歴史残念無念列伝 秦の二世皇帝になるはずだった 扶蘇(ふそ ? – 紀元前210年)
■扶蘇(ふそ、? – 紀元前210年)は、秦の始皇帝の長男。姓は嬴(えい)。
仁愛ある人格と聡明さで知られ、時には始皇帝を諫めるほどだったという。
彼はおそらく賢く、恐怖政治を敷いた始皇帝である父とは違い温和な性格だったのだろう。
将来は秦の二代目皇帝として周囲に期待されていたようだ。
彼の前途が狂い始めたのは始皇37年(紀元前210年)7月のこと。
父の始皇帝が巡幸中に、沙丘の平台宮で崩御したのだ。
普通なら扶蘇が二代目皇帝をすんなりと継ぐはずだったがそうはならなかった。
宰相の李斯は、この機に乗じて天下を狙う者が乱を起こすことを恐れて、始皇帝の死を秘密にした。
この時、扶蘇は都から遠く離れた北の地に将軍蒙恬とともにあり、この変事を知らなかった。
始皇帝の死は、李斯と始皇帝の末子である胡亥と宦官の趙高、そして数人の宦者が知るのみだったようだ。
この趙高は中国悪臣列伝があれば必ず登場する宦官である。
胡亥は趙高から、始皇帝の詔の内容を改変し扶蘇を廃して胡亥が太子として立つ、という謀略を持ちかけられた。
始皇帝の18番目の男子だったと思われる胡亥が皇帝になれるチャンスはまずない。
胡亥は趙高の話に乗った。
いつも不思議に思うのだが、この密談が歴史に残ったのはなぜなのだろう?
まるで誰かがその場で見聞きしていたかのように記録に残っているのである。
それはともかく、趙高は宰相の李斯をも謀略の仲間にしてしまう。
扶蘇が皇帝に即位すれば将軍の蒙恬が丞相となり、あなたは解任されると吹き込んだのだ。
痛いところを突かれた李斯も話に乗った。
三人は始皇帝が扶蘇に次期皇帝につくよう封じておいた文書を改変し、胡亥が太子として立てられるようにした。
さらに、自決を促す文書に皇帝の印を押し、扶蘇と蒙恬のもとに送った。
扶蘇は文書を読んで、泣いて自殺しようとした。
蒙恬は制止したが扶蘇は父である皇帝の命には逆らえないとして自殺した。
扶蘇にもう少し様子を見るしたたかさがあれば歴史が変わっていたかもしれない。
しかし彼は実に純粋な人物だったようだ。
親への孝が強すぎたためにこの悲劇が生まれた。
実に儒教ごのみの人物である。
同年内に、蒙恬も胡亥の送った使者によって自決を命じられ、自決した。
実は一番残念無念だったのはこの蒙恬だったかもしれない。
何事もなければ穏やかで聡明な二世皇帝を補佐した宰相として名を残していたかもしれないのだ。
さて、その後、宰相の李斯は趙高に謀られて刑死。
そして秦に大乱が起こり、胡亥は趙高に騙されて自殺した。
秦は三代目の子嬰が咸陽に攻めてきた劉邦に降伏。これにより、秦は滅びた。
始皇帝が死去してわずか四年後のことだった。