大正時代の女学生言葉について

2021年5月1日 オフ 投稿者: animeoyagi

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 2009年のTVアニメ『大正野球娘。』の時代考証で当時の女学生はどんな言葉を使っていたのかを調べていて色々と面白いことが分かった。

 明治時代に誕生した女学生の言葉からすでに乱れていたらしいのである。

『流行言葉《はやりことば》』紅葉山人(尾崎紅葉の変名) 『貴女の友』二十五号 明治二十一年六月五日

 今女生徒が用ふる異様の言葉わ旧幕の頃青山に住める御家人の(身分のいやしき)娘がつかひたるが(後略)

 などと明治時代の文豪が当時の女学生の言葉遣いについて書き残している。

 大正時代の女学生の言葉を調べ進めて行くと、「私、知らなくてよ」とか「私〇〇だわ」といった言葉遣いは「てよだわ言葉」と言われ、現在のギャル語のような言葉の乱れとしてとらえられていたことが分かった。

氷蔵の二階』宮本百合子 「女性」1926(大正15)年7月号

「あら私、何だか変だわ、嬉しいみたいな、恥しいみたいな」
と笑い出した。
「人が待っていてくれるところへ帰って来るなんて、まるで珍しいのよ」
 房は、志野が袴をぬぐ間傍に立って見ていた。
「ひどい埃ったらなくてよ、外」

中里介山の『大菩薩峠』三田村鳶魚 「日本及日本人」1932(昭和7)年10月15日号、11月1日号

しかるにまたこの女は、「ぞんざいといふのはわたしの言ふことよ」とも言っている。二十八九にもなっている女が、武家奉公をしたことがある者にしろ、ない者にしろ、こんな今の女学生みたいな言葉を遣うはずがない。この「わ」だの、「よ」だのというのは、すべて幼年の言葉で、それもごく身分の低い裏店の子供のいうことです。たとえどういう身柄の者にせよ、二十八九にもなる女が、そういう甘ったるい口を利くのは、江戸時代として受け取ることは出来ない。

言葉の魅力岸田國士 「婦人公論 第十九年六月号」1934(昭和9)年6月1日発行

五、東京の女学生は、同じ東京弁でも、やゝ変態的な言葉を好んで使ふ風がある。家庭で「上品ぶつた」言葉を使はせられる少女たちほど、学校で、友達とはぞんざいな言葉を使ひたがるのである。男の言葉を真似たり、「酒場バア」あたりから流れ出る流行語を口にしたりする。これは、しかし、意識的に、戯談に、反抗的に使つてゐる場合が多く、別に咎めだてをするには当らぬが、地方から出て来た少女が、これを真向から受け取ると厄介である。「言葉」をもてあそぶといふことは、一つの文化的遊戯には違ひないが、これは火遊びに類するもので、怪我をすることがある。

『声と性格』宮城道雄 「垣隣り」小山書店 1937(昭和12)年11月20日

 女学生の言葉には女学生特有のものがあるが、友達同志が打ちとけて話す場合の言葉はごく簡単で親しみがあり、しかも友情を表わしているものがある。例えば「どこそこに行ってよ」「何々してるわよ」とか、同じ返事をするのに「はい」とか「へい」とか言わずに、近ごろは「ええ」という返事をする。こういう言葉はざつのようであるが「よ」とか「ええ」とかいう言葉に、非常に親しみがこもっている。

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 いくつか例をあげたが、この乱れた言葉がどうして現在ではお嬢様言葉としてとらえられているのかと言うと、この言葉を使っていたのが女学生だったことに関係がある。

 当時、小学生から女学生への進学率は低く大正末期で15%ほどで、彼女たちの学歴は女子全体の上位であり、おそらくそれなりに上流の家庭へと嫁いでいった可能性が高い。

 良い家庭に入った彼女たちの言葉遣いは下から見れば品のある言葉として認識されたのだろう。

 似たような例で、「〇〇ざあます」という奥様特有の言葉遣いがある。

 これはもともとは吉原の花魁が使っていた廓言葉である。

 明治になって当時の高官や軍人が花魁を身請けして別邸にお妾さんとして囲ったのが奥様言葉の始まりらしい。

 話は戻って「てよだわ言葉」であるが、本稿を書いている自分が耳にして印象的に記憶しているのは、あの『エースをねらえ!』のお蝶夫人(一応高校生だ)である。

「そこ、うるさくてよ」

 今でも脳内であの凛とした池田昌子の声が再生されるのである。

大正野球娘。の時代考証に使っていた裏技

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