父の手旗信号
私は小学五年生の時に北海道の礼文島という離島で暮らしたことがある。
礼文島は日本最北端の有人島だ。
私が暮らしたのは1968年(昭和四十三年)12月から1970年(昭和四十五年)8月までの約2年間だ。
米ソ冷戦のまっただ中だった当時、米軍と自衛隊は稚内にあるレーダーで仮想敵国ソビエト連邦の動向を監視していた。
だが、付近の利尻島が邪魔で監視網に穴があったらしい。
そこで自衛隊は利尻島北部にある礼文島にレーダー基地を建設しその穴を埋めようとしたらしい。
らしいらしいと推測が続くのは国家機密の範疇にはいるらしいのでそのあたりは勘弁していただきたい。
そこで陸自の私の父親らが立候補して礼文島に派遣されたらしい。
この父は旧海軍出身で戦後はなぜか陸自という不思議な経歴の持ち主だった。
島のレーダーで監視する対象は飛行機か船のはずで、空自か海自の役目だと思うのだが、なぜ陸自の父が派遣されたかは私にもよく分からない。
たぶん当時の自衛隊にも色々と事情があったのだろう。
私たち家族が引っ越す前の夏に先遣隊が出発し、父は資材を積んだ船に乗り後発した。
父の乗った船が港近くについたところで問題が持ちあがったらしい。
民間しか使用したことのない港に自衛隊の資材を積んだ船が入港する場所があるのだろうかと。
それなりの大きさを持った輸送船が入れる水深をもった岸壁があるのかと。
父が双眼鏡で港をのぞいてみると資材を受け取るために先遣隊の自衛隊員たちが岸壁に集合しているのが見えた。
この時どうも無線は通じない状況にあったらしい。
自衛隊が港にあった民間の無線を使うことは法律上できなかったのかもしれない。
詳しい状況は父から聞いた私が忘れてしまった。
ともかく無線が使えない。
さてどうするかと船内の誰もが困惑したとき父は、「俺に任せろ」と自信満々に言って甲板に向かった。
父は勇んで船首に立つと海軍時代に習得した手旗信号で岸壁に向かって両手を振った。
父の手旗を私は子供の頃に観たことがあるが、これがとてつもなく早くキビキビとしたものだった。
この時も素早くキビキビしていただろうと思う。
「当方ハ何処ニ接岸スレバ良イカ。指示ヲ乞ウ」
しかし仲間からの返事はなかった。
港の先遣隊の中に海軍経験者はおらず、誰も手旗信号を読み取れなかったのである。