いつから大正時代という言葉が使われるようになったのか調べてみた
時代区分として江戸時代・明治時代・大正時代と言うじゃないですか。
いずれ自分の生まれた昭和も昭和時代と言われるのだろうなあ、いったいいつ言われるのかなあ? などとと考えていた時に、ふと閃いた。
そうだ調べれば良いではないか!
というわけで調べてみた。
使うのはもちろんアニメ『大正野球娘。』の時代考証で使用していた『青空文庫』である。
https://www.aozora.gr.jp/に移動して、さっそく右上にある全文検索に「大正時代」と打ち込んでクリックしてみた。
ずらりと出てきた検索結果から古そうなものをチェックしてゆく。
検索結果のほとんどが芥川龍之介の人物介文で本編中の「大正時代」がなかなか見つからない。
ちなみにこちらが芥川龍之介の人物紹介文。
東大在学中に同人雑誌「新思潮」に発表した「鼻」を漱石が激賞し、文壇で活躍するようになる。王朝もの、近世初期のキリシタン文学、江戸時代の人物・事件、明治の文明開化期など、さまざまな時代の歴史的文献に題材をとり、スタイルや文体を使い分けたたくさんの短編小説を書いた。体力の衰えと「ぼんやりした不安」から自殺。その死は大正時代文学の終焉と重なっている。
「大正時代」の検索結果にはこの文章がひっかかり大量に表示されるのだ。
ちなみに青空文庫には芥川龍之介の著作が377編も登録されている。
ええかげんにしてくれ……。
その芥川龍之介の海をかき分けてやっと見つけたのが、
『平和への荷役』宮本百合子
(前略)明治、大正時代の日本資本主義の興隆期に向っていた権力者たちが、中国と当時のロシアに対して他の列強資本主義が抱いていた利害関係との一致において敢行したことだった。
文の最期に一九四八年七月とあったので、昭和23年と言うことになる。
さらに古いのを探すとこんなのがあった。
『津輕地方とチエホフ』
著者はあの文豪、太宰治である。
こなひだ三幕の戲曲を書き上げて、それからもつと戲曲を書いてみたくなり、長兄の本棚からさまざまの戲曲集を持ち出して讀んでみたが、日本の大正時代の戲曲のばからしさには呆れた。
初出は「アサヒグラフ 第四十五巻第十四号」
1946(昭和21)年5月15日発行
大正が終わって約20年ほど経ってから「大正時代」という言葉が使われるようになったっぽいなあ、などと思いながらさらに古い文章を探してみたが、出てくるのはやはり芥川龍之介の人物紹介文ばかりである。
もういいかげんこのあたりで諦めようかなと思っていたら、もうひとつ文章が出てきた。
『続文芸的な、余りに文芸的な』というタイトルの文章中に大正時代と言う単語が出ていた。
「文章倶楽部」が大正時代の作品中、諸家の記憶に残つたものを尋ねた時、僕も返事をしようと思つてゐるうちについその機会を失つてしまつた。
著者はなんと芥川龍之介で書かれたのは(昭和二年五月六日)だった。
おそらくこれより古い「大正時代」は無いだろうと見当をつけて、ここで検索を打ち切った。
大正時代は1926年(大正15年)12月25日に終わり、昭和元年はわずか6日ととても短い。
したがって大正が終わりを告げて半年後にはもう「大正時代」という言葉が使われていたことになる。
おいおい、早すぎないか?
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