本塁打王ベーブ・ルースと大正野球娘。の接点は?
ふと大正野球娘。の登場人物はベーブ・ルースをどの程度知っていたのだろうと思った。
ベーブ・ルースとはWikipediaを丸写しさせてもらうと、
ジョージ・ハーマン・”ベーブ”・ルース・ジュニア(George Herman “Babe” Ruth, Jr., 1895年2月6日 – 1948年8月16日)は、アメリカ合衆国メリーランド州ボルチモア出身の元プロ野球選手。愛称は「バンビーノ(The Bambino)」。
最初にアメリカ野球殿堂入りを果たした5人の中の1人であり、本塁打50本以上のシーズン記録を初めて達成した。
1927年に記録したシーズン60本塁打は、1961年にロジャー・マリスによって破られるまでの34年間、MLB最多記録であった。
また、生涯通算本塁打数714本も1974年にハンク・アーロンに破られるまで39年間MLB最多であった。
ブラックソックス事件による当時の球界への不信感を、豪快な本塁打の連発により払拭するにとどまらず、さらに野球人気を高めることに成功した。
アメリカ国内において、数多いプロスポーツの一つに過ぎなくなっていた野球を、最大の人気スポーツにした事で「野球の神様」「アメリカ球界最大の巨人の1人」と評されている。
という人物で、野球の世界では野球の次に偉大な人物とも言われた人気者だ。
さて、そのベーブ・ルースだが来日したことがある。
1934年に大リーグ選抜の一員として来日し、大人気で迎え入れられた。
『青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/』で「ベーブ・ルース」を検索したところ以下の文章がヒットした。
■ついせんだってのあのベーブ・ルースの異常な人気でも、ことによると彼の特異な人相に負うところが大きいのかもしれない。『自由画稿 昭和十年一月、中央公論 寺田寅彦』
■十月十七日(月曜)
今日は後楽園のスタヂアムで職業野球の試合があり、その中へまぎれ込んで撮影をする。
(中略)藤原義江のロッパ論といふのが、此うだ。ベーブ・ルースといふ男はホームラン王だが、それでも三振することがある、他の人間なら三振すれば引込め、バカヤローを食ふところ、ベーブの場合は客が喜んで拍手し声援する。ロッパは、ベーブ・ルースで、つまりパースナリティーだけのよさだと。『古川ロッパ昭和日記 昭和十三年 古川緑波』
■これを野球に比べてみると、二つの相違がハッキリする。なんというグランドの広さであろうか。九人の選手がグランドの広さに圧倒され、追いまくられ、数万の観衆に比べて気の毒なほど無力に見える。グランドの広さに比べると、選手を草苅人夫に見立ててもいいぐらい貧弱に見え、プレーをしているのではなく、息せききって追いまくられた感じである。いつかベーブ・ルースの一行を見た時には、流石に違った感じであった。板についたスタンド・プレーは場を圧し、グランドの広さが目立たないのである。グランドを圧倒しきれなくとも、グランドと対等ではあった。『「現代文学 第五巻第三号」1942(昭和17)年2月28日発行 坂口安吾』
と、いくつか挙げてみたが、昭和の日本人の印象に大いに残っていた。
さて、大正期であるが、
大正は西暦で1912年7月30日から1926年12月25日までの期間にあたる。
ベーブ・ルースがニューヨーク・ヤンキースで60本のホームランを打ったのが1927年なので、その一年前までということになる。
ルースは31年までホームラン王を獲り続けたので大正時代はほぼ全盛期と言っていいだろう。
さて、「青空文庫」で検索してみると、
大正時代でベーブ・ルースは一一件もヒットしなかった。orz
ではもう一つの時代考証検索サイト「国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/」で検索してみると、
あった!
1920年の本で『野球の米国 著者 林富平 出版者 米国実業視察団 出版年月日大正9』
その内容はというと、
■ベーブ、ルースのレコード破り
昨年までボストン、アメリカンの投手兼左翼であったルース君は二十九回のホームラン、レコードから本年アメリカン紐育に入ってから一躍五十四回のレコードを作った、(後略)
『野球の米国 著者 林富平 出版者 米国実業視察団 出版年月日大正9(1920)』
ちょうどルースが投手から打者へと転向しホームランバッターとして開花しはじめたころの様子が日本に紹介されていた。
ちなみに次に紹介されていたのは1930年の本だったので、現在自分が調べられた大正期のベーブ・ルースはこの本だけだ。
アニメ版の大正野球娘。たちの中では川島乃枝や宗谷雪あたりが読んでいた可能性はある。
逆に読んでないのは月映巴だろう。