自衛隊前史 警務隊初めての大事件
警察予備隊から自衛隊への流れはWikipediaによれば以下の通りである。
1950年(昭和25年)6月に朝鮮戦争が勃発し、在日米軍の大半が朝鮮半島に出動したことで、日本防衛について空白が生まれたため、ダグラス・マッカーサー元帥の書簡により国内の治安維持を目的として、同年8月に「警察予備隊」が創設された。
1952年(昭和27年)8月に「保安庁」が発足し、警察予備隊は海上警備隊及び海上保安庁航路啓開隊とともに保安庁隷下に入り、それぞれ「保安隊」、「警備隊」に改組された。
その後、順次防衛力の整備が進み、1954年(昭和29年)7月1日に保安庁は「防衛庁」に、保安隊及び警備隊は「陸上自衛隊」、「海上自衛隊」にそれぞれ改組され、新たに「航空自衛隊」が創設された。
さて、これから書く話が保安隊時代なのか自衛隊時代なのかは不明である。
よく聞いておけばよかったなと思うが、父が亡くなった今ではもうどうにもならない。
事件のあった当時、父は現在の第2師団がある旭川にいた。
夜になって警備をしていた隊員から駐屯地の隅に死体が転がっているとの連絡が入り、父たち警務隊の面々は取るものもとりあえず現場へと向かった。
警務隊とは隊内の警察にあたる。
現場の草むらにあった死体の首には細いロープが巻き付いており、この時点では自殺か他殺かは不明である。
さてどうしたものかと考えていると遠くサイレンの音がした。
見ると門の方から多くの回転赤色灯がこちらに向かってくるのが見えた。
隊員の誰かが警察に連絡したのだった。
パトカーで駆けつけた警官隊と警務隊の隊員たちは死体を挟んで睨み合ったそうである。
現場を丸く収めたのは、そこへやって来たベテランの検事さんだった。
「はい、隊内の事件は警務隊の縄張りだから、警察の方はお引取りくださいね」
そう言われた警察は渋々引き下がって行ったそうである。
父の話によればこの当時、まだ縄張りの区分が浸透しきっていなかったのでこんなことになったそうだ。
警察が去った後、検事さんがはいどうぞ、という感じで父たちに向き直ったが、警務隊の面々は動くことが出来なかった。
なぜならこれが初めての大事件だったので、何をしてよいのか全く分からなかったのである。
そこで父が代表してこの手の状況が初めてである事を説明し検事さんにどうしたらよいのかお伺いを立てた。
「あっそうですか。では縄を用意して現場を囲ってください」
言われるがまま慌てて用意した縄で現場を保持。
「誰かカメラを用意して」
これまた慌てて用意したカメラを父が受け取り、検事さんの指示で撮影してゆく。
「まず現場全体が分かるように引いたところから角度を変えて。それからここと、ここから」
てな具合に一から十まで検事さんに指示してもらったのが最初の大事件だったそうである。
ちなみに事件は他殺ではなく自殺だったそうな。
合掌。
自衛隊前史 警察予備隊から保安隊へ 警務隊、初めてのガサ入れ