゥブッディーン・シーラーズィーなどがいる。

コンピュータが読み取れる情報は提供されていませんが、Aliparsaだと推定されます(著作権の主張に基づく) – コンピュータが読み取れる情報は提供されていませんが、投稿者自身による作品だと推定されます(著作権の主張に基づく), CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1301218による マラーガ(マラーゲ)天文台跡に建てられた現代の観測・教育施設。

★マラーゲ西部の丘に13世紀半ばに建設された中世の有名天文台、マラーガ(マラーゲ)天文台(ラサド・ハーネ・イェ・マラーゲ Raṣad Khāne-ye Marāghe)の跡が遺されている。この天文台はイルハン朝初代君主フレグナスィールッディーン・トゥースィーに命じて建設させたものである。

【トゥースィーの業績】

1272年に惑星の位置を計算し、恒星の名を記した天文表『イルハン天文表』を作成した。

2つの円運動から直線状の動きを得る、トゥースィーの対円 (Tusi-couple) と呼ばれる惑星モデルを考え、クラウディオス・プトレマイオスの惑星運行モデルの難点の一つであったエカントの除去に成功した。

(エカント(Equantまたはpunctum aequans)は、天体の運動を説明するためにクラウディオス・プトレマイオスによって2世紀に作られた数学上の概念)

地動説が現れるまで、トゥースィーの宇宙の体系は最も進んでいた。また天文上の分点の歳差が51秒であることを計算した。

月のナスィールッディーン・クレータに命名されている。イランのK. N. Toosi工科大学 (en: K. N. Toosi University of Technology) もトゥーシーに因んで命名された。

■ヤコブの杖(ヤコブのつえ、英:Jacob’s staff)またはクロス・スタッフ(cross-staff、直訳すると「十字型の杖」)とは、天体の高度角を測る道具で、西洋では14世紀ころから使用され始めた。

航海術、測量術、または天文観測において、北極星または太陽の高度角を測ることによって緯度を知るために用いられた。

名前の由来は当時の星座から(今で言うオリオン座のうち、「帯」の三つ星とリゲル、ベテルギウスはヤコブの杖と呼ばれていた)とも言われる。

緯度の計測法
目盛りの刻まれた長い棒と、それに直角に取り付けられて自由に動かせる短い棒(クロスピース、十文字片[1]と呼ばれる)から成る。長い棒を目の前に構え、その上下に目標の天体と水平線が来るようにクロスピースを動かして、クロスピースの位置を目盛りで読むことによって使用する。

緯度の計測法 オランダ語版ウィキペディアのSerassotさん, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1820137による

★ヤコブの杖が西洋の文献に登場するのは14世紀のユダヤ人の数学者レビ・ベン・ゲルソンによるものである。

16世紀のオランダのアドリアーンスゾーン・メチウスやゲンマ・フリシウスによって改良が加えられた。

★レヴィ・ベン・ゲルション(Levi ben Gershon(L口w口 b口n Ger口口n), 1288年 ラングドック地方バニョール Bagnols – 1344年 カタルーニャ地方(現フランス)ペルピニャン)は、フランスのユダヤ教徒の哲学者・数学者・天文学者・聖書学者(注釈者)。

ラテン語名のゲルソニデス Gersonides、ヘブライ語的な略称ラルバグRalbagとしても知られる。

水夫のために、「ヤコブの測量竿」(距離測定器)を発明。三角法の基礎を創った。

■イブン・シャーティル(1305年頃 – 1375年頃)は、14世紀のムスリムの天文学者である。

長年ダマスクスの大モスク(ウマイヤ・モスク)のムワッキト(時守。アザーンやムアッズィンの項参照。)を務め、計時に関する著作、宇宙構造論に関する著作がある。

イブン・シャーティルの宇宙構造論は『アルマゲスト』の宇宙モデルに独創的な創見を付け加えたものであるが、天動説の一種ではある。

イブン・シャーティルの惑星の運行モデル

イブン・シャーティルの理論が16世紀のコペルニクスに影響を与えたか否か、影響を与えたとしたらどのような点においてかといった議論が、科学史研究上のトピックの一つになっている。

イブン・シャーティルの月の運行モデル

★天文理論に関する論文は、イブン・シャーティルの没後、シリアでもエジプトでもほとんど受容されなかったようである。

ところが、16世紀のコペルニクスの天文理論や天文常数の一部がイブン・シャーティルのものと同じであることが、20世紀に入ってから判明し、注目されるようになった。

HB – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=27752729による 青い破線がイブン・シャーティルの惑星の運行モデル。黒い実線はプトレマイオスのモデル。

イブン・シャーティルの天文理論に関する研究は1950年代に端緒についた。

イブン・シャーティルは、最初、プトレマイオスが『アルマゲスト』等で示した宇宙モデルに忠実にしたがった天文表を作成しようとしたようである。しかしこれは写本が伝世していない。

その後イブン・シャーティルは、プトレマイオスが提供した天文常数とは異なるパラメータを用いて『天文観測についての注釈の書』を書いたが、これも現代に伝わる写本が存在しない。

■1464年にレギオモンタヌス(Regiomontanus、ドイツ名:ヨハネス・ミュラー・フォン・ケーニヒスベルク、Johannes Müller von Königsberg、1436年6月6日 – 1476年7月6日)は 三角法の著書De Triangulis omnimodus と 『プトレマイオスの天文学大全の抜粋』Epytoma in almagesti Ptolemeiを著した。

■ヒジュラ暦885年(1480-81年)の記年のある球体アストロラーベ(オックスフォード科学史博物館 Museum of the History of Science, Oxford 蔵)


■地球儀として作られ、現存している最古のものは1492年にドイツのニュルンベルクでマルティン・ベハイムが製作したものである。

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現存する最古の地球儀。

★マルティン・ベハイム(Martin (von) Behaim、1459年10月6日 – 1507年7月29日)は、ポルトガル王に仕えたドイツ人の天地学者、天文学者、地理学者、探検家である。Martinho da Boémia、Martin Bohemus、Martin Behaim von Schwarzbach とも呼ばれ、ラテン語では Martinus de Boemia と呼ばれた。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: Martin_Behaim_Winsor.jpg
マルティン・ベハイムの版画。Narrative and critical history of America, Volume 2 by Justin Winsor

1491年から1493年まで故郷ニュルンベルクに戻っていたとき、画家 Georg Albrecht Glockenthon と共同で地球儀を製作し、Erdapfel(文字通りの意味は「大地のリンゴ」)と名付けた。

1475年にローマ教皇シクストゥス4世が思い描いた地球儀に沿ったものだが、子午線と赤道の線を書き加えるという改良がなされている。

アレクサンドリアのクラウディオス・プトレマイオスの影響が見られるが、その後の中世における発見の数々(例えば、マルコ・ポーロの旅行記の情報など)を随所に取り入れようとしている。

初の地球儀として有名ではあるものの、当時の発見の数々と比較しても地理的に間違っているところが多い。

西アフリカの海岸線も不正確だが、当時の技術力では正確な計算は困難だったと見られる。

カーボベルデ諸島は数百マイル横にずれている。

大西洋には伝説の島々が浮かんでいるが、これらは孤立した中世キリスト教世界にとって心理的に重要だった。

日本は海岸から1500マイルの位置にあり、マルコ・ポーロの記述に合わせてある。そのため、カナリア諸島から帆走で到達できそうな位置になっている。

聖ブレンダンの島も描かれているが、(展示されていたとき)この地球儀は西半球が覆われていて見えないようになっていた。

全体的に16度ほどの誤差があるが、現代の地球儀では誤差は1度程度である。

当時、まだ正確な時計(クロノメーター)がなかったため、特に経度の正確な測定が困難だった(天測航法)。

最古の地球儀であるだけでなく、アメリカ大陸の発見直前に作られたという事実からも歴史的に貴重な地球儀になっている。

現在この地球儀はウィーンで進行中の Behaim Digital Globe Project にて高解像度でデジタイズされており、非公開となっている。

この地球儀はコロンブスの地球観とよく一致しており、彼がなぜ西に向かえばアジアに到達できると考えたかがよくわかる。

コロンブスもべハイムもその情報源は同じだった。14世紀の美しい羅針儀海図ほど正確ではないが、科学史上非常に重要である。

世界初の地球儀とされており、正しい角度で傾いて回転するようになっており、1492年時点の西洋の世界観を示す百科事典的な意味を持っている。

■1529年ごろからコペルニクスは地動説についての論考をまとめ始め、推敲と加筆を繰り返していたが、これを出版するつもりは全くなかった。

しかしコペルニクスの考えは友人たちを通じてこのころにはかなり知られるようになっており、1533年には教皇クレメンス7世にこの考えが伝えられている。

1535年にはヴァポフスキがコペルニクスの元を訪れ、地動説についての話を聞いている。

1536年には枢機卿の一人であるニコラス・シェーンベルクがコペルニクスに賞賛の手紙を送っている。しかし、このころはいまだコペルニクスはこの考えを出版する気持ちを持っていなかった。

このころにはヘウムノの司教となっていた親友のギーゼは何度も出版を勧めたが、それでもコペルニクスは動かなかった。

■ニコラウス・コペルニクス(ラテン語名: Nicolaus Copernicus、ポーランド語名: ミコワイ・コペルニク Pl-Mikołaj Kopernik.ogg Mikołaj Kopernik[ヘルプ/ファイル]、1473年2月19日 – 1543年5月24日)は、ポーランド出身の天文学者、カトリック司祭である。

晩年に『天球の回転について』を著し、当時主流だった地球中心説(天動説)を覆す太陽中心説(地動説)を唱えた。これは天文学史上最も重要な発見とされる。(ただし、太陽中心説をはじめて唱えたのは紀元前三世紀のサモスのアリスタルコスである)。

★『天球の回転について』(ラテン語: Nicolai Copernici Torinensis De revolutionibus orbium coelestium, Libri VI、英語訳: On the Revolutions of the Heavenly Spheres by Nicolaus Copernicus of Torin 6 Books)は、1543年に出版されたニコラウス・コペルニクスの地動説を主張した著書である。

derivative work of Johannes Petreius 1543 edition of File:Nicolai_Copernici_torinensis_De_revolutionibus_orbium_coelestium.djvu – File:Nicolai_Copernici_torinensis_De_revolutionibus_orbium_coelestium.djvu, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5611684による ■1543年の初版

1512年から行われた第5ラテラン公会議においては、教会暦の改良についても議論された。このとき意見を求められたものの、1年の長さと月の運動の知識が不十分であったため問題の解決ができなかったことを認識したコペルニクスが、太陽系の構造を根本から考えなおしたものである。

1539年にゲオルク・レティクスがコペルニクスの弟子となりコペルニクスの手稿を読み、レクティスの天文学の師のヨハネス・シェーナーに概要を送り、1540年に Narratioとして出版された。

Narratioの評判とレクティスの強い勧めにより『天球の回転について』の出版にコペルニクスは同意し、彼の死の直前に出版された。

■アレッサンドロ・ピッコローミニ(Alessandro Piccolomini、1508年6月13日 – 1578年3月12日)はイタリアの学者、詩人である。天文学の分野では1543年に印刷された近代的な星図を製作したことで知られる。

天文学の分野ではヨハン・バイエルの『ウラノメトリア』に先立って、近代的な星図を出版したことで知られる。星図 le stelle fisseは最初の印刷された近代的な星図で1540年に出版された。こうま座を除くトレミーの星座が47の図に描かれた。恒星の明るさと、日周運動の中心の方向と、運動の向きが示されているが、星の位置を示す座標は使われておらず恒星の正確な位置をきめることはできなかった。

■プロイセン表(ラテン語表記: Tabulae prutenicae、ドイツ語表記:Prutenische または Preusische Tafeln)は1551年に出版された天体運行表である。それまで300年間にわたって使われたアルフォンソ天文表にかわって使われることになった。

エラスムス・ラインホルトが、1543年にニコラウス・コペルニクスが出版した『天球の回転について』をもとに計算して作成した。

プロイセン公、アルバート1世がラインホルトの出版の費用を支払ったので、プロイセン表と題された。 これらの表がコペルニクスの計算方法をプロシアで広めるのに役立った。

ラインホルトのプロイセン表とコペルニクスの研究がグレゴリウス13世の認可を受けたクリストファー・クラヴィウスのグレゴリオ暦作成に用いられた。

14世紀から15世紀の間、使われてきたレギオモンタヌスの天文表に変わって航海に使われることになった。

ティコ・ブラーエとヨハネス・ケプラーによってプラハで編纂され、1627年にケプラーによって出版されたルドルフ表に変わられた。

ラインホルトが所有し書込みのされたコペルニクスの『天球の回転について』は科学史家のオーウェン・ギンガーリッチによって見つけられ、それに着想を得て『誰も読まなかったコペルニクス』が執筆された。

■ティコ・ブラーエ(Tycho Brahe、誕生時の名前はテューイェ・オデスン・ブラーエ、Tyge Ottesen Brahe[注釈 1]、1546年12月14日-1601年10月24日)はデンマークの貴族、天文学者・占星術師・錬金術師・作家。当時としては極めて正確かつ包括的な天体観測を実施したことで知られる。

エレファント勲章を身に着けたティコ・ブラーエ。

ティコはデンマーク有数の有力貴族家系の出であり、総合的な教育を受け、天文学と正確な観測器具の製作に関心を持った。

天文学者として、コペルニクス体系に見出した幾何学的有用性を、プトレマイオス体系の哲学的有用性と共に、彼自身の宇宙モデルであるティコ体系に組み合わせることに取り組んだ。

ティコ体系は月が地球の周囲を公転し、惑星が太陽の周囲を公転していることを正しく描いていたが、宇宙の中心に地球を置き太陽が地球の周囲を公転するというものであった。

また、彼は重要な天文学者の中で望遠鏡を使用せず肉眼による天体観測を行った最後の人物である。

1573年の著作『De stella nova(新星について)』でティコは天球の不変というアリストテレスの信条に反論した。

正確な観測によって「新星」(stellae novae, ティコが観測した現象は現在超新星に分類されるものだったと言われる)、特に1572年のそれ(SN 1572)には月軌道より低い場所で発生する現象に予想される視差が検出されないことを示した。

1572年の超新星の位置(一番上の「I」とラベルされた星)を示したカシオペア座の星図、ティコ・ブラーエ作「De nova stella

新星は当時まで、大気中に存在する尾を欠いた彗星などであると考えられていたが、このティコの観測結果によってそれが大気や月よりもより高い(遠い)場所の現象であることが示された。

彼は同様の観測結果を用いて、彗星もまた当時考えられていたような大気中の現象ではないことを示し、それが恐らく不変の天球を通過していると見るべきことを主張した。

後にベナーツキ・ナド・イゼロウに天文台を建設し、1600年から死亡する1601年までヨハネス・ケプラーの補佐を受けて観測と研究を続けた。

ケプラーは後にティコの天文観測データを使用してケプラーの法則を発見した。

★ティコの科学観は正確な観測に対する彼の情熱に突き動かされたものであり、生涯にわたって観測器具の精度向上を探求した。

彼は重要な天文学者の中で望遠鏡の力を借りなかった最後の人物であり、彼のすぐ後の世代にはガリレオ・ガリレイを始めとした天文学者が空へ望遠鏡を向けた。

肉眼による観測の限界を克服すべく、ティコは既存の観測器具(六分儀と象限儀)の精度向上に多大な努力を払った。

彼は大型の六分儀や象限儀を設計し、これらによってより高い精度での観測を可能とした。

ティコの使用した巨大な六分儀の図

観測器具の正確さによって、彼はすぐに風の影響と建物の動きに気付き、観測器具を地下の岩盤の上に直接据え付けるようにした。

ティコ・ブラーエが使用した巨大な象限儀の図

ティコの恒星と惑星の位置の観測はその質・量、双方において特筆に値する。

観測精度は1分単位に近づき、彼の天体の位置の観測結果は彼以前と同時代のあらゆる観測者よりも正確となった(同時代の天文学者ヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム4世のおよそ5倍の精度をたたき出している)。

★地平線近くや天頂方向で観測された天体は大気による屈折の影響のために実際よりも高い位置に見える。

ティコによる最も重要な革新の1つは、この予想される誤差を修正するための体系的な表を始めて作り上げ公表したことである。

しかし、当時は45度以上の高度では太陽位置に屈折の効果は無く、20度より高い位置の星の光にも屈折は無いと想定されていた。

■トーマス・ディッグス(Thomas Digges、1546年 – 1595年8月24日)はイギリスの天文学者である。テオドライトの発明者で、科学の啓蒙家として有名であったレオナード・ディッグスの息子である。

父親が死んだ後、16世紀の有名な科学者ジョン・ディーの保護を受けて育った。

1572年にティコ・ブラーエの発見した新星(SN 1572)の視差を測定し、新星が月の軌道よりも遠くにあることを確かめて、その時代までの信じられていた宇宙観である恒星の天球は不変であるという説を否定した。

1556年の3版から変更されていなかった父親の著書 A Prognostication everlastingに1576年にいくつかの項目を追加した。

その中で最も重要なものはA Perfit Description of the Caelestiall Orbes『天体軌道の完全な記述』でニコラウス・コペルニクスの地動説をイギリスに初めて紹介した。

記事はコペルニクスの『天球の回転について』の訳であったが、恒星がすべての方向に無限にひろがっていると記すことによってさらに進歩したものになった。

トーマス・ディッグスの著書に載せられたコペルニクスの宇宙図

■1584年、ブルーノは二つの重要な著作を出版した。ブルーノはその著作の中で惑星が天球の上に階層をなして存在しているという説を批判した。

ブルーノは無限宇宙が「純粋気体」で満たされていると考えた。

これは後に創案される「エーテル」概念のはしりであり、この気体は惑星や恒星の動きに一切影響を及ぼすことはないとされた。

ブルーノの宇宙論で特筆すべきことは、それまで信じられていた宇宙が特定の中心から広がる階層球によって成り立っているという考え方を否定し、地球も太陽も宇宙の1つの星にすぎないと主張したことにあった。

地球だけが特別な星であるという当時の常識に挑戦するかのように、ブルーノは神が宇宙の一部だけに特別に心を配ることはないと考えた。

彼にとって神とは心の中に内在する存在であって、宇宙のどこかにある天国にいて地球を見ているものではなかった。

ブルーノは四元素説(水、気、火、土)は信じていたものの、宇宙が特別な物質でできているのではなく地球とおなじ物質からなっているとし、地球上でみられる運動法則が宇宙のどこでも適用されると考えた。

さらに宇宙と時間は無限であると考えていたことは、宇宙の中で地球だけが生命の存在できる空間であるという当時のキリスト教的宇宙観を覆すものとなった。

このような考え方に従うなら、太陽も決して特別な存在でなく、あまたある恒星の1つにすぎないことになる。

ブルーノは太陽を惑星が囲む太陽系のようなシステムは宇宙の基本的な構成要素であると考えた。

ブルーノにしてみれば神が無限の存在である以上、無限の宇宙を創造することはなんらおかしなことではないということであった。

ブルーノはアリストテレス以来、伝統的に信じられてきた「自然は真空を嫌う」ことを信じていたため、宇宙にある無数の太陽系の間はエーテルによって満たされていると考えていた。

彗星は神の意志を伝える役割をもって天界から到達するというのもブルーノのアイデアであった。

ブルーノの宇宙論の特徴は宇宙の無限性と同質性の提示、さらに宇宙には多くの惑星が存在していると考えたことにあったといえる。

ブルーノにとって宇宙とは数学的計算によって分析できるものでなく、星達の意志によって運行しているものであった。このようなアニミズム的宇宙観はブルーノの宇宙論のポイントの1つである。

★ブルーノの著作のすべては1603年に禁書目録に加えられた。それでも、著作のほとんどはパリ・ロンドン・フランクフルトなどイタリア半島の外で出版されていたため、わずかではあったが流通しつづけた。 

★ジョルダーノ・ブルーノ(Giordano Bruno, 1548年 – 1600年2月17日)は、イタリア出身の哲学者、ドミニコ会の修道士。 

■ナポリのジャンバッティスタ・デッラ・ポルタの『博学史』(1589年、20巻)の17巻の10章に望遠鏡についての記述がある。

■1597年 ガリレオがケプラー宛の手紙で、地動説を信じていると記す。

■地球が巨大な磁石であることの証明。

ウィリアム・ギルバート(William Gilbert またはWilliam Gylberde、1544年5月24日-1603年12月10日)は16世紀のイギリスの医師、物理学者、自然哲学者である。コペルニクスの地動説を早くから支持し、当時支配的だったアリストテレス哲学とそれに基づく学校教育を積極的に拒絶した。医師としての仕事のかたわら静電気、磁石の研究をおこなった。今日、主に著書 De Magnete (1600) で知られており、電気 (electricity) という言葉を作った1人とされている。また、versorium と名付けた回転する針のような検電器を発明しており、電気計測機器の祖とされている。

★医師としての仕事のかたわら、約20年にわたって磁石の研究を行った。それには Robert Norman影響があった。地球は巨大な磁石であり、それが方位磁針が北をさす原因であること(それまでは、北極星または北極にある巨大な磁性を帯びた島が方位磁針を引き付けると考えられていた)、鉄が磁石によって磁化されること、磁化された鉄を赤熱すると磁力が失われること、などを実験によって示した。

ギルバートはこれらの研究に5000ポンドもの私財を投じたとされる。1600年には、これらの成果を集大成した著書De Magnete, Magneticisque Corporibus, et de Magno Magnete Tellure(磁石及び磁性体ならびに大磁石としての地球の生理)が出版された。

この著書の中で彼は地球の中心が鉄でできていることを正しく指摘し、磁石を切断してもそれぞれの断片がN極とS極のある磁石になることなどを記述している。

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★ギルバートは1590年代に世界初の月面地図を作ろうとした。望遠鏡は使わず、目で観察した月の表面の明暗を図に残している。当時の一般的な考え方とは異なり、ギルバートは月面の明るい部分が水で、暗い部分が地面だと考えていた。

■1600年2月17日【天動説を唱えたジョルダーノ・ブルーノの処刑】異端審問が行われると、当時の異端審問所の責任者であった枢機卿のロベルト・ベラルミーノはブルーノに対し、自説の完全な撤回を求めたが、ブルーノは断固としてこれを拒絶した。

結果、罪状は24に上り、上記に加えて魔術・占術の信奉、マリアの処女性の否定、輪廻説の支持などが挙げられた。

1600年1月8日、ベラルミーノはブルーノを異端とし死刑判決を下した。同年2月17日、ローマ市内のカンポ・デ・フィオーリ広場に引き出されたブルーノは火刑に処された。

処刑の様子はブレスラウの学生ガスパール・ショップ (Gaspar Schopp) が目撃し、家族へ送った手記により後世に伝えられている。

それによると、ブルーノは処刑を宣告する執行官に対して「私よりも宣告を申し渡したあなたたちの方が真理の前に恐怖に震えているじゃないか」と言い、結果舌枷をはめられた。

さらに、刑の直前に司祭が差し出した十字架へは侮蔑の一瞥をくれただけで顔を背け、死の際には1つも声を発さなかったという。

遺灰はテヴェレ川へ投げ捨てられ、遺族に対しては葬儀ならびに墓の造営も禁じられた。

■ヨハン・バイエル(Johann Bayer, 1572年 – 1625年3月7日)は、ドイツの法律家。名はヨーハンとも、姓はバイアーともバイヤーとも表記することがある。

★1603年、31歳のときに全天星図『ウラノメトリア』Uranometria を発刊した。

パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=522102 『ウラノメトリア』 の扉

バイエルの職業は、しばしば天文学者として紹介されている。しかしながら、そもそも天文学者とはティコ・ブラーエやガリレオ・ガリレイのように天体観測を行うか、ニコラウス・コペルニクスやヨハネス・ケプラーのように天体理論を構築する人物のことであるが、バイエルは星図書1編を著したのみで、それ以外の天体観測記録や天体理論は何一つ知られていない。

『ウラノメトリア』がそれ以前の星図と異なっていたのは、北半球の中緯度地方で見ることのできない天の南極付近の星々からなる星座を収録したことである。それらはバイエル星座と呼ばれる。バイエル星座は次のとおり:(五十音順)

インディアン座、カメレオン座、きょしちょう座、くじゃく座、しいら座、つる座、とびうお座、ふうちょう座、ほうおう座、みずへび座、みつばち座、みなみのさんかく座 (12星座)
なお、「しいら座」は日本では「かじき座」と呼ばれており、「みつばち座」は後に「はえ座」に改名された。

バイエル符号
『ウラノメトリア』ではまた、図版上で各星にギリシア文字やローマ文字を添えた。これは後の天文学者によって恒星の表示法として転用されバイエル符号と呼ばれる。バイエル符号を用いた恒星の命名法は、現在でも公式に使われている。

■ネーデルラント連邦共和国のベックマン(ヤンセンの息子サカリアセンからレンズ研磨を習った)の日誌によると、1604年にミデルブルフの眼鏡職人サハリアス・ヤンセンがイタリア人の所有の1590年と書かれた望遠鏡を真似て作ったという。

シルトリによると自分の客から作り方をならったオランダ、ミッテルブルフの眼鏡職人ハンス・リッペルスハイが「kijker」と命名した2枚のレンズ組み合わせた望遠鏡について1608年10月2日、特許申請をオランダ総督にした。

10月14日にはAlkmaarのJ.アドリアンスゾーン・メチウス(Adriaanszoon Metius 、1571年 – 1635年 1598年からフラネカー大学教授)が特許申請を行なった(2年間改良していたという)。

この同時申請のため特許はどちらにもおりなかった。リッペルスハイは双眼望遠鏡も作り、またマウリッツ総督の命により900フローリンで軍用望遠鏡を作った。

下の画像はイメージです↓

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■日本では、1606年に林羅山がキリスト教徒が唱える地球球形説を論難してハビアンと議論した際に登場した「円模の地図」が地球儀であったとされている。

1608年ヨハネス・ケプラーは『』という小説を執筆しているが、この小説には「プリヴォルヴァ」と呼ばれる月の裏側半球の世界と、その世界の住人を描いている。

1634年版原著の扉
1634年版原著の扉

★この物語は、1634年に作者の息子ルードヴィヒ・ケプラーによって初めて出版された。物語の中で、アイスランド人少年とその母が「レヴァニア」と呼ばれる月の世界について精霊から学ぶ。『夢』は、地球が月からどのように見えるかを想像力に富んだ記述で示しており、月の天文学に関する最初期の論文であると考えられている。カール・セーガンやアイザック・アシモフは、この物語を「SF小説のはしりである」と述べている。

■ケプラーは1609年、代表作とされる『新天文学(英語版)』を刊行した。「ケプラーの法則」の第1と第2法則もこの論文におさめられている。

ケプラーの法則(ケプラーのほうそく)は、ヨハネス・ケプラーによって発見された惑星の運動に関する法則である。

ケプラーは、ティコ・ブラーエの観測記録から、太陽に対する火星の運動を推定し、以下のように定式化した。

★第1法則(楕円軌道の法則)Figure 1: ケプラーの第1法則(楕円軌道の法則)。

太陽が楕円の焦点のひとつ。惑星は、太陽を焦点のひとつとする楕円軌道上を動く。太陽の位置を原点に取り、太陽と惑星の距離r、 真近点角 \theta  をパラメータとする極座標では、惑星の軌道は次の式で与えられる。

{\displaystyle r={\frac {h^{2}/\mu }{1+\varepsilon \,\cos \theta }}.}

ここでh は単位質量当たりの角運動量{\displaystyle \mu =GM}太陽質量万有引力定数の積、\varepsilon  は楕円の離心率。ただし{\displaystyle 0\leq \varepsilon <1} であり、{\displaystyle \varepsilon =0} のとき、太陽中心の円軌道を表す。

原画(原紙)(原文): Arpad HorvathNew version: Rubber Duck (☮ • ✍) – The original PNG version:   Kepler-first-law.png, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=646515による ケプラーの第1法則(楕円軌道の法則)。太陽が楕円の焦点のひとつ。

★第2法則(面積速度一定の法則)惑星と太陽とを結ぶ線分が単位時間に描く面積(面積速度)は、一定である。

緑色の観測範囲は近い位置にいる為角度の変化が大きく、赤色の観測範囲は遠い位置にいる為角度の変化が小さく、黒色の観測範囲は角度の変化が緩やかに増える。その角度の変化を計測することで、ケプラーの法則が成り立つ。

★第3法則(調和の法則)惑星の公転周期の2乗は、軌道長半径の3乗に比例する。

先に、第1法則および第2法則が発見されて1609年に発表され、後に、第3法則が発見されて1619年に発表された。

ケプラーの法則を動画で示した図。

■1609年【望遠鏡による最古の月面スケッチ】

トーマス・ハリオット(Thomas Harriot、または Harriott 、 Hariot、1560年頃 – 1621年7月2日)はイギリスの天文学者、占星術師、数学者である。数学、天文学に先駆的な業績をあげたが、著書を残すことが少なく後世に大きな名声を残すことはなかった。

オックスフォード大学に学び、エリザベス1世の寵臣で探検家のウォルター・ローリーと親しくなり、天文学の知識を探検航海のための航海技術に生かした。ハリオット自身も少なくとも一度は新世界探検に加わり、1588年にバージニアの住民などについて記録を残した。

数学史においては、船倉に球形の砲弾を最も多く詰める方法(「ケプラー予想」につながる。)に最初に取り組んだ数学者として知られる。

また、メルカトル図法の数学的定式化にも携わった。ローリーが投獄された後、新しいパトロンとしてヘンリー・パーシー(第9代ノーサンバランド伯)のために働いたが、1605年、火薬陰謀事件のためにパーシーとともに一旦は投獄されるがすぐに釈放されるという経験をした。

1607年に、後にハレー彗星と呼ばれる彗星の出現によって天文学に対する興味をもった。

望遠鏡を用いて観測をおこなった初期の天文学者の一人であり、太陽黒点を発見した一人である。

さらにガリレオよりも早い1609年に望遠鏡を使った月面のスケッチを残した。これらの業績は1786年にフランツ・フォン・ツァハが、ハリオットの原稿を調べ再発見された。

Harriot’s illustration of the Moon from 1609.

ハリオットの月面図が出版されたのは1965年であった。没後の1631年に唯一の著書である幾何学に関するArtes Analyticae Praxisが出版された。

■1609年 5月ガリレオはオランダの望遠鏡の噂を聞き、自分で製作。以後天体観測を行う。同年11月30日、月を観測し月が天体であることを理解する。

■1610年ガリレオが木星の4衛星を発見、「メディチ家(トスカーナ大公家のこと)の星」と名づける。これを『星界の報告』(Sidereus Nuncius)として公刊する。このころから、地動説へ言及することが多くなる。

木星の衛星の初の発見を記した1610年の草稿。この成果は『星界の報告』に織り込まれてゆく。

★『星界の報告』(せいかいのほうこく ラテン語:Sidereus Nuncius)は、イタリアの科学者ガリレオ・ガリレイが1610年3月13日に出版した、最初の書籍。

初版の扉
初版の扉

オランダで発明された望遠鏡の内容を示し、それを元にして望遠鏡を作ったことを図で説明している。

その後、その望遠鏡を用いて、月の観察を行ったことやそのスケッチを記載。

月の観察によって得られたデータを下にして、月までの距離や月の大きさの推論を行う。

そして、オリオン座からプレアデス星団、オリオン大星雲の中にある星のスケッチ、かに座のプレセペ星団などのスケッチを残している。

さらに、木星とその周辺を移動する4つの惑星についての観察記録を残している。

星界の報告 (講談社学術文庫)

■【ケプラー予想】ケプラー予想(ケプラーよそう、英: Kepler conjecture )とは、17世紀の数学者・天文学者ヨハネス・ケプラーに由来する、三次元ユークリッド空間における球充填に関する数学的な予想である。

それによると、等しい大きさの球で空間を充填(パッキング)するとき、平均密度が立方最密充填配置(面心立方)ならびに六方最密充填配置を越えることはない。これらの配置の密度はおよそ74.05%である。

大きな容器を一定サイズの小球で一杯にしたとする。その配置の充填密度は球体積の総和を容器の容積で割ったもので与えられる。容器中の球の数を最大化することが、最大密度の配置を得ること、すなわち球をもっとも密に詰め込むことと等しい。

球を無作為に投げ込んでいくと密度は65%前後になることが実験的に確かめられている。

これよりも密度を向上させるには、次の手順に沿って注意深く球を詰めていけばよい。

まず、球を六方格子状に並べて初めの層を作る。

次に、第一層の上でもっとも低い位置に球を並べていって第二層を作る。以下繰り返す。

立方最密充填(左)および六方最密充填(右)。 CdangDerivative work: Muskid – Translation of Empilement_compact.svg, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=33976435による

それぞれのステップで新しい層を置く場所には二通りの選択肢が存在するので、この自然な方法から密度が等しい配置は非可算無限個作られる。そのうち立方最密充填および六方最密充填と呼ばれる二つの配置が最もよく知られている。それらの平均密度は次の値を持つ。{\displaystyle {\frac {\pi }{3{\sqrt {2}}}}=0.740480489\ldots }

ケプラー予想が主張しているのは、上が可能な密度の最大であり、これ以上の平均密度を持つ球の配置は存在しないということである。

★ケプラー予想はヨハネス・ケプラーの論文『六角の雪片について(1611)』で初めて述べられた。ケプラーが球の配置を研究し始めたのは、1606年におけるイギリス人数学者・天文学者、トーマス・ハリオットとの文通がきっかけである。

ハリオットは友人で雇い主のウォルター・ローリーから船倉に砲弾を効率的に積み込む方法の問題を与えられていた。ハリオットは1591年に様々な積み上げパターンの研究を出版し、さらに進んで初歩的な原子論を発展させた。

★1998年にトーマス・C・ヘイルズはラースロー・フェイェシュ=トートが提案した方法に従ってケプラー予想を証明したと発表した。

多数のケース一つ一つを複雑なコンピュータシミュレーションでチェックするしらみつぶし法であった。

査読者は証明が正しいことを「99%確信している」と評した。

よってケプラー予想は定理として受け入れられる寸前に来ている。

2014年、ヘイルズに率いられたフライスペック・プロジェクト(英: the Flyspeck project)のチームは、定理証明支援ツールであるIsabellおよびHOL Light (英語版)を組み合わせて用いることにより、ケプラー予想の形式的証明を完了したと発表した。

■1613年 ガリレオが『太陽黒点論』を刊行。

■日本人と望遠鏡

日本においては近藤正斉の『外藩通書』によれば1613年(慶長18年8月4日)に「慶長十八年八月四日、インカラティラ国王ノ使者於駿城御礼申上ル…長一間程之遠眼鏡六里見之ト見ユ」とあり、イギリスのジェームズ1世の使いジョン・セーリスが徳川家康に献上のもの(現徳川美術館所蔵)が最古とされる。

★『好色一代男』1682年(天和2年)では主人公の浮世之介が女性の水浴びを望遠鏡を使って覗いている。

画像

■1616年 第1回異端審問所審査で、ガリレオはローマ教皇庁検邪聖省から、以後、地動説を唱えないよう注意を受ける。

ローマの異端審問所で異端審問を受けるガリレオ


■1616年コペルニクスの『天体の回転について』がローマ教皇庁より閲覧一時停止となる。

■1619年ケプラーが『宇宙の調和』を出版。この中でケプラーの第三法則を発表した。

■『ルドルフ表』 は、神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ2世の勅命によって、1627年にドイツの天文学者ヨハネス・ケプラーが作成した天文表である。

ラテン語による原題は Tabulae Rudolphinae Astronomicae、英語では the Rudolphine Tables、ドイツ語では Rudolphinischen Tafeln という。

『ルドルフ表』の扉 – 過去の天文学者達が描かれている。台座中央の地図に描かれているのはティコ・ブラーエの天文台があったヴェン島

天文表とは、数年分の『理科年表』の「暦部」と「天文部」を合わせたような天文データ・ブックで、おもに諸惑星の位置推算表からなり、主として占星術における出生天宮図の作成のために利用された。

〈現在でも、占星術の教本には天体暦が付属している)また、対数表や惑星の位置推算の手順も収められていた。

惑星の位置推算表は、プトレマイオスの体系に基づく『アルフォンソ表』(13世紀後半)やレギオモンタヌスの天体暦、コペルニクスの体系に基づく『プロイセン表』(1551年)に替わるものである。

ケプラーの法則に基づいて計算されたその数値は従来の星表の30倍の精度を持ち、地動説の優位性を決定的な物とした。

また、恒星のカタログも収録されている。16世紀内からコピーが出回っていてブラウの天球儀やバイエルの星図『ウラノメトリア』の元データを含む「ティコ・ブラーエの星表」の完全版(1,006星を収録)の他、これに漏れた恒星をプトレマイオスやバイエルから採った補遺、さらに南半球でオランダの航海者ペーテル・ケイセルが観測した恒星のカタログも収録されている(初書籍化)。

ティコの観測精度は、観測機器を巨大化することによって1分角以内に達しており、大気差の補正も行われていた。

『ルドルフ表』に準拠して描かれた世界地図

■【1631年】フィリッペ・ファン・ランスベルゲ(Philippe van Lansberge、またはJohan Philip Lansberg、その他 Johannes Philippusとも、ラテン名はPhilippus Lansbergius:ランスベルギウス、1561年8月25日 – 1632年12月8日)はオランダの天文学者、数学者。惑星の位置を予測する天文表を作成した。

現在はベルギーであるヘントに生まれた。プロテスタントの牧師を務めた。弟子のホテンシウス(w:Martinus Hortensius)と共同して、天文表 Tabulae motum coelestiumを出版したことで知られる。ヨハネス・ケプラーの発見した惑星の楕円軌道の理論は受け入れなかったので、誤差が含まれることになった。オランダのミドルブルグで没した。

現在はベルギーであるヘントに生まれた。プロテスタントの牧師を務めた。

弟子のホテンシウス(w:Martinus Hortensius)と共同して、天文表 Tabulae motum coelestiumを出版したことで知られる。ヨハネス・ケプラーの発見した惑星の楕円軌道の理論は受け入れなかったので、誤差が含まれることになった。オランダのミドルブルグで没した。

Triangulorum geometriae libri quatuor, 1631

■1632年ガリレオ『二大世界体系についての対話(Dialogo Sopra I Due Massimi Sistemi del Mondo)』(日本語版は『天文対話』)をフィレンツェで刊行。

天文対話〈上〉 (岩波文庫)
天文対話〈下〉 (岩波文庫)

■1633年 ガリレオは第2回異端審問所審査で、ローマ教皇庁検邪聖省から有罪の判決を受け、終身刑を言い渡される(直後にトスカーナ大公国ローマ大使館での軟禁に減刑)。

■【渦動説】(かどうせつ、cartesian vortex theory)とは、ルネ・デカルト(1596 – 1650)が提唱した、天体などの運動の原理を説明するための学説。

渦動説は、デカルトの形而上学と自然哲学に関する教科書的な書『哲学原理』(1644年)に記述され、人々に知られるところとなった。

哲学原理 (岩波文庫 青 613-3)

また、デカルトが1633年ころには執筆していたものの、出版をためらい結局死後に出版されることになった『世界論』(宇宙論とも。Le monde 1656年)においてもこの説は解説されている。

現代でもそうであるが、デカルトが生きていた当時も天体の運動はいかなる原理で引き起こされているのか?と問いかけが行われていた。

『哲学原理』はデカルトの研究をまとめたもので、デカルトの自然学(physica)を提示したものだった。

1633年ころの『世界論』の草稿においては、物体とは独立した空間を認めて「運動というのは、空間の中の、ある位置から別の位置への移動」と見なしていたが、その後デカルトは考え方を変えて真空という概念は認めなくなり、世界は延長(=おおむね現在で言うところの物質)で満たされているとした。

デカルトの渦動説は、天体を運動させているのは天体を囲んでいる物質(流体、エーテル)が天体を押しているからだとし、その物質は渦のように動いているとする。

また、物体の落下については、水の渦の中に木片を置くとそれが渦の中心に引き込まれるが、言わばそれと同じ原理で、起きているエーテルの渦によって引き込まれていると説明した。

■1638年 オランダで『新科学対話』を発刊。口頭筆記には弟子のエヴァンジェリスタ・トリチェリが行った。

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新科学対話〈上,下〉 (1949年) (岩波文庫)

■1642年 アルチェトリにてガリレオ没。

晩年 振り子時計を発明。図面を息子とヴィヴィアーニに書き取らせる。

■1643年【トリチェリの真空】

★エヴァンジェリスタ・トリチェリ(Evangelista Torricelli、グレゴリオ暦1608年10月15日 – グレゴリオ暦1647年10月25日)は、イタリアの物理学者。ガリレオ・ガリレイの弟子。

“Lezioni accademiche d’Evangelista Torricelli”の表紙

ファエンツァに生まれ、ローマに出て最初は数学者ベネデット・カステリの秘書をした。1641年からはガリレイの弟子となり、ガリレイの死まで研究をともにした。その後はトスカーナ大公フェルディナンド2世に数学者・哲学者として招かれて、ピサ大学の数学の教授に任命された。1647年、腸チフスのため39歳で没した。

約10メートルよりも深い井戸から水を直接吸い上げることができないことは古くから知られていたが、1643年、トリチェリはこれを説明するための実験を行った。

一方の端が閉じたガラス管に水銀を満たし、水銀を満たした皿にこれを立てると、水のときの約14分の1の約76 cmの高さにしかならず、それより上の部分は真空になることを発見した。

水と水銀の密度の比も約1:14であることから、空気による圧力、大気圧によって液体が押されているのだ、という結論に達した。

同時に、水銀柱の高さは日々微妙であるが変化することも発見した。

また、水銀柱のある場所によっても変わることが分かった。このため水銀気圧計の発明者ともされている。また、圧力の単位トル (Torr) はトリチェリの名にちなむ。

■ミヒャエル・ラングレン(Michael Florent van Langren、ラングレヌスとも呼ばれる、1598年 – 1675年)は、17世紀のネーデルラント(現ベネルクス三国)の数学者、天文学者。1645年に最初の月の地図を出版した。

この中で月の表面の模様の暗い部分に海(Mare) や大洋(oceanus)をつけて命名した。

Langren’s map (1645)

■1645年【ヘヴェリウスによる月面図「セレノグラフィア」】

ヘヴェリウスによる月面図「セレノグラフィア」/1645年発表。科学的観測史上(望遠鏡による観測史上)、最も早くに作られた月面図の代表的一つ。彼が名付けた月の地名のいくつかは現在も使われている。月の輪郭が二重に描かれているのは、地球から見た月の位置的揺らぎの限界を示したものである。

★ヨハネス・ヘヴェリウス(ラテン語:Johannes Hevelius 、ポーランド語:Jan Heweliusz 、ドイツ語:Johannes Hewel 、1611年1月28日 – 1687年1月28日)は、ポーランドの天文学者。月の地形学の創始者とされる。

こぎつね座、こじし座、たて座、とかげ座、やまねこ座、ろくぶんぎ座、りょうけん座、ケルベルス座 (Cerberus)、しょうさんかく座 (Triangulum Minor)、マエナルスさん座 (Maenalus Mons) という10個の星座を設定したが、これらのうち、先の7つは現在も使われている(ケルベルス座以下、後の3つは廃された)。

1673年、レンズの直径15cmで鏡筒に当たる部分の長さが45mにもなる空気望遠鏡を制作し、公開で天文観測を行った。この望遠鏡「ヘヴェリウスの空気望遠鏡」は彼の代名詞であり、また、空気望遠鏡と言えばヘヴェリウスの名が第一に挙げられる。

あまりに巨大であったために風や震動の影響を受けやすく、観測は巧く行かなかったようであるが、1682年に到来したハレー彗星の観測では成果を挙げている。

1679年9月26日、ヘヴェリウスは火災によって自宅の天文観測装置および書物を失った。

ろくぶんぎ座は、このとき失われた観測装置を偲んで設定したものである。

その後まもなく復旧作業を行い、翌1680年12月のキルヒ彗星の観測には間に合ったが、先の災禍に原因する精神的ショックから健康を損ない、1687年、誕生日である1月28日に満76歳で死去した(生没同日)。

1652年、1661年、1672年、1677年と、ヘヴェリウスは生涯に4つの彗星を発見している。

このうち、1661年に発見した彗星 (C/1661 C1) はのちに 153P/池谷・張彗星と同定されている。1668年には観測結果をまとめた『コメトグラフィア(原題:Cometographia)』を出版している。

■1651年『新アルマゲスト』

★ジョヴァンニ・バッティスタ・リッチョーリ(リッチオーリ、Giovanni Battista Riccioli、1598年4月17日 – 1671年6月25日)は、17世紀イタリアの天文学者である。

1651年にコペルニクス体系に反対する『新アルマゲスト』(Almagestum novum) を著した。フランチェスコ・マリア・グリマルディとともに月面図を作成し、クレーターに科学者の名をつける命名法を始めた。

『新アルマゲスト』の月面図

また自由落下する物体の加速度を求めた一人である。

その他にオランダのスネルと並んで地球の大きさを測る試みをした先駆者で1644年から1656年にグリマルディと子午線弧長の測量を行ったが、測定の精度はスネルの測定よりもさらに誤差の大きいものであった。

また1650年に望遠鏡でおおぐま座のミザールを観測し、これが二つの星であることを認め、最初の二重星の発見者となった。1671年ボローニャで没した。

また彼は ‘Geographiae et hydrographiae reformatae libri’ の中で、初めて世界人口の推計を試みた。

ヨーロッパの人口を基に、大陸別におおまかな数字を割り振ったものではあるが、ヨーロッパ1億人、アフリカ1億人、アジア5億人、アメリカ2億人、オセアニア1億人とし、当時(1661年)の世界人口を10億人と推計した。

■1655年3月2日 – ホイヘンスが自作した口径57mm、焦点距離3.3m、50倍の望遠鏡で土星の衛星タイタンを発見、さらにこの年のうち焦点距離7mの望遠鏡を製作し土星に付属する奇妙なものが環であると解明した。

■1656年 – ホイヘンスが長さ37mの空気望遠鏡により土星の環の形状を確認した。

またオリオン大星雲を独立発見してスケッチを残し、これが最初のオリオン大星雲のスケッチとなった。


オリオン大星雲 (M42)

■1657年『別世界又は月世界諸国諸帝国』(Histoire comique des etats et empires de la lune)サヴィニヤン・ド・シラノ・ド・ベルジュラック(Savinien de Cyrano de Bergerac、1619年3月6日 – 1655年7月28日)は、フランスの剣術家、作家、哲学者、理学者。

シラノ・ド・ベルジュラック。17世紀の彫版 不明 – スキャナで取り込み, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=194275による


作品の冒頭では、作中人物たちの会話によって、月は光の円盤などではなく地球と同じような天体であり、立って歩くこともできるだろうということ。もしかしたらそこには、我々と同じような人間が暮らしているかもしれないこと。惑星も、地球と同じような天体だろうということ。他の星々は、太陽と同じような存在であるが距離が遠すぎて、光の点にしか見えないこと。その無数の星々それぞれに、惑星があるだろうということ。宇宙は無限なのか、そこに果てはあるのか、など主人公の宇宙観が語られる。

主人公は本当に月が地球と同じような天体であるかどうかを確かめるために、いくつかの装置を作成し、月を目指す。

最初に完成させた装置は、水を入れたボトルを大量に身体にくくりつけたものだった。太陽に熱せられた水が上昇していくことを利用し、この装置を用いて、主人公は空に浮かび上がるものの、月までは到達できずに、地球の自転の影響のためか出発地のフランスから遠く離れたアメリカ大陸に着陸する。

最終的に主人公は、さまざまな偶然もあって、ロケットを六つあわせて一段となし、それを何段にもわたって配置した装置で天高く舞い上がり、月へと到達する。

一段目のロケットが燃え尽きると、二段目に点火し、二段目が燃え尽きると、三段目に点火というように、主人公の身体は急速に加速されていく。

火薬は早くに全て燃え尽き、ロケットなどの装置は全て地上に落下したものの、主人公の身体だけは、なおも月に向かって進んでいく。地球を遠く離れ、やがて月に近づくにつれ、主人公は月に向かって徐々に落下していくのを感じる。

主人公は「地球に引力があるように、月にも引力があるのだろう。

月は地球よりも質量が小さいので、その影響する範囲も小さく、月に近づいたことによって、やっとその力を感じることができたのだろう」と、ひとりつぶやく。

月には、四本足で歩く知的生命体が存在し、地球人とは異なる独特の風習や考え方を持っていることや、機械仕掛けのしゃべる本L’Autre monde ou les États et empires de la Lune など、月世界の発達した科学文明の様子が叙述される。

■フックは最初の連星(おひつじ座γ星)を1664年に発見した。

■1665年 アイザック・ニュートン(22歳)が万有引力を発見。

■1666年 – ジョヴァンニ・ドメニコ・カッシーニ(伊: Giovanni Domenico Cassini、1625年6月8日 – 1712年9月14日)が木星、火星の自転周期を算出。

■1668年 – カッシーニが木星の4衛星の運行表を作成。

■フックは(太陽以外の)恒星の距離を測定しようとした。

対象として選んだのはりゅう座γ星で、視差測定で距離を求めようとした。

何度かの観測を経て1669年に距離を求めることができた。

フックが使っていた器具はあまりにも不正確で、測定結果も正確な値からはほど遠かった。

りゅう座γ星は1725年、ジェームズ・ブラッドリーが光行差を発見した恒星としても知られている。

■1671年 – カッシーニが土星の衛星イアペトゥスを発見。

■1672年 – カッシーニが土星の衛星レアを発見。

■1672年、カッシーニはギアナのカイエンヌにジャン・リシェを送り、パリでの観測結果との視差から地球と太陽間の距離を計測し、それを元に太陽系の大きさを計算する。

■1675年 – ホイヘンスが『(収差を)補正された望遠鏡』(Astroscopia Compendiaria )を発刊、この中で空気望遠鏡を解説。

★空気望遠鏡(くうきぼうえんきょう、又は空中望遠鏡)とは、17世紀後半に開発された天体望遠鏡の1種である。

対物レンズと接眼レンズが大きく離れており、鏡筒がない構造のものを指す。

対物レンズは高い柱などに取り付けられる。

観察者は手元に置いた接眼レンズを対物レンズに向けて観察する。

対物レンズと接眼レンズはワイヤーで連結されており、対物レンズはボールジョイントで固定されているため、観察者はワイヤーを使って望遠鏡の向きを調整することができる。

210フィート (64 m)の距離を持つホイヘンスの空気望遠鏡。

★17世紀から18世紀前半にかけて、高倍率の望遠鏡開発が進められたが、いいものはできなかった。

望遠鏡の倍率を上げるためにレンズを巨大化すると、画像にハロー(光輪)が生じて画質が低下するためである。

人々は、ハローの原因が、光の屈折率が波長ごとに異なるため、すなわち色収差によるものであることを突き止めた。

そして、色収差を悪化させずに観察対象の大きさを2倍にするためには、焦点距離を4倍にしなければならないことも理解した。

これを解決するため、ポーランドの天文学者ヨハネス・ヘヴェリウスは、150フィート (46 m)の鏡筒を持つ天体望遠鏡を作っている。

ヨハネス・ヘヴェリウスの1673年の著書『天文機械(Machina coelestis)』に掲載された巨大望遠鏡。8インチ (200 mm)のレンズを使うために150フィート (46 m)の焦点距離を設けている。

(このヘヴェリウスの望遠鏡も、完全な鏡筒を持っているわけではないので、空気望遠鏡とされる場合もある。)しかし、このような鏡筒を支えるためには、巨大な柱とクレーンが必要だった。

この構造では、望遠鏡の向きを大きく変えることができず、微風でも大きく振動し、時には壊れてしまうこともあった。

空気望遠鏡の登場
1675年ごろ、クリスティアーン・ホイヘンスは兄コンスタンティンとともに、鏡筒をなくすことで、焦点距離を非常に長く取った望遠鏡を作った。

空気望遠鏡の登場である。長い柱の上に対物レンズを取り付け、観察者の手元に接眼レンズを置き、対物レンズと鏡筒レンズをワイヤーで繋いで一直線に並べた。

対物レンズと接眼レンズにはごく短い鏡筒が取り付けられているが、その途中に鏡筒に相当する部品が無い。

また、対物レンズの高さが変えられるよう工夫されていた。

対物レンズはボールジョイントで固定してあるため、ワイヤーで向きを変えることができた。弟のクリスティアーンは、この望遠鏡を、1684年に出版した本「Astroscopia Compendiaria」(収差補正望遠鏡)の中で紹介している。

なお、似たデザインの望遠鏡をアドリアン・オーズーやクリストファー・レンも考案している。

ホイヘンスは天体観測のため、いくつかの工夫をしている。

例えば、明るい惑星を観察するために、像を白い厚紙、あるいは油を塗って半透明にした紙の上に投影させた

。似た工夫をフィリップ・ド・ラ・イールやニコラース・ハルトゼーカーも記録に残している。

空気望遠鏡は焦点距離を長く取れる。

クリスティアーン・ホイヘンスらが1686年に作った空気望遠鏡の対物レンズ直径/焦点距離は、200mm/52m、220mm/64mだった。

ホイヘンスはさらに、1690年にロンドン王立協会に190mm/37.5mのものを提案している。

一方、アドリアン・オーズーらは焦点距離90~180メートルのものを作っており、さらには、月に住む動物を観察するためとして、100フィート (30 m)のものを提案している。

■1671年【パリ天文台】フランスの国際貿易と海上交通が活発化した17世紀に、ジャン=バティスト・コルベールの野心的計画から実現した。

1667年、ルイ14世の治世に建設が始まり、1671年に竣工した。

パリ天文台

建設を担当したのはコルベールの秘書で公共事業の統括責任者シャルル・ペローと建築家クロード・ペロー **とみられるが、この2人は兄弟である。

光学機器はジュゼッペ・カンパーニ **が製作した。

建物は1730年、1810年、1834年、1850年、1951年に拡張された。最後の増築時にはジャン・プルーヴェデザインの子午線室が設置された。

パリ天文台の子午線室(別名カッシーニ室)。パリ子午線が床面を走る

パリ天文台は世界初の国の海事暦 Connaissance des temps **を1679年に出版したが、ここでは海上の船乗りが経度を確定する手段として木星の衛星による食現象を利用した。

1863年、パリ天文台は初の近代的気象図を出版した。

1882年には口径33cmの屈折天体写真儀を設置、国際協力による星表 Carte du Ciel ** プロジェクトの先鞭をつけた。

1913年11月にパリ天文台はエッフェル塔をアンテナとして使い、アメリカ海軍天文台と無線信号(電波)を交換して、2地点間の正確な経度差を決定した。

■1675年 -ホイヘンスがヒゲゼンマイのついたテンプ時計を製作、これが一般に「世界初の実用的な機械式時計」と言われている。

■1675年 – カッシーニが土星の輪は複数の輪で構成されていることを発見(A輪とB輪の隙間にはカッシーニの間隙と名付けられた)。

■1675年 グリニッジ天文台(グリニッジてんもんだい、英: Royal Observatory, Greenwich、旧称: Royal Greenwich Observatory)は、ロンドン郊外グリニッジ地区のテムズ川河畔グリニッジ・パーク内に存在する天文台。

ロンドン中心部から東におよそ5km、テムズ川河畔からは南におよそ800mの丘に建てられている。

1675年にイングランド国王チャールズ2世が設立した王立天文台で、初代天文台長はジョン・フラムスティード。

1957年にイースト・サセックスのハーストモンソーに移転し、「グリニッジ旧王立天文台」となった。

1990年にケンブリッジに移転した後、1998年に閉鎖され、再び「グリニッジ王立天文台」と呼ばれるようになった。

現在は観測機器はなく、史跡として維持されている。

グリニッジ天文台。八角形の建物の頂上に報時球がある

1851年に台長エアリーが本館(当時)に子午環を設置し、窓の中心を基準として観測を行い、この地点(グリニッジ子午線上)の平均太陽時であるグリニッジ平均時を定めていた。

その後、世界共通の経度の基準(経度0度、本初子午線)と定められ、世界の経度および時刻の基準を担っていた。1833年に設置された報時球は現在も稼働している。

かつてグリニッジ子午線の基準になっていた、グリニッジ天文台旧本館北面の窓。現在の本初子午線はこの窓の中心から東に約102.5mの位置を通過している。

なお、現在では、エアリーの子午環は、正確には本初子午線ではなくなっている。

本初子午線は、エアリーの子午環から東へ、角度 5.301 秒、距離にして102.478 m の位置を通過している。

近隣のブラックヒースには、ジェームズ1世 (イングランド王)が1608年に最初7ホールを造らせたゴルフクラブがある。これは今も超一流コースとして利用されている。

★15世紀後半からヨーロッパ各国による海外進出を競う、大航海時代を迎えていたが、当時はまだ、運に任せた危険な航海が多く、海難事故が相次いでいた。

この競争を制するため、航海術の向上にいち早く取り組み、海洋国家として世界に進出を図っていたイングランドは航海の支援を目的として、天文台を建設した。

外洋の航海には正確な緯度と経度の計測が不可欠で、見渡す限りの海で緯度の計測基準となったのは星であった。

北極星の位置や見える角度から、船は緯度を割り出すことができた。

一方経度の測定には正確な時刻を知る必要からクロノメーターが開発されるとともに、時刻の基準すなわち「経度の基準」が必要になった。

■1679年にドモンド・ハレーが、南半球から見える341個の恒星について詳細に記録した『南天星表』(Catalogus Stellarum Australium) を発表する。

既存の星図にこれらの南天の恒星を追加したハレーの業績は、ティコ・ブラーエの観測データに並ぶものとして高く評価された。彼はオックスフォード大学の修士号を取得し、王立協会フェローに推薦された。

■1680年 – カッシーニが月面図を作成。

■1684年 – カッシーニが土星の衛星ディオネを発見。
同上年 – 土星の衛星テティスを発見。

★イタリア出身でフランスの天文学者、ジョヴァンニ・カッシーニは、マルリーの機械の付属施設として木造の塔を作り、後にパリ天文台の敷地に移した。

そして、この塔の頂上に対物レンズを置き、空気望遠鏡を作った。対物レンズはイタリアのレンズ職人ジュゼッペ・カンパニアに作らせたものである。

カッシーニはこの空気望遠鏡を使い、1684年、土星の衛星ディオネとテティスを発見した。

マルリーの塔として建てられた空気望遠鏡。

■1687年【プリンキピア】サー・アイザック・ニュートン(英: Sir Isaac Newton、1642年12月25日 – 1727年3月20日、グレゴリオ暦:1643年1月4日 – 1727年3月31日)は、イングランドの自然哲学者、数学者、物理学者、天文学者、神学者。

1689年のニュートン(ゴドフリー・ネラー画)

おもな業績としてニュートン力学の確立や微積分法の発見がある。1717年に造幣局長としてニュートン比価および兌換率を定めた。ナポレオン戦争による兌換停止を経て、1821年5月イングランド銀行はニュートン兌換率により兌換を再開した。

ラテン語の主著『Philosophiae Naturalis Principia Mathematica』(1687年7月5日刊、和訳名『自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア)』)の中で、物質の量(現在の質量)、慣性、運動量、力などの概念を定義し、絶対的空間の概念を説明した上で、運動方程式などの運動の3法則と万有引力の法則について述べ、数学を用いて(現代的な微分積分学は用いていない)、古典力学(ニュートン力学)を創始。

これによって実験的に示された地上の物体の運動と、観測によって得られた天体の運動を統一的な理論によって説明し、予測可能である事を示した。光学において光のスペクトル分析などの業績も残した。ニュートン式反射望遠鏡の製作でも有名である。

1672年に王立協会のために作った6インチ反射望遠鏡のレプリカ

ニュートンは、地球と天体の運動を初めて演繹的に示し、太陽系の構造について言及した。また、ケプラーの惑星運動法則を力学的に説明した一人であり、天体の軌道が楕円、双曲線、放物線などの円錐曲線になる事を示した。

また、働く力に対する、物体の抵抗度合いの量である慣性質量と、物体に働く万有引力の大きさを決定する、物体固有の量が比例関係にある事を指摘した(これにより、地上の物体の自由落下で、物体の質量に関わらず加速度が一定になる事を説明できる)。

色彩理論に関して、白色光は、それ以上分光できない単色光の混合色であり、白色光がガラスなどを通過して屈折した際に虹色になるのは、各単色光の屈折率の違いによるものであるとして、この事をプリズムを用いた実験により確かめた。

光の粒子説を唱えたが、古典的な意味では誤りだった 。1704年に英語で『光学』を発表。

■1690年 – ホイヘンスが『光についての論考』を発刊、この中で光の波動説を提唱した。

■【地球空洞説】1692年にエドモンド・ハレーが
極地方の変則的な磁気変動を説明するために地球空洞説を考案、イギリス学士院で「地球空洞説」を発表した。

ハレーの提唱した空洞地球のモデル。地球内部にはひとつの中心核と二層の中空の球核があり、それらが空気を挟んで隔てられて浮かんでいるとした。 Rick Manning – Image:Edmund Halley Hollow Earth.png by JiFish, CC 表示-継承 2.5, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1814241による


これは、「水星と同じ直径の中心核と、金星および火星と同じ直径で厚さ500マイルの同心球状の二つの内核とからなる空洞地球」、という説であった。これらの殻同士は空気の層で切り離され、各々の殻はそれぞれ磁極を有しており、さらに異なる速度で自転しているとされた。


また、この説では、「地球内部は明るく、おそらくは居住可能であること」、さらに「そこから逃げてくる発光性ガスによって、揺らめくオーロラが生じる」とされた。

★エドモンド・ハレー(英語: Edmond Halley, 1656年10月29日 – 1742年1月14日)は、イギリスの天文学者、地球物理学者、数学者、気象学者、物理学者。

ハレー彗星の軌道計算を初め、多くの科学的業績で知られる。

■渋川春海や司馬江漢が西欧のものを真似て地球儀を作成し、本木良永も地球球形説を支持した。江戸末期、静岡の角田櫻岳が地球儀を作成した。

現存する日本製の最古の地球儀。渋川春海作。1695年製。(画像は国立科学博物館展示のレプリカ)
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■1700年頃にオランダのファルクが作成した地球儀が世界中で用いられ、日本の平戸藩主松浦静山が入手した実物が現在も松浦史料博物館に保管されている。

■1705年にエドモンド・ハレーは古天文学の手法を用いて、有名なハレー彗星についての予言を記した Synopsis Astronomia Cometicae(『彗星天文学概論』) を発表した。

これは1682年にハレー自身が観測した彗星と、ケプラーなどが観測した過去の大彗星の軌道の比較を行ったものである。

ハレーはこの著書で、1456年、1531年、1607年、1682年に現れた彗星は同一の天体であり、次は1758年に回帰することを予言した。

ハレー自身はこの回帰を待つことなく85歳で亡くなったが、予言の通り彗星は発見され、これによってこの彗星はハレー彗星 (Halley’s Comet) と呼ばれることとなった。ハレー彗星は、惑星以外で太陽系を公転する天体が初めて確認された例でもあった。

ハレー彗星

■1718年にエドモンド・ハレーは恒星の位置測定データを古代ギリシャ時代の観測記録と比較して、それまで不動であると考えられていた恒星の固有運動を発見した。

■1720年【地球の大きさと形状】ジャック・カッシーニ(Jacques Cassini、1677年2月18日 – 1756年4月8日)は(ジョヴァンニ・カッシーニの息子)1713年からフランスを南北に縦断するダンケルクと、ペルピニャン間と東西に横断する測量を行い、その結果を『地球の大きさと形状』(De la grandeur et de la figure de la terre、1720年)として発表した。

測量結果と、当時支持者のあったデカルトの渦動説(星や惑星の自転や公転を流体の接触力から説明する説)からカッシーニは地球が南北に長い回転楕円体(長球)であるとした。

ブーゲーら、ニュートンの理論から予想される南北に扁平な回転楕円体(扁球)であるとする人々と論争となり、後に1735年、科学アカデミーによってラップランド(トルネ谷)とペルーへ測量遠征隊が派遣され、実際に子午線弧長の測量が行われることになり、ニュートンの理論の正しいことが証明されることになった。

■空気望遠鏡は、操作が困難だった。そのため、天文学者は新しい構造の望遠鏡を模索した。

1721年、イギリスの天文学者ジョン・ハドリーは、改良したグレゴリー式望遠鏡を王立協会で発表した。

グレゴリー式望遠鏡は反射望遠鏡の1種で、レンズを使わないため色収差が起こらない。

しかし代わりに凹面鏡が必要で、この正確な研磨が難しく、それまでは高倍率のものを作ると球面収差で像がぼやけてしまっていた。

ハドリーはこの作製に成功し、主鏡サイズ6インチ (150 mm)のものを作り出した。

協会メンバーのジェームス・パウンドとジェームズ・ブラッドリーが、この望遠鏡と7.5インチ (190 mm)レンズの空気望遠鏡と比較した。

結果、画像が空気望遠鏡よりも明瞭であると判明した。

■イギリスの天文学者ジェームズ・ブラッドリーは1722年12月27日、焦点距離212フィート (65 m)の空気望遠鏡を使って金星の直径を測定した。

■ジェームズ・ブラッドリー(James Bradley, 1693年3月 – 1762年7月13日)は、イギリスの天文学者。

エドモンド・ハリーの後任としてグリニッジ天文台の第3代台長を務めた。光行差や章動を発見した業績でも知られる。

最も有名な彼の業績は1728年の光行差の発見である。

1725年よりロンドン郊外に望遠鏡を設置し、りゅう座γ星(ロンドンの天頂を通過する)を観測し続けた。ブラッドリーはこの星の赤緯変化から年周視差を発見できると期待していたが、測定結果は光行差の存在を示すものだった。またこの結果から光速度を約301,000km/sと計算した。

1748年、ブラッドリーは、現在では「主要章動」と呼ばれる18.6年周期の章動を発見した。

これは、光行差の検証のために1727年から1747年にかけて20年間りゅう座γ星の観測を続けてきた副産物であった。また長年に渡って精密な観測を続け星表を出版し、位置天文学の基礎を作った。

彼の功績を称えて、小惑星 (2634) ジェームズ・ブラッドリーが彼の名を取り命名されている。

【光行差(こうこうさ)(Aberration of light)】とは、天体を観測する際に観測者が移動しているために、天体の位置が移動方向にずれて見えるとき、そのずれを指す用語である。

1728年、イギリスの天文学者ジェームズ・ブラッドリーが発見した。

■グリニッジの初代天文台長フラムスティードによってまとめられた「ブリタニカ星表」が1725年に出版。

■イタリアの科学者フランチェスコ・ビアンキーニは1726年にローマで、直径2.6インチ (66 mm)、焦点距離100フィート (30 m)の空気望遠鏡を使って金星表面の地図を作製した。

■八分儀(はちぶんぎ、Octant)は天体や物標の高度、水平方向の角度を測るための道具。測量や航海に用いられ、弧が45°(360°の八分の一)であるところからこの名がついた。測定には平面鏡の反射を利用しており、45°の弧に90°までの目盛りが書き込まれている。

八分儀 CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=432923

この機器にちなんだ、はちぶんぎ座という星座がある。

1730年、ジョン・ハドリーによってこの機器が開発され、1732年に王立協会へ提出された。

後に、月の正確な運行表が作られると、これを利用して経度を知るためには90°を超える月と星の角度を測らねばならなかったため、八分儀よりも大きな角度を容易に測定できる六分儀が普及していった。

■航海用六分儀が、1731年頃にジョン・ハドリー(1682年-1744年)とトーマス・ゴッドフリー(英語版)(1704年-1749年)によって最初に実装された。

アイザック・ニュートン(1643年-1727年)が未発表の書簡の中で六分儀の原理に触れていることも後に発見されている。

★六分儀(ろくぶんぎ、英語: sextant)は、2つの視認可能な物体間の角距離(=見かけの角度的なへだたり)を測定するために用いられる道具であり、反射計器の一種である。

8インチの海上海洋の船長の六分儀 – 真鍮の航海の六分儀。 C-3083
六分儀の使用

■1735年5月

18世紀に科学界とりわけフランス科学アカデミー(Académie des sciences)において地球の形状が極軸に対して扁球状か長球状であるかに関して大きな論争が巻き起こっていた。

フランスの天文学者であるジャック・カッシーニは地球の形状は極軸方向に長いという説を支持していた。

フランス国王ルイ15世と学士院は答えを出す為に二つの探検隊を派遣した。

一方は北極に近いラップランドのトルネ谷へスウェーデンの物理学者であるアンデルス・セルシウスとフランスの数学者であるピエール・ルイ・モーペルテュイの率いる探検隊が派遣され、もう一方の調査隊は赤道のエクアドルへ派遣された。

パリではそれまでにカッシーニと他の人々が正確な測量を行っていた。

1735年5月にエクアドル調査隊はフランスを離れた。コロンビアのカリブ海岸に上陸してパナマに向け出帆し、陸地を横断して太平洋からスペインによってキト植民地と呼ばれたエクアドルに向けて航海を続けた。

エクアドルでは2つのグループに別れ熱帯雨林を超えて1736年6月にキトに到着した。

ブーゲー、ラ・コンダミーヌ、ゴダンと彼等の同僚達はエクアドルのキト付近の平原から南のクエンカの町までの地球の子午線弧の曲率を測定した。これらの測量によって初めて国際的なメートル法で測定された正確な地球の大きさが確認された。

1739年にエクアドルでの緯度3度に相当する子午線弧の長さを測定する測量が完了した。

ラップランドに派遣されたモーペルテュイの調査隊は既に調査を終えて帰国していて地球が極方向に扁平な回転楕円体である事も明らかになったという報告が届いていたが、天文観測における問題は彼等をエクアドルに更に数年留まらせた。

★デカルトの説では、宇宙に渦巻く微小物質に押されて地球の形は極方向に伸びた回転楕円体(長球)になる。一方、ニュートンの説では、遠心力により地球は赤道付近が膨らんだ回転楕円体(扁球)になる。

測量結果はニュートンを支持するものとなり、これを機にヨーロッパ大陸でも急速にニュートン力学が普及していき、デカルトの自然学は影響力を失っていった。

■ニコラス・クリミウスの地下世界の旅 (Nicolai Klimii iter subterraneum)(1741年)
デンマークのルズヴィ・ホルベアの風刺的小説。

主人公のニコラスは洞窟探検中に穴に落ち、地球内部の空洞へ行く。地球内面の国や、空洞内を回る惑星で奇妙な社会を見聞し、地底人の政治闘争に巻き込まれる。

ユートピア旅行記叢書〈第12巻〉ニコラス・クリミウスの地下世界の旅・テリアメド

■【1750年から約2年間にわたり、ローマ-リミニ間の緯度差2度に相当する子午線弧の測量】

★ルジェル・ヨシプ・ボスコヴィッチ または ルッジエーロ・ジュゼッペ・ボスコヴィッチ(Rugjer Josip Bošković 、1711年5月18日 – 1787年2月13日)はアドリア海沿岸の都市ドゥブロヴニク(当時はラグーサ共和国)に生まれたイエズス会司祭、天文学者、物理学者、数学者である。イタリア、イギリス、フランスで活躍した。

物質の力を起因を点状の均一な原子に還元する考えを1758年の『自然哲学の理論』に著し、後の原子論者に影響を与えた。

幼い頃から才能を示し1725年に教育のためにローマに送られ、グレゴリアン大学(当時は Collegium Romanum)で学び、1740年には数学の教授に任じられた。

1750年から約2年間にわたり、ローマ-リミニ間の緯度差2度に相当する子午線弧の測量に従事した。

1764年にパヴィア大学の教授となり、ブレラ天文台(イタリア語版、英語版)を設立した。1773年から1783年の間はフランス国王に招かれてパリで暮らした。ミラノで没した。

大陸におけるニュートンの万有引力の法則の最初の支持者の一人であり、70冊の光学、天文学、重力の理論、気象学、幾何学の著書を著した。科学的な活動のほかに、外交的な仕事でウィーン、ロンドンなどヨーロッパ各地で活動した。

■マイヤーは1752年に月と太陽の運動に関する表(月行表)発表し、これを使えば経度法に定める範囲で経度を測定できると思った。

レオンハルト・オイラーはマイヤーの表を高く評価し、表の数式化などに協力した。そしてマイヤーは1755年、この月行表を、経度委員であった海軍のジョージ・アンソンに送った。

その後この表はハレーの後任の天文台長であるジェームズ・ブラッドリーの手に渡り、調査が行われた。ブラッドリーは1758年に調査の結果として、この表は2分の1度以内の精度で経度を求めることができると報告した。

こうして月距法に必要な3要件が出そろった形となり、委員会は詳細な審査を開始した。しかし七年戦争などの影響でその裁定は遅れ、マイヤーは結果を待たずして1762年に死去した。

■1759年開館 (1753年設立)大英博物館(だいえいはくぶつかん、英: British Museum)は、イギリス・ロンドンにある博物館である。

世界最大の博物館の一つで、古今東西の美術品や書籍や略奪品など約800万点が収蔵されている(うち常設展示されているのは約15万点)。

収蔵品は美術品や書籍のほかに、考古学的な遺物・標本・硬貨やオルゴールなどの工芸品、世界各地の民族誌資料など多岐に渡る。

イギリス自身のものも所蔵・展示されている。余りに多岐にわたることから、常設展示だけでも一日で全てを見ることはほぼ不可能である。

大英博物館の話 (中公文庫)

★大英博物館の起源は、古美術収集家の医師ハンス・スローンの収集品にさかのぼる。

医師であり、個人としては当時最大の博物学的収集品を持つ収集家であったスローンは遺言で彼の死後、収集した美術品や稀覯書8万点の収蔵品を総合的に一括管理し一般人の利用に供することを指示した。

管財人達はイギリス議会に働きかけ、議会はすでに国に所有されていたコットン蔵書と、売りに出されていたハーレー蔵書を合わせて収容する博物館を設立することを決定した。

博物館の設立には宝くじ売り上げが充てられることになり、1753年に博物館法によって設立され、一般向けには1759年1月15日に開館した。初代館長は著名な医師で発明家でもあったゴーウィン・ナイト (Gowin Knight)。

当初はモンタギュー・ハウスで開設していたが展示品が増えるにつれて手狭になり、1823年にジョージ4世が父親から相続した蔵書を寄贈したことが契機となってキングズライブラリーが増設された。

1857年には6代目館長(主任司書)アントニオ・パニッツィの下で、現在も大英博物館を象徴する建造物となっている円形閲覧室が中庭の中央部に建設された。

しかし収蔵品の増加に追いつかないため、1881年に自然史関係の収集物を独立させた自然史博物館がサウス・ケンジントンに分館として設立された。

■ネヴィル・マスケリンは月距法に傾倒し、マイヤーの表をもとに研究を続けた。そして1761年、金星の日面通過の観測のためセントヘレナ島へ向かい、その時に月距法を用いた経度測定を行った。

日面通過の観測は天候の関係で上手くゆかなかったが、経度の測定には成功した。

これによりマスケリンは月距法に対する信頼を深め、1763年、マイヤーの理論を元にした『英国航海者ガイド』を出版した。

1765年、マスケリンの本を参考にして経度を測定した4人の船員は、全員が、誤差は1度以内だったと証言した。ただしこの方法は計算が厄介で算出するのに4時間かかることが難点であった。

■【経度の測定】クロノメーターH-4を使用した2度目の試験航海も1764年に行われた。

この時にH-4で測定したポーツマス-バルバドス間の経度は、木星衛星の食を使って求められた値と比較され、その誤差は8.5地理マイルであった。

これは経度法の規定を3倍以上上回る高い精度であった。

委員会は、H-4の性能についてはようやく認めたが、ハリソンが賞金を全額受け取るには、今までのクロノメーターを全部提出し、そしてH-4の機構を公開したうえで、複製を2個作らなければならないと要求した。

こうしてハリソンと経度委員会の関係は悪化していったが、1765年にマスケリンがグリニッジ天文台長に就任したことで、委員会のハリソンに対する圧力はさらに強まることとなった。

また、マスケリンは天文台長に就任した翌年から、『航海暦(The Nautical Almanac)』を毎年出版した。

『航海暦』には3時間ごとの月と太陽の位置が記されていた。このマスケリンの活動により、月距法を使った経度測定は使い勝手が良くなり、算出にかかる時間も4時間から30分に短縮された。

■【地球空洞設】レオンハルト・オイラーが1770年頃にとなえた。
スイスの数学者。「オイラーの公式」や「オイラーの多面体定理」で知られる。こちらは多重球殻を採用せず、「地球内部の高度な文明を照らす、一個の内部太陽」を仮定した。

オイラーの提唱した空洞地球のモデル。地球の中心には直径1000kmほどの輝く星があるとした。 Rick Manning – Image:Hollow earth Leonhard Euler.png by JiFish, CC 表示-継承 2.5, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1814443による

■【地球空洞設】

ジョン・レスリーが1770年頃に唱えた。
スコットランドの物理学者。地球内部に2つの太陽(連星。それぞれプルートとプロセルピナ(ペルセポネ)と名づけられた)を持つモデルを発表。

■1781年3月13日 ハーシェルがバースのニュー・キング・ストリート19番地にある自宅で天王星を発見。

★サー・フレデリック・ウィリアム・ハーシェル(Sir Frederick William Herschel, 1738年11月15日 – 1822年8月25日)は、ドイツのハノーファー出身のイギリスの天文学者・音楽家・望遠鏡製作者。

ドイツ語名はフリードリヒ・ヴィルヘルム・ヘルシェル(Friedrich Wilhelm Herschel)である。天王星の発見や赤外線放射の発見など、天文学における数多くの業績で知られる。

★その他の天文学上の業績
ハーシェルは後半生に土星の2個の衛星、ミマスとエンケラドゥスを発見し、天王星の衛星チタニアとオベロンも発見している。

2010年にカッシーニが撮影したミマス。
右上のクレーターはハーシェルクレーター
エンケラドゥス
Enceladus
ボイジャー2号が撮影したチタニア
ボイジャー2号が撮影したオベロン。中央の黒点は衛星中最大のハムレットクレーター。

これらの衛星の名前はハーシェル自身によってではなく、息子のジョン・ハーシェルによってウィリアムの死後の1847年と1852年にそれぞれ命名された。

ハーシェルは星雲の大規模なカタログを編纂する仕事にも取り組んだ。また、二重星の研究も続け、二重星の多くがそれまで考えられていたような見かけの二重星ではなく、実際に連星であることを最初に発見した。

このことは、天体のケプラー運動が太陽系外でも成立していることを示唆した先がけであった。

恒星の固有運動の研究から、ハーシェルは我々の太陽系が宇宙空間の中を運動していることに初めて気づき、その運動のおよその方向を求めた。

また、天の川の構造を研究し、天の川を構成する星々が円盤状に分布することを明らかにした。

ハーシェルが恒星の計数観測に基づいて描いた天の川銀河の構造

天の川を直径約6,000光年、厚み1,100光年とし、太陽がほぼ中心に位置していると考えた。ハーシェルの天の川銀河のモデルは、すべての恒星の実際の光度が皆等しく見かけの光度がその星までの距離のみに依存する(距離の二乗に逆比例)と仮定し、また比較的明るい星のみを数えたので、現在知られている天の川銀河の直径(約10万光年)の約20分の1のサイズとなった。

ハーシェル自身は天の川銀河(=当時認識では全宇宙)の大きさを絶対的な距離では表現しておらず、全天で一番明るい、したがって「すべての星の実際の光度は同じ」という仮定の下では太陽系に一番近いことになるシリウスまで距離を単位として、直径850、厚み155とした。

現在では、もちろんハーシェルが彼の宇宙モデルの基礎にした「すべての星の実際の光度は同じ」や恒星の空間密度分布が一様であるという仮定は誤りであることが知られている。

しかし、当時は個々の星までの正確な距離や実際の光度が知られていなかったにも関わらず、夜空を600以上の区画に分けて見える星の数と明るさを記録するという地道で根気のいる作業で定量的に解析した成果であり、現在でも天の川銀河の形状などを解説するときに必ず引き合いに出される偉大な業績である。

ハーシェルはまた「星のような」を意味する asteroid という語を発明した(これはギリシャ語の asteroeides に由来し、aster は「星」、-eidos は「形」を意味する)。

1802年に惑星の衛星や小惑星が恒星に似た点光源的な様態を示すことを表す際にこの語を用いた(これに対して惑星は全て円盤状に見える)。この年の3月にはヴィルヘルム・オルバースが歴史上2個目の小惑星であるパラスを発見している。

2007年にハッブル宇宙望遠鏡が撮影したパラス

ハーシェルは数多くの重要な科学的発見を行なったが、反面、荒唐無稽な推測も嫌うことがなかった。ハーシェルは、全ての惑星、さらには太陽にすら生命はもちろん文明が存在すると考えていた。

太陽は低温の固い表面を持ち、不透明な雲の層がこの表面を高温の大気から守っているとし、この奇妙な環境に適応した様々な生物種がその上に生息すると考えていた。またハーシェルは太陽系の惑星の配置を彼が傾倒していた音楽理論と結びつけるなど、現代の天文学以前の世代の存在であることも確かである。

★赤外線放射の発見
1800年頃にはハーシェルは赤外線放射を発見している。

彼は太陽光をプリズムに透過させ、可視光のスペクトルの赤色光を越えた位置に温度計を置く実験を行なった。

この実験で温度計の温度は上昇し、このことから彼は、赤色光の先にも目に見えない光が存在すると結論づけた。

■ハーシェルはその生涯で400台以上の望遠鏡を製作した。その中でも最大で最も有名な望遠鏡は焦点距離40フィート(12m)、口径49 1/2 インチ (126cm) の反射望遠鏡(40フィート望遠鏡)である。

1789年8月28日、この大望遠鏡を使っての初観測で彼は土星の新たな衛星エンケラドゥスを発見した。

この発見から1ヶ月も経たないうちに彼はもう一つの新衛星ミマスも発見した。

しかしこの40フィート望遠鏡は非常に扱いにくかったため、ハーシェルの観測の多くはより小さな焦点距離20フィート (6.1m) の望遠鏡を使って行なわれた。ハーシェルは望遠鏡の口径の一部を覆い隠すことによって非常に高い角分解能が得られることを発見した。

この原理は今日の天文学における干渉法の基礎をなすものである。なお、40フィート望遠鏡は老朽化により1839年に息子ジョンにより解体され、現在は反射鏡と鏡筒の一部のみが保存されている。

■麻田 剛立(あさだ ごうりゅう、享保19年2月6日(1734年3月10日) – 寛政11年5月22日(1799年6月25日))は、江戸時代の日本の天文学者である。

近世日本科学史と麻田剛立

ケプラーの第3法則を独自に発見したとされ、その内容は『五星距地之奇法(間重富の記述によると、五星距地之奇法の発見は、寛政の初年(寛政元年は1789年)ということである。)』に記されている。

既にケプラーの(第1・第2)法則については漢籍によって日本にも伝来している時代であり、後述の通りケプラーの法則を使っての研究もしていることから、この麻田の独創については疑問視する意見もある。

ただ、麻田は惑星の軌道を円と考えて「惑星の公転周期の2乗が軌道の半径の3乗に比例する」としており、つまりこの時点でケプラーの第1法則を知らなかったため、事実誤認が含まれているとはいえ、麻田の独創性については間違いは無い。

宝暦13年(1763年)に、ケプラーの法則を用いて、官暦にはない同年9月1日(旧暦)の日食を予言し的中。この日食は当時使用されていた宝暦暦に記されていなかったこともあり、麻田の名声を高めた。

明和8年(1771年)頃に豊後を離れて(この時に脱藩したため、追っ手の目を眩まそうと改名した)大坂に行き、そこで医師を生業としながら天文学の研究を続けた。

『崇禎暦書』を基盤に研究し、望遠鏡・反射鏡などの観測装置を改良し、理論を実測で確認、そして家暦である『時中法』を設けるなど、その手法は近代的であった。

オランダから輸入した初の高倍率グレゴリー式望遠鏡によって、日本最古の月面観測図を記す。安永7年(1778年)8年後に起こる日食の情報を三浦に手紙で送った際、その月面観測図を併記した。

この手紙は所在不明とされていたが、鹿毛敏夫が『月のえくぼ(クレーター)を見た男 麻田剛立』を書くにあたり資料を収集した際、現所蔵者と現物を発見した。

弟子に高橋至時・山片蟠桃・間重富らがいる。また中井竹山・中井履軒兄弟・三浦梅園とも交流した。

月のクレーターであるアサダは、麻田剛立の名に由来する。

月のえくぼ(クレーター)を見た男 麻田剛立 (くもんの児童文学)

■フランツ・フォン・グルイテュイゼン(Franz von Paula Gruithuisen, 1774年3月19日 – 1852年6月21日)はドイツの医師、天文学者である。

バイエルン選帝侯領(のちバイエルン王国、現バイエルン州)のハルテンベルク城 (Burg Haltenberg) の貴族(男爵)の家に生まれた。

外科医の教育を受け、医者として尿道結石を除去する技術や、道具の工夫で知られた。

1808年から、医学、自然科学を教え始め、講義が評判となって、1828年にミュンヘン大学の天文学の教授に任命された。

当時の人々と同じように月に人が住んでいると信じており、何度か月を観測し、シュレーター・クレーターの北部に直線的な魚の骨状の地形があり、これを街と砦であると発表した。

しかしながら、この説は当時から懐疑的にとらえられており、後年のより強力な望遠鏡を用いた観察によって否定された。

グルイテュイゼンは三日月状に見える時の金星の先端に明るい点を発見し、月のクレーターが隕石の衝突が原因であると主張した。

また金星の太陽の光が当たっていない部分の発光現象(アシェン光)が金星の住民の火祭りの光だと提唱した。

■1809年 – ガウスが『天体運行論』出版 最小二乗法を用いたデータ補正、正規分布。

★1809年にガウスは Theoria motus(『天体運行論』)の中で彼の主要な研究であった最小二乗法の振る舞いについて記す。

これは現在の科学ではほぼすべての分野で観測等の誤差を含むデータから推定値を求める際の計算法として用いられている。

また、誤差の分布に対してある程度の仮定を設けることで正規分布が導かれることや、正規分布に基づいて最小二乗法による推定の良さ(今日の最尤推定)が導かれることなどを証明した。

これについての論文は1805年にアドリアン=マリ・ルジャンドルが発表していたが、ガウスはこの理論に1795年には到達していた(ただし、これがルジャンドルとの先取権を巡るいざこざの原因となり、面倒を嫌うガウスの秘密主義を招いたとも言われる)。

■【地球空洞設】アメリカ陸軍の大尉ジョン・クリーブス・シムズが1818年に
『同心円と極地の空洞帯』という本で、地球空洞説をとなえた。

“John Cleves Symmes Jr and His Hollow Earth” by John J. Audubon, 1820

これによると「地球は厚さ800マイル (1,300km)、各々の両極に直径1400マイル (2,300km) の開口部を持つ五層の同心球である」とされ、地表の海はそのまま裏側にまでつづいているとされた。このシムズの説は、初期の地球空洞説のなかでも最も有名なものになった。

Symmes Hole, from Harper’s New Monthly Magazine, 1882


シムズは自説を裏付けるために北極の探検行を計画し、「自分は精神病者ではない」という医師の診断書までつけた500部の趣意書を、アメリカやフランスの政界、財界、学者に配布した。結局、費用が集まらなかったため、この北極探検は頓挫した。


1828年、ロシア皇帝から文書が届き、ロシア帝国主催の北極探険隊の隊長就任を要請される。しかし、シムズは1829年に死亡し、この計画には参加できなかった。現在、オハイオ州ハミルトンには、彼の地球空洞説を記念する碑が立っている。

★1826年にアメリカのジェームズ・マクブライトは、シムズの講演を筆記して『シムズの同心球理論』(Theory of Concentric Spheres) を出版。

■シムゾニア・ある発見航海 (Symzonia: A Voyage of Discovery)(1823年)
アダム・シボーン大尉(Captain Adam Seaborn、アメリカ)の作品。

「地球内部には、2個の太陽と2個の月がある」と描写された。シムズの説を元にしたものであり、「著者の正体はシムズである」とするものが多かった。

■【地球空洞説】ハンス・プファールの無類の冒険 (The Unparalleled Adventure of One Hans Pfaall, 1835年、未完)

エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe、1809年1月19日 – 1849年10月7日)著

シムズの説を元にしている。超高空の気球から北極点の穴が観察されるシーンを描いた。

■1843年にドイツの天文学者ハインリッヒ・シュワーベが初めて黒点の数がおおよそ10年周期で増減をくりかえしていることを発見した。

この増減は太陽活動と密接な関係がある。1755年から始まる活動の山をサイクル1として、2011年現在はサイクル24に入ったところである。

太陽黒点の400年間の歴史。黒点の数をウォルフ黒点相対数 (en:Wolf number) の値で集計したもの。1790年から1820年ダルトン極小期1645年から1715年マウンダー極小期

■1845年『コスモス』(Kosmos) は、18-19世紀ドイツの地理学者・探検家アレクサンダー・フォン・フンボルトの著作で地理学の古典である。

1845年から1862年にかけ5巻が刊行された。蘭訳本はベイマルにより全5巻が1866年に出され、幕府が長崎経由で入手したと思われる本が、現在は国立上野図書館に所蔵されている。

ジョセフ・カール・シュティーラーによるAlexander von Humboldt und sein Kosmos(フンボルトとコスモス) (1843)

本書は近代地理学の研究史において古典と位置づけられる著作であり、特に植生についての知識に基づいた地理的関係の考察を基礎付けるものとして当時においては画期的な研究であった。

宇宙と太陽系、地球の生命現象について記述した第1巻(1845年刊)に始まり、自然科学の宇宙論の歴史を論じる第2巻、地球物理学を論じる第3巻と第4巻(1858年刊)まで発表したが、第4巻の続編となる第5巻は1859年にフンボルトが89歳で亡くなった時には半分しか完成しておらず、フンボルトの遺言により、助手のエドゥアルト・ブッシュマン(Eduard Buschmann)が遺されたノート(第3・4巻の補足と、1100ページのインデックス)を絶筆部分以降に付けて1862年に発表した。

本書は11の言語に翻訳され、自然地理学の基本概念を基礎付け、さらにフリードリヒ・ラッツェルやアルフレート・ヘットナーなどの後の研究者に影響を与えた。

フンボルトはまず宇宙、地球全体を観察できるように把握した後に個別の地域を研究することで有機的世界観を展開した。

宇宙における諸々の天体と地表面の生物の関係と人間の作用を自然法則に基づいて関連させており、フンボルトはこれを神学的な世界観と重ね合わせて体系化を試みていた。

フンボルトは気候界、地理界、そして生物界に地理的空間を概念区分して、特に生物学の知識に基づきながら等温線などの定量的調査などの方法を用いて経緯度や気象などの要因が植生と密接に関係していることを明らかにした。

このことで気温や降水などの気候的要因が自然地理学において重要であることを示した。

さらに自然環境と人間の関連についても明らかにしており、フンボルトは人間が生活できる地域をエクメーネと呼び、これは気象条件によって地理的に限定されていることを論じた。

■1848年 スミソニアン博物館(スミソニアンはくぶつかん、英:Smithsonian Museum [smɪθˈsoʊniən])は、アメリカを代表する科学、産業、技術、芸術、自然史の博物館群・教育研究機関複合体の呼び名。スミソニアン学術協会が運営している。

1848年、イギリス人の科学者ジェームズ・スミソンが「知識の向上と普及に」と委託した遺産を基金としてにつくられた。

スミソニアン博物館の本部であるスミソニアン・インスティテューション・ビルディングワシントンD.C.

スミソニアン協会が運営する19の博物館並びに研究センターの施設群であり、多くはワシントンD.C.の中心部にあるナショナル・モールに設けられているが、ニューヨーク市、バージニア州、アリゾナ州、メリーランド州や海外(パナマのスミソニアン熱帯研究所)に置かれたものも含まれる。収集物は1億4200万点にも及ぶ。

■1851年【フーコーの振り子】(フーコーのふりこ、仏: Pendule de Foucault、英: Foucault pendulum)は、地球の自転現象を示す演示実験である。

自転運動する物体上で、長い弦をもつ周期の長い振り子を長時間振動させると、次第に振動面が変化することが観察できる。

1851年、フランスのレオン・フーコーが考案し、パリのパンテオンで公開実験を行った。

フーコーの振り子の一例

★振り子を長時間振動させつづけると、その振動面が少しずつ回転する。

例えば、北極点の真上に振り子を置いて振動させると、振り子は一定方向に振動を続けるが、振動面は24時間で地球の自転方向とは逆向きに360度回転する。

これは振り子の振動面が支点を通る鉛直軸まわりの回転から影響を受けないために起こる。

振り子の錘は外力を受けなければ、いつまでも直線運動を続ける。

これは慣性の法則から明らかである。

一方、振り子の錘は支点に向かって力を受けているが、これは振動面の面内に働く力であり振動面を変える効果はない。

北極点におけるフーコー振り子のシミュレーション
ペンデル (Mサイズ)  振り子が描き出す砂の紋様

■1862年 ウィリアム・トムソン(のちにケルヴィン卿(Lord Kelvin))が地球の年齢を2000万年から4億年と概算。

初代ケルヴィン男爵ウィリアム・トムソン(英: William Thomson, 1st Baron Kelvin OM,1824年6月26日 – 1907年12月17日)

★1862年、トムソンはフーリエの熱伝導理論を用いて球の冷却速度を計算し、地球の年齢が数千万年、長くても4億年を越えることはないと結論した。

これは地球全体がどろどろに融けた状態から現在の温度に冷えるまでの時間を求めたものであった。

またトムソンは同年に、太陽の熱が重力収縮によって発生するとし、太陽の年齢を1億年未満、最大で5億年とした。

別々に計算した太陽と地球の年齢がおおむね一致し、トムソンの議論を説得力のあるものにした。

しかし、地質学の斉一説とは矛盾し、当時生まれたばかりの進化論を交えて一部の地質学者と論争になった。

トムソンの計算は、当時発見されていなかった放射性元素の崩壊熱や核融合のエネルギーが考慮されておらず、また地球内部の熱伝導率が場所によらず一定という仮定が誤っていたため、正しい値からは大きくずれていた。

現代では、トムソンの地球の年齢推定が大きくずれていた理由は、地球内部の対流により熱が表層よりも内部で速く伝わることを知らなかったことが大きく、放射性崩壊熱の影響は小さいとわかっている。

★ライト兄弟が空を飛ぶ数年前に、「空気より重い機械が空を飛べるわけがない」と言っていた。

彼の発言として記録に残っているものには、「電波には未来などない」や「X線はそのうちいたずらとわかるだろう」などもある。

■『気球に乗って五週間(Cinq semaines en ballon (1863) )』

気球に乗って五週間(ジュール・ヴェルヌ・コレクション) (集英社文庫) by [ジュール・ヴェルヌ, 手塚伸一]
気球に乗って五週間(ジュール・ヴェルヌ・コレクション) (集英社文庫)


ジュール・ガブリエル・ヴェルヌ(フランス語: Jules Gabriel Verne、1828年2月8日 – 1905年3月24日)は、フランスの小説家。ハーバート・ジョージ・ウェルズとともにサイエンス・フィクション(SF)の開祖として知られ、SFの父とも呼ばれる。

■地底旅行 (Voyage au centre de la terre)(1864年)
ジュール・ヴェルヌの小説。主人公たちはアイスランドの死火山の噴火口から地底世界に侵入し、巨大な地下空間で太古の植物や首長竜と遭遇する。

ただし本作では地中海に匹敵する巨大な空間は描かれるものの、地球空洞説を強く示唆する表現は無い。

地底旅行 (創元SF文庫)

De la Terre à la Lune (1865) 『月世界旅行』(『地球から月へ』 )

ジュール・ガブリエル・ヴェルヌ(フランス語: Jules Gabriel Verne、1828年2月8日 – 1905年3月24日)著。

月世界へ行く (新装版) (創元SF文庫)


★作中で提示される、月まで投射物を到達させるために必要な初速や、その際の飛行所要時間など、天体力学的な理論面にはおおむね不備がない。

着陸時にロケットを逆噴射する構想などにも先見性が見られる。

しかし270m程度の距離内で第二宇宙速度近くまで加速を行う場合、砲弾にかかる加速度の平均値は約2万Gとなり、人体は絶対に耐えられない。

作中で言及がある「対ショック姿勢」や緩衝材も、これほどの大加速度には無意味である。ただし前述の通り、この箇所についてはミスではなく意図的な考証無視である。

また砲身内の空気が一瞬では砲口から排出されないため砲弾は前方の空気と後方の火薬ガスに挟まれて潰れてしまうという問題がある。

それが解決されたとしても、大気圏を抜け出る前に砲弾は空力加熱で融けてしまう(→宇宙機の空力加熱については大気圏再突入に詳しい)。

無重力状態が月=地球の重力均衡点(ラグランジュ点参照)でしか実現されないという描写も正しくない。

推進力を発揮せずに宇宙飛行する(自由落下する)砲弾の内部は、常に無重力となる。

■【人工衛星】人工衛星がフィクション内で初めて描かれたのはエドワード・エヴァレット・ヘイルの短編小説、『レンガの月』である。この話はThe Atlantic Monthly にて1869年からシリーズ化された。

The Brick Moon from NASA archive

■【凹面地球モデル】アメリカの医師であり、自称錬金術師のサイラス・リード・ティード(Cyrus Reed Teed、1839-1908。別名コレシュ)は、1869年、凹面地球モデル『空洞宇宙起源論』を提唱し、「コレシュ・ユニティ」(Koreshan Unity) というカルトを設立した。

彼らのコロニーはフロリダ州の史跡として保存されていたが、ティードの信者は全員が故人となっている。

「凹面」地球のアイデア。画像の左上に、歩いている人の姿が小さく描かれている。つまり、外側の茶色の部分が地面で、内側にポッカリ開いた部分が空、という考え方。

■【地球空洞説】1868年にW・F・ライオンズ (W. F. Lyons) が『空洞地球』(Hollow Earth) を出版。
★1878年にシムズ(1818年に地球空洞説を唱えている)の息子アメリクス・シムズ (Americus Symmes) は、ライオンズの書籍に父親の名が抜けていることに激怒し、『シムズの同心球理論-地球が空洞であり内部は居住可能で、両極に広大な口があることの論証』を出版。

■1871年、海底ケーブルは日本とヨーロッパを結んだ。1874年に起きた金星の日面通過は、地理的に日本が観測に適していたので、欧米の観測隊が多数来日した。その時観測地の経度を求めるのに、このケーブルが使用された。

■【アガルタ】音楽学者・秘教史家のジョスリン・ゴドウィンによれば、アガルタ伝説の淵源はインドのフランス植民地シャンデルナゴルの裁判官であったルイ・ジャコリオ(フランス語: Louis Jacolliot)の著書『神の子』(1873年)に記された太古の太陽の都市アスガルタであり、これが実際にインドの伝承に由来するものであるかは疑わしい。

ゴドウィンは、アスガルタという名称はジャコリオと同時代のエルネスト・ルナンの言説において中央アジアに再建されると予言された北欧神話のアースガルズに類似していると指摘しており、両者の影響関係を示唆している。

アガルタ伝説の生成において重要な役割を果たしたのは、フランスの神秘思想家アレクサンドル・サン=ティーヴ・ダルヴェードルの著書『インドの使命』である。

同書において、アガルタは東洋のどこかで地下に隠れている国で、われわれよりも高度な技術文明をもち、理想的な共同統治が行われているとされた。

★アガルタは、地球(世界)の中心にある(またはそこから行き来できる)という、理想世界またはその都市の名称である。諸説あるが太陽に準じる光源と過酷な自然環境、それと共存する高度な科学文明と精神社会、超能力を含む超人的な特異能力を持つきわめて長寿な人類や動植物が描かれることがある。

天動説・地動説と並ぶ学説であった地球空洞説で強く支持され、また神智学や神秘主義の世界ではよく知られたテーマとなっている。実際に東西の多くの科学者や権力者、探検家がアガルタを捜し求めた。

大航海時代以降から20世紀末の科学の発展により(大衆オカルティズムの埒外では)根拠とされた地球空洞説とともに急速に支持を失った。対照的に永いあいだに語られた世界観は、古典的SF設定としての地位を獲得した。

■1884年に開かれた国際子午線会議で行われた投票の結果、グリニッジを基準とすることが決められた。

■日本の電信ケーブルは、1892年に日本の経緯度原点を定める時にも使用された。経緯度原点は当時の東京天文台があった場所(現在の東京都港区麻布台)に定めたが、この経度は、東京と、すでに経度の分かっている長崎の2か所で天体観測を行い、その時間差を電信ケーブルを使った通信で確認することで求めている。

このように、電信と天体観測で経度を求める方法は「電信法」と呼ばれた。

日本経緯度原点

■ジョージ・ヘール(George Ellery Hale, 1868年6月29日- 1938年2月21日)は、アメリカ合衆国の天文学者である。

太陽の観測のためのスペクトロヘリオグラフを発明し、太陽の磁場を発見した他、後に天文学の重要な発見を行うことになるヤーキス天文台・ウィルソン山天文台などの建設を主導した。

マサチューセッツ工科大学で学び、1890年に学位を取得した。その後、自宅の敷地内に12インチの屈折望遠鏡を備える天文台を建設し、太陽の観測を行った。この望遠鏡には彼が大学在学中に発明したスペクトロヘリオグラフ(単色太陽光分光写真儀)を組み込まれた。これによって、太陽光からカルシウムの特性スペクトルに単色化し、史上初めて太陽の紅炎(プロミネンス)の撮影に成功した。

紅炎(プロミネンス)の一例

この成果によって、彼は太陽研究における一大権威と見做されるようになり、24歳でシカゴ大学天体物理学講座の助教授に就任した。

1897年にシカゴの実業家チャールス・ヤーキスの資金を得て101センチ屈折望遠鏡を備えるヤーキス天文台を建設した。

1904年にカーネギー研究所の寄付を得て、当時世界最大の257センチ反射望遠鏡を備えるウィルソン山天文台を建設し、初代台長になった。ウィルソン山天文台には、さらに太陽の分光観察専用のスノー太陽望遠鏡が設置された。

スノー太陽望遠鏡による太陽黒点の観察から、黒点内部は太陽の他の部分に比べ温度が低く、強い磁界があることを発見した。

さらに、ロックフェラー財団から寄付を受け、パロマー山天文台の建設に着手するが、その完成を見ることなく死去した。王立協会フェロー。

■【天体望遠鏡】アメリカヤーキス天文台の 1.02m 望遠鏡は現在使われている最も大きな口径の屈折望遠鏡である。1897年につくられ、レンズは1mの直径を持ち、重さは0.5tにもおよぶ。

ヤーキス天文台の102cm屈折望遠鏡(1897年撮影)

■1897年「ロケット噴射による、増速度の合計と噴射速度と質量比の関係を示す式」である「ツィオルコフスキーの公式」を発表し、今日におけるロケット工学の基礎を築いたが生涯の大半はカルーガで孤独に暮らしていたため、存命中にツィオルコフスキーの業績が評価されることはなかった。

■【月 三部作】イェジイ・ジュワフスキ(ポーランド語:Jerzy Żuławski [ˈjɛʐɨ ʐuˈwafski/イェージ・ジュワーフスキ]、1874年7月14日 – 1915年8月9日)はポーランドの文学者、哲学者、翻訳家、登山家、民族主義者である。

その最も良く知られた業績は、1901年から1911年にかけて書かれたSF叙事詩”トルィロギヤ・クシェンジツォヴァ(Trylogia Księżycowa)”(月三部作)である。

イェジイ・ジュワフスキの肖像。スタニスワフ・ヴィスピャンスキ(Stanisław Wyspiański)画

『銀球で』

  • Na Srebrnym Globie(銀球で) – 初版は1903年、ルヴフにて

半世紀近く後。マルタとペドロはとうに亡く、コレツキーも老いて死にかけていた。しかし彼は最期の力を振り絞ってかつての不時着地点を目指し、宇宙船に積まれていた連絡用小型ロケットで手記(この小説)を地球に送り出す。

シリーズ第一巻たる本作は、誤算に基づいた、悲惨な月世界探検の物語である。21世紀、多国籍の探検隊が(ヴェルヌの『月世界旅行』風の砲弾宇宙船に乗って)月へ向かう。宇宙船は月面に硬着陸し、イギリス人、アイルランド人は死亡。帰還の望みは絶たれる。

ポーランド人の主人公(物語は彼の手記という形を取る)ヤン・コレツキー(Jan Korecki)、ドイツ人女性のマルタ、ブラジル系ポルトガル人のペドロは、空気と水を求めて月の裏側を目指す。彼らは辛うじて生存できる地に辿りつき、マルタとペドロは結ばれ、奇形の「月人」第一世代が誕生する。恋に破れ傷心の主人公は彼らとは隔絶して「月人」の観察と記録に専心する。「月人」たちは近親相姦で世代を重ねてゆき、地球帰還という悲願を実現してくれる「救済者」の来訪を待つ宗教を作り出す。

『銀球で』原書の図版(月の北半球の地図)

『勝利者』

  • Zwycięzca(勝利者) – 初版は1910年、ワルシャワにて

第二巻である本書は三部作中で最も長く複雑である。舞台は前作の数世紀後。物語は前作の悲惨な探検以来はじめての月ロケットが目的地に着陸するところから始まる。この新型宇宙船は宇宙工学者マレク(Marek)を月世界に運んだ。彼こそが「月人」(精神的にも肉体的にも矮小化した種族である)が待ち望んでいた「救世主」であった。

この頃、「月人」は悪魔を思わせる(黒い翼とテレパシー能力を有する)月の先住種族「シェルン」によって奴隷化されていた。マレクは「シェルン」の精神攻撃に耐え抜いて彼らの首領を倒し、「月人」を圧制から救う。

歴史上はじめて脅威から解放された「月人」たちは、彼を救世主として祭り上げた。しかし、マレク(不幸な情事から逃れるため月にやって来た)は「月人」女性との恋愛でも悲劇を経験し、精神的に力尽きてしまう。

その後「月人」社会は、「救済者」マレクの位置づけに関する神秘主義的信仰と階級の分裂によって崩壊してゆく。「月人」たちは、マレクが地球帰還という究極的な(そして物理的な)救済を与えてくれないことに意気消沈し、精神的救済を求める方向に堕して行った。その結果マレクはキリストの磔を思わせる状況の中で死に至らしめられる。

『古い地球』

  • Stara Ziemia(古い地球) – 初版は1911年、ワルシャワにて

最終巻たる本作は、マレクの殉教の直後の時代から始まる。「シェルン」という敵の消失により、「月人」社会は統一されているべき理由をなくして混乱の極みにあった。2人の「月人」が避難場所を求めて、マレクの載ってきた宇宙船に潜り込む。宇宙船は自動操縦で、予めセットされていた通りに地球へ向かう。27世紀の地球で彼らは政治的策謀の渦巻く様や、過度の機械化が人間の運命までを左右する様を目の当たりにするのだった。

■アンリ・ポアンカレは1902年、著書「科学と方法」で銀河に気体分子運動論を適用した結果が光る星のみを望遠鏡で観測した結果とおおよそ合致していることから、「暗黒なる物質はない、少くとも光る物質程にはない」と記した。

■1903年、コンスタンチン・ツィオルコフスキーは1903年に発表した彼の代表的な論文である『反作用利用装置による宇宙探検(Исследование мировых пространств реактивными приборами)』の中で人工衛星や宇宙船の示唆、多段式ロケット、軌道エレベータなどの考案や、宇宙旅行の可能性としてロケットで宇宙に行けることを証明した業績から「宇宙旅行の父」と呼ばれる。

これは宇宙船を打ち上げるためのロケット工学に関する最初の学術論文だった。

ツィオルコフスキーは地球の回る最小の軌道に求められる軌道速度を8km/sと計算し、液体燃料を使用した多段式ロケットならば達成可能であることを示した。

また、彼は液体水素と液体酸素の使用を提案した。

地球は人類のゆりかごである。しかし人類はゆりかごにいつまでも留まっていないだろう(Планета есть колыбель разума, но нельзя вечно жить в колыбели)」は1911年に知人に出した手紙の中に含まれており、後に名言として広まるようになった。

■【特殊相対性理論】アルベルト・アインシュタイン(独: Albert Einstein、1879年3月14日 – 1955年4月18日)が1905年に特殊相対性理論を発表。

1921年、ウィーンでの講義中

「20世紀における物理学史上の2大革命」としては量子力学および相対性理論が挙げられるが、以前から論理的に展開されていた相対性原理(アンリ・ポアンカレ、ジョゼフ・ラーモア、ヘンドリック・ローレンツなどによるもの)を明確化および採用し、ニュートン力学とマクスウェルの方程式に基づく当時の古典論的物理学の体系に対し、相対性原理に基づく時空概念の修正を前者へ施すことにより、(重力場を除いて)両者は理論的に統合され、古典論的物理学体系の完成に成功した。

特殊相対性理論では、「質量、長さ、同時性といった概念は、観測者のいる慣性系によって異なる相対的なもの」であり、「唯一不変なものは光速度 c のみである」とした。

1905年発表の特殊相対性理論は、重力場のない状態での慣性系のみを取り扱った(限定的な)理論である。

アイン シュタイン 相対性理論 (岩波文庫) by [アインシュタイン, 内山 龍雄]
アイン シュタイン 相対性理論 (岩波文庫)

★1905年の光量子仮説によって光電効果について理論的な説明づけを行うなど、初期量子論の確立に多大な貢献をした。

しかし、「量子は確率論的に振舞う」とする量子力学自体については、アインシュタインは、「神はサイコロを振らない」と懐疑的な立場をとった。

局所実在論を支持していたアインシュタインは量子力学の矛盾点の一つとしてアインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックスを提示したが、のちにベルの不等式の破れが実証されると局所実在論は破綻し、EPR相関として知られるようになった。

アインシュタイン論文選: 「奇跡の年」の5論文 (ちくま学芸文庫)

■【地球空洞説】1906年にアメリカのウイリアム・リード (William Reed) が、『極地の幻影(英語版)』を出版。内部の太陽を持たない、単層の空洞地球のアイデアを提唱した。

■1907年にアインシュタインはは有名な式E=mc²を発表。この年には、「箱の中の観測者は、自らにかかる力が慣性力なのか重力なのか区別ができない」という、のちの一般相対論の基礎となるアイディア(等価原理)を考案。アインシュタインはこれを「生涯最良の名案」と述べた。

■1908年、フリードリッヒ・ザンデルは惑星間航行の問題点に関する初めての論文を発表し、その中で生命維持等の問題について論じ、宇宙船内の温室で植物を育てることを初めて提案した。

★フリードリッヒ・ザンデル(Friedrich Zander、ロシア語:Фридрих Артурович Цандер、ラトビア語:Frīdrihs Canders、1887年8月23日-1933年3月28日)は、ロシア帝国、ソビエト連邦のロケット、宇宙船のパイオニアである。

ソビエトで最初に打ち上げられた液体燃料ロケットGIRD-Xを設計した他、宇宙への扉を開く多くの重要な理論的な貢献を行なっている。

フリードリッヒ・ザンデル(リガにて)

■【地球空洞説】1908年にアメリカのウィリス・ジョージ・エマーソンの『煙の神、ザ・スモーキー・ゴッド』(The Smoky God) は、地下の文明があるという発想の源泉となった文学作品のひとつである。

本書はオラフ・ヤンセンという名のノルウェー人船員の手記という体裁を取っている。この本はヤンセンの帆船が北極にある地球中央への入り口を通って航行したと主張している。

彼は地下コロニーのネットワークにいる住人と2年間を共に過ごした。エマーソンは彼らの身長が12フィートもあり、その世界は「煙がかった (smoky)」中心太陽に照らされていたと書いている。エマーソンは彼らの首都が本来のエデンの園(のちに「アガルタ」)であると主張した。

■1911年フリードリッヒ・ザンデル(Friedrich Zander、ロシア語:Фридрих Артурович Цандер、ラトビア語:Frīdrihs Canders、1887年8月23日-1933年3月28日)が従来型航空機のように離陸し、大気上層に達し必要がなくなると、翼を燃料として燃やして飛行する、可燃性アルミニウム合金でできた宇宙船の計画を公表した。

■【大陸移動説】1912年に、ドイツのアルフレート・ヴェーゲナーが提唱した大陸移動説は、かつて地球上にはパンゲア大陸と呼ばれる一つの超大陸のみが存在し、これが中生代末より分離・移動し、現在のような大陸の分布になったとするものである。

大陸と海洋の起源 (ブルーバックス)

★1912年1月6日に、フランクフルト・アム・マインで行われた地質学会の席上で、ヴェーゲナーは太古の時代に大西洋両岸の大陸が別々に漂流したとする「大陸移動説」を発表した。

ヴェーゲナーの大陸移動説は、測地学、地質学、古生物学、古気候学、地球物理学など様々な当時最新の資料を元にして構築されたもので、彼以前の説とは詳細度や学術的正確性などがはっきり異なったものだった。

また、明確に「大陸移動(continental drift)」という言葉を使ったのもヴェーゲナーが最初であった。

(Alfred Lothar Wegener、1880年11月1日 – 1930年11月2日もしくは11月3日)

その証拠として、大西洋をはさんだ北アメリカ大陸・南アメリカ大陸とヨーロッパ・アフリカ大陸の海岸線が相似である上、両岸で発掘された古生物の化石も一致することなどから、元は一つの大陸であったとする仮説であった。

ヴェーゲナー『大陸と海洋の起源』第4版(1929年)より

それまで古生物学の通説は、古生代までアフリカ大陸と南アメリカ大陸との間には狭い陸地が存在するとした陸橋説であったが、これをヴェーゲナーはアイソスタシー理論によって否定した。

★アイソスタシー(英: isostasy)とは、比較的軽い地殻が、重く流動性のある上部マントルに浮かんでおり、地殻の荷重と地殻に働く浮力がつりあっているとする説。

■ヘンリエッタ・スワン・リービット(Henrietta Swan Leavitt 、1868年7月4日 – 1921年12月12日)はアメリカの女性天文学者である。

ケフェイド変光星の変光周期と光度との間に相関があることを発見し、1912年に小マゼラン雲内のケフェイド変光星の周期に関する研究を発表した。

この発見は天体までの距離の測定に利用され、後に渦巻星雲や楕円型の星雲が銀河系内の天体か銀河系外の天体かについての大論争に決定的な影響を与えることになった。

■アメリカ合衆国は1912年より公式にグリニッジ子午線を本初子午線として採用し、そして北米測地系(North American Datum)を構築していた。

■【地球空洞説】1913年にアメリカのマーシャル・B・ガードナー (Marshall Gardner) は、『地球内部への旅・両極は実際に発見されたか』を自費出版。

1920年には、挿絵や図版を大幅に増やした改訂第二版を出版した。

彼のモデルは、両極に直径1400マイルの開口部をもつ厚さ800マイルの殻と、直径600マイルの内部太陽を配置したものであり、彼はこの模型を造って特許を取得した。
ガードナーの書籍にはリードへの言及はなく、シムズ説が採られている。

■『毒ガス帯』(どくガスたい、英: The Poison Belt)は、アーサー・コナン・ドイルによるチャレンジャー教授を主人公とする小説のシリーズ2作目。

毒ガス帯―チャレンジャー教授シリーズ (創元SF文庫)

1913年に書かれ、南米奥地の野外でストーリーが進む1作目の『失われた世界』と異なり、多くがサセックスにあるチャレンジャーの家の一室で進行する。1910年代に書かれたチャレンジャー教授シリーズ最後の作品。

★地球が毒ガス帯(有毒なエーテルの帯)を通過し、チャレンジャー教授ら5人を除いた全人類が死に絶えたと思われたが、昏睡していただけだったという物語。

■ペルシダー・シリーズは、エドガー・ライス・バローズによるアメリカのSF小説のシリーズ名。全7巻。地底世界シリーズとも表記する。

地球空洞説を採用したSF作品ではあるが、冒険小説としての面が強い。原始人や恐竜などの古生物も登場するが、オリジナルのモンスターも登場する。バローズの4大シリーズでは3番目に開始された。

ペルシダーでは空洞中央に決して沈まない小型の太陽があり、常に中天に太陽が存在するため、地下の住民たちには時間の概念がないとされた。地上で絶滅した生物と、原始的な人類が存在するほか、超能力を有する知的爬虫類「マハール族 (Mahars)」他、未知の生物も存在している。

第一話は

オール・ストーリー・ウィークリー1914年4月4日号~25日号(4回)に連載され。1922年にマクルーグから刊行された。

地底世界ペルシダー (地底世界シリーズ1)(ハヤカワSF文庫)

■【一般相対性理論】アルベルト・アインシュタイン(独: Albert Einstein、1879年3月14日 – 1955年4月18日)は1915年-1916年には、加速度運動と重力を取り込んだ(より適用範囲を広げた)一般相対性理論を発表した。

一般相対性理論では、重力場による時空の歪みをリーマン幾何学を用いて記述している。さらに後半生の30年近くを重力と電磁気力を統合する統一場理論を構築しようと心血を注いだが、死により未完に終わった。

一般相対性理論を素直にそのまま認めると、「宇宙は膨張または収縮をしている」ということが素朴に演繹されうる。

だがアインシュタインは、宇宙が膨張や収縮しているとは考えたくなかったため、重力による影響を相殺するような宇宙項Λ(ラムダ)を≪場の方程式≫に組み入れることで、理論上静的な宇宙でも存在可能であるとする理論を作った。

しかしその後、エドウィン・ハッブルらの天文台での実際の観測によって、実際は宇宙は膨張している、ということが観測的に確認されたため、アインシュタインは自身がかつて提案した「宇宙項」を撤回せざるを得なくなった(のちに彼は、宇宙項の導入は「生涯最大の失敗」と述べることになった)。

アインシュタイン150の言葉 by [ジェリー・メイヤー, ジョン・P・ホームズ]
アインシュタイン150の言葉

■アメリカ航空諮問委員会(アメリカこうくうしもんいいんかい、National Advisory Committee for Aeronautics、NACA)は、1915年3月3日に設立されたアメリカ合衆国連邦政府の機関の1つである。

航空工学の研究の請負、推進、制度化等を担う。

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キティホークでのライト兄弟の初飛行を描いたNACAの公式の紋章

1958年10月1日にこの組織は解体され、資産や人員は、新設されたアメリカ航空宇宙局(National Aeronautics and Space Administration、NASA)に移った。

頭字語のNACAは、アクロニムの「ナカ」ではなく、アルファベットごとに区切って「エヌエーシーエー」と読む。NACAの成果は、今日の航空機にも用いられている。

■【宇宙定数】宇宙定数は、1917年にアルベルト・アインシュタインによって、静的な宇宙を表すような重力場の方程式の定常解を得るための方法として最初に提案された。

このとき、実質的にダークエネルギーにあたるエネルギーを重力と釣り合わせるために用いた。

しかし後に、アインシュタインの静的宇宙は、局所的な非一様性が存在すると最後には宇宙スケールで膨張または収縮が加速的に起こるため、実際には不安定であることが明らかになった。

宇宙の平衡状態は不安定であり、もし宇宙がわずかに膨張すると、膨張は真空のエネルギーを放出し、これはさらなる膨張を引き起こす。

同様に、わずかに収縮する宇宙は収縮を続ける。このような種類の擾乱は、宇宙に広がる物質の非一様な分布のために不可避である。

また、より重要な点として、エドウィン・ハッブルの観測によって、宇宙は膨張しており、静的ではありえないことが明らかになった。

この発見の後、宇宙定数は歴史上の奇妙な存在としてほぼ無視されることとなった

。アインシュタインは静的宇宙とは対照的な動的宇宙のアイデアを予測できなかったことは人生最大の失敗だったと言及したことは有名である。

■『火星のプリンセス』(かせいのプリンセス、英: A Princess of Mars) は、エドガー・ライス・バローズのSF冒険小説。初版は1917年。バローズのデビュー作であり、火星シリーズの第1作。

主人公のジョン・カーターは、アメリカの元南軍大尉であるが、生まれ育った記憶がなく、年齢も不詳。幽体離脱で火星(バルスーム)に瞬間移動した後、剣で火星生物や火星人と対決し、恋と冒険に生きる。

火星のプリンセス―合本版・火星シリーズ〈第1集〉 (創元SF文庫)
火星のプリンセス (創元SF文庫)

■1919年、皆既日食において、太陽の重力場で光が曲げられること(いわゆる重力レンズ効果)がケンブリッジ天文台のアーサー・エディントンの観測により確認されたがアインシュタインの理論の立証にはまだ不充分であった。

しかし、このことにより一般相対性理論は物理学理論としての一定の地位を得る。このことは世界のマスコミにも取り上げられ、これによってアインシュタインの名は世界的に有名となった。

■ゴダードが1920年の論文『高々度に達する方法』で、ロケットは真空の宇宙空間でも推進できると主張したことに対し、ニューヨーク・タイムズ紙は、物質が存在しない真空中ではロケットが飛行できないことを「誰でも知っている」とし、ゴダードが「高校で習う知識を持っていないようだ」と酷評した。

★1969年に、アポロ11号の月着陸の前日、ニューヨーク・タイムズ紙は49年前に発表したゴダードについての社説を撤回した。

同紙はゴダードの実験を「より進んだ実験と調査」と呼び、「17世紀のアイザック・ニュートンの実験結果を確認し、大気中と同様に真空中でもロケットが飛行できることは明確にいま実証された。

同紙は(作用・反作用の法則を間違って解釈していた)過ちを後悔する」との社説を発表した。

またアポロ11号が月に到達した時、SF作家のアイザック・アシモフはすでに世を去ったゴダードに向かって、「ゴダードよ、我々は月にいる」という言葉を送った。

『新スタートレック』に登場するシャトルクラフト・ゴダードは、彼の名から命名されている。

■【地球空洞説】ポーランドのフェルディナンド・アントニー・オッセンドフスキーは1920年の旅行記『獣・人・神々』において、当時広く信じられていた地下の理想郷神話「アガルタ」について記している。

「アガルタ」神話はインドで「シャンバラ」 Shambhala とも呼ばれており、そこはイニシエートたち(initiates、秘儀参入者)が住まい、人類の霊的指導者である「大師たち」(the Masters) が率いるという。

■【アインシュタイン訪日】1922年3月10月には日本への訪問を目的に夫婦で客船「北野丸」に乗船。11月17日に訪日したアインシュタインは、その後43日間滞在し、大正天皇に謁見している。

また、日本へ向かう最中、11月9日にアインシュタインは前年度に保留されていた1921年度のノーベル物理学賞受賞の知らせを受けている。

受賞理由は「光電効果の発見」によるものであった。当時、アインシュタインが構築した相対性理論について「人類に大きな利益をもたらすような研究と言えるのかと言えば疑問」との声、さらには「ユダヤ的」であるとするフィリップ・レーナルトあるいは、ヨハネス・シュタルクなどノーベル物理学賞受賞者らの批判があった。

ノーベル委員会は、これらの批判を避けるために、光電効果を受賞理由に挙げたと言われている。

なお、受賞に際して賞金も授与されたが、これはアインシュタインが近々自身のノーベル賞授与を予測しており、賞金を渡す前提条件に離婚していたため、かつての妻ミレーバに渡したとされる。

アインシュタインが東北帝国大学を訪問した際の記念写真(1922年12月)。左から本多光太郎、アインシュタイン、愛知敬一、日下部四郎太。

■アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ・フリードマン(英: Alexander Alexandrovich Friedmann, 露: Александр Александрович Фридман, 1888年6月16日 – 1925年9月16日)はソ連の宇宙物理学者、数学者、気象学者。

1922年に一般相対性理論の場の方程式に従う膨張宇宙のモデルをフリードマン方程式の解として定式化したことで知られる。彼のモデルは彼の死後、1929年にエドウィン・ハッブルの観測によって宇宙膨張が発見されたことで高く評価されることとなった。

■月シリーズ(1923年~1925年)全3部。
エドガー・ライス・バローズの小説。月が空洞になっており、内部に月人や生物が生存している(外部には生命は存在しない)。

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月のプリンセス―月シリーズ1 (1978年) (創元推理文庫)

■1923年6月にヘルマン・オーベルトが『惑星間宇宙へのロケット)』(Die Rakete zu den Planetenraumen) と呼ばれる最初の論文を発表し、宇宙への飛行がどうすれば可能になるかという原理を示す。

1929年にはこれに加筆を施した『宇宙旅行への道(ドイツ語版)』(Wege zur Raumschiffahrt) を発表している。

その前年の1922年、米国のロケット研究者であるロバート・ゴダードに手紙を書き、彼のロケット研究の論文を取り寄せているが、後年「自分の研究はゴダードのものとは完全に独立していた」と主張している。

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★ヘルマン・オーベルト(Hermann Oberth, 1894年6月25日 – 1989年12月28日)は、ドイツのロケット工学者である。オーベルトの効果に名前を残す。ドイツ宇宙旅行協会創立。

■1924年5月【惑星間旅行学会設立】(ロシア語:ロシア語Обществоизучениямежпланетныхсообщенийor OIMS)は1924年5月にモスクワで設立された。

コンスタンチンツィオルコフスキー、フリドリフザンダー、ウラジミールベッチンキンなどのソビエトの宇宙探査とロケット工学の重要な専門家が含まれている。

★フリードリッヒ・ザンデル(Friedrich Zander、ロシア語:Фридрих Артурович Цандер、ラトビア語:Frīdrihs Canders、1887年8月23日-1933年3月28日)はウラジーミル・ヴェッチンキンらとともにSociety for Studies of Interplanetary Travelを設立した。初期の著書において、彼らは地球の大気を宇宙船の大気圏再突入の際の空力ブレーキとして利用することを初めて提案した。

同年、ザンデルはモスクワで、自身が惑星間航行に適していると信じる、翼のついたロケットについての特許を申請した。

10月にはモスクワ研究所でロケットで火星に到達する可能性についての講演を行った。

講演後の質疑時間に、彼は、「火星は大気を持ち、声明を維持する能力を持っている。

また火星は”赤い星”としても知られ、これは我々の偉大な赤軍の紋章でもある」と述べ、この惑星に到達する重要性について説明した。

この頃、ザンデルは宇宙船の推進力として太陽帆を用いることを初めて提案した。ただし、17世紀にはヨハネス・ケプラー太陽風を推力として用いる可能性について言及している。

■1924年6月、ボースはアインシュタインに手紙ともに論文を送り、ドイツ語への翻訳と出版を依頼した。

この論文の中で、ボースは光子の統計性から黒体輻射のプランクの公式が導けることを示した。

アインシュタインはこの論文の重要性を認め、ドイツの学術誌で出版した。ボースが扱ったのは、粒子数が不定で質量をもたないボース粒子である光子の場合であったが、アインシュタインは粒子数が保存される気体分子にもこの統計性を拡張し、より一般的な形でボース=アインシュタイン分布を導いた。

★サティエンドラ・ナート・ボース(1894年1月1日 – 1974年2月4日)
ボースは1894年に英領インドのカルカッタに生れた。

■1924年 銀河に関するハッブルの論文

ハッブルがウィルソン山天文台職員となった1919年にはちょうど100インチ (2.5m) フッカー望遠鏡が完成している。これは当時世界最大の望遠鏡であった。1923年から1924年にかけてハッブルがこのフッカー望遠鏡で行なった観測によって、それまで小さな望遠鏡での観測から、我々の銀河系内の天体ではないかと考えられていた「星雲 (nebula)」と呼ばれるぼんやりした天体の中に、我々の銀河系の外にある銀河そのものが含まれていることがはっきりした。ハッブルはこの発見を1924年12月30日の論文で発表している。

ハッブルはまた、銀河をその組成や距離、形状、大きさ、光度などでグループ分けする分類法を考案した。この銀河の形態分類はハッブル分類と呼ばれて現在でも使われている。

ハッブルはまた、銀河をその組成や距離、形状、大きさ、光度などでグループ分けする分類法を考案した。この銀河の形態分類はハッブル分類と呼ばれて現在でも使われている。

★エドウィン・パウエル・ハッブル(Edwin Powell Hubble, 1889年11月20日 – 1953年9月28日)は、アメリカ合衆国の天文学者。

我々の銀河系の外にも銀河が存在することや、それらの銀河からの光が宇宙膨張に伴って赤方偏移していることを発見した。

近代を代表する天文学者の一人であり、現代の宇宙論の基礎を築いた人物である。

■【スイングバイの理論】1925年、ザンデルは”Problems of flight by jet propulsion: interplanetary flights,” という論文を発表し、その中で2つの惑星間の宇宙船航行において、2つの惑星の衛星の重力を利用することによって、軌道の最初の時点で加速し、軌道の終わりの時点で減速することが可能であることを主張した。

これは、スイングバイとして知られている方法である。

■1925年 ボース=アインシュタイン凝縮(ボース=アインシュタインぎょうしゅく、英: Bose–Einstein condensation)、または略してBECとは、ある転移温度以下で巨視的な数のボース粒子が最低エネルギー状態に落ち込む相転移現象。

量子力学的なボース粒子の満たす統計性であるボース=アインシュタイン統計の性質から導かれる。BECの存在はアルベルト・アインシュタインの1925年の論文の中で予言された。粒子間の相互作用による他の相転移現象とは異なり、純粋に量子統計性から引き起こされる相転移であり、アインシュタインは「引力なしの凝縮」と呼んだ。

ルビジウム原子の気体の速度分布データ:物質の新しいであるボース=アインシュタイン凝縮の発見を確証した。
左:ボースアインシュタイン凝縮が現れる直前。中央:凝縮が現れた直後。右:さらに蒸発させても、ほぼ純粋な凝縮が残る。

■【ゴダードのロケット打ち上げ】1926年3月16日にマサチューセッツ州オーバーンで最初の液体燃料ロケットを打ち上げた。

その歴史的な出来事を彼は日記に簡潔に記入した。

「液体推薬を使用するロケットの最初の飛行は昨日エフィーおばさんの農場で行われた」

“ネル”と名付けられたロケットは人間の腕くらいのサイズで、2.5秒間に41フィート上昇した。それは液体燃料推進の可能性を実証した重要な実験だった。

ロバート・ゴダードと彼が開発した最初の液体燃料ロケット

★ロバート・ハッチングズ・ゴダード(Robert Hutchings Goddard, 1882年10月5日 – 1945年8月10日)は、アメリカの発明家・ロケット研究者。

「ロケットの父」と呼ばれる。ロケット工学草創期における重要な開拓者の一人だが、彼自身の非社交的な性格もあって、生前に業績が評価されることはなかった。

■【地球空洞説】1927年にフランスのルネ・ジャン・マリー・ジョゼフ・ゲノンは『世界の王』(The King of the World) で、世界の王の資質を語るにあたり、中央アジアにある「シャンバラ」から至る地球内部にある理想の王国「アガルタ」を引用し深く考察している。

■【ビッグバン理論の先駆者の一人】1927年にベルギーの司祭で天文学者のジョルジュ・ルメートルが一般相対論のフリードマン・ロバートソン・ウォーカー計量に従う方程式を独自に導き出し、渦巻銀河が後退しているという観測結果に基づいて、「宇宙は原始的原子 (primeval atom) の“爆発”から始まった」というモデルを提唱した。

★ジョルジュ・アンリ・ジョセフ・エドゥアール・ルメートル(Georges Henri Joseph Édouard Lemaître、1894年7月17日 – 1966年6月20日)は、ベルギーの天文学者、宇宙物理学者、カトリック司祭。アレクサンドル・フリードマンに次いで膨張宇宙論を提唱し、エドウィン・ハッブルに先立って宇宙膨張則を発表し、さらに宇宙が特異点から始まったというビッグバン理論の元となるアイディアを示した。

■【マントル対流】1912年にウェーゲナーによって提唱された大陸移動説の最大の障害となったのは、「大陸が移動するための機構・力が何であるか説明できない」ことだった。

大陸を動かす力として、赤道部分のふくらみから生ずる引力や潮汐力が考えられたが、どれも大陸を動かすには小さすぎたのである。

1928年にアーサー・ホームズは、グラスゴーで開かれた地質学会における講演において、地球内部(マントル上部)における熱対流を想定することでこの問題が解決できることを示唆した。

■1928年、スロベニアのヘルマン・ポトチェニクがThe Problem of Space Travel — The Rocket Motor(ドイツ語: Das Problem der Befahrung des Weltraums — der Raketen-Motor)を出版し、宇宙旅行と人間の永続的滞在性について述べた。

彼は宇宙ステーションを発想し、ステーションの静止軌道計算を行った。

彼はまた、人工衛星が平和的・軍事的に地上の観測に使用できることを詳細に記述し、宇宙空間の特殊な状態が科学実験に有意であることや、静止衛星を通信などに利用できることについても述べた。

■1929年【ハッブルの法則】

ハッブルは銀河の赤方偏移の発見者として一般に知られている。1929年、ハッブルとミルトン・ヒューメイソンは、銀河の中にあるセファイド変光星を観測し、セファイド変光星の明るさと変光周期の関係を使って、銀河の赤方偏移と距離の間の経験則を定式化した。これは、赤方偏移を後退速度の尺度と考えれば、2つの銀河の間の距離が大きくなるほど、互いに離れる相対速度も距離に比例して大きくなるというもので、今日ハッブルの法則として知られているものである。

ただし、ハッブルは複数あるセファイド変光星の型を区別していなかったため、ハッブル定数としては、今日知られている値の約7倍の500km/s/Mpcという値を算出している。

ハッブルが銀河の赤方偏移を測定し、宇宙膨張を発見したウィルソン山天文台の100インチフッカー望遠鏡

これとは別に、一様等方の宇宙についてのアルベルト・アインシュタインの一般相対性理論の方程式からアレクサンドル・フリードマンが導き出した宇宙モデルには、膨張する宇宙が含まれていた。ハッブルの発見は、このモデルを実証したものでもある。

この発見は後にビッグバン理論につながることになる。

■『月世界の女』(独: Frau im Mond)は、ドイツのサイレント映画である。

初公開は1929年10月15日、ベルリンのウーファ・パラスト・アム・ツォー、観客は2000人だった。

監督はフリッツ・ラングで、当時彼の妻だったテア・フォン・ハルボウが前年に出版した小説『Die Frau im Mond』を原作としている。

『月世界の女』を撮影中のフリッツ・ラング(右端)

1928年10月から1929年6月にかけて、ベルリン近郊のノイバベルスベルクにあるUFAスタジオで撮影された。

ロケットの発射シーンでは多段式ロケットを採用するなど当時としては画期的で、本格的SF映画の古典の一つとみなされている。

★この映画のロケット打ち上げシーンは、その後のSF映画・小説だけではなく、実際の宇宙開発にも大きな影響を与えた。とくにアメリカの宇宙開発競争への影響が指摘されている。

ロケットは高い建物の中で建造され、発射台に移動される。


ロケット発射にあたってカウントダウンが用いられる。カウントダウンはこの映画で最初に用いられ、以後、実際のロケット発射に使われるようになった。


ロケットは水を張ったプールから打ち上げられる。現在でも水は発射時の高熱の吸収・放散および排気音を抑えるために用いられている。


宇宙空間でロケットは切り離される。現代の多段式ロケットの原理である。
乗組員は打ち上げ時と軌道に乗る前の加速時の耐Gのため水平ベッドに横たわる。


無重力時に床に足を固定させる。(現在は面ファスナーを使用)。

この映画の科学考証にあたったのはドイツのロケット工学者のヘルマン・オーベルトである。

オーベルトはこの映画のためにロケットを建造するつもりだったが、期間と技術的問題でできなかった。

この映画は宇宙旅行協会のヴェルナー・フォン・ブラウンたちの間でも人気となり、ペーネミュンデ陸軍兵器実験場で最初の打ち上げに成功したV2ロケットの基部には「Frau im Mond」のロゴが描かれてた。

オーベルト以外にも、後にアメリカに渡り科学ライターとなるウィリー・レイが監修として参加している。

こうした点はナチスが極秘裏に勧めていたV2ロケット計画と酷似していたため、1933年から1945年にかけて、この映画は上映禁止になっている。

■フリッツ・ツビッキー(Fritz Zwicky 、1898年2月14日 – 1974年2月8日)は、アメリカで活動したスイス国籍の天文学者である。ウォルター・バーデとともに超新星の研究のパイオニアである。

スイス人(ノルウェー国籍の父親、チェコ人の母親)の両親のもとで、ブルガリア公国のヴァルナに生まれた。チューリッヒ連邦工科大学で学んだ。1925年にアメリカのカリフォルニア工科大学に移り、その後、スイス国籍のままアメリカで活動した。

1930年代にウォルター・バーデとともに超新星が中性子星に移行する過程であること、超新星が宇宙線の発生源であることを示唆する論文を発表した。パロマー天文台に超新星探索用のシュミット望遠鏡を設置させるのに成功し、100個以上の超新星を発見した。1961年から銀河のカタログ Catalogue of Galaxies and of Clusters of Galaxies (CGCG)を作成した。

変わり者で知られ、周囲の研究者に罵詈雑言を浴びせるのが常で、お気に入りの罵倒語は「球形のろくでなし」(どこからみてもろくでなし)だったという。

■反動推進研究グループ(英: Group for the Study of Reactive Motion、露: Группа изучения реактивного движения, Gruppa izucheniya reaktivnogo dvizheniya ; GIRD)は、モスクワに本拠地を置く、1931年に設立されたソビエト連邦の民間のロケット研究グループである。

モスクワを拠点とするGIRDはMosGIRDと呼ばれ、レニングラードを拠点とするGIRDはLenGIRDと呼ばれた。

ハルキウ、バクー、トビリシ、アルハンゲリスク、ノヴォチェルカッスク、ブリャンスクに支部が設立された。

■世界で最初に宇宙からやってくる電波の存在に気付いたのは、天文学者ではなく、ベル研究所でレーダーや無線通信の研究をしていた技術者カール・ジャンスキーである。

ジャンスキーは、無線通信時に紛れ込むノイズの原因となる雷などの空電現象を研究していたが、1932年、雷以外にも宇宙から電波がやって来ているのに気付いた。

ジャンスキーのアンテナのレプリカ。

この電波は、天の川の中心から放射されていた。この発見から、電波天文学が始まった。

■ロケットエンジン10は、ソ連で開発されたロケットエンジン。1933年に、GIRD-Xロケットのために、反動推進研究グループが設計した。

Жидкостный ракетный двигатель 10.jpg
エンジン断面 George Shuklin – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 1.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3448676による

1933年1月から1933年8月にかけて、推進剤としてガソリンと液体酸素の組み合わせを用い、試験を行ったが、燃焼室が焼損したため、1933年10月からはエチルアルコールに置き換えられた。燃焼室は液体酸素の蒸発によって冷却された。

1933年11月25日にセルゲイ・コロリョフの監督下でソビエトで初めて開発された液体燃料ロケットであるGIRD-Xはこのエンジンを搭載して打ち上げられた。

エンジンが不調となるまで高度約80mまで上昇した。これは、ソビエト連邦における真の最初の液体燃料ロケットの打上げとなった。

★GIRD-Xはソビエトの反動推進研究グループのセルゲイ・コロリョフの監督下で開発された最初の液体燃料ロケットである。フリードリッヒ・ザンデルによって初期の研究が行われた。ロケットエンジン10を搭載した。

GIRD-X

■【暗黒物質】1933年にフリッツ・ツビッキーは銀河団中の銀河の軌道速度における”欠損質量” (missing mass ミッシングマス) を説明するために仮定した。

彼は、ビリアル定理をかみのけ座銀河団に適用し、未観測の質量の証拠を得た(と考えた)。

ツビッキーは、銀河団の全質量をその周縁の銀河の運動に基づいて推定し、その結果を銀河の数および銀河団の全輝度に基づいて推定されたものと比較した。

そして、彼は光学的に観測できるよりも400倍もの推定される質量が存在する、と判断した。

銀河団中の可視的な銀河の重力はそのように高速な軌道に対して小さすぎるので、何らかの外部要因が必要であった。

これは「質量欠損問題 (missing mass problem)」として知られている。これらの結論に基づき、ツビッキーは銀河団を互いに引き寄せる十分な質量や重力を及ぼす目に見えない物質が存在するはずであると推測した。

■グロート・レーバー(Grote Reber, 1911年12月22日 – 2002年12月20日)は、アメリカ合衆国の天文学者。電波天文学のパイオニアである。自作の電波望遠鏡で全天の観測を行い多くの電波源を発見した。

ジャンスキーの用いたアンテナは結果的に世界初の電波望遠鏡となったが、はじめから地球外電波を検出する目的で作成された世界で最初の電波望遠鏡は、このジャンスキーの論文に興味を抱いたグロート・レーバーによって1940年に自宅の庭に作られた口径9.5mのものである。

レーバーの作製した電波望遠鏡

■1942年【V2ロケット】は、第二次世界大戦中にドイツが開発した世界初の軍事用液体燃料ミサイルであり、弾道ミサイルである。

それ以前から開発されていたアグリガット(Aggregat)ロケットシリーズのA4ロケットを転用・実用兵器化し、宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスが報復兵器第2号(Vergeltungswaffe 2)と命名したため、この名で呼ばれることとなった。

この兵器は同大戦末期、主にイギリスとベルギーの目標に対し発射された。

下は発射の映像。

後にアメリカ合衆国でアポロ計画を主導したヴェルナー・フォン・ブラウンが計画に参加し設計を行ったことで知られる。

ペーネミュンデの記念館にある A4 の実物大の模型

★最初の A4 は1942年3月に飛行し、およそ1.6km飛んで海中に落下した。2回目の打上げでは高度 11.2 km に到達して爆発した。

1942年10月3日の3回目の打上げで成功。ロケットは完全な軌跡を描き、宇宙空間に到達した初の人工物体となって 192 km 先に落下した。

■1945年、アーサー・C・クラークは雑誌ワイヤレス・ワールド上で、通信衛星を用いたマスコミュニケーションの可能性を詳細に記述した。

また、クラークは人工衛星打ち上げの計画、可能な衛星軌道などについても調査し、3機の静止軌道衛星で地球全体をカバーすることを提案した。

■意図的に宇宙に送られた初の動物はライ麦の種、綿の種と一緒に打ち上げられたミバエであった。

パパイアの果実に産卵中のミカンコミバエ

1947年2月20日、アメリカでドイツから接収したV2ロケットによってホワイトサンズ性能試験場から打ち上げられた。

この実験の目的は高高度における宇宙線被曝の影響を調査することであった。

高度68マイルに到達、ミバエは生きて回収され健康体であった。後に行われた複数のV2ミッションでは蘚類を含む生体サンプルを宇宙へ運んだ。

■【天体望遠鏡】アメリカのパロマー天文台の200in(5.08m)ヘール望遠鏡は1948年完成以来、長年にわたって世界一の口径を誇った歴史ある研究用望遠鏡である。

P200 Dome Open.jpg
ドームを開放状態にしたパロマー天文台 英語版ウィキペディアのConeslayerさん, CC 表示 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4123548による

ボイジャーなどの惑星観測機やハッブル宇宙望遠鏡・すばる望遠鏡など近年の活躍により差し替えられるまで、天文書に載せられる多くの天体写真がヘールによるものであった。

この反射鏡はホウケイ酸ガラス(パイレックス)の単一鏡で、開発に困難を極めたことが知られている。

架台もユニークで、赤道儀式だがフォーク式ではなくホースシュー式である。この方式もフォーク式と同様に天の北極近くを撮像できる利点がある。

■1948年【α-β-γ理論を元にして「火の玉宇宙」というアイディアを発表】ロシア出身の天文・核物理学者ジョージ・ガモフは、ジョルジュ・ルメートルが提唱したビッグバン理論を支持し発展させた。

ガモフは、初期の宇宙は全てが圧縮され高密度だったうえに、超高温度だったとし、宇宙の膨張の始まりを、熱核爆弾の火の玉と捉え、創造の材料(陽子、中性子、電子、ガンマ線の高密度ガス。これらの材料をガモフは「イーレム」と呼んだ)が爆発の場で連鎖的に起きる核反応によって、現在の宇宙に見られる様々な元素に転移したのだ、と説明した。

■1948年【αβγ理論】ラルフ・アルファー(Ralph Asher Alpher、1921年2月3日 – 2007年8月12日)はアメリカ合衆国の物理学者。ユニオン大学名誉教授。宇宙の誕生とその後の急速な膨張のなかで、ヘリウムなどが合成されるメカニズムに関する論文いわゆる「αβγ理論」で知られる。

ワシントンD.C.で生まれた。ジョージ・ワシントン大学で、ジョージ・ガモフのもとで水素からヘリウムなどの重い元素の生成される過程の計算を行った。この論文は、ガモフと連名で1948年に『フィジカル・レビュー』に発表された。(ハンス・ベーテを加えて、執筆者をアルファー、ベーテ、ガモフ、ギリシャ語のアルファベット順に並べた。)

この計算による宇宙における、水素とヘリウムの存在比率や予測される宇宙背景放射の温度はビッグ・バン理論が正しいとされる証拠となった。

■フレッド・ホイルが1948年に出したモデルは「定常モデル」と呼ばれる。

このモデルでは銀河が互いに遠ざかるに従って、あとに残った空間に新しい物質が現れ出て、それが固まることで新たな銀河を形成してゆくとし、これにより宇宙の物質密度が一定に保たれるとした。

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このモデルでは大まかに言えば、宇宙はいつでも同じように見えることになる。

これは「宇宙は永遠で無限だから偉大なのだ」と考える当時の科学者たちの心をつかんだ。

またホイルの説はビッグバン説よりエレガントに思われたため物理学者らに好まれた。ハッブルまで定常説が自然だと見なしていた。

しかしホイルは、定常モデルであってもビッグバン・モデルと同様に炭素・酸素・金・鉄・窒素・ウラン・鉛などの化学元素の起源を説明しなければならない、という問題に気づいた。

ホイルは、時間の始まりに一発のビッグバンがあってそれが核反応炉の役割を果たしたとしなくても元素が創生されたと説明がつくことを示したくて、「星ではありとあらゆる核種変換が起こっている」と提唱した。

そのため1953年にはカリフォルニア工科大学ケロッグ放射線研究所に赴いて、そこの所長のウィリアム・ファウラーの協力で、泡箱を用いて原子核の衝突実験(3個のヘリウムでできる炭素の原子核の性質を調べる実験)を成功させた。

これにより炭素は星のなかで無尽蔵に作られる性質があることが判った。

その後も彼ら2人を含めて数名が元素の歴史に迫り、B2FH論文に結実させた。だが、こうした論文は定常モデルに有利に働いたというよりむしろ、ハッブルの観測によって導かれた星の進化に関するアイディア群がより完成度を高めた、と一般には見なされた。

■ルメートルの理論にビッグバン (Big Bang) という名前を付けたのはホイルで、1949年の BBC のラジオ番組 The Nature of Things の中で彼がルメートルのモデルを “this ‘big bang’ idea” とからかうように呼んだのが始まりであるとされている。

Sir Fred Hoyle “One [idea] was that the Universe started its life a finite time ago in a single huge explosion…This big bang idea seemed to me to be unsatisfactory. ”

科学記者ジョン・ホーガンの取材によるとホイルは卑下する意味は微塵も無く、何か咄嗟に生き生きとした表現は無いものかと思いついたのが「ビッグ・バン」だったと気まずく述べており「命名者としてパテントを取得しておくべきだったよ」と悔やんでいる旨を明かしている。

その後、用語として認知され、定着した。

■1949年6月14日、アカゲザルのアルバート2世(Albert II)はアメリカのV2ロケットによって初の宇宙に行ったサルになったが、パラシュートの故障で地面に激突し死亡した。

■1950年8月31日、アメリカはハツカネズミをV2ロケットに搭載して高度137kmまで打ち上げた。

■1951年に教皇ピウス12世はバチカン宮殿で会議を開き、「ビッグバンはカトリックの公式の教義に矛盾しない」との声明を発表した。

教皇就任1939年3月2日
教皇離任1958年10月9日

■1951年1月29日、ソ連はイヌのツィガンとデジクをR-1 IIIA-1に搭載して宇宙に送った(弾道飛行)。2匹ともこの飛行に生き残ったが、デジクは後の飛行で死亡している。

■1955年7月29日、ホワイトハウスは1958年の春までに人工衛星を打ち上げると発表した。

これはヴァンガード計画として知られるようになる。同年7月31日、ソ連は1957年の秋までに人工衛星を打ち上げると発表した。。

■バイコヌール宇宙基地(バイコヌールうちゅうきち、露: Космодром Байконур、カザフ語: Космодром Байқоңыр、英: Baikonur Cosmodrome)は、カザフスタン共和国のチュラタムにあるロシアのロケット発射場である。現在、ロシア連邦宇宙局が管理している。

1955年にソビエト連邦がチュラタムのシルダリア河畔に建設した。建設当初はICBM(大陸間弾道ミサイル)の発射場として使われていたが(1956年に初試射)、後に宇宙関連施設を含めて基地は拡張されロケットの発射場として使われ始めた。基地の周りには、職員の住居、学校などが造られた。ここは旧ソ連時代からロシアの全ての有人宇宙船の打ち上げに使われている。

  • 所在地 : カザフスタン共和国チュラタム(北緯45度36分、東経63度24分)
  • 発射点 : 9ヶ所
  • 発射台 : 14基
  • 打ち上げ方向 : 東方
  • 基地総面積 : 約5,000平方キロメートル

■1957年8月21日【世界初の大陸間弾道ミサイル (ICBM)発射成功】8K71の番号が与えられた新型ICBMの最初のテストは、バイコヌール宇宙基地で1957年5月15日19:01(モスクワ時間)に行われた。

R-7 8K72

サイトから400km離れた時、ストラップオンブースターの配管からの燃料漏れによる推力低下により安定を失い破壊された。

続く6月11日に予定された発射テストは、事前の試験によってブースターBの酸素配管のバルブ凍結によって発射が中止された。

3回目の発射テストでは発射直前に燃料系統の故障により発射は中止され、発射台から降ろされて再点検されることになった。

7月12日、再度3回目の発射試験が行われたが、発射から33秒後に制御回路の故障から安定性を失った。

8月21日の4回目の発射テストでは、初めて6000kmの長距離飛行に成功した。この成功は8月26日にタス通信によって配信されている。

★R-7 (ロシア語 Р-7) は、ソビエト連邦のセルゲイ・コロリョフが率いるOKB-1が開発した世界初の大陸間弾道ミサイル (ICBM) である。

後に宇宙開発用ロケットに転用されて多くの派生ロケットを生み、R-7系列のスプートニクロケットが世界初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げを、同じくR-7系列のボストークロケットが世界初の有人宇宙船ボストークを打ち上げる等ソビエト連邦の宇宙開発の原動力となった。

ソ連側での愛称はセミョールカ (Семёрка, Semyorka) でありロシア語で数字の 7 を意味する。

またNATOコードネームではサップウッド (Sapwood, 白太の意) と呼ばれている。アメリカ国防総省の識別番号 (DoD番号) はSS-6。

■1957年10月4日【人類初の人工衛星】は、1957年にソビエト連邦が打ち上げたスプートニク1号。

スプートニク1号(スプートニク1ごう、露: Спутник-1)は、ソビエト連邦が1957年10月4日に打ち上げた世界初の人工衛星である。重量は 83.6kg。Спутникはロシア語で衛星を意味する。

コンスタンチン・ツィオルコフスキーの生誕100年と国際地球観測年に合わせて打ち上げられた。

科学技術的に大きな成果となっただけでなく、スプートニク・ショックを引き起こし、米ソの宇宙開発競争が開始されるなど、冷戦期の政治状況にも影響を与えた。

本体寸法は直径58cmの球状
質量83.6 kg

★スプートニク・ショック(英語: Sputnik crisis)とは、1957年10月4日のソ連による人類初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げ成功の報により、アメリカ合衆国を始めとする西側諸国の政府や社会に走った、衝撃や危機感を指す。

スプートニク計画以前、アメリカは自国を「宇宙開発のリーダーであり、それゆえミサイル開発のリーダーでもある」と信じていた。しかし、スプートニク1号成功の突然のニュースと、それに対抗したアメリカ合衆国連邦政府の人工衛星計画「ヴァンガード計画」の失敗は、アメリカの自信を覆し、全米をパニックに陥れた。

この時期、ソ連が戦略弾道ミサイル搭載潜水艦をアメリカに先駆けて配備し、大陸間弾道ミサイル開発を先行するなど、軍事技術でアメリカが圧倒される出来事が相次いでいた。

スプートニク・ショックを受けて、ソ連の脅威とアメリカの「ミサイル・ギャップ」劣勢を覆すため宇宙開発競争が始まり、科学教育や研究の重要性が再認識されて大きな予算と労力が割かれるなど、危機感の中でアメリカの軍事・科学・教育が大きく再編された。

スプートニク・ショックはアポロ計画、および1969年の月面着陸成功によって収束したが、冷戦の転機となった出来事であった。

スプートニク・ショックで1957年のパーソン・オブ・ザ・イヤーに選ばれたソ連の指導者ニキータ・フルシチョフ

■軌道を周回した初の動物は、イヌのライカであり、ソ連が1957年11月3日に打ち上げたスプートニク2号に搭乗していた。

周回軌道上から安全に帰還させる技術は当時まだ開発されていなかったため、7日後に薬殺される予定であったが、実際にはストレスと熱中症により打ち上げから数時間で死亡していたことが2002年に明らかにされた。

ユーリイ・ガガーリンが1961年4月12日に人類初の宇宙飛行を成し遂げるまでに、少なくとも10匹のイヌが周回軌道に打ち上げられ、非常に多くのイヌが弾道飛行した。

■1957年11月21日、NACAの事務局長ヒュー・ドライデンは、宇宙技術に関する特別委員会を設立した。

この委員会は、委員長のガイフォード・スティーバーの名前を取ってスティーバー委員会とも呼ばれ、連邦政府の各局間やアメリカ合衆国内の民間企業、大学との間の協力を担い、それぞれの知見を宇宙計画の策定に活かすための特別な運営委員会であった。

特に、第二次世界大戦でロンドン上空のドイツ軍のV1飛行爆弾を打ち落とした自動追跡迫撃砲を開発したヘンドリック・ウェイド・ボーデが、ロンドンを空襲したドイツ軍のV2ロケットを開発したヴェルナー・フォン・ブラウンと同じ会議で同じテーブルに着いたのは、珍しい出来事であった。

1957年11月21日、NACAの事務局長ヒュー・ドライデンは、宇宙技術に関する特別委員会を設立した。この委員会は、委員長のガイフォード・スティーバーの名前を取ってスティーバー委員会とも呼ばれ、連邦政府の各局間やアメリカ合衆国内の民間企業、大学との間の協力を担い、それぞれの知見を宇宙計画の策定に活かすための特別な運営委員会であった[8]。

特に、第二次世界大戦でロンドン上空のドイツ軍のV1飛行爆弾を打ち落とした自動追跡迫撃砲を開発したヘンドリック・ウェイド・ボーデが、ロンドンを空襲したドイツ軍のV2ロケットを開発したヴェルナー・フォン・ブラウンと同じ会議で同じテーブルに着いたのは、珍しい出来事であった。

最前列がフォン・ブラウン、左に4人目がウェイド・ボーデ

■セルゲイ・パーヴロヴィチ・コロリョフ(ロシア語: Сергей Павлович Королёв, 1907年1月12日 [旧暦1906年12月30日] – 1966年1月14日)は、ソビエト連邦の最初期のロケット開発指導者。

第一設計局 (OKB-1) の主任設計者として世界初の大陸間弾道ミサイル (ICBM) であるR-7を開発した。

R-7はペイロードを核弾頭から宇宙船に替えて宇宙開発にも使用され、1957年に世界最初の人工衛星スプートニク1号を打ち上げ、1961年には世界初の有人宇宙飛行としてユーリイ・ガガーリンを宇宙に運んだ。

コロリョフは、アメリカのヴェルナー・フォン・ブラウンと並ぶ米ソ宇宙開発競争の双璧を成した人物である。

■【マーキュリー計画】(マーキュリーけいかく、英: Project Mercury)は、1958年から1963年にかけて実施された、アメリカ合衆国初の有人宇宙飛行計画である。

マーキュリー計画が公式に承認されたのは1958年10月7日、また公表されたのは同年12月7日のことであった。

これはアメリカとソビエト連邦(以下ソ連)の間でくり広げられた宇宙開発競争の初期の焦点であり、人間を地球周回軌道上に送り安全に帰還させることを、理想的にはソ連よりも先に達成することを目標としていた。

計画は、空軍から事業を引き継いだ新設の非軍事機関アメリカ航空宇宙局によって実行され、20回の無人飛行 (実験動物を乗せたものを含む)、およびマーキュリー・セブンと呼ばれるアメリカ初の宇宙飛行士たちを搭乗させた6回の有人飛行が行われた。

計画名は、ローマ神話の旅行の神メルクリウス (Mercurius, マーキュリー) からつけられた。

マーキュリーは翼の生えた靴を履き、高速で移動すると言われている。計画の総費用は16億ドル (2010年の貨幣価値で換算) で、およそ200万人の人間が関わった。宇宙飛行士たちはマーキュリー・セブンの名で知られ、各宇宙船には「7」で終わる名称が、それぞれの飛行士によってつけられた。

開始当初こそ失敗が連続して進行は遅れたものの、計画は次第に知名度を得、テレビやラジオで世界中に報道されるようになった。

この後の二人乗りの宇宙船を使用するジェミニ計画では、月飛行で必要となる宇宙空間でのランデブーやドッキングが実行された。マーキュリー計画はその基礎を築いたと言える。

さらにアポロ計画の開始が発表されたのは、マーキュリーが初の有人宇宙飛行を成功させた数週間後のことだった。

★マーキュリー・セブン(Mercury Seven)は、アメリカ合衆国初の有人宇宙飛行「マーキュリー計画」のため、1959年4月9日にアメリカ航空宇宙局(NASA)によって選抜された7名の宇宙飛行士のことである。

オリジナル・セブンや第1期宇宙飛行士(Astronaut Group 1)などの呼称が用いられることもある。

NASAの20世紀のすべての種類の有人宇宙船(マーキュリー、ジェミニ、アポロ、スペースシャトル)にメンバーのいずれかが搭乗したことがある。

メンバーの活躍は映画『ライトスタッフ』にも描かれている。

マーキュリー・セブン(後列左からシェパード、グリソム、クーパー、前列左からシラー、スレイトン、グレン、カーペンター)
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■【NASA】1958年10月1日、NASAが正式に発足し、キース・グレナン (T. Keith Glennan) が初代長官に、ヒュー・ドライデン (Hugh L. Dryden, 前NACA長官) が副長官に任命された。

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グレナンから大統領への報告は、国立航空宇宙評議会 (National Aeronautics and Space Council) を通して行われることになっていた。

NASAの組織内においてマーキュリー計画に責任を持つのは「スペース・タスク・グループ (Space Task Group)」と呼ばれる集団で、その計画の目的は有人宇宙船を地球周回軌道に乗せ、宇宙空間での飛行士の能力や身体機能を観察し、搭乗員と宇宙船を安全に帰還させることであった。

既存の技術や使用可能な装置は何でも利用され、また機体の設計においては最もシンプルで信頼のおける方法が試みられ、革新的な実験計画とともに現存するミサイルが発射機として活用された。

■1958年12月13日、アメリカ海軍の調教した南アメリカのリスザル・ゴードを乗せたジュピターIRBM AM-13がケープ・カナベラルより打ち上げられた。

1959年に宇宙飛行したリスザルのベーカー、ゴードは1958年にジュピターで打ち上げられた

ノーズコーンの回収用パラシュートが作動せず、ゴードは死亡した。

飛行中に地上に送られたテレメトリーデータから、ゴートは打ち上げ時の10G、8分間の無重力状態、大気圏再突入時の40Gに耐えたことが分かっている。

ノーズコーンはケープ・カナベラルから2,411 km離れたダウンレンジに沈み、現在も回収されていない。

■【マントル対流】1958年、オランダの地球物理学者フェリックス・ベニング・マイネスが地球上の造構造作用をこの立場から論じたのに始まり、海洋底拡大説へ発展した。

★フェリックス・ベニング・マイネス(Felix Andries Vening Meinesz、1887年7月30日 – 1966年8月10日)はオランダの地球物理学者、測地学者である。重力の精密な測定方法の発明者として知られる。海上での重力の測定を可能にし、海洋底の重力異常を発見した。

1923年から1929年の間、地球のジオイドの正確な測定のために小型潜水艦を使った海洋の重力測定をおこなった。

これらの測定の様子は映画にとられ、マイネスは有名になった。この調査で得られた膨大なデータは、オランダの地球物理学者たちと分析され、結果は1948年に発表された。

重要な発見は海洋溝に沿って負の重力異常が発見されたことである。また平均の重力は海洋底も陸上も等しく、アイソスタシー説のなりたつことが確かめられた。

Vening meinesz.jpg
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■1959年1月2日に打ち上げられたルナ1号は、月着陸まで至らなかったものの、1月4日に月近傍5,995 kmを通過し、人類初の人工惑星となった。

ルナ1号の複製

月面到達に失敗したとは言え、当時ソ連が既に月を超える軌道に人工物を送り込む能力を持つロケットを擁する事が実証された意義は大きかった。

■アメリカ生まれのアカゲザルのエイブル(Able)とペルー生まれのリスザル・ベイカー(Baker)は1959年に宇宙飛行(弾道飛行)から生きて帰還した初のサルとなった。

ベイカー
Baker

1959年5月28日、エイブルとベイカーがジュピターIRBM AM-18のノーズコーンに乗せられ、ミサイルは高度579kmに達し、ケープ・カナベラルから2,735km離れた大西洋のミサイル射爆エリアに降下した。

打ち上げ準備が完了したジュピターAM-18ロケット

2匹は38Gに耐え、約9分間無重力状態だった。

最高速度は16,000km/hで、16分間の飛行だった。

2匹は飛行から無事に生還し、状態も良好だった。

しかしエイブルは飛行の4日後に行われた電極を除去するための手術の際、麻酔が原因で死亡する。

ベイカーはハンツビルのUSスペース・アンド・ロケット・センターで1984年11月29日まで生きた。

ベイカーの墓石の上には、いつも必ずバナナが供えられている。

■1959年9月14日【ルナ2号月面激突】

★1959年9月12日6時39分42秒(UTC)に打ち上げられたルナ2号は、翌13日に月に到達し、推進装置から切り離された。

14日22時02分24秒(UTC)、33.5時間の飛行を終えた後、ルナ2号からの信号は突如途絶え、月に衝突したことが示唆された。

衝突地点は、およそ西経0度、北緯29.1度の晴れの海西部であると推定された。

ルナ2号の月面衝突の30数分後、推進装置も月面に衝突した。観測の結果、月には感知できるほどの磁場はなく、月にヴァン・アレン帯があるという証拠も見つからなかった。

■ルナ3号(ロシア語:Луна-3、ラテン文字表記の例:Luna 3)は、ソビエト連邦の無人月探査機。1959年10月4日に打ち上げられ、1959年10月7日に世界で初めて月の裏側の様子を撮影した。

AMS Luna-3から送信された、月の裏側を示す最初の画像

■1959年12月4日【リトル・ジョー2号打ち上げ】(リトル・ジョー2ごう、英: Little Joe 2)は、マーキュリー宇宙船の開発のために行われた飛行試験である。

宇宙空間で人間にかかる様々な負担を調べるため、アカゲザルのサム (SAM) を機体に乗せ、宇宙の一歩手前まで送った。

Launch of the Little Joe 2 (1959).jpg

機体は1959年12月4日、米東部標準時11:15にアメリカ合衆国バージニア州ワロップス島から発射され、高度88キロメートルに到達した。

搭載されていた猿のサムは駆逐艦USSボーリー (USS Borie) によって大西洋上で無事回収された。

サムは宇宙に行った動物の中の一頭であり、サン・アントニオの航空医学学校 (School of Aviation Medicine) から送られたもので、名前は同校の頭文字からつけられた。

リトル・ジョー2号に乗せられる、宇宙に行った動物の中の一頭であるサム

飛行に使用されたマーキュリー宇宙船の実物大模型は、現在はバージニア州ハンプトンの空軍公園博物館に展示されている。

■【海洋底拡大説(かいようていかくだいせつ、英: Seafloor spreading)】とは、中央海嶺で地球内部から物質が上昇し、新しく海底の岩盤を作るため、海底が中央海嶺の両側へ拡大するという仮説。

拡大する一方、海溝でその岩盤が沈みこみ、結果として大規模な物質循環が起こって大洋底が徐々に更新されているとするため、海洋更新説(かいようこうしんせつ)ともいう。

海洋底の生成された年代
赤 = 970万年前以降、黄 = 5590から4790万年前、紺 = 1.8億年前から1.543憶年前

ハリー・ハモンド・ヘスとロバート・シンクレア・ディーツ(1960年から1961年ごろに、海洋底拡大説を提唱)によって1960年代のはじめに提案された。その後、1967年頃に登場するプレートテクトニクスへと発展していった。

■1960年8月19日、スプートニク5号に乗ったイヌのベルカとストレルカは地球軌道を周回して生還した初の動物となった。

ストレルカの子犬のプシンカは1961年、ニキータ・フルシチョフによってジョン・F・ケネディの娘キャロライン・ケネディに贈られ、プシンカの子孫は現在も生存している。

★ベルカ(Белка)とストレルカ(Стрелка)は、1960年8月19日にスプートニク5号に乗って宇宙で1日を過ごした後、無事地球に帰還し、地球軌道を周回して無事帰還した初めての生物となった。

彼らは1匹のウサギ、42匹のネズミ、2匹のラット、ハエ、沢山の植物や菌類とともに出発し、この全てが生きたまま帰還した。

■アメリカ国防総省による1960年の世界測地系(World Geodetic System)の策定時には、人工衛星信号のドップラー周波数シフトの測定により、北米測地系の本初子午線のずれが次第に分かりつつあった。

実際に1960年前後より開発された最初の全地球的な衛星航法システムであるTRANSITを用いて測定すると、北米測地系は、地心座標系(全地球的測地系)の観点から見ると、グリニッジ子午線から東におよそ100mずれた子午線を本初子午線としていることが明らかになった。

これが現在国際的に使用されるIERS基準子午線となった。

■1961年1月31日【マーキュリー・レッドストーン2号 (MR2)打ち上げ】ハムという名のチンパンジーを乗せて弾道飛行を行う。

ハムはレバーを引くように訓練され、成功するとバナナが、失敗すると電気ショックが与えられた。

この飛行によって宇宙飛行中に動物が作業可能であることが立証された。

USSドナー (LSD-20) がケープ・カナベラル南東679キロメートル沖合で回収。

MR2のハム。1961年

■1961年2月22日、フランスは初めてラット(Hector)を宇宙に送った(弾道飛行)。

■1961年3月、ソビエト連邦の宇宙飛行士ヴァレンチン・ボンダレンコ(Valentin Bondarenko)が、高濃度の酸素で満たされた気密室で発生した火災により死亡した。

ソ連はこの事実を20年以上も隠蔽していたため、もしNASAがこの事故を知っていたら、アポロ1号の悲劇を防ぐことはできていなかっただろうかという憶測を生むこととなった。

■【史上初の有人宇宙飛行】1961年4月12日、ガガーリンはボストーク3KA-2で世界初の有人宇宙飛行に成功した。

このときのコールサインは「ケードル(Кедр、ヒマラヤスギの意)」であった。飛行中「祖国は聞いている」という歌(エヴゲーニー・ドルマトフスキー作詞、ドミートリイ・ショスタコーヴィチ作曲・作品86)を口ずさんで自分自身を元気づけていたといわれている。

ガガーリンを乗せた宇宙船は、地球周回軌道に入り、大気圏外を1時間50分弱で1周し、ソ連領内の牧場に帰還した。

当初は宇宙船と共に着陸したとされていたが、実際は高度7000mで飛行士を座席ごとカプセルから射出して、一人パラシュートで降下させるという、大きな危険を伴うものだった。

飛行中、ガガーリンは自分が中尉から少佐に昇進(二階級特進)したというタス通信のニュースを聞いた。

ガガーリンは喜んだが、このような発表を飛行中のガガーリンに伝えた本当の理由は、当時の技術ではガガーリンが生きて帰還できる可能性は低いと政府高官が考えていたからだと言われている。

地上に無事帰還すると、ガガーリンは一躍「時の人」となった。

ニキータ・フルシチョフとの対面では、ガガーリンはこのような計画を成功に導いた共産党の偉大さを賞賛した。

フルシチョフにとってガガーリンの成功は、通常兵器を犠牲にしてまで自ら推し進めたミサイル力増強計画の成果を示すものであった。

★ユーリイ・アレクセーエヴィチ・ガガーリン(ロシア語: Юрий Алексеевич Гагарин, ラテン文字転写: Yurii Alekseyevich Gagarin, 1934年3月9日 – 1968年3月27日)は、ソビエト連邦の軍人、パイロット、宇宙飛行士。最終階級は大佐。

ガガーリンのSK-1宇宙服

★「地球は青かった」
ガガーリンの言葉として知られる「地球は青かった」は、1961年4月13日付けのイズベスチヤに掲載されたルポ(着陸地点にいたオストロウーモフ(Георгий ОСТРОУМОВ)記者によるもの)によれば、原文では “Небо очень и очень темное , а Земля голубоватая . ” となっており、日本語では、「空は非常に暗かった。一方、地球は青みがかっていた」となる。

朝日新聞4月13日夕刊、毎日新聞4月13日夕刊、読売新聞4月13日朝刊は、この記事を基にしてガガーリンの言葉を伝えている。

★「神はいなかった」

ガガーリンの地球周回中の言葉として報道され、有名になったものとして「ここに神は見当たらない」というものがある。

ガガーリンが飛行中に「見回してみても神はいない」といったとされているが、記録にはその種の発言は一切残されていない。

これは同じソ連の宇宙飛行士のチトフが訪米した時にシアトルで記者団に向けて放った発言である。

しかしながら日本以外では、この言葉の方が「地球は青かった」よりも有名である。他に「私はまわりを見渡したが、神は見当たらなかった」という表現でもよく引き合いに出されている。

ガガーリンの親友であった宇宙飛行士アレクセイ・レオーノフは著書「Two sides of the moon(『アポロとソユーズ』、p295)」の中でガガーリン自身が好んで語ったアネクドート(風刺ジョーク)として次の話をあげている。おそらく、この中の言葉が彼自身の言葉として一人歩きしているのではないかと思われる。

宇宙から帰還したガガーリンの歓迎パーティにロシア正教のモスクワ総主教アレクシー1世が列席しており、ガガーリンに尋ねた。

総主教「宇宙を飛んでいたとき、神の姿を見ただろうか。」
ガガーリン「見えませんでした。」
総主教「わが息子よ、神の姿が見えなかったことは自分の胸だけに収めておくように。」
しばらくしてフルシチョフがガガーリンに同じことを尋ねた。総主教との約束を思い出したガガーリンはさきほどとは違うことを答えた。

ガガーリン「見えました。」
フルシチョフ「同志よ、神の姿が見えたことは誰にもいわないように。」(レーニン主義は宗教を否定している)

■1961年5月5日、アメリカ初の宇宙飛行士アラン・シェパードが搭乗するマーキュリー・レッドストーン3号が弾道飛行を行った。

★アラン・バートレット・シェパード・ジュニア(Alan Bartlett Shepard Jr.、1923年11月18日 – 1998年7月21日)はアメリカ合衆国最初の宇宙飛行士マーキュリー・セブンの一人、アメリカ初の宇宙飛行に成功。アメリカ海軍の軍人。

ニューハンプシャー州デリー生まれ。1950年から海軍のテストパイロットを務め、F2HやF3H、F8U等の各種新戦闘機のテスト飛行を行った。

その後、シェパードはアメリカ航空宇宙局(NASA)に参加を求められライトスタッフと呼ばれた宇宙飛行士となった。

1961年5月5日、マーキュリー計画の「マーキュリー3号(フリーダム7)」でアメリカ人として初めて宇宙へ出た。

ただし、その飛行は15分28秒の弾道飛行であった。

さらにジェミニ計画、アポロ計画に参加、アポロ13号に搭乗予定だったが中耳炎の悪化で延期になり、1971年2月にアポロ14号に船長として搭乗し、月面に降り立った5人目の人類となった。

なお、この時のシェパードの年齢は47歳で、月面を歩いた人類としては最高齢だった。またこの際、月面でゴルフをするというパフォーマンスを行ったことは有名である。

また、シェパードはイギリスのSF人形劇サンダーバードに登場するトレーシー家の五男アラン・トレーシーの名前の由来となっている。

シェパードは海軍少将で退役した後、1998年7月21日に74歳で没した。

■1961年5月25日、ケネディは “Urgent National Needs” (至急の国家的要請)に関して合衆国議会で次のように演説した。

ジョン・F・ケネディ
John F. Kennedy

私は、この60年代が終わるまでに人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させるという目標を達成することに我が国民が真剣に取り組むべきであると信ずるものであります。

これ以上人類に強い印象を与える宇宙事業計画はこの時代にただのひとつも存在せず、それが長期に及ぶ宇宙の探査のために重要であることもまたとないことでしょう。

そして、完遂するためにこれほど困難をともない、費用のかかるプロジェクトもそうないことでしょう。

我々はしかるべき月宇宙船の開発を加速するつもりです。

我々は、これまでに開発されたいずれのものよりもはるかに大型で、それらの代わりとなる液体および固体の燃料ブースターを一定の優れた成果が得られるまで開発するつもりです。

我々は、その他のエンジン開発および無人探査、我が国民が決して見落とすことのないことには、この大胆な宇宙飛行を最初に行う者が生還すること、そのひとつの目的のために特に重要である探査に充てる追加的な基金を提案します。

しかし、本当の意味で、ただ一人の人間が月に行くのではありません。

我々がこの判断を肯定すれば、全国民が月に行ったも同然です。

と申しますのも、彼を月に送り込むには我々皆が働かなければならないからです。
—第35代アメリカ合衆国大統領 ジョン・F・ケネディ、1961年5月25日、上下両院合同会議における演説より。

■【アポロ計画】(アポロけいかく、Apollo program)は、アメリカ航空宇宙局(NASA)による人類初の月への有人宇宙飛行計画である。1961年から1972年にかけて実施され、全6回の有人月面着陸に成功した。

Apollo program insignia

アポロ計画(特に月面着陸)は、人類が初めて有人宇宙船により地球以外の天体に到達した事業である。これは宇宙開発史において画期的な出来事であっただけではなく、人類史における科学技術の偉大な業績としてもしばしば引用される。

■1961年8月、ソ連はゲルマン・チトフを飛行させ1日間の宇宙滞在に成功した。

チトフ(左)、ニキータ・フルシチョフ(中央)、ガガーリン(右)

★ゲルマン・ステパノヴィチ・チトフ(ロシア語: Герман Степанович Титов、Gherman Stepanovich Titov、1935年9月11日 – 2000年9月20日)は、ソビエト連邦の宇宙飛行士。ガガーリンの次に宇宙に行ったソ連の宇宙飛行士として知られている。最終階級は大将。

1961年8月7日に打ち上げられたボストーク2号に乗って一日以上宇宙を周回した。滞在中に地球や宇宙空間を直に撮影した人間としては初となった。

ボストーク2号のコールサインは「オリョール」(鷹)で今でも最も若くして宇宙飛行した人として知られており、宇宙酔いを初めて経験している。

また、初めて宇宙船を操縦し、機内で食事をするなどの実験を行っている。

先立って行われたガガーリン時の実験では大気圏外で単に体が機内で固定されていたのみで一切が何も出来ないものだったのに対し、自身の場合は自由性に富んだ実験だったものと後年本人もこれについてはコメントしている。

ガガーリンの発言とよく間違われている「神は見当たらなかった」はチトフが訪米した時にシアトルで記者団に向けて放った発言である。

■1961年【世界初の偵察衛星】ゼニット(ロシア語: Зенит、天頂の意味)は、1961年から1994年の間にソビエト連邦によって運用されていた偵察衛星。

目的を秘匿するために全てコスモス衛星として打ち上げられた。33年以上の間に500回を越える打ち上げが行われ、2009年現在、宇宙開発の歴史上で最も多く打ち上げられた宇宙機である。

ゼニットのカプセル。円形の窪みは偵察カメラの開口部。

★最初のゼニット衛星の打ち上げは1961年11月11日に行われたが、打ち上げロケット第3段が故障し、軌道への到達が不可能になったため自爆処分された。

1962年4月26日の2回目の打ち上げは成功を収め、コスモス4号の名が公式に与えられた。

衛星は3日後に大気圏に突入し地上へ帰還したが、姿勢制御装置の故障のため有用な写真は撮影できなかった。

3つ目のゼニット(コスモス7号)は1962年7月28日に打ち上げられ、11日後に写真と共に帰還に成功した。

その後、偵察システムの有効性を確かめるために、2回の打ち上げ失敗を含む10回の打ち上げが行われた。結果は肯定的なもので、引き続いて本格的な運用が開始された。

ゼニットの改良はその後も続けられ、様々な偵察ミッションのため複数のバリエーションが開発された。ゼニット衛星の運用は1994年まで続けられた。

■1961年11月29日【マーキュリー・アトラス5号 (MA5)打ち上げ】エノスという名のチンパンジーを搭乗させての環境制御装置の試験を行い、成功。

軌道を2周し、同装置が人間を搭乗させても十分に機能することを証明した。

マーキュリー・アトラス最後の試験飛行。バミューダ南東410キロメートルの洋上でUSSストームスが回収した。

MA5のエノス。1961年

■1962年2月20日ジョン・グレンが地球を3周した。マーキュリー計画が終了した1963年の時点で両国はそれぞれ6人の飛行士を宇宙に送っていたが、アメリカは宇宙での総滞在時間という点で依然としてソ連に後れを取っていた。

★ジョン・ハーシェル・グレン・ジュニア(John Herschel Glenn Jr., 1921年7月18日 – 2016年12月8日[1])は、アメリカの元海兵隊戦闘機パイロット、宇宙飛行士、政治家。1962年にアメリカ人として初の軌道周回飛行を行った。


★1998年10月29日、スペースシャトルのディスカバリー号によるSTS-95で再び宇宙へ出て9日間滞在した。このとき77歳であったが、これは宇宙飛行の最年長記録であり、高齢者の可能性を示したと評された

■アレシボ天文台(Arecibo Observatory)はプエルトリコのアレシボにある電波天文台。

米国科学財団(NSF)との協力協定のもと、国立天文学電離層センターの一部として、SRIインターナショナル、宇宙研究大学連合、プエルトリコ・メトロポリタン大学により運営されている。

1963年に建設され、単体では世界最大の電波望遠鏡として知られていたが、2016年に中国の500メートル球面電波望遠鏡(FAST)が完成したことにより、世界最大の地位からは降りることとなった。

コーネル大学とアメリカ空軍の元で建設されている。

直径305 mの球面反射面がカルスト地形の窪地を利用して造られ、3本のマストで高さ150 mに受信機が吊り下げられている固定式のアンテナである。

レーダーとしても使用でき、小惑星などの観測にも利用され、地球へ衝突するかもしれない小惑星を追跡できる地球で唯一の天文台と言われている。

地球外知的生命体探査との関わりが深く、1974年にはM13ヘメッセージが送られた(アレシボ・メッセージ)。

アレシボ・メッセージ Arne Nordmann (norro), CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=365130による

1999年から行われている SETI@home においてはアレシボ天文台で受信された電波データの解析が行われている。

冷戦時代には、月面反射したソ連などからの電波を受信するのにも使われたことがある。

■ワレンチナ・ヴラディミロヴナ・テレシコワ(ロシア語: Валенти́на Влади́мировна Терешко́ва, ラテン文字転写: Valentina Vladimirovna Tereshkova, 1937年3月6日 – )は、ソ連・ロシアの宇宙飛行士、空軍軍人、政治家。1963年6月16日にボストーク6号に搭乗し、女性として世界初の宇宙飛行を行った。

空軍少佐の制服を着用したテレシコワ(1969年)

★1962年、女性飛行士候補に選抜され、400人を超える候補の中から選抜された5人の1人となった。テレシコワ以外の4人はタチアナ・クズネツォワ、イリーナ・ソロウィオワ、ジャーンナ・ヨールキナ、ワレンチナ・ポノマレワである。

宇宙飛行
1963年6月16日、テレシコワはボストーク6号に単独搭乗して70時間50分で地球を48周する軌道飛行を行い、史上初の女性宇宙飛行士となった。

旧ソ連や現在のロシアでは、宇宙活動中の全ての飛行士が個人識別用のコールサインを付与され、テレシコワは「チャイカ」(Ча́йка、カモメの意)が与えられた。

打上げ後の «Я — Чайка» (ヤー・チャイカ、「こちらチャイカ」の意)という応答が女性宇宙飛行士の宇宙で発した最初の言葉となり、日本ではチェーホフの戯曲『かもめ』で用いられる同様の台詞「私はカモメ」と結びつけて紹介され、ミッションの代名詞として広く知られた。

■フランスは1963年10月18日にネコのフェリセットを打ち上げた。神経衝撃を測定するため、ネコの頭には電極が埋め込まれていた。

このネコは無事に生還したが、次に宇宙に行ったネコは死亡した。

■1964年【宇宙マイクロ波背景放射の発見】(うちゅうマイクロははいけいほうしゃ、cosmic microwave background ; CMB)とは、天球上の全方向からほぼ等方的に観測されるマイクロ波である。そのスペクトルは2.725Kの黒体放射に極めてよく一致している。

単に宇宙背景放射 (cosmic background radiation; CBR)、マイクロ波背景放射 (microwave background radiation; MBR) 等とも言う。黒体放射温度から3K背景放射、3K放射とも言う。宇宙マイクロ波背景輻射、宇宙背景輻射などとも言う(輻射は放射の同義語)。

アメリカ合衆国のベル電話研究所(現ベル研究所)のアーノ・ペンジアスとロバート・W・ウィルソンによってアンテナの雑音を減らす研究中に偶然に発見された。ペンジアスとウィルソンはこの発見によって1978年にノーベル物理学賞を受賞した。この CMBの解釈をめぐっては、1960年代に「CMBは遠方銀河の恒星からの光が散乱されたものである」とする定常宇宙論の支持者との間に激しい議論が巻き起こった。

宇宙マイクロ波背景放射が最初に観測された、ベル研究所のホルムデル拠点(en:Bell Labs Holmdel Complex)にある15メートルホーンアンテナ

■【世界初の宙遊泳】1965年3月18日、旧ソ連のアレクセイ・レオーノフがボスホート2号から人類初の宇宙遊泳を行なった。長さ5mの命綱をつけて、約20分間宇宙遊泳した。

★アレクセイ・アルヒポヴィチ・レオーノフ(ロシア語: Алексе́й Архи́пович Лео́нов, ラテン文字転写: Alexey Arkhipovich Leonov, 1934年5月30日 – 2019年10月11日)は、ソビエト連邦において、1960年にユーリイ・ガガーリンらとともに最初の宇宙飛行士として空軍から選抜された20人のうちの一人であった。

1975年、ソユーズ19号内

1965年3月18日7時UTCにボスホート2号に搭乗し、パベル・ベリャーエフ大佐とともにバイコヌール宇宙基地から打ち上げられた。

UTC18日8時34分より約10分間、宇宙遊泳を行った。

ボスホート2号は3月19日に帰還している。

このとき、宇宙服(ベルクート宇宙服)内の気圧が上がりすぎ、服全体が膨張し、手を握ることも出来ず、エアロックを通って船内に戻ることが出来なくなったため、与圧バルブを開いて空気を逃がして漸く事なきを得た。

この事実は当時は発表されることはなかった(なお、ドキュメンタリードラマ「宇宙へ ~冷戦と二人の天才~」では、ここでセルゲイ・コロリョフの指示があったと描写されているが、実際にはレオーノフの独断であった。

このことはレオーノフが自著「アポロとソユーズ」に書いている)

■1965年3月23日にグリソムが有人飛行(ジェミニ3号)を行う。(世界で初めて2度目の宇宙飛行)

★ヴァージル・アイヴァン・”ガス”・グリソム(Virgil Ivan “Gus” Grissom, 1926年4月3日 – 1967年1月27日)はアメリカ合衆国空軍のパイロットで、アメリカ初の有人宇宙飛行計画であるマーキュリー計画における宇宙飛行士のひとり。アメリカで2番目の有人宇宙飛行経験者であり、また世界で初めて2度目の宇宙飛行を経験した。

アポロ計画における、アポロ1号の宇宙飛行士として訓練中に火災事故にあい、アメリカの宇宙計画における最初の犠牲者のひとりとなった。

■1965年6月3日にホワイトがアメリカ人初の宇宙遊泳を行った。船外活動中、予備の耐熱グローブが宇宙船から外に出て行ってしまい、現在もスペースデブリとなっている。

ジェミニ4号でアメリカ人初の宇宙遊泳をするエドワード・ホワイト

★エドワード・ヒギンズ・ホワイト2世(Edward Higgins White, II、1930年11月14日 – 1967年1月27日)はアメリカ空軍の将校で、アメリカ航空宇宙局の宇宙飛行士である。

180cm、80kg。

1965年6月3日、彼はアメリカ人初の宇宙遊泳を行った。

ホワイトは、アポロ1号の訓練中の事故で死亡し、死後に合衆国名誉宇宙飛行士勲章を授与された。それ以前にも、ジェミニ4号の飛行に対して、NASA宇宙飛行メダルを受章している。

■1965年8月21日 ゴードン・クーパーがジェミニ5号に搭乗して、190時間55分の間に地球を120周するという飛行記録を樹立する。

★ゴードン・クーパー(Leroy Gordon Cooper、1927年3月6日 – 2004年10月4日)は、アメリカ合衆国オクラホマ州生まれのアメリカ航空宇宙局 (NASA) 所属の宇宙飛行士、空軍大佐。

Gordon Cooper in Helmet and Pressure Suit - GPN-2000-001000.jpg

アメリカ初の宇宙飛行士として選ばれた7人「オリジナル・セブン」のひとり。マーキュリー計画やジェミニ計画に参加した。

イギリスのSF人形劇サンダーバードに登場する、トレーシー家の四男ゴードン・トレーシーの名前の由来となっている。

■ルナ9号(ロシア語:Луна-9、ラテン文字表記の例:Luna 9)はソビエト連邦が打ち上げた無人月探査機。1966年1月31日に打ち上げられ、2月3日に世界で初めて月面への軟着陸に成功した。

「ルナ-9」。 実物大モデル

■ボスホート計画の間、ソ連はイヌのヴェテロクとウゴリョークを1966年2月22日に打ち上げ、コスモス110号の中で帰還するまでの22日間を軌道上で過ごした。

この記録は1974年にスカイラブ2号の宇宙飛行士が更新するまでは宇宙滞在最長記録となっていた。イヌの記録としては現在でも最長である。

■初のドッキングに成功したのは1966年3月16日に発射されたジェミニ8号で、ニール・アームストロング飛行士の操縦により目標衛星アジェナ8号と機体を接合させた。

アジェナ標的衛星とドッキングする
ジェミニVIII

★ジェミニ8号 (英語: Gemini VIII[2]) は、アメリカ合衆国の宇宙機関NASAが行ったジェミニ計画の6度目の有人宇宙飛行である。

この飛行では史上初となる2機の宇宙機の軌道上でのドッキングが行われたが、同時にこれもアメリカ初となる、宇宙空間における乗員の生命を脅かすほどの深刻な機器の故障が発生し、飛行を緊急に中止する必要が迫られた。

飛行士らは無事地球に帰還したが、このような緊急事態からの生還は他にアポロ13号の例があるのみである。

(ドッキング後)このとき地上の管制官の間には、アジェナの姿勢制御装置に不具合が発生しており、正しいプログラムが搭載されていないのではないかという疑念が生じていた。

この疑念はその後間違いであることがわかったが、地上との通信圏外に入る直前、管制室はアジェナに何らかの異常が発生した場合はただちにドッキングを中止するよう飛行士に伝えた。

アジェナが内蔵プログラムにより、ジェミニと結合した船体を90度右に傾ける操作を開始した後、スコットは船体が右回転 (ローリング) していることに気づいた。

アームストロングはジェミニのOAMSを使用して回転を止めたが、一旦停止した後、すぐにまたローリングが始まった。この時点で8号は地上との通信圏外にいた。

アームストロングはOAMSの燃料が30%にまで落ちていると報告した、これはすなわち、問題がジェミニのほうにあることを示していた。

回転があまりに速くなりすぎると宇宙船の一方または双方が損傷し、さらには燃料を大量に積んだアジェナは分解あるいは爆発するおそれがあるため、飛行士らは状況を分析できるようアジェナを切り離すことを決断した。

アームストロングが切り離しのため機体を安定させようと奮闘している一方で、スコットはアジェナの制御を地上からの指令に切り替えた。

スコットが分離のボタンを押すと、アームストロングはロケットを長時間噴射してアジェナから遠ざかった。

アジェナの重量が無くなった瞬間、ジェミニの回転数は急激に上昇した。この直後、宇宙船は通信連絡船コースタル・セントリー・キューベック (Coastal Sentry Quebec) の通信圏内に入った。

このとき宇宙船の回転数は1秒間に1回転にまで達しており、この状態では飛行士は視界がぼやけ、意識を失ったり回転性めまいに陥ってしまう危険があった。

アームストロングは回転を止めるためにOAMSを停止し、大気圏再突入システム (Re-entry Control System, RCS) の推進装置を使用することを決断した。

宇宙船の状態が安定すると飛行士らはOAMSを順番に点検し、その結果8番の推進器に異常があることを発見した。

再突入用の燃料は回転停止に使用したためほぼ75%が失われており、規定では何らかの理由でRCSを一度でも噴射した場合は飛行を中止しなければならないとされていたため、8号はただちに緊急着陸の準備を始めた。

回収されるのを待つアームストロング (右) とスコット (左)

■1967年1月27日【アポロ1号火災事故】

アポロ1号は、アメリカ合衆国のアポロ計画において、1967年2月21日の発射を目指して準備が進められていた最初の有人宇宙飛行計画である。

司令船のシミュレーターで訓練するチャフィー、ホワイト、グリソム。1967年1月19日。

AS-204(アポロ-サターン204)の指定番号が与えられている。同年1月27日、ケープ・カナベラル空軍基地34番発射台上で発射の予行演習を行っていた際に発生した火災により、船長ガス・グリソム(Virgil I. “Gus” Grissom)、副操縦士エドワード・ホワイト(Edward H. White)、飛行士ロジャー・チャフィー(Roger B. Chaffee)の3名が犠牲になり、司令船も焼失した。

アポロ1号の名は当初は乗員たちによって任意に称されていたが、1967年4月24日、NASAはこの事故を記憶にとどめるため、正式にこれを計画の番号とした。

火災発生直後、NASAは原因究明のために「アポロ204事故調査委員会」を招集した。出火の直接の原因は究明されることはなかったが、飛行士の生命を奪った要因は、初期型アポロ司令船の設計および構造における広範囲な致命的な欠陥に起因するものであるとされた。

これらの問題が修正されるまで、アメリカの有人宇宙飛行計画は20ヶ月間中止された。

この計画で使用される予定だったサターンIB型ロケット(SA-204)は、後に月着陸船の最初の無人飛行実験であるアポロ5号に流用された。

アポロ計画における最初の有人飛行は、1968年10月に発射されたアポロ7号で、1号の予備搭乗員であった飛行士たちによって達成された。

■1967年4月24日【世界最初の宇宙事故】

1967年4月23日にコマロフが搭乗するソユーズ1号の打ち上げが行われたが、宇宙空間に入ると事前に指摘されていた欠陥が露呈しコマロフはたった一人でそれらのトラブルに対処しなければならなかった。

管制室と当局の押し問答の末ソユーズ1号の大気圏再突入が決定したが、帰還カプセルのパラシュートが絡まって開かず地面に激突。

機体は炎上し消火活動が行われたものの、コマロフは炭化した遺体が一部発見されただけだった。40歳没。 パラシュートの不具合は発射前からわかっていた事だった。

コマロフは世界で最初に宇宙事故の犠牲となったパイロットだった。その遺灰は赤の広場のクレムリンの壁墓所に埋葬された。

妻子と共に
遺された家族は後にガガーリンの世話を受けることになる。

★ウラジーミル・ミハイロヴィチ・コマロフ(ロシア語:Владимир Михайлович Комаров, ラテン文字転写:Vladimir Mikhaylovich Komarov, 1927年3月16日 – 1967年4月24日)は、ソビエト連邦の宇宙飛行士。

■1967年4月24日【AS-204をアポロ1号として記録】アポロ1号の飛行士の未亡人たちは、夫たちがやりとげることができなかった飛行のために「アポロ1号」の名称を残してほしいと願った。

これを受けてNASA有人飛行副長官ジョージ・ミューラー(George E. Mueller)は1967年4月24日、AS-204をアポロ1号として記録し、「飛行を成功させることができなかった最初のアポロ=サターンの有人地上試験」とすることを公式に定めた。

アポロではこれ以前にすでにAS-201、AS-202、AS-203の三回の無人飛行が行われていたため、次に予定されていた最初のサターン5型ロケットの無人発射試験(AS-501)はアポロ4号となり、これ以降の飛行はすべて発射された順に番号がふられることになった。

最初の三回の飛行に対しては特に番号を指定することはなく、「アポロ2号」と「アポロ3号」は欠番となった

■ソ連は、1967年10月30日に無人のコスモス186号と188号によって自動操縦によるドッキングに成功した。

■1967年11月9日にサターン5型ロケットの初の発射実験(アポロ4号)実施。

■宇宙に行った初のカメは1968年9月14日にソ連によって打ち上げられた。

ヨツユビリクガメはチーズバエ、ミールワーム、その他の生物標本と共に月を周回した。

これらは深宇宙に行った初の生物となった。カプセルは無事9月21日に海上で回収された。

■1968年10月11日【アポロ7号打ち上げ】アポロ7号は、1968年にアメリカ合衆国によって実行された有人宇宙飛行計画である。アポロ計画において、飛行士を宇宙に送るのはこれが初めてのことであった。

アポロ7号の発射

また1967年に発生した、三人の宇宙飛行士の命を奪ったアポロ1号の火災事故の後、アメリカが有人宇宙飛行計画を再開して地球周回低軌道上に人間を送るのも、これが初めてであった。

アポロ初の有人宇宙飛行はAS-204の計画番号を当てられていたアポロ1号が行うはずだったが、代わりに7号が、1号が行う予定であった任務を引き継ぐこととなった。

船長はウォルター・シラー、司令船操縦士はドン・エイゼル、月着陸船操縦士はウォルター・カニンガムであった。

左から:アイズル、シラー、カニンガム

この計画は「Cタイプミッション」と呼ばれるもので、1号の火災事故ののち大幅に設計を見直された「ブロック2」と呼ばれるアポロ司令・機械船に飛行士を搭乗させ、11日間の地球周回飛行の試験を行うものであった。

またサターンIB型ロケットを使って一度に三人の飛行士を宇宙に送り、さらに宇宙空間からアメリカ全土にテレビ中継を行うのも、これが初めての試みだった。

7号は1968年10月11日、フロリダ州のケープカナベラル空軍基地から発射された。

飛行中、管制官と飛行士の関係は一時険悪な状態に陥ったものの、技術的に見れば計画は完全に成功裏に終了し、NASAはこの2ヶ月後に行われる予定であった月を周回するアポロ8号の計画実行への自信を深めることとなった。

しかしながら3人の乗組員たちの宇宙飛行士としてのキャリアは、1968年10月22日に大西洋上に着水した瞬間に終わりを告げた。またケープカナベラル空軍基地から有人宇宙船が発射されたのは、これが最後のことであった。

★ウォルター・マーティ・「ウォリー」・シラー・ジュニア(Walter Marty Schirra, Jr. 1923年3月12日 – 2007年5月3日)は、アメリカの宇宙飛行士、海軍軍人。アメリカ最初の有人宇宙飛行計画であるマーキュリー計画で選ばれた7人の宇宙飛行士中の一人。

ウォルター・シラー
Walter Marty Schirra, Jr.

マーキュリー計画、ジェミニ計画、アポロ計画のすべてで、地球周回軌道以上の宇宙飛行を体験した飛行士はシラーただ一人である。宇宙に滞在した総時間は295時間15分になる。

アメリカの有人宇宙飛行で3つの異なるプロジェクトでそれぞれ地球周回軌道以上の宇宙飛行を体験した飛行士は、シラーとジョン・ヤング(ジェミニ計画・アポロ計画・スペースシャトル)の2人だけである。

■1968年11月23日
気象衛星「ESSA-7」が鮮明な“北極の穴”を撮影したとされ、世界中が大騒ぎになった。

当時の気象衛星の軌道から写真撮影すると、カメラアングルの関係で極地方は写らない。

このため写真を一枚に合成すると、撮影されていない極地方は真っ黒になり、ちょうど、ポッカリと穴が開いているように見える。

また、写真撮影の時期は北極で日が昇らない極夜にあたり、この時期に太陽光が届かない地域が穴が開いているように見えるともいう。

ゴジラ2(Godzilla : king of the monsters) 』 巨大生物から読むストーリー : 特撮アラフィーZ

■1968年12月21日【アポロ8号打ち上げ】アポロ8号は、アメリカ合衆国のアポロ計画における2度目の有人宇宙飛行である。1968年12月21日に発射され、地球周回軌道を離れて月を周回し、再び安全に地球に戻ってきた初の宇宙船となった。

左から:ラヴェル、アンダース、ボーマン

船長のフランク・ボーマン、司令船操縦士のジム・ラヴェル、着陸船操縦士のウィリアム・アンダースの三人の宇宙飛行士は、人類として初めて

(1) 地球周回軌道を離れ、

(2) 地球全体を一目で見、

初めて撮影された地球の全体像。撮影したのはおそらくアンダースである。中心に写っているのは南アメリカで、南側が上になっている。

(3) 月の裏側の様子を確認し、

8号から撮影された月の裏側の一部

(4) 月において地球の出を目撃した。

アポロ8号から撮影された月面から昇る地球

この1968年のミッションはサターン5型ロケットの三度目の飛行であり、また同ロケットを使用しての初の有人飛行であった。さらにフロリダ州のケープカナベラル空軍基地に隣接するケネディ宇宙センターから有人宇宙船が発射されるのも、これが初めてのことであった。

8号は月に到達するまで3日かかった。

月周回軌道上では20時間のうちに月を10周し、クリスマス・イブには飛行士たちが創世記の最初の10節を朗読した。

その様子はテレビで全米に中継され、当時のアメリカで史上最も高い視聴率を叩き出した。

8号の成功は、ジョン・F・ケネディ大統領が公約した「1960年代の終わりまでに人間を月に到達させる」という目標をアポロ11号が達成するための道を切り開いた。

飛行士たちが搭乗した司令船は、1968年12月27日に北太平洋に着水した。

三人の飛行士は帰還後タイム紙により、「1968年を代表する男たち (Men of the Year)」に選ばれた。

■【地球空洞説】1969年にアメリカのレイモンド・バーナードが、『空洞地球――史上最大の地埋学的発見』(The Hollow Earth – The Greatest Geographic Discovery in History) を出版。

地球空洞説 (ボーダーランド文庫)

これは極地探検で有名なリチャード・バード少将が、「1947年の南極探検飛行の最中に大穴の中へ迷いこみ、氷原のあるはずの場所に緑あふれる谷間を発見した」、という内容であった。

この書籍にはリードとガードナーのアイデアが使われており、シムズの存在は完全に無視されている。

焼き直されたアイデア以外に、バーナードが独自のアイデア(UFOは地球内部からやって来る、内部世界には環状星雲 (Ring Nebula) が存在する、など)を付け加えている。

■1969年7月20日【アポロ11号月面着陸】(アポロ11ごう、英: Apollo 11)

アポロ11号は2人の人間を世界で最初に月に着陸させた宇宙飛行であった。

ニール・アームストロング船長とバズ・オルドリン月着陸船操縦士の2名のアメリカ人が、1969年7月20日20時17分(UTC=協定世界時)にアポロ月着陸船「イーグル」号を月に着陸させた。

アームストロングは7月21日の2時56分15秒(UTC)に月面に降り立った最初の人物となり、その19分後にオルドリンがアームストロングに続いた。

二人は約2時間15分をともに船外で過ごし、47.5ポンド(21.5キログラム)の月物質を地球に持ち帰るために採取した。

月面上で船外活動中にポーズを取るバズ・オルドリン。ヘルメットのバイザーには、この写真を撮影したニール・アームストロングの姿が反射して映り込んでいる。

2人が月面にいる間、マイケル・コリンズ司令船操縦士はひとり月周回軌道上で司令船「コロンビア」号を飛行させた。

アームストロングとオルドリンは21時間半を月面で過ごしたあと、月周回軌道上で再び「コロンビア」に合流した。

宇宙服を着用したままヘルメットを脱いで、大きな月の写真の前に座る3名の宇宙飛行士。
左から:アームストロングコリンズオルドリン

■1969年2月21日【N-1(ロシア語:Н1エーヌ・アヂーン)ロケット打ち上げ失敗】

N-1(ロシア語:Н1エーヌ・アヂーン)は月にソ連人の宇宙飛行士を送るように造られたソビエト連邦のロケットである。

全長、約100メートル。アメリカのサターンVロケットに匹敵する大きなロケットで、低軌道に95トンものペイロードを投入できるよう設計された。

しかしながら、4回の試験打ち上げすべてに失敗し、実用化のめどが立たないまま1974年に計画は放棄された。

以下は打ち上げ実績

●1969/2/21 1号機(N-1/3L)
68秒後第一段全エンジンの停止
原因:KORDシステムのエラー。出力調整タイミングの誤りから振動が生じ、液体酸素パイプを破壊、火災が発生した。
●1969/7/3 2号機(N-1/5L)
発射十数秒後第一段全エンジン停止
原因:金属片がターボポンプに入り込んだためエンジン停止。点火の0.25秒後エンジンNo.8のターボポンプに入り込んだ金属片で液体酸素ポンプが破裂・停止し、その後KORDシステムによって29基のエンジンも停止された。ロケットは発射台に落下して爆発した。
●1971/6/26 3機目(N-1/6L)
主な改良点:燃料ラインへのフィルター設置、エンジンルームの換気装置と冷却装置追加、発射直後のKORDシステムによるエンジン停止の禁止。
発射50秒後分解
原因:エンジン後方でのスリップストリームによりロール回転が生じ分解。エンジンには問題は起きなかった。
●1972/11/23 4機目(N-1/7L)
主な改良点:回転を止めるためのステアリングエンジンが追加
発射107秒後第一段爆発
原因:振動により燃料ラインへ加わる過負荷を避けるためのプログラムが作動しエンジンが停止。一部のエンジンは爆発を起こした。

サターンVとN1の比較.N1の方が短いが推力は大きい。一方、サターンVは液体水素エンジンを2段目と3段目に使用しているがN1は全段ケロシンを使用するのでサターンVの方がより重いペイロードを軌道へ投入できる。打ち上げ実績は対照的でサターンVは13回の打ち上げに全て成功したのに対してN1は全て失敗した。

■1970年4月11日【アポロ13号打ち上げ】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9D%E3%83%AD13%E5%8F%B7

1970年4月11日、米中部時間13時13分、ジェームズ・A・ラヴェル船長、ジョン・L・スワイガート司令船操縦士、フレッド・W・ヘイズ月着陸船操縦士を乗せたサターンV 型ロケットは、第3番目の有人月面飛行を目指して、ケネディ宇宙センター第39発射施設から発射された。

2日後、電線が短絡し火花が散ったことにより機械船の酸素タンクが爆発し、飛行士たちは深刻な電力と水の不足に見舞われることになった。

損傷した13号の機械船(大気圏再突入直前、切り離した直後に撮影)

司令船には独自のバッテリーと酸素が搭載されているが、それらは大気圏再突入の際に必要になるもので、使用することはできない。そのため、彼らは着陸船を救命ボートに見立て乗り移り、電力消費を限界まで抑え、よって生成量が激減した飲料水の消費を極力控える負荷に耐え、無事地球に生還した。

左からラヴェル、スワイガート、ヘイズ

この危機対応の鮮やかさにより、この一件は「成功した失敗 (“successful failure”)、「栄光ある失敗」などと称えられた。

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■【世界初の宇宙ステーション】サリュート1号(ロシア語: Салют-1、ラテン文字表記の例:Salyut 1 )は1971年4月19日にソビエト連邦によって打ち上げられた世界初の宇宙ステーションである。

ソユーズ10号の失敗の後、ソユーズ11号によって3人の宇宙飛行士が訪れ、3週間の滞在の間に各種の実験・観測や、無重力環境が人体に与える影響の調査が行われた。

しかし帰還中の事故により3人の命は失われ、その後の有人飛行は中止された。ステーションは無人のまま軌道上にとどまり、同年10月11日に大気圏に突入して廃棄された。ロシア語でサリュート(салют)は「敬礼」を意味する。

サリュート1号とソユーズ。

■1971年6月30日【ソユーズ11号の事故】 (ロシア語: Союз-11, Soyuz 11) は、ソ連の有人宇宙船。コールサインは「ヤンタル(琥珀)」。世界初の宇宙ステーション、サリュート1号へのドッキングに初めて成功したが、大気圏再突入の準備中に宇宙船内の空気が失われ、搭乗していた3人の宇宙飛行士が窒息死するという悲劇に終わった。

犠牲者を追悼する切手

★1971年6月30日、ソユーズ11号の帰還モジュール(再突入カプセル)は通常通り大気圏再突入をしたかに見えたが、カプセルを開けると死亡した3人の宇宙飛行士が発見された。3人は窒息死したことがすぐに明らかになった。

原因究明すると、帰還モジュールとソユーズ本体を繋ぐバルブ部分に欠陥が見つかった。

直径1mm以下のそのバルブは着陸の瞬間までカプセル内の気圧を保つはずだったが、この時は再突入前からカプセル内の空気を宇宙に漏らしていた。

バルブは飛行士の椅子の下にあったので、空気がなくなる前に穴の場所を特定し塞ぐのは不可能と思われた。

まだ上空168kmにいる時点で、わずか30秒の間にカプセル内の空気は全て失われたと推定された。

数秒のうちにドブロボルスキーは異変に気づき、椅子を外しバルブを塞ごうとしたらしいが、残った時間が少なすぎた。

バルブを手動で閉めるには60秒は必要で、ドブロボルスキーは亡くなる前に半分まで閉めていた。

カプセル内には動けるスペースがほとんどなく、パツァーエフとボルコフは実質的に何もできなかった。

■1971年11月27日【初の火星表面到達】マルス2号 (ロシア語: Марс-2, Mars 2) は、1970年代にソビエト連邦によって行われたマルス計画で打ち上げられた無人探査機である。

マルス2号とマルス3号のミッションは、それぞれオービターとランダーから構成される同じ構造の2機の探査機によって行われ、プロトン-KロケットのブロックD上段ステージで打ち上げられた。

マルス2号のランダーは、火星表面に到達した最初の人工物となった。

マルス2号のランダーの断面図

★マルス2号は、1971年12月から1972年3月にかけての大量のデータを送り返してきた。伝送は8月まで続いた。

1972年8月22日には、火星を362周し、マルス2号とマルス3号がミッションを終えたことが発表された。

撮影した画像はマルス3号と併せて60枚に及び、得られた画像やデータにより、高さ22kmもの山、上層大気中の水素や酸素の原子、表面温度が-110℃から+13℃であること、表面気圧が5.5から6 mbであること、大気中の水蒸気の密度は地球の約5000分の1であること、電離圏の底は高度80から110kmから始まること、砂嵐により巻き上げられた砂が高度7kmに達することを明らかにした。

この画像とデータにより、火星表面の三次元地図を作ることが可能となり、火星の重力と磁場に関する情報が得られた。

マルス2号のランダーは、搭載されたコンピュータの不調により、1971年11月27日に不適切に火星の大気圏に突入した。着陸システムは正常に働かず、南緯45°西経313°に衝突したと推測されるが、正確な位置は分かっていない。

■【初の火星着陸】マルス3号の降下モジュールは、1971年12月2日9時14分(UTC)、火星への到着の4時間35分前に放出された。降下モジュールは、約5.7km/sの速度で火星の大気圏に突入した。空力ブレーキ、パラシュート、逆推進ロケットによってランダーは南緯45°西経158°の地点に軟着陸し、運用を開始した。

モスクワの宇宙飛行士記念博物館に展示されるマルス3号のランダーの模型

14.5秒後の13時52分25秒に両方のデータチャンネルからの伝送が未知の理由によって停止し、以降の火星から地球への信号は届かなかった。

この故障がランダーのものかそれとも中継点のオービターのものかは不明である。故障の原因は、当時発生していたコロナ放電を伴う非常に強力な火星の嵐が通信システムに損傷を与えたことによるものである可能性がある。画像の露光が少ないのもこの嵐で説明できる。

唯一、70走査線の部分的な画像が伝送された。

この画像は地平線と暗い空を写したものであったが、円形パノラマカメラで撮影された。

これは、写真の視野を補正するために写真を時計回りに90°回転させなければならないことを意味する。

ソビエト科学アカデミーによると、この写真では地平線とその他が識別できない。マルス3号のランダーからは、意味のあるデータは何も送られてこなかった

★マルス3号(Mars 3)は、1960年から1973年に行われたソビエト連邦のマルス計画の無人の探査機である。

マルス3号は、双子機のマルス2号の打上げの9日後に打ち上げられた。

両探査機は、オービターとランダーから構成される全く同一の構造である。

マルス2号が火星表面に衝突着陸した後、マルス3号のランダーは、火星表面に軟着陸する最初の探査機となった。

両機ともプロトンKロケットのブロックD上段ステージに搭載されて打ち上げられた。

■異なる国の宇宙船が初めてドッキングしたのは1975年7月17日のことで、アポロ・ソユーズテスト計画においてアメリカのアポロ18号とソ連のソユーズ19号がドッキングし、飛行士が相互の宇宙船を訪問した。

■BTA-6 (ロシア語: БТА; Большой Телескоп Азимутальный, 英語: Large Altazimuth Telescope )は旧ソ連時代に建造されたロシア連邦の口径6mの大型反射望遠鏡である。カラチャイ・チェルケス共和国・ゼレンチュークスカヤ地区のコーカサス山脈に位置する。

BTA-6天文台の全景

主鏡は口径605cm、焦点距離2497cm、F4の反射鏡であり、主焦点における写野直径は2分である。

D・D・マクストフが設計した補正板を入れると焦点距離は2401cmとなり、直径12分に視野を拡大できる。

1975年から1993年までの長期にわたり世界最大の望遠鏡だったものの、技術的その他の要因により充分な性能を発揮できなかった。

The telescope’s 6 metre diameter main mirror is visible in the lower right part of the image.

それでもBTAの特徴的な設計はその後の大型望遠鏡に影響を与え、コンピュータ制御の経緯台式架台は赤道儀式架台に取って代わった。

■1976年7月1日 国立航空宇宙博物館(こくりつこうくううちゅうはくぶつかん、英:National Air and Space Museum)は、アメリカ合衆国・ワシントンD.C.に所在する、航空機・宇宙船に関連した収集物を展示する博物館。名称の頭文字からNASMの略称が用いられる。

Smithsonian Air and Space Museum.jpg
国立航空宇宙博物館
National Air and Space Museum
 David Bjorgen – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=520074による

博物館本館は1976年7月1日に公式に開館され、ナショナル・モール東のハーシュホーン博物館と国立アメリカ・インディアン博物館の間に位置する。

また博物館はワシントンD.C.を訪れる観光客の目的地の一つとして人気が高い。

歴史的航空機や他の人工の展示品で埋め尽くされる展示室に加え、アイマックス社製のオムニマックス映写機で投影されるアイマックス・シアターやアルベルト・アインシュタインプラネタリウムといったアトラクション施設も備えている。

★博物館本館の有名な展示物

ライトフライヤー号 – 1903年にライト兄弟が最初に運転した動力飛行機の実物。
スピリット・オブ・セントルイス – チャールズ・リンドバーグが大西洋を横断に成功した最初の一人乗り用有人飛行機の実物。
ベルX-1 – チャック・イェーガーが世界で初めて音速を突破する水平飛行を成功させた有人飛行機。
Me262-史上初の実戦ジェット戦闘機
V2ロケット(復元) – 史上初めて宇宙空間へ到達した最初の人工ロケット。
アポロ11号司令船 – 月面着陸に人類史上初めて成功したアポロ計画有人ミッションの司令船。
月の石の標本 – 極めて小さいが、触ることも出来る。
パイオニア10号 – 世界初の木星探査機でもある惑星探査機。
スペースシップワン – 世界初の民間企業による有人宇宙飛行機。スケールド・コンポジッツ社を創設したバート・ルータンにより開発された。
U.S.S.エンタープライズ NCC-1701の撮影用模型 – スタートレックに登場する宇宙船。ミュージアムショップの真下にあたる地下展示室に展示されている。
ソユーズ再突入カプセル – 秋山豊寛のサインが書かれている。写真と共に紹介文には世界初の民間人宇宙飛行士、ジャーナリストと記載されているが名前は書かれていない。

■初めて3機の宇宙船がドッキングを果たしたのは1978年1月のことで、ソ連の宇宙ステーションサリュート6号にソユーズ26号と27号が結合した。

■暗黒物質の存在の「間接的な発見」は、1970年代にヴェラ・ルービンによる銀河の回転速度の観測から指摘された。

水素原子の出す21cm輝線で銀河外縁を観測したところ、ドップラー効果により星間ガスの回転速度を見積もることができた。

彼女はこの結果と遠心力・重力の釣り合いの式を用いて質量を計算できる、と考えた。

すると光学的に観測できる物質の約10倍もの物質が存在するという結果が出た。

この銀河の輝度分布と力学的質量分布の不一致は銀河の回転曲線問題と呼ばれている。

この問題を通じて存在が明らかになった、光を出さずに質量のみを持つ未知の物質が暗黒物質と名付けられることとなった。

★ヴェラ・ルービン(Vera (Cooper) Rubin, 1928年7月23日 – 2016年12月25日)はアメリカ合衆国の天文学者。銀河の回転速度に関する観測と研究から、銀河には恒星などの光を発する天体の総質量を遥かに上回る質量の「暗黒物質(dark matter) 」が存在することを示した。

ペンシルベニア州フィラデルフィア生まれ。幼いころから天文学に興味があり、高校生のときには天体望遠鏡を自作。

1948年にヴァッサー大学卒業後、プリンストン大学で学ぶことを希望していたが女性であったために入れず、コーネル大学でフィリップ・モリソンやリチャード・P・ファインマン、ハンス・ベーテの下で物理学を学んだ。

1954年にはジョージタウン大学においてジョージ・ガモフの下で学んだ。

アンドロメダ銀河の回転速度を観測した結果、銀河の回転速度が天体の分布から予測される速度と大きく異なり、周辺部でも中心部と速度がほとんど変わらないことを発見した。

これは「銀河の回転曲線問題 (galaxy rotation problem)」と呼ばれる天文学の未解決問題の一つであり、これを説明するために暗黒物質に関する理論が発展した。

カーネギー・インスティテュート・オブ・ワシントン(Carnegie Institution of Washington)で研究を続けた。

全米科学アカデミー会員。彼女の4人の子供全員も自然科学や数学の分野で活動している。ニュージャージー州プリンストンで死去。

★銀河の回転曲線問題(ぎんがのかいてんきょくせんもんだい、galaxy rotation problem)とは、1980年代に明らかになった天文学の問題の一つである。”flat rotation curve problem” などとも呼ばれる。

典型的な渦巻銀河の回転曲線。横軸が銀河中心からの距離を縦軸が回転の速さを表す。暗黒物質を仮定しない理論予測 (A) は実際のほぼ平坦な観測結果 (B) を説明できない。

分光観測によって銀河の回転曲線(銀河中心からの半径に対して各位置での回転速度の大きさをプロットした曲線)を求めてみると、その銀河の「目に見える」(電磁波を放射・吸収している)物質分布から想定される回転速度とは大きく異なり、銀河のかなり周縁部でも回転速度が低下せず、平坦な速度分布をしていることが分かる。

これは、現在知られている通常の物質(バリオン)とは異なり、光を出さずに質量エネルギーのみを持つ未知の物質が銀河の質量の大半を占めていると仮定する事で説明される。

この未知の物質を暗黒物質(ダークマター)と呼び、その正体について研究が続けられている。

一方でこのような暗黒物質を仮定せず、力学の法則を修正することで平坦な銀河回転速度を説明しようとする試みもなされている。

その最も有名なものはミルグロムによる修正ニュートン力学 (MOND) である。他にはプラズマ宇宙論でもこの問題に解決の糸口を示している。

■佐藤 勝彦(さとう かつひこ、1945年8月30日 – )は、日本の宇宙物理学者。専門は宇宙論。インフレーション宇宙論の提唱者として知られる。

1981年にアラン・グースとほぼ同時期に、インフレーション宇宙論を提唱した。

「インフレーション」という用語を初めて使用したのはA.グースである。

佐藤は初め「指数関数的膨張モデル」という用語を用いていた。「私は当初、このモデルを『指数関数的膨張モデル』と呼びました。しかし、私の半年後に同様のモデルを発表したアメリカの宇宙物理学者グースが『インフレーション宇宙モデル』という巧みな名前をつけました。そのために現在ではインフレーション理論という名前で呼ばれています」

■1981年【インフレーション理論】アラン・ハーヴェイ・グース(Alan Harvey Guth、1947年2月27日 – )はアメリカ合衆国の宇宙物理学者。 インフレーション理論の第一人者。

Betsy Devine aka Betsythedevine – Uploader’s 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6181859による

宇宙のインフレーション理論を最初に提案したことで知られる。尚、この理論の最初の論文投稿者は佐藤勝彦 (1981年) であるが、グースは1980年1月に佐藤と同様のインフレーションモデルをスタンフォード大学のセミナーで発表している。

また、アレクセイ・スタロビンスキーも1979年に同様のモデルについてのアイデアを示し、1980年に論文を発表している。“インフレーション”という言葉を最初に用いたのはグースである。

■【初の命綱なしの宇宙遊泳】1984年2月7日、ブルース・マッカンドレスがスペースシャトル・チャレンジャー号のSTS-41-Bにおいて、初めて命綱なしでMMUを使用した宇宙遊泳を行なった。

STS-41-Bの中で命綱なしの宇宙遊泳をするマッカンドレス

■1984年7月25日、旧ソ連のスベトラーナ・サビツカヤがサリュート7号から女性初の宇宙遊泳を行なった。

★スベトラーナ・エフゲニエヴナ・サビツカヤ(ロシア語:Светлана Евгеньевна Савицкая、英語:Svetlana Yevgenyevna Savitskaya、1948年8月8日 – )は、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国モスクワ出身の女性宇宙飛行士。

ワレンチナ・テレシコワが宇宙へ行った19年後の1982年にソユーズT-7に搭乗し、宇宙へ行った2人目の女性となった。

彼女はソビエト空軍中将エフゲニー・サヴィツキーの娘であり、1980年から宇宙飛行士としての訓練を開始した。

サリュート7号に搭乗中の1984年7月25日、宇宙船の外に3時間35分滞在し、女性としては史上初めて、宇宙遊泳を行った。

■1986年に宇宙の大規模構造が発見された。

このような構造を形成するための宇宙の物質の総量が見積もられたが、予想よりも質量が少ないため構造の成長には、ハッブル則から導かれる宇宙の年齢(ハッブル時間):100億 – 200億年[注釈 1] よりも、さらに長い時間を要すると計算された (missing mass problem)。

この少なすぎる質量を補うものとして、それまでにいくつかの研究で提案されていた暗黒物質(英: dark matter ダークマター)の存在が仮定された。

この仮定は、いくつかのシミュレーションによってもハッブル則の範囲内で現在のような銀河集団の泡構造が出来上がることを支持している。

青色の線で囲まれた部分が超空洞(ボイドまたはヴォイド (void) )

■超銀河団の発見は1980年代に始まる。1987年にハワイ大学天文学研究所のR.ブレント・タリーが、現在われわれがペルセウス座・うお座超銀河団と呼んでいるものを同定した。

1989年にはCfA2 グレートウォールが発見されている。

これに引き続き2003年にはスローン・グレートウォールが発見されている。

2006年に科学者たちは、3つのフィラメントが撚り集まって、人類に知られている最大の構造を形成していると発表した。これは、高密度に寄り集まった銀河と、ライマンアルファ・ブローブ (Lyman alpha blob) として知られている巨大なガス塊から構成されている。

年周視差の精密測定を行うため1989年8月8日に打ち上げられた人工衛星は、ヒッパルコス衛星と名付けられた。

古代ギリシアの天文学者ヒッパルコス(BC190ごろ-BC120ごろ)にちなんで名づけられた。

■1990年【ハッブル宇宙望遠鏡】(ハッブルうちゅうぼうえんきょう、英: Hubble Space Telescope、略称:HST)は、グレートオブザバトリー計画の一環として打ち上げられた、地上約600km上空の軌道上を周回する宇宙望遠鏡である。

名称は、宇宙の膨張を発見した天文学者エドウィン・ハッブルに因む。

スペースシャトル ディスカバリー号から見たハッブル宇宙望遠鏡(1997年2月サービスミッションSTS-82での画像)

長さ13.1メートル、重さ11トンの筒型で、内側に反射望遠鏡を収めており、主鏡の直径2.4メートルのいわば宇宙の天文台である。

大気や天候による影響を受けないため、地上からでは困難な高い精度での天体観測が可能。

ハッブル宇宙望遠鏡が2013年に撮影した馬頭星雲の画像。本来の色にて撮影されている。

★その成果は

シューメーカー・レヴィ第9彗星が木星に衝突する様子を克明に捉えた(1994年)。
太陽系外の恒星の周りに惑星が存在する証拠を初めて得た。
銀河系を取巻く暗黒物質(ダークマター)の存在を明らかにした。
宇宙の膨張速度が加速しているという現在の宇宙モデルはハッブル宇宙望遠鏡の観測結果によって得られた。
多くの銀河の中心部にブラックホールがあるという理論は、ハッブル宇宙望遠鏡の多くの観測結果によって裏付けられている。
1995年12月18日 – 28日、おおぐま座付近の肉眼でほとんど星のない領域について十日間にわたり観測を行い、「ハッブル・ディープ・フィールド」と呼ばれる1500 – 2000個にも及ぶ遠方の銀河を撮影した。これに続き、南天のきょしちょう座付近において「南天のハッブル・ディープ・フィールド」 (Hubble Deep Field – South) 観測を行った。 双方の観測結果は非常に似かよっており、宇宙は大きなスケールにわたり均一であること、地球は宇宙の中で典型的な場所を占めていることを明らかにした。
2011年12月、科学誌に投稿された論文が21年間で10,000件に到達した。

光学系改修により可能となった、ハッブルウルトラディープフィールド

★その成果は

シューメーカー・レヴィ第9彗星が木星に衝突する様子を克明に捉えた(1994年)。
太陽系外の恒星の周りに惑星が存在する証拠を初めて得た。
銀河系を取巻く暗黒物質(ダークマター)の存在を明らかにした。
宇宙の膨張速度が加速しているという現在の宇宙モデルはハッブル宇宙望遠鏡の観測結果によって得られた。
多くの銀河の中心部にブラックホールがあるという理論は、ハッブル宇宙望遠鏡の多くの観測結果によって裏付けられている。
1995年12月18日 – 28日、おおぐま座付近の肉眼でほとんど星のない領域について十日間にわたり観測を行い、「ハッブル・ディープ・フィールド」と呼ばれる1500 – 2000個にも及ぶ遠方の銀河を撮影した。これに続き、南天のきょしちょう座付近において「南天のハッブル・ディープ・フィールド」 (Hubble Deep Field – South) 観測を行った。 双方の観測結果は非常に似かよっており、宇宙は大きなスケールにわたり均一であること、地球は宇宙の中で典型的な場所を占めていることを明らかにした。
2011年12月、科学誌に投稿された論文が21年間で10,000件に到達した。

■【ガリレオ裁判の結末】1965年にローマ教皇パウロ6世がこの裁判に言及したことを発端に、裁判の見直しが始まった。

最終的に1992年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、ガリレオ裁判が誤りであったことを認め、ガリレオに謝罪した。ガリレオの死去から実に350年後のことである。

■シューメーカー・レヴィ第9彗星(シューメーカー・レヴィだいきゅうすいせい、英語:Comet Shoemaker–Levy 9)は、1994年に木星に衝突したことで有名な彗星である。識別符号は D/1993 F2(Dは消滅した彗星を表すプレフィックス)。シューメーカー・レビー第9彗星、シューメーカー・リビー第9彗星などとも呼ばれ、SL9と略称される。

■1994年1月25日【クレメンタイン打ち上げ】クレメンタイン(Clementine)は、アメリカ航空宇宙局(NASA)とアメリカ国防総省の弾道ミサイル防衛局(BMDO、現在のミサイル防衛局)による共同プロジェクトとして、1994年に月へ送られた探査機。

探査計画の正式名称はDSPSE(Deep Space Program Science Experiment)。この探査によって月に水が存在する可能性が示された。

クレメンタイン

探査機が再び月に向かった。

月の極周回軌道から71日間にわたって観測が行われ、4台のカメラによる計200万枚以上の画像と、レーザー距離計による月全体のデジタル地形データがもたらされた。

月の南極にあるクレーターの内側に常に日光が当たらない領域(永久影)があることが判明し、その場所に浅い角度でレーダー波を当て地球のアンテナで受信した結果、水の存在を示唆する観測結果が得られた。

ただしこの観測結果の解釈は確定的なものではないため、実際に月に水が存在するかはその後の探査計画の課題となっている。

1994年1月25日 ヴァンデンバーグ空軍基地より、タイタン23Gによって打ち上げ。
1994年2月19日 月に到達し、周期5時間の極軌道に入る。
1994年2月26日 月面マッピング作業開始。
1994年4月21日 月面マッピング作業終了。
1994年5月5日 月周回軌道を離脱。
1994年5月7日 搭載コンピュータの故障。エンジン誤作動で推進剤を使い切り、制御不能のスピンに陥ったため小惑星探査は中止。

米探査機クレメンタインが撮影した月の裏

■ニュートリノ
熱い暗黒物質の代表例。従来ニュートリノの質量は0であると思われていたが、1996年から1998年にかけての東大宇宙線研究所による観測によって質量を持っている事が証明された。

ニュートリノは宇宙全体に存在する数が非常に多い(計算では〜100個/cm3)ので、質量が10eV程度あれば暗黒物質の候補になるとされていた。

しかしながら、ニュートリノの寄与は臨界密度の高々1.5%程度であることが分かってきたので、現在では主要な暗黒物質であるとは考えられていない。

さらに、ニュートリノが暗黒物質の主成分だとすると銀河形成論的に困ったことがおこる。

銀河団以下のスケールの構造が生まれなくなってしまうのである (free streaming mixing)。これは、ニュートリノ同士の相互作用がほとんど無く互いに通り過ぎてしまい、圧力が生じないことによる。従って、ニュートリノ説は否定された。

■シューメーカー・レヴィ第9彗星(シューメーカー・レヴィだいきゅうすいせい、英語:Comet Shoemaker–Levy 9)は、1994年に木星に衝突したことで有名な彗星である。識別符号は D/1993 F2(Dは消滅した彗星を表すプレフィックス)。シューメーカー・レビー第9彗星、シューメーカー・リビー第9彗星などとも呼ばれ、SL9と略称される。

ハッブル宇宙望遠鏡が撮影したシューメーカー・レヴィ第9彗星 NASA, ESA, and H. Weaver and E. Smith (STScI) – http://hubblesite.org/newscenter/archive/releases/1994/26/image/c/ (direct link), パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=164667による

彗星の分裂核は、1994年7月16日から7月22日までの間に、相次いで木星の大気上層に衝突した。これは史上初めて多数の人々が目撃した、地球大気圏外での物体の衝突の瞬間であった。

木星に残った衝突痕

■1997年6月【ヒッパルコス星表】(ヒッパルコスせいひょう、Hipparcos Catalogue)は118,218星が収録されている星表である。ヒッパルコス全天星図とも呼ばれる。略称はHIPとされることが多い。

1988年に打ち上げられた欧州宇宙機関(ESA)の位置天文衛星ヒッパルコス(Hipparcos)による4年間の恒星の観測結果を元に編集され、1997年6月に発行された。

過去の地上観測から得られたよりもはるかに高精度かつ網羅的な年周視差などのデータを含んでいるのが特徴である。限界等級は12.4等であるが、十分に観測され精度も高いのは9等星程度より明るい星である。

ヒッパルコス星表により、地球からの距離が測定された恒星の数が大きく増加した。また、データは公開されており入手が比較的容易である。そのため、様々な利用がされており、その価値は高い。

全天恒星図2000―2000年 分点

■1997年【ティコ星表】(ティコせいひょう、Tycho Catalogue)はヒッパルコス衛星によって得られた1989年から1993年にかけての観測データを使用して作られた星表である。

チホ星表とも翻訳される。

Hipparcos-Messergebnisseによって、1997年に出版された。ヒッパルコス星表を作る作業と同時に平行して製作され、ヒッパルコス星表の拡張版として発行されている。

ヒッパルコス衛星の姿勢確認・制御用の補助観測装置による観測データを用いた星表であるため、 ヒッパルコス星表に比べ星の位置精度は悪く、全体の平均で25mas(milli-arc-second)であり9等級よりも明るい星に対しては7masである。

ただし、この星表では11.5等級までの星を収録しており(10.5等級より明るい星の約90%を含む)、掲載された星の数は100万個以上とヒッパルコス星表と比べても非常に多い。

後に再解析によって多くの星(250万個以上)のデータをより高い精度で掲載しているティコ第二星表も製作された。

ティコカタログは一般にも公開されており、インターネットで閲覧が可能である。

■1998年 ハイゼット超新星探索チームと超新星宇宙論計画の二つの国際的研究観測チームが、遠方のIa型超新星を観測することにより、宇宙が加速膨張をしていることを独立に相次いで立証した。

現在の宇宙の全エネルギーの7割を、ダークエネルギーが占めるという観測結果は、大きな驚きをもって迎えられた。

この発見の功績により、2011年ノーベル物理学賞は、ソール・パールマッター、ブライアン・P・シュミット、アダム・リースの3者に贈られることになった。

Ia型超新星とは、白色矮星を含む連星のうち、白色矮星がもう一方の星からの質量降着によりその質量が、チャンドラセカール限界に達した瞬間に超新星爆発が起きる現象をいう。

チャンドラセカール限界で白色矮星が超新星爆発する時の質量が、太陽質量の約1.4倍であり、光度がほぼ一定であることから、標準光源として距離の測定に使われている。

タイプIa型超新星爆発の最大光度は、母銀河の光度に匹敵する明るさになるため、遠方銀河までの距離の測定が可能になった。

ダークエネルギーの発見から10年、精度を上げる観測が精力的に行われ、現在までに700個以上の超新星の観測が報告され、さらに大規模な観測が計画されている。日本のすばる望遠鏡も、遠方の超新星の観測に貢献している。

今日でも、暗黒エネルギーの最も正確な測定は、タイプIa型超新星によるものである。

■大型光学赤外線望遠鏡、愛称すばる望遠鏡(すばるぼうえんきょう、英: Subaru Telescope)は、アメリカ・ハワイ島のマウナ・ケア山山頂(標高4,205m)にある日本の国立天文台の大型光学赤外線望遠鏡である。

すばる望遠鏡(左)。右はケックI望遠鏡

1999年1月ファーストライト(試験観測開始)。建設総額は400億円。システム設計・建設のほとんどは三菱電機が請け負った。国立天文台が建設準備を進めていた当初のプロジェクト名は「日本国設大型望遠鏡」(英語: Japan National Large Telescope, JNLT)だった。建設が始まった1991年に望遠鏡の愛称の公募が行われ「すばる」が選ばれた。

主鏡に直径8.2m、有効直径(実際に使われる部分の直径)8.2mという当時世界最大の一枚鏡をもつ反射望遠鏡であった。主鏡はアメリカのコーニングとコントラベスに於いて7年以上の歳月を費やして製造された。

すばる望遠鏡には高度な技術が多数使われている。

例えば、コンピュータで制御された261本のアクチュエータにより主鏡を裏面から支持することにより、望遠鏡を傾けた時に生じる主鏡の歪みを補正し、常に理想的な形に保たれている(能動光学)。

また、天文台の建物そのものの形状を工夫することで空気の乱れを防ぎ星像の悪化を防いでいる。採用された円筒形のドーム形状は、特に内部からの放熱による乱流を防ぐ観点で、通常の半球形のドームより適しているとの理由によって採用された。

■VLT(Very Large Telescope)はヨーロッパ南天天文台がチリ・パラナル天文台に建設した、口径8.2mの望遠鏡4台の総称。

紫外線から中間赤外線までの波長の電磁波を観測し、4台を光ファイバーで結合して干渉計として運用することも可能である。

Aerial View of the VLTI with Tunnels Superimposed.jpg
VLTと補助望遠鏡を構成する4つの望遠鏡 ESO – ESO, CC 表示 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=8002756による

4台の口径8.2m望遠鏡をUnit Telescope(UT)と呼ぶ。1998年5月に1台目の望遠鏡がファーストライト。その後2000年までに残り3台が完成し、それぞれAntu、Kueyen、Melipal、Yepunという名前が与えられた。

これはチリの先住民であるマプチェ族の言葉で太陽、月、南十字星、金星という意味を持っている。

4台の望遠鏡にはそれぞれ3種類の観測装置が備えられており、さらに4台を結合して干渉計として使う際に使用される観測装置が3種類設置されている。

また、望遠鏡を格納するドームはすばる望遠鏡の場合と同様、大気のゆらぎを抑えるために円筒形をしている。

■2dF銀河赤方偏移サーベイ(2dF Galaxy Redshift Survey、2dFあるいは2dFGRSと略される)は、アングロ・オーストラリアン天文台の口径3.9mアングロ・オーストラリアン望遠鏡によって1997年から2002年4月11日まで行われた、多数の銀河の赤方偏移を測定する掃天観測である。

このサーベイ観測のデータは2003年6月30日に公開された。

2dFサーベイの観測から描き出された宇宙地図

このサーベイによって近傍宇宙の一部分について宇宙の大規模構造が描き出された。

2009年7月現在、このサーベイは2000年に開始されたスローン・デジタル・スカイサーベイに次いで2番目の規模の赤方偏移サーベイである。

★2dFサーベイによってもたらされた宇宙論研究に関する重要な結果は以下のとおりである。

非相対論的物質(バリオンとダークマターとニュートリノ)の密度パラメータの測定。
バリオン音響振動の検出と、それによるバリオンとダークマターの密度関係の導出。
重いニュートリノによるダークマターへの寄与の制限。3つの種族のニュートリノの質量の上限を1.8eVとした。
これらの結果は、その他の観測結果、例えばWMAPの結果と合致するものである。これらにより、標準宇宙論モデル(Λ-CDMモデル)が正しいことが確認された。

2dFサーベイは比較的銀河系に近い領域の環境についても重要な情報をもたらした(右の宇宙地図参照)。スローン・グレートウォールと呼ばれる超銀河団は、宇宙の中で現在知られている最も大きな構造である。

2dFサーベイのデータから作成された近傍領域宇宙地図

★スローン・グレートウォール (英 Sloan Great Wall) は、銀河が構成する巨大ウォールの一つである。

グレートウォール (CfA2 Great Wall) は同様の一つの巨大ウォール(銀河フィラメント)であり、スローン・グレートウォールとは別物である。

スローン・グレートウォールは、スローン・デジタル・スカイサーベイ (SDSS)のデータに基づいてプリンストン大学の J. Richard Gott III と Mario Jurić およびその共同研究者達によって発見され、2003年10月23日に発表された。

ウォールの大きさは全長13億8000万光年(423Mpc)であり、地球から見かけの距離が10.2億光年、実際の距離は10.6億光年の位置にある。


現在のところ知られている最大級の宇宙の大規模構造であり、ヘルクレス座・かんむり座グレートウォール(全長100億光年)、U1.27(全長40億光年)、U1.28(全長20億光年)に次いで4番目に大きい。

スローン・グレートウォールは、1989年にハーバード大学のマーガレット・ゲラーとジョン・ハクラらによって発見された。

それまでの最大の宇宙構造であるグレートウォール (CfA2 Great Wall) と比較して3倍近く大きい。

■カナリア大望遠鏡(カナリアだいぼうえんきょう、Gran Telescopio Canarias、GTC)は、スペイン領カナリア諸島ラ・パルマ島のロケ・デ・ロス・ムチャーチョス天文台内にあり、しばしば GranTeCan と呼ばれる口径10.4mの反射式望遠鏡である。

望遠鏡は火山の山頂2267mに設置されている。7年がかりで建設された。GTC計画はスペイン、メキシコ、フロリダ大学、カナリア天体物理研究所 (IAC) の共同で設立された。建設費は13000万ユーロかかった。

GTCは2007年7月13日から12枚の反射鏡を用いて観測を始めた。最終的には36枚のセグメントを能動光学により制御する。

2008年5月に完全な状態で観測する予定である。

現在観測装置はOSIRIS,CanariCam とELMERのいずれかを使用。

■暗黒物質が存在する場合、その質量により光が曲げられ、背後にある銀河などの形が歪んで見える重力レンズ効果が起こる。

銀河の形の歪みから重力レンズ効果の度合いを調べ、そこから暗黒物質の3次元的空間分布を測定することに日米欧の国際研究チームが初めて成功したことが2007年1月に科学誌『ネイチャー』に発表された。

同年5月15日のアメリカ航空宇宙局の発表によれば、米ジョンズ・ホプキンズ大学の研究チームがこれを利用して、ハッブル宇宙望遠鏡で暗黒物質の巨大なリング構造を確認したという。

同研究チームは、10億〜20億年前に2つの銀河団が衝突した痕跡で直径が約260万光年、衝突によりいったん中心部に集まった暗黒物質がその後徐々に環状に広がっていったもの、とした。

銀河団 Abell 1689によって作られた重力レンズ。遠方の多数の銀河の像が円弧状に引き伸ばされて見えている。

■2007年9月14日【かぐや打ち上げ】(SELENE, Selenological and Engineering Explorer、セレーネ)は、宇宙航空研究開発機構 (JAXA) の月周回衛星。「SELENE」はギリシア神話の月の女神セレネ (Σελήνη, Selene) にちなんだ名称である。

この衛星を利用した月探査計画はSELENE Project(セレーネ計画)と呼ばれ、アメリカ航空宇宙局 (NASA) のアポロ計画以降、最大の月探査計画とされる(日本初の月探査は1990年打ち上げのひてん)。

主衛星と2機の子衛星で構成され、14種類の観測機器を搭載していた。

打ち上げ後は順調に飛行を続け、予定通りに月周回軌道に入り、2機の子衛星を分離後に月面から高度100kmの月周回観測軌道に投入された。

かぐやによる成果

本格的な解析として、地形カメラが撮影した月南極のシャクルトン・クレーター内の解析を行った結果、露出した氷(水の氷)がほとんど存在しなかったことを明らかにした。2008年10月23日付の科学誌「サイエンス」(オンライン版)に掲載された。
クレーター年代学により、月の裏側のモスクワの海などの形成年代の調査を行い、従来の推定結果よりも5億年以上、形成時期が若いことを明らかにした。2008年11月7日付の「サイエンス」(オンライン版)に掲載された。
約677万地点を観測したデータを使い、従来よりも詳細な月の地形図を国立天文台、国土地理院と共同で製作を行い、月の最高峰は10.75キロメートル(従来の値を約3キロ上回る)、最深部がマイナス9.06キロメートルであるといった成果が2009年2月13日付の米科学誌サイエンスに発表された。
日本放送協会が搭載したハイビジョンカメラで、「満地球の出」、「月面」などの撮影に成功。半影月食が起きた2009年2月19日には、月から見た地球の「ダイヤモンドリング」の撮影に世界で初めて成功した。
子衛星(リレー衛星(おきな))を用いた、月の裏側の重力異常の観測に成功。これによりジャイアント・インパクト説の信憑性が高まった。
月の極点での日照量を正確に測定し、月に永久日照領域が存在しないことを明らかにした。また、月に永久影が存在することを明らかにした。かぐやが観測した永久影の地形データを基に、NASAのエルクロスが2009年に月の水を世界で初めて発見した。
2008年5月20日にJAXAから「ハロー」と呼ばれるアポロ15号 (LM) の噴射跡を観測・確認した旨が発表された。
ガンマ線分光計(GRS)を用いて、原子力発電所の燃料となりうるウランを、月面から初めて検出した。
2009年6月11日、最後のミッションとしてギル・クレーター付近の目標地点への制御落下に成功、将来の月面着陸型無人探査機の投入に向けた技術的検証が行われた。
月の表側にある嵐の大洋の西部にある「マリウス丘」に、直径65メートル、深さ80~90メートルの縦穴(マリウスヒルズホール)を発見した。穴に差し込む太陽光と影を分析した結果、この縦穴の下には、横幅370メートル、内高20~30メートルのトンネルが存在することが明らかになった。トンネルは、長さ数十キロメートルに及ぶ地下の溶岩洞窟である可能性があり、将来の月基地の候補になるという。
2017年10月18日、JAXAは観測データの解析結果から、先に発見された「マリウス丘」近辺の縦穴(マリウスヒルズホール)について、電波を使って得た周辺の地下構造のデータを調べたところ、この縦穴から西に向かって幅100メートルほどの空洞が約50kmにわたって続いていることがわかったと発表した。。
科学探査ミッションで得られたデータを、2013年2月時点も解析中。

■2008年9月27日に中国の翟志剛(ZHAI Zhigang, ジャイ・ジーガン)が神舟7号から中国人初の宇宙遊泳を行なった。

■大双眼望遠鏡(だいそうがんぼうえんきょう、Large Binocular Telescope、略称LBT、元の名前は コロンブス計画)は、アリゾナ州南東部のグラハム山(英語版)の標高10,700フィート(3260メートル)地点に位置する天文観測施設である。

2008年時点において、LBTは世界で最も分解能のすぐれた望遠鏡で最も先進的な光学望遠鏡である。近赤外線での像はハッブル宇宙望遠鏡よりも10倍分解能が高い。

二つの反射望遠鏡

望遠鏡は2枚の8.4 m鏡が同一の架台に並べて取り付けられており双眼鏡と呼ばれている。LBTはArcetri天文台が開発した能動光学と補償光学を取り入れている。

2枚を合わせた集光面積は直径11.8 mの単一鏡に匹敵し、どの単一鏡よりも大きい。干渉計モードでは22.8 mの基線長の開口合成による撮像観測と基線長15 mの干渉計を構成する。

■2009年【ヒミコの発見】2009年、大内正己特別研究員が率いる日米英の国際研究チームが発見したヒミコは、ビッグバンから約8億年後(現在の宇宙年齢の6%、現在から遡ると約129億年前)という宇宙が生まれて間もない時代に存在した巨大天体であり、この天体の存在はビッグバン理論に対して大きな問題を投げかけることになった。


NASA
スピッツァー宇宙望遠鏡赤外線
ハッブル望遠鏡可視光
日本すばる望遠鏡紫外線での
撮像をそれぞれ赤、緑、青で合成した画像。

ヒミコは、5万5千光年にも広がり、宇宙初期の時代の天体としては記録的な大きさである。ビッグバン理論では、「小さな天体が最初に作られ、それらが合体集合を繰り返して大きな天体ができる」と考えられているが、ヒミコはビッグバンから約8億年後には既に現在の平均的な銀河と同じくらいの大きさになっていたこととなり、これは理論の根幹を揺るがす事実である。

■2013年1月11日に、 Roger Clowes が率いるランカシャー中央大学の研究者達が、サイズではそれ以前に発見された全ての銀河フィラメントを凌ぐ、U1.27大クエーサー群 (別名:Huge-LQG) の発見を発表した。

■2013年3月21日、欧州宇宙機関は、プランクによる観測の結果、宇宙の質量及びエネルギーに占めるダークエネルギーの割合は68.3%であると発表した。

★プランク (Planck) は、宇宙背景放射を観測するための高感度・高分解能の観測装置を備えた宇宙望遠鏡である。ESAで2000年に3番目の中規模計画として計画された。当初はCOBRAS/SAMBAと呼ばれていたが、後にノーベル物理学賞を受賞したドイツのマックス・プランクにちなんで改名された。

プランクは、2009年5月14日にアリアン5でハーシェル宇宙望遠鏡と共に打ちあげられ、7月にはL2点に投入された。

2010年2月には2回目の全天サーベイを開始した。 2013年3月21日に、全天の宇宙背景放射マップが公開された。

NASAのWMAPが観測したデータよりも高精度な宇宙背景放射マップが完成し、宇宙の年齢もこれまでよりやや古い約138億年であることが確認された。

■2013年4月3日、欧州合同原子核研究機関において、サミュエル・ティン(マサチューセッツ工科大学教授)らの研究グループが「暗黒物質が実際に存在する可能性を示す痕跡を発見した」と発表した。

国際宇宙ステーション (ISS) に取り付けたアルファ磁気分光器を使い、陽電子を観測した。

暗黒物質がニュートラリーノであると仮定すると、互いに衝突して消滅する際に陽電子が飛び出すと考えられている。

■2013年11月には、ガンマ線バーストを参照ポイントとする方法で、ヘルクレス座・かんむり座グレートウォールと名付けられた巨大な銀河フィラメントが発見された。

長さは U1.27 を凌ぐ100億光年にも達し、全ての宇宙の構造物として最大の大きさである。

■ディープ・スペース・クライメイト・オブザーバトリー(Deep Space Climate Observatory、略称:DSCOVR(ディスカバー)、日本語訳:深淵宇宙気候観測衛星)は、太陽フレア、プロトン現象など太陽表面の変化を観測するアメリカ海洋大気庁(NOAA)の人工衛星(太陽周回軌道)

ディスカバー(イメージ図)

2015年7月6日、約150万km離れた地球の太陽に照らされた側の最初の眺望を、搭載されているEPIC装置で撮影・送信、以降、地球全体にわたって毎日の変化を調査することを初めて可能にする地球の連続画像を毎日提供している。

150万km先から撮影された太陽に照らされた地球の最初のEPIC画像。アメリカ州が見える

画像は、撮影されてから12~36時間後に専用のウェブサイトに掲載される。

観測地点を太陽-地球 ラグランジュ点 L1に定めたのは、太陽風による粒子の恒常的な流れが地球に届くおよそ60分前に知ることができるからである。

通常、コロナ質量放出(CEM)によって放たれたプラズマや磁場が地球に到達し磁気嵐を形成する15~60分前に警告を発することができる。

このデータは、予防処置の面から磁気嵐の影響範囲の予測を改善するためにも用いられる。

L1に位置するディスカバーや他監視衛星からの警告がない状況ては、地球静止軌道の衛星のような電子テクノロジーは、影響による突然の故障の危険に常にさらされている。

2015年7月16から17日にかけて、地球の前を交差する月の画像を撮影した。

画像は、19時50分から00時45分(UTC)の間で撮られた。完成したアニメーションは、まず30秒間隔で10種類の異なる波長を用いて撮影したモノクロ画像を合成によってカラー化、各々の画像をフレーム 1コマとして構成し、月のためにわずかに緑を強調する微調整を行い動画を作成している。

この地球と月の交差は、新月の翌日に撮影され、地球上からは見ることができない月の裏側が見えている。月は太陽を背にしているため常に照らされており、地球と交差するときは必ず月の裏側を眺めることになる。

2015年10月19日、NASAは新しいウェブサイトを開設し、EPICによって撮影された最新の「ブルーマーブル」を公開した。

少なくとも12枚の画像が定期的に毎日リリースされ、それをつなぎ合わせた回転する地球のアニメーション動画を公開している。画像は、1ピクセルあたり 10~15kmの解像度で、露出時間は短いため周囲の星々を確認することはできない

■LISA パスファインダー(別名SMART-2)は、2015年12月3日04:04 UTCにヴェガロケットでリサジュー軌道に打ち上げられた宇宙探査機で、ESAとNASAによって共同開発された。

目的は宇宙重力波望遠鏡の技術実証。観測対象は重力波。

LISA パスファインダーの模型

■2019年1月3日【史上初の月の裏側への着陸】嫦娥4号(じょうが4ごう、英: Chang’e 4)は中国の月探査機。ランダーと月面ローバー「玉兎2号」を搭載し、嫦娥計画第二段階の一部として2018年12月8日に打ち上げられた。

2019年1月3日、嫦娥4号は月の裏側・東経177.6度、南緯45.5度に着地、計画の第一段階は成功し、史上初の月の裏側への着陸となった。

アメリカ合衆国のアポロ計画において月の裏側への着陸が行われなかったのは、月そのものが障害となって、地球との間での電波通信が困難になるからであるが、嫦娥4号は中継通信衛星「鵲橋」を用いることで、電波通信の問題を解決している。

嫦娥4号のミッションには公募が行われ、例えばいくつかの植物や植物の種、ミバエの卵やイースト菌といった生物が搭載された。

地球の生態系が周回軌道上の人工天体ではなく、他の天体に運び込まれたのは例が無く、少なくとも月の裏側で植物の栽培(発芽まで)が成功したのは史上初である。

綿花の種子は発芽に成功したものの、月の夜間はマイナス52度にも達するため生命の保持は容易ではなく、将来的な月面基地ではヒーターが必要になると考えられている。

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