将棋指し列伝 江戸時代から明治初期編

2020年11月21日 オフ 投稿者: animeoyagi

※Wikipediaの記事を使用しています

初代 大橋 宗桂(おおはし そうけい、弘治元年(1555年) – 寛永11年3月9日(1634年4月6日))は、将棋指し、一世名人。子に、二世名人・大橋宗古、初代大橋宗与がいる。

 近年の研究によると、初代宗桂の生前にはまだ大橋姓はなかったともいわれている。大橋本家初代

 宗桂は、京都下京の町人宗也の息子で、比較的裕福だったと推定される。

 幼名は龍政。初めは宗金を名乗り、次に宗慶を名乗って、次いで宗桂に変わる。

 その「宗桂」は織田信長から、桂馬の使い方が巧いとお褒めの言葉を貰い、以後「宗桂」と名乗るようになったという話もあるが、真偽のほどは確かではない。

 宗桂は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた(ただし、大橋本家の古文書類を研究した増川宏一は宗桂が信長、秀吉に仕えたことを虚偽として否定している)。

 秀吉は、宗桂に「棋所の御証文」、二十石十人扶持を与えた。

 関白豊臣秀次は、宗桂を「御城将棋」の席に召し出した。

 囲碁の本因坊算砂と度々将棋を披露した(このころは将棋と囲碁がどちらもできる者がほとんどで、宗桂も囲碁を打てたという説もある)。

 ただし、残されている二人の将棋の平手戦の対戦は宗桂の7勝1敗であるため、勝浦修によると「宗桂は算砂より角1枚分強かった」という。

 しかし、古作登は算砂の将棋棋譜を再解析、コンピュータ将棋での局面評価結果が互角に近いことや、宗桂の息子の宗古の指導を行っていることから、算砂の将棋の棋力は相当に高かったとしている。

 徳川家康は碁、将棋を愛好し、碁将棋所を設け、最初は両方とも算砂が持っていたが、その後の慶長17年(1612年)に将棋所は独立したとされる。

 宗桂が初代将棋所となったとされるこの年を、日本将棋連盟は宗桂が一世(初代)名人になったとしているが、増川宏一の著作では「史実ではない」と否定されている。

 家康は、宗桂に「将棋の指南役」として、五十石五人扶持を与えた。

 宗桂は僧体だったという説もあったが、増川宏一は『碁打・将棋指しの誕生』(平凡社ライブラリー)において、僧侶だった算砂と比較し、宗桂は町人の出だったとしている(同書121ページ)。

「以後、嫡男は髪を剃り、僧体とするようにした」という説もあったが、近年の研究では大橋家は御用達町人の身分だったとされる。

 初代宗桂の二百回忌に際し、十一代大橋宗桂が大橋家の系図を作成している。

 これによると、初代宗桂は宇多天皇を祖とする佐々木源氏(近江源氏・佐々木氏)の血を引くものとされるが、多くの誤りが散見され、後代の創作であることを強く疑わせるものである。

 この内容は2百回忌に宗桂を追悼する碑である「賜將棊所宗桂法印大橋君追福碑」にある朝川善庵による碑文(碑文は『崇文叢書』の『楽我室遺稿』巻3に収録)にもある。

 また明治44年発行の『将棋雑誌』(大阪市将棋社発行)には初代宗桂は「宗也の子にして幼名宗金、のち宗慶と号す。

 父子共に織田信長に召しだされる」や『将棋名匠逸話』(大崎熊雄、北斗星共著、昭和3年刊)では「宗桂も始めは名も宗慶と称し医事をもって父の宗也と共に信長公に仕えていた」と著されているという。

詰将棋
 宗桂は現存する最古の詰将棋集「象戯造物」の作者である。この作品集は、慶長年間に発行されている。

 また、宗桂は将棋所に就任して4年目の元和2年(1616年)に、幕府に作品集を献上している。

 後の名人がこれに倣った事で、名人が幕府に作品集を献上するという慣習が生まれた。

 宗桂の詰将棋の作風は実戦的で力強いと森雞二は評している。

 手数は十数手詰めで、実戦的な手筋を多く用いており、江戸中期に盛んになった華麗な手筋を用いるものとは趣が異なる。

 宗桂の詰将棋でもっとも有名なのは、俗に「香歩問題」として知られている15手詰めのものであろう。

興味のある方はこちらのリンクで↓

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%81%93%E8%A9%B0%E5%B0%86%E6%A3%8B#%E9%A6%99%E6%AD%A9%E5%95%8F%E9%A1%8C

 一見5手詰めに見えるが、玉方に銀をただで合駒する妙手があってなかなか詰まない。

 後世の大道詰将棋の客寄せ問題として使われ、大勢の庶民が頭を悩ました。

 これ以前にも、山科言経が著した『言経卿記』の慶長7年(1602年)12月3日条に、「少将棊指の宗桂が来たりて了んぬ、少将棊の作物五十、一冊禁中へ進上申したきの由、来たりて了んぬ、予一冊之を与ふ」とあり、宗桂が言経を通して天皇に詰将棋集を献上しようとしたことが記されている。

 ただしこの詰将棋集は現存を確認できていない。

最古の棋譜
 現存する最古の棋譜は、慶長12年(1607年)に指された先手大橋宗桂、後手本因坊算砂の対局である。この対局は133手で宗桂が勝っている。

 現在分かっている宗桂の対局棋譜は、すべて本因坊算砂との対局の8局のみであり、その対戦成績は7勝1敗である。

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本因坊 算砂(ほんいんぼう さんさ、永禄2年(1559年) – 元和9年5月16日(1623年6月13日))は、安土桃山時代、江戸時代の囲碁の棋士。生国は京都。

 顕本法華宗寂光寺塔頭本因坊の僧で法名を日海と称し、後に本因坊算砂を名乗り、江戸幕府から俸禄を受けて家元本因坊家の始祖となるとともに、碁打ち・将棋指しの最高位、連絡係に任ぜられて家元制度の基礎となった。

 一世名人。本姓は加納、幼名は與三郎。

 舞楽宗家の加納與助の子として生まれる。

 8歳の時に叔父で寂光寺開山・日淵に弟子入りして出家。

 仏教を修めるとともに、当時の強豪であった仙也に師事して囲碁を習う。

 天正6年(1578年)、織田信長に「そちはまことの名人なり」と称揚されたとされ、これが現在も各方面で常用される「名人」という言葉の起こりとされる。

 ただし、増川宏一によると鎌倉時代の『二中歴』(ca.1210–1221) にはすでに、囲碁と雙六の「名人」についての記述がある。

 天正10年(1582年)、本能寺の変前夜に信長の御前で利玄(鹿塩利賢もしくは林利玄など諸説あり)と対局をした所、滅多に出来ない三コウが出来、その直後に信長が明智光秀に殺されるという事態が起こった。

 これ以降「三コウは不吉」とされる。

 ただしこれは歴史的信憑性に欠けており、後世の創作であるという説が有力となっている。

 そもそも三コウはそこまで珍しいというものではなく、現在行われているプロの棋戦の中で年に一回くらいは起きている。

 天正15年(1587年)閏11月13日、徳川家康は算砂を京都から駿府に招いている。家康女婿の奥平信昌が京都で算砂の碁の門下となり帰国の際に駿府へ連れてきたとされている。

 天正16年(1588年)に豊臣秀吉御前で、算砂、利玄など数名の碁打衆が召し出されて対局し、これに算砂が勝ち抜いて20石10人扶持を与えられたとされる。

 この時の書状に「碁之法度可申付候」とあるのを碁所の開始とする説もある(『座隠談叢』)。

 慶長8年(1603年)、徳川家康が江戸に幕府を開くと、家康に招かれて一時江戸に赴いた。

 慶長13年(1608年)、大橋宗桂と将棋対局(将棋最古の棋譜)

 同年には、日本初の囲碁出版である『本因坊碁経』(詰碁や手筋などを収録)を刊行している。

 慶長16年(1611年)には僧侶としての最高位の「法印」に叙せられている。

 慶長17年(1612年)には、幕府より算砂を始めとする碁打ち衆、将棋衆の8名に俸禄が与えられ、算砂は、利玄、宗桂とともに50石10人扶持とされた。同年、将棋所を大橋宗桂に譲ったとされる。

 元和9年(1623年)5月16日、後継の算悦の後見を弟子の中村道碩に託して死去した。

 墓所は京都寂光寺にある。

 辞世の歌は「碁なりせば 劫(コウ)なと打ちて 生くべきに 死ぬるばかりは 手もなかりけり」。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康ともに算砂に対し五子の手合割であったと『坐隠談叢』にある。

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二代大橋宗古(おおはし そうこ、1576年(天正4年) – 1654年8月27日(承応3年7月15日))は日本の将棋指し、二世名人

 父は一世名人初代宗桂。弟に初代大橋宗与。子に三代大橋宗桂、初代伊藤宗看妻。孫に四代大橋宗伝、五代大橋宗桂。

 寛永11年(1634年)、名人就位。宗古は当時59歳。

 彼の世襲により家元制が確立。

 彼の手により、弟の宗与を祖とする大橋分家、娘婿の伊藤宗看を祖とする伊藤家が始まる。

 以後、江戸幕府が倒れるまで、大橋本家をあわせたこの三家から名人を出すことになる。

 宗古時代の将棋家元の権威は低く、松本紹尊や萩野真甫、檜垣是安といった在野棋客からの挑戦が相次いだが、老齢の宗古に代わって娘婿の初代伊藤宗看が対戦し、家元の権威を守った。

 1654年(承応3年)に79歳で死去。

 名人位は初代伊藤宗看が、大橋本家は三代大橋宗桂が継いだ。

 1660年(万治3年)、三代大橋宗桂が48歳で死去、その子である四代大橋宗伝も1662年(寛文2年)に25歳で死去し、大橋本家は断絶の危機を迎えたが、初代宗看の子で二代宗古の外孫にあたる宗銀が大橋本家を継承し、五代大橋宗桂となり存続した。

宗古の棋譜
 現存する宗古の最初の棋譜は1653年(承応2年)に刊行された『仲古将棋記』(将棋指組)に収録されている本因坊算砂との十五番指しである。

 この対局は、1619年(元和5年)から1621年(元和7年)にかけて行われた。当時は算砂のほうが格上だったため、手合割は宗古が下手で平香交り(平手と右香落ちを交互に指す)である。

 第二局は、現存する最古の駒落ちの棋譜である。

 結果は、平手では宗古の4勝3敗1持将棋、香落ちでは宗古の5勝2敗、通算で宗古の9勝5敗1持将棋と勝ち越している。

 なお、第一局が行われた1619年の時点で宗古44歳、算砂61歳であった。

 著書に「象戯図式」(俗称:将棋智実)「象戯手引草」「将棋経妙」など。

「象戯図式」の巻末でルールを成文化する。

千日手の禁止
行き所のない駒(を打つ、もしくは不成によりその状態にすること)の禁止
二歩を打つことの禁止
打ち歩詰めの禁止


 このルールは基本的に現在に受け継がれているが、千日手については後にルールが複数回改定されている。

将棋駒 掬水作 錦旗 虎斑極上 盛揚
将棋駒 掬水作 錦旗 虎斑極上 盛揚

初代伊藤宗看(しょだい いとう そうかん、1618年(元和4年) – 1694年12月22日(元禄7年11月6日))は将棋指し、三世名人

 出雲国出身。二世名人大橋宗古 (二代)の娘婿であり、宗古の計らいによって、新しい家元、伊藤家を興す(寛永12年)。このとき、宗看18歳であった。

 しかし、その新家元に敵対する本因坊系の棋士は次々に対局を申し込む。

 宗看はそれらを受けてたち、松本紹尊(寛永14年)などとにいずれも勝ち越し、新家元、伊藤家の権威を確実なものとした。

 その中でも有名なのが「是安吐血の局」である。

 これを認められ1654年(承応3年)先の名人、宗古の死により、三世名人を襲位した。ときに宗看37歳であった。

 生前の1691年、実子の五代宗桂に名人をゆずった。

 寛文2年(1662年)、将棋は寺社奉行管轄となり、幕府は大橋本家、伊藤家に京都から江戸への引っ越しを命じた。

詰将棋
 宗看の詰将棋百番「象戯図式」(俗称:将棋駒競)は1649年(慶安2年)に献上された。

 これにより、八段に昇り、次期名人と目された者が名人襲位前に詰将棋を献上するしきたりはここから始まった。

 また、詰将棋の手余り(詰みの局面で持ち駒が余る)を廃した。

将棋、貴重品・古い時代の正次作・正次書の盛上駒と駒箱(直筆揮毫入り)付
将棋、貴重品・古い時代の正次作・正次書の盛上駒と駒箱(直筆揮毫入り)付

檜垣是安(ひがき これやす、ひがき ぜあん)は、江戸時代前期の棋客である。家元とは独立して活躍した在野の強豪として知られる。京の人。

是安吐血の局
 初代大橋宗桂が幕府のおかかえ(現在で言う名人)となり、その地位が二代大橋宗古に引き継がれて家元制が成立したことに是安は異を唱え、自らに譲るべしと宗古に挑戦状を送った。

 宗古は門下生で娘婿の初代伊藤宗看を立てて、是安を迎え撃つこととした。

 これが争い将棋の起源であるとされることがある。

 是安はこれまでに宗看と角落ち・香落ちで何度も対戦していたが、角落ちでは是安の全勝、香落ちでようやく指し分けであった。

 是安は、平手で宗看を倒して家元の地位を奪うべく、対振り飛車の雁木戦法(後述)という新戦法を考案していた(当時、平手では後手が振り飛車を選択するのがセオリーだったため、これを狙い撃つための戦法)。

 しかし、宗古の意向により、平手ではなく、右香落ちと角落ち(どちらも上手は居飛車で戦うのがセオリー)の二番勝負とされてしまい、是安は泣く泣く雁木戦法を封印して戦うこととなった。

 対局は、1652年の8月に行われた。右香落ちと角落ちのどちらを先に指すかを駒を振って決め、右香落ちが先となった(振り駒の起源と伝わる)。

 一局目の右香落ちは、8月5日に行われた。相居飛車で6七と5七に銀を並べる二枚銀の構え(雁木戦法とは異なるが、現在で言う雁木囲いに近いもの)を採用し、袖飛車からの攻めが決まって是安が勝利した。

 勢いに乗る是安は、香落ちで勝ったのだから平手での勝負を受けよ、角落ちで負けるようなことがあれば将棋を辞める、などと宗看を挑発。

 ひとまずは事前に決めた通り角落ちを指すこととなったものの、もし角落ちでも是安が勝って連勝となれば、次はいよいよ平手で勝負せざるを得ない。平手ならば是安得意の雁木がついに日の目を見る。

 家元の地位を賭して宗看は決死の覚悟で角落ちの対局に臨んだ。

 角落ち対局は8月8日に行われた。

 是安の三間飛車から乱戦となり、両者一進一退の攻防が続いた。

 161手にも及ぶ戦いの末に是安は投了。

 生涯を賭した激闘によって精根尽き果てた是安は、投了と同時に血を吐き、これが原因となって一年後に死んだ。

 打倒家元に向けて是安が創案した秘策・雁木戦法が家元相手に使われることはなく、かくして宗古・宗看の家元の地位はすんでのところで守られた。

 この一戦は、是安吐血の局(吐血の戦いや吐血の一戦とも)と言う名で講談の題材となり、現代に伝わる。

 しかしながら、現在では、是安吐血の局は大幅に脚色されたものではないかとされている。

 この対局の7年後の1659年7月22日に是安が石井承意と対局した棋譜が残っているため、この対局が原因で死んだというのは事実ではないと考えられる。

雁木戦法
 是安は雁木戦法の創設者としても知られる。

 ただし、是安の考案した雁木戦法とは、対振り飛車の引き角戦法のことであり、現在相居飛車戦で用いられる囲い(雁木囲い)とは異なる。

 伝承によれば、家元に挑戦状を送った是安が、河原で作戦を練っていた際に思い付いたのが雁木戦法である[5]。雁木とは、階段のことである。

 雁木戦法では、対振り飛車戦で2五から6九まで駒を階段のように斜めに並べてから、角を7九に引く。すると、駒の階段(雁木)を登っていくかのように角筋が争点(2四、3五)に届く。

 是安は、船着き場の階段(雁木)をヒントにこの戦法を創案したとされている(寺の階段となっていることもある)。

 しかし、この戦法は是安の死後徐々に姿を消していき、1930年代から1940年代には滅多に見られないものとなっていた。

 そんな中、当時流行していた相居飛車戦の二枚銀の構えを是安も採用していたことから、溝呂木光治ら一部の棋士によってこれが是安考案の雁木戦法であると誤認され、雁木と呼ばれるようになった。

 なお、本来の雁木は階段が由来であるが、二枚銀の構えを雁木と呼ぶ場合には、二枚銀を雪避けの屋根・雁木造に見立てているという誤った説明がなされることが多い。

 是安自身は伊藤宗看との右香落ちの対局(上述)などで相居飛車戦の二枚銀の構えを採用したことがあるものの、この形はそれ以前の将棋指しも使っていたものであり、是安の創案ではない。

将棋・貴重・東京駒師・宮松影水作・関根名人書・杢の盛上駒と駒箱(升田幸三直筆サイン)付
将棋・貴重・東京駒師・宮松影水作・関根名人書・杢の盛上駒と駒箱(升田幸三直筆サイン)付

■五代大橋宗桂(ごだい おおはしそうけい、1636年(寛永13年) – 1713年5月29日(正徳3年5月6日))は江戸時代の将棋指し。

 将棋家元大橋本家当主、四世名人。初名は宗銀。二世名人大橋宗古の外孫。三世名人伊藤宗看の子。六代大橋宗銀の養父。

 1660年(万治3年)、三代大橋宗桂が48歳で死去、その子である四代大橋宗伝も1662年(寛文2年)に25歳で死去し、大橋本家は断絶の危機を迎えた。

 そこで1664年(寛文4年)に三世名人である初代伊藤宗看が、伊藤家の嫡男で大橋本家二代宗古の外孫にあたる宗銀を大橋本家の養子にし、これを救った。

 養子になった宗銀は五代宗桂を名乗るようになった。この時の年齢は29歳だった。

 1669年(寛文9年)には、八段を免許され、詰将棋「象戯図式」(俗称:象戯手鑑)を献上した。

 1691年(元禄4年)、実父の伊藤宗看が引退し、将棋所を譲り、名人を襲位。

 実子がなく、養子に大橋宗銀を迎えていたが、1709年(宝永7年)から1年、宗銀と伊藤家の二代宗印の長男の印達とが「五十七番指し」を行い、宗銀は23勝36敗で敗北した。

 まもなく宗銀・印達ともに若年で死去した。後継者を失った大橋本家は宗銀の養子として七代宗桂を迎えたが、宗桂の前歴は不明である。

 1713年(正徳3年)5月29日(5月6日)に78歳で死去。法名は善行院宗桂日金居士。

 残存する棋譜は少ないが、『将棋百箇条』『五代宗桂記』の著作がある。

将棋駒 (大山康晴十五世名人直筆サイン)

■『石田流』 将棋の駒組の一つ。慶安(一六四八‐五二)の頃、盲人棋士石田検校(けんぎょう)の始めたもので、飛車を角行の隣に移し、その筋より飛車、角行協力して攻勢をとるもの。


石田流を指しこなす本 相振り飛車編 (最強将棋21) [ 戸辺誠 ]

二代伊藤宗印(にだい いとう そういん、1655年(承応4年) – 1723年12月28日(享保8年12月2日))は江戸時代の将棋指し。将棋家元三家の一家である伊藤家二代当主、五世名人。前名は鶴田幻庵(文献によっては玄蔵)。

 伊藤家初代当主初代伊藤宗看の養子。伊藤印達(五段)、七世名人三代伊藤宗看、八代大橋宗桂(伊藤宗寿)(八段)、伊藤看恕(七段)、初代伊藤看寿(贈名人)の父。

 伊藤得寿(三代宗看の子、早世)、九代大橋宗桂、伊藤寿三(二代伊藤看寿)の祖父。七代伊藤宗寿の曽祖父。

 肥前国唐津出身。幼少の頃に宗看に養われ、将棋の技を身につけたという。

 元禄2年(1689年)、初代宗看の宅で五代大橋宗桂と右香落とされで対戦、勝利したという。

 元禄3年(1690年)に、伊藤宗看の養子として御城将棋に出仕。

 元禄4年(1691年)、養父の宗看が引退し、伊藤家を継ぐ。名人位は大橋本家の五代大橋宗桂が就位した。

 大橋分家の三代大橋宗与とは次期名人をめぐって競合関係にあり、御城将棋での宗印の対戦30譜のうち24譜が宗与との対戦である。

 なお、元禄3年の宗与との左香落戦が『御城将棋留』の棋譜が記録された最初の対戦となっている。その対戦では敗れたものの、平手での対戦では宗与に常に勝利した。

 元禄11年(1698年)、長男の印達が生まれる。

 元禄13年(1700年)に献上図式である『象戯図式』を開板。林信充の序が付されている。

 宝永6年(1709年)、長男の印達が五段で御城将棋に初出勤する。

 この年には五代宗桂の養子の六代大橋宗銀も初出勤している。なお、同年10月10日より、印達と宗銀とが御好で対局を行った。

 この勝負は当初は十番程度で終わる予定であったが長引き宝永8年(1711年)2月28日まで五十七番に及び、後世に「五十七番指し」と呼ばれるまでになった。

 最後は印達が宗銀を定角落ちまで指し込むなど圧倒し36勝23敗の成績で終わった。

 しかし、この過酷な勝負は印達と宗銀両者の体を蝕み、その寿命を縮めたとされる。

 正徳元年(1711年)、伊藤家門下の宮本印佐(俊当)と有浦印理(政春)が将軍徳川家宣に召出され、米百五十表を賜与されている。

 同年の御城将棋で印達と宗銀が平手で対戦し、後手の印達が勝利する(この対戦は五十七番指しに含まれない)。

 これが印達の最後の御城将棋となった。

 正徳2年(1712年)9月、長男の印達が死去する。

 同年の御城将棋で宗印は宗銀と角落ちで対戦し敗れる。

 これが宗銀の最後の御城将棋となる。

 正徳3年(1713年)閏5月22日、名人の五代大橋宗桂が亡くなり、宗印が名人を襲位する。

 大橋本家は宗銀が継いだが同年8月22日に死去してしまう。

 享保7年(1722年)、最後の御城将棋に出勤。大橋分家の大橋宗民(三代宗与の子、後の四代宗与)との角落戦に敗れる。

 享保8年(1723年)に死去。法名は金龍院宗印日歩。墓所は東京墨田区の本法寺。

 近年の研究によると、既に生前に三代大橋宗与に将棋所を譲っていたという。

 花村元司によると、「攻め八分で局面の主導権を握って手将棋に持ち込むのが得意な棋風」であったという。『将棋営中日記』においては5位に挙げられている。

 門下には宮本と有浦の他、原喜右衛門がいる。原は偽作棋譜を集めた『象戯名将鑑』の出版で知られるが、素行不良のため破門されたという。

詰将棋
 詰将棋では献上図式である『象戯図式』(俗称:将棋勇略)の他に『将棋精妙』(全て不成を含む作品で、「成らず百番」の異名がある)、がある。

 前者は一部が添田宗太夫の作ではないかという指摘がある。

 添田は当時の有力棋客の一人で詰将棋に優れた曲詰集である『象戯秘曲集』の他、1753年(宝暦3年)に開板した『象戯洗濯作物集』がある。

 なお、添田が伊藤家の門下で、宗印との競作部分が存在したのではないかという指摘がある。

 後者は没後135年の安政5年に開板されており、序を付した八代伊藤宗印は「生涯に2百番の作図を残した人物は稀である」と称えているが、宗印のオリジナルかどうか疑問も持たれている。

 また、巻末の第99番と第100番は、玉方に妙手があって不詰となる「逃れ図」という趣向を持っている。

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三代大橋宗与(さんだいおおはしそうよ、1648年(慶安元年)-1728年5月13日(享保13年4月5日))は江戸時代の将棋指し。六世名人

 将棋家元三家の一つ大橋分家三代当主。初代大橋宗桂の曾孫。初代大橋宗与の孫。二代大橋道仙の子。四代大橋宗与(大橋宗民)の父。本来の表記は大橋宗與。


 父の二代道仙の死を受けて1659年(万治2年)に家を継ぐ。

 1682年(天和2年)に御城将棋に初出勤。

 時の名人(三世)は初代伊藤宗看であり、その実子で大橋本家を継いだ五代大橋宗桂や、養子で伊藤家を継いだ二代伊藤宗印に宗与は棋力の面で圧倒されていた。

 1685年(貞享2年)に、前年の対局で宗桂に角落ちで勝利したこともあり、宗桂との手合いを角落ちから香落ちに引き上げてもらえるよう勝手に寺社奉行に願い出て、宗桂の怒りを買っている。

 宗桂の抗議にも関わらず同年の御城将棋では香落ちと角落ちの二番で対局することなったが、宗与が二連敗している。

 1689年(元禄2年)にも宗桂に角落ちで敗れた。 

 1691年(元禄4年)に名人の宗看が引退すると、宗桂が四世名人に襲位した。

 1694年(元禄7年)、御城将棋での対局命令を受けた宗与が理由は不明ながら出仕せず、御城将棋が実施されないという事態が発生し、宗桂が寺社奉行から叱責を受けている。

 1713年(正徳3年)に宗桂が死去すると、年下の宗印が五世名人に襲位する。宗印との対戦成績は下手香落ちでは10勝2敗であったものの、平手では9戦全敗であった。

 1716年(享保元年)に八段に昇段したとき、図式の献上を命じられている。

 宗印が1723年(享保8年)12月2日に死去すると、1723年(享保8年)に、76歳という最高齢で六世名人襲位。これは、若い三代伊藤宗看が育つまでのいわゆる中継ぎだったと言われる。

 また、近年になって、宗印の生前に宗与に将棋所が譲られていたことも分かっている。

 1724年(享保9年)、77歳で御城将棋に出勤。

 これは御城将棋の歴史で最年長記録となる。大橋本家を継いだばかりの宗寿(八代大橋宗桂)と飛香落ちで対戦し敗れている。

 1727年(享保12年)1月、寺社奉行の命令で将棋・碁の起源についての由来書を提出するよう指示を受け、将棋三家・囲碁四家の当主と協議した上でこれを提出した。

 1728年(享保13年)に死去。これより前、宗与は三代宗看を差し置いて自分の子の大橋宗民(四代宗与)を次期名人とすべく、将棋所の権限を濫用して宗民を三代宗看より先に八段に昇段させたため、1724年(享保9年)に他の二家の異議により寺社奉行から注意を受けたことがあった。

 死に臨むにあたり、「次期名人は宗看と宗民との争い将棋により決すべし」との遺言を残し再び物議を醸したが、寺社奉行が仲裁に入るという異例の事態の結果、宗与の遺言は無効とされ、宗看が七世名人を襲位することになった。

詰め将棋
 献上図式は『象戯作物』という。

 序は林信充。通称は1833年(天保4年)に開板されたときの名称である『将棋養真図式』が定着している。

 『宗与図式』とも呼ばれる。大半が初代宗看の『将棋駒競』からの改作か、あるいは不完全作であり、作風にも統一が見られないため、図式の体裁を急遽取り繕うため門弟たちの代作をかき集めたものと推測されている。

 後世の評価も低いが、一部には宗与独自の工夫と見られる作品もあるという。


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七代大橋宗桂(1688年?-1753年)。七段格。

 六代宗銀の早世により急遽、家督を継ぐ。出自は不明。

 御城将棋はたった5局しか行っておらず、1724年(享保9年)には早々と伊藤家より養子を迎え隠居した。


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六代大橋宗銀(1694年-1713年)。五段。五代宗桂の養子。

 伊藤家の伊藤宗印の長男である伊藤印達(五段)との57番勝負で知られている。

 4番手直りで、最後は角落ちまで指し込まれる。

 1713年に家を継ぐもその年のうちに死去。

大橋宗銀-伊藤印達
 まだ若い 跡目二人に対し、将来の名人将棋所を実力で決めさせようという意図があったという見方が有力だが、家元同士の代理戦争だったのではという俗説もある将棋界唯一の争い将棋。

 途中から4連勝手直りという条件が加わり、結果印達が宗銀を角落ちにまで指し込む。

 対局者双方が体を壊したため57番(56番とも言われる)で打ち切られ、その後対局者双方とも2年を経ずして亡くなるという壮絶な結末を迎えた。

 予定番数は不明だが一説には100番であったといわれている。

伊藤 印達(いとう いんたつ、1698年(元禄11年) – 1712年(正徳2年)9月)は江戸時代の将棋指し。五段。五世名人二代伊藤宗印の子(長男)。七世名人三代伊藤宗看、八代大橋宗桂(八段)、伊藤看恕(七段)、初代伊藤看寿(贈名人)は弟。法名は不明。

 大橋本家と伊藤家の次期将棋所争いに翻弄された、悲劇の棋士として知られる。

 伊藤家の二代宗印の嫡男として生まれる。当時の名人は大橋家の五代大橋宗桂(四世名人)である。

 宝永6年(1709年)10月22日の御城将棋に初出勤し、大橋分家の三代大橋宗与(後の六世名人)と右香車落されで対戦し勝利した。

 翌宝永7年(1710年)11月3日の御城将棋では再び宗与と対戦。同じ手合いであったが敗れている。

 六代大橋宗銀との『印達・宗銀五十七番勝負』は、宝永6年(1709年)10月10日に始まり、11月12日の12番で宗銀を半香に指し込み、11月25日の25番で定香に指し込む。

 その後12月11日の35番で角香交に指し込むなど、一進一退を繰り返しながら印達が優勢に進める。宝永8年(1711年)2月28日に最後の対局がなされ、印達が勝利する。

 この番勝負は時には連日、あるいは同日に二番指されることもあった。

 現存する棋譜は55局であり、2局の脱落があったと解されている。

 なお、『将棋営中日記』では54局とされており、かなり早い段階で棋譜が完全な状態では伝わらなかったようである。

 次期名人争いが背景にあるとされているが、対局に至った詳しい背景や具体的な対局場所などはほとんど記録を欠く。

 正徳元年(1711年)11月21日、最後の御城将棋に出勤し、大橋本家の六代大橋宗銀と平手戦を行った。

 既に五十七番勝負で棋力の差を見せつけていた印達が勝利する。

 両家の威信をかけた勝負に精も根も尽きたためか、正徳2年(1712年)9月に15歳で夭逝。

 翌正徳2年(1713年)、五代宗桂の死を受けて大橋家を継いだばかりの宗銀も20歳で死去した。

『将棋営中日記』の筆者は印達の夭折につき「しかれども天此の奇童に寿をあたへずして、歳僅か十五歳にして歿す、実におしむべし」と哀惜している。

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三代伊藤宗看(さんだいいとうそうかん、1706年(宝永3年)-1761年6月2日(宝暦11年4月29日))は江戸時代の将棋指し。七世名人。将棋三家の一つである伊藤家当主。別名に政長、印寿。

 父は父は五世名人二代伊藤宗印(次男)。兄に伊藤印達(五段)。弟に八代大橋宗桂(八段)、伊藤看恕(七段)、初代伊藤看寿(八段、贈名人)。子に四代伊藤得寿(五段)。養子に弟の初代看寿。

 指し将棋、詰将棋ともに優れ、「鬼宗看」とも呼ばれる。御城将棋では、18勝6敗1持将棋と圧倒的な強さを誇った(名人就位前の戦績は10勝1敗)。

 兄の印達は四世名人五代大橋宗桂の時代である正徳2年(1712年)に夭折したため、次男の印寿が伊藤家の後継となる。

 それまでの印寿は将棋に関心を示さず、武事のみに熱中していたが、印達の死後には見違えるように将棋に打ち込むようになったという。

 父の二代宗印は正徳3年(1713年)に五代宗桂の死を受けて五世名人となった。

 印寿は享保元年(1716年)に11歳・初段で御城将棋に初出勤し、三代大橋宗与に飛車落とされで対戦し勝利した。

 享保8年(1723年)、父の二代宗印が死去し、18歳で伊藤家を継ぐ。

 翌享保9年(1724年)に三代宗看を襲名した。享保12年(1727年)に八段に昇段。

 父の死後に名人位を襲っていた六世名人三代大橋宗与は実子の宗民(後の四代宗与)を宗看と競わせるように御城将棋に出勤させたため、宗看の初期の対戦は宗民とのものが多い。

 三代宗与が享保13年(1728年)4月5日に死去すると、同年のうちに図式献上のないまま23歳で七世名人を就位した。

 享保19年(1734年)に『象戯作物』を提出。

 享保20年(1735年)には、名村立摩と七段昇段をかけて角香交じりで対戦し、香落ち番では「立摩流」に敗れたものの角落ち番で勝利し、立摩に七段昇段を断念させたという。

 元文2年(1737年)5月には「碁将棋席次争い」を起こした。

 それまでは御城碁将棋の席順(つまり上下関係)は伝統として碁の家元が上、将棋の家元を下とするものであったが、宗看らはそれを変更しようとしていた。

 その頃は碁の家元は傑出した人物が出ず、低迷していたのに対し、将棋の家元は宗看を筆頭に、弟の宗桂、看寿らがおり、さらに奉行側のうち、井上河内守・松平紀伊守が宗看の門人であったため、勢いとしては、宗看の意見が通りそうであった。が、旧守派の大岡越前守が「そのまま」の判決を下したため、碁の家元側は命拾いした。

 元文5年(1740年)に実子の得寿が誕生する。

 延享2年(1745年)に、後継者に定めて養子としていた弟の看寿と、八段で宗看に次ぐ実力者の四代宗与が右香落ちで対戦し、看寿が勝利した。

 この時に看寿が放った金底の歩の名手を見て、看寿の勝ちを確信した宗看が魚釣りに出かけたという逸話がある(魚釣りの歩)。

 長く御城将棋では手明が続いていた宗看であったが、寛延元年(1748年)に久しぶりに御城将棋に出勤している(右香落ちで四代宗与に勝利。)。宝暦2年(1752年)に5年ぶりに出勤し八代宗桂に右香落ちで勝利。

 宝暦3年(1753年)に兄の八代宗桂との平手戦に勝利した看寿は翌宝暦4年(1754年)に宗桂に先んじて八段に昇段し、翌宝暦5年(1755年)には献上図式(将棋図巧)を作成した。

 こうして看寿が次期将棋所に内定したとされる。

 同年には甥の大橋印寿(八代宗桂の子、後の九代宗桂)が御城将棋に初出勤するなど全盛期を迎えていた伊藤家であったが、宝暦10年(1760年)には弟の看恕と看寿が相次いで没し、翌宝暦11年(1761年)4月29日には宗看もまた56歳で没する。

 法名は玉将院宗看源立日盤。墓所は東京本所の本法院にある。

 晩年は権勢の高さに溺れて棋力も衰え勝ちであったといわれる。

 名人位は初めての空位となった。

 伊藤家は実子の得寿が継いだが、宝暦13年(1763年)10月29日に24歳で没したため、鳥飼忠七が養子に迎えられ五代伊藤宗印を名乗ることになる。

『将棋営中日記』によると、十一代大橋宗桂は代々の名人の内にては三代宗看第一の由」「宗看の将棋はすがたいかにも位高きといへりと高く評価している。

 また同書の別の項では、六代大橋宗英に次ぐ第二位とされている。

詰将棋
 宗看の残した詰将棋作品集『象戯作物』(俗称:『詰むや詰まざるや』『将棋無双』)は、詰将棋史上の傑作とされる。

 これにより、詰将棋の水準は格段に上がったとされる。『象戯作物』は、八段昇段が早かったため異例の名人就位6年後に献上された。

象戯作物(将棋無双)
 古今で最も難解とも言われるほどの作品集で、弟の看寿の「将棋図巧」と並んで詰将棋の最高峰とまでいわれる。

 解答が付いている原本や解答本はほとんど世に出回らなかったため、すべての問題が詰むかどうか長年棋界の謎とされてきた。

 しかし、昭和40年代に将軍に献上した原本が皇居内の内閣文庫で発見され、解決に至った。

 これにより、何題か最初から詰まないことが分かった。

★1725年(享保10年)、20歳の宗看は17歳の大橋宗民(後の四代宗与)と指した御城将棋の一局で宗看が指した▲3五桂という一着について、その将棋を収録した『日本将棋大系』で該当巻の解説担当の大山康晴十五世名人は「絶妙手である」と断言した。

 さらに『将棋世界』で連載された「イメージと読みの将棋観」でもこの将棋が取り上げられ、羽生善治、谷川浩司、渡辺明、佐藤康光、森内俊之、藤井猛という現代のトップクラスの棋士たちは一様に驚嘆の声を上げ、絶賛している。

「局面も現代風だし、今の実戦譜だとしても全然おかしくない。江戸時代の将棋はほとんど知らないんですが、強い部分はけた違いに強いという気がする」(羽生)

[伊藤 宗看, 伊藤 看寿, 門脇 芳雄]の詰むや詰まざるや (東洋文庫0282)
詰むや詰まざるや (東洋文庫0282)

八代 大橋 宗桂(はちだい おおはし そうけい、1714年(正徳4年)- 1774年6月28日(安永3年5月20日))は江戸時代の将棋指し。八段。

 将棋家元三家の1つである大橋家の当主。

 元々は伊藤家出身で幼名は宗寿。五世名人二代伊藤宗印の子(三男)。伊藤印達(五段)、三代伊藤宗看(七世名人)は兄。伊藤看恕(七段) 初代伊藤看寿(贈名人)は弟。九代大橋宗桂(八世名人)の父。

 1713年に長く名人を務めた五代大橋宗桂(四世名人)と、長兄の印達の好敵手であった六代大橋宗銀を相次いで亡くした大橋家は再び断絶の危機を迎えた。

 急遽跡を継いだのが七代大橋宗桂であり、1715年より御城将棋に出勤した。

 だが、前歴も明らかではなく、また力も芳しいものではなかった。

 1714年に生まれた宗寿は1723年に父の二代宗印を亡くした後、1724年、11才で大橋家の養子に入った。

 この年の御城将棋に初出勤し、名人位を襲っていた大橋分家の三代大橋宗与(六世名人)と飛車香落ちで対戦し勝利する。

 やがて七代宗桂は引退し宗寿が八代宗桂を襲名する。

 1728年、三代宗与に代わって兄の七世名人三代宗看の時代となると、大橋家の当主として、大橋分家の四代大橋宗与や伊藤家の後継者となった弟の初代看寿と次期名人位を競ったが、次第に棋力を向上させた弟の看寿に圧倒されている。

 1755年、御城将棋で兄の宗看と対戦。左香車落されで勝利する。

 この年に嫡子の印寿(のちの九代宗桂)が12歳で初出勤している。

 1760年に弟の看寿、1761年に兄の宗看が没し、将棋所(名人)は空位となった。

 1763年、御城将棋では従来は認められていなかった印寿との親子対戦を願い出て、将軍徳川家治の許可を得て、御好での対戦を認められている(角落で負け、右香落ちで勝ち)。

 1764年に八段に昇段した。同年に長く八段を務めた四代大橋宗与が没しており、この時点で宗桂が家元の最高実力者となった。

 子の印寿や1763年に早世した甥の四代得寿の跡を受けて養子に入り伊藤家を継いだ五代伊藤宗印、大橋分家を継いだ五代大橋宗順と共に将棋界を支える一方で、1765年、献上図式の慣行に従い『象戯図式(通称「将棋大綱」)』を開板したが(序文は林信充)、1774年に61歳で没するまで名人を襲位することはなかった。


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伊藤看寿(いとうかんじゅ、初代;享保4年(1719年) – 宝暦10年8月23日(1760年10月1日))は、江戸時代の将棋指し。

 将棋家元三家の一家である伊藤家出身。八段。死後に名人位を追贈。別名は政富。

 二代伊藤宗印(五世名人)の五男。兄に伊藤印達(五段)、三代伊藤宗看(七世名人、養親でもある)、八代大橋宗桂(八段・八世名人九代大橋宗桂の父)、伊藤看恕(七段)。子に二代伊藤看寿(後に伊藤寿三と改名)(五段)。孫に七代伊藤宗寿。

 享保8年(1723年)に父と死別、のちに兄・宗看の養子となる。

 元文元年(1736年)に四段として御城将棋に初出勤。

 翌元文2年(1737年)の囲碁・将棋の席次争いの結果、看寿は9席とされている。

 既に8年前の享保13年(1728年)より実兄であり養親でもある宗看が名人位を襲っており、宗看は大橋本家を継いでいた兄の宗桂と、大橋分家の当主の大橋宗民(四代大橋宗与)と競うようになる。

 宗桂との手合は元文元年の初対局の時には右香落とされであったが、寛保2年(1742年)には平香交わりの手合となっている。

 寛延2年(1749年)の平手戦では敗れたが香落とされ戦で2勝し、宝暦3年(1753年)には平手の手合となっている。

 このとき宗桂は七段であったことから、この年に看寿も七段に昇段したと推測されている。

 この間の延享2年(1745年)に、八段であった宗与と右香落とされで対戦して勝利したが、この時に金底の歩の名手を放ち、「魚釣りの底歩」として後世称えられた。

 宝暦4年(1754年)に宗桂との平手戦で勝利し、八段となる。

 この時点で次期名人候補とされ、宝暦5年(1755年)『将棋図式(将棋図巧)』を幕府に献上している。

 宝暦8年(1758年)には子の二代看寿が誕生する。

 宝暦9年(1759年)には甥の大橋印寿(後の九代大橋宗桂)と飛車落ちで対戦して敗れている。

 宝暦10年(1760年)8月23日に死去。同年7月22日に兄の看恕が死去し、実兄で養親の宗看も翌11年(1761年)4月29日に死去していることから、流行病が伊藤家を襲ったという推測もされているが、死因の詳細は不明である。法名は宝車院看寿常銀日龍。

 没後に名人位を贈られる。

 将棋指しとしての評価としては『将棋営中日記』の「悪力にして無理押しつけ候場合」というものが残されている。

 また、在野棋客との右香落ちで筋違い角を試みた対戦例もある。

詰将棋
 看寿は指し将棋の実力もあったが、上述の『将棋図巧』により今日では詰将棋作家としての方が有名であり、年間で最も優れた詰将棋作品に与えられる賞である「看寿賞」にもその名が冠せられている。

 享保10年(1725年)、7・8歳の時に詰将棋の批評をして兄の宗看を感嘆させたといわれ、享保16年(1731年)、13歳の時には601手の長編を作成したという。

『将棋営中日記』には、江戸時代末期の十一代大橋宗桂は「作物の最上は伊藤看寿なり」と評していたことが記録されている。

将棋図巧
 看寿の献上本『将棋図式』は別称「象棋百番奇巧図式」と呼ばれ、現在では『将棋図巧』の名称で知られている。

 この作品集は、三代伊藤宗看の作品集『将棋無双』と共に江戸時代の作品集の最高傑作とされ、「神局」とも呼ばれる。

 一説にはあまりの出来のよさに、看寿が三年の閉門を申し付けられたとされるが、信憑性はないとされる。

主な作品

この作品集には多くの有名な作品が収められている。

第一番 「角送り詰
「飛打飛合」という手順を繰り返して玉方の角を動かし、打歩詰を回避する作品。
内藤國雄は少年時代、この作品に出会い詰将棋創作を始めたという逸話がある。
第九十八番 「裸玉
最初の状態で盤面に玉1枚のみが配置された問題。同条件の完全作第2号局が発表されたのは1942年である。
第九十九番 「煙詰
裸玉とは対照的に、盤面に全ての駒を配し、詰め上がり時に3枚となる作品。同条件の完全作第2号局は1954年まで発表されなかったが、現在は数百局の作品が発表されている。
第百番 「寿
巻末を飾る大作。611手という超長手数の作品であり、1955年に873手詰の作品が発表されるまでの200年間、最長手数の詰将棋であった。2005年末時点でもベスト10に入っていた長手数作である。

詰むや詰まざるや―将棋無双・将棋図巧 (東洋文庫 282)

九代大橋宗桂(くだい おおはし そうけい、1744年(寛保4年) – 1799年9月13日(寛政11年8月14日))は、江戸時代の人物。日本の将棋指し。八世名人

 将棋家元三家の一つである大橋本家当主。五世名人二代伊藤宗印の孫。七世名人三代伊藤宗看、贈名人初代伊藤看寿の甥。父は八代大橋宗桂。養子に十代大橋宗桂。初名は印寿。


 伊藤家に生まれながら大橋家を継いでいた父の八代宗桂の嫡男として生まれ、宝暦5年(1755年)12歳で御城将棋に初出勤する。

 対戦相手は叔父の初代看寿であった。飛車香落とされの手合いで勝利する。

 宝暦10年(1760年)に初代看寿、宝暦11年(1761年)に三代宗看が相次いで没すると名人位は空位となる。宝暦13年(1763年)には父の八代宗桂との、御城将棋初の親子対戦が認められている(右香落とされで敗北)。

 明和元年(1764年)には五段に昇段する。

 同年に七段に昇段した伊藤家の五代伊藤宗印や、明和2年(1765年)に初出勤した大橋分家の五代大橋宗順とは好敵手であり、当時の将軍が将棋好きの徳川家治であったこともあって、名人空位時代でありながら「御好」と呼ばれる対局が盛んに行われるなど将棋界は活気づいた。

 安永3年(1774年)、父の八代宗桂が没し、家督を継ぐ。このときに宗桂の名も襲名したと思われているが、御城将棋には印寿の名のままで出勤している。

『浚明院殿御実紀』にも、家治の将棋の相手の一人として「大橋印寿」の名が挙がっている。

 大橋分家で安永7年(1778年)に六代大橋宗英が、伊藤家で天明4年(1784年)に六代伊藤宗看が御城将棋に初出勤するなど、他家でも世代交代が進んだ。

 天明5年(1785年)には八段に昇段し、この頃から宗桂の名で御城将棋に出勤している。

 天明6年(1786年)には慣例により詰将棋集『象戯図式』(将棋舞玉)を献上した(序文は林信徴)。

 天明8年(1788年)、内弟子の長谷川宗銀を養子に迎えた(後の十代宗桂)。

 寛政元年(1789年)に27年間空位になっていた名人位を継ぎ、当時では比較的高齢な46歳で八世を襲位した。

 寛政2年(1790年)には六代大橋宗英と平香交じりで対戦し、平手戦で敗れる。この対局は御城将棋では「稀世の名局」と評されるという。

 寛政9年(1797年)に最後の御城将棋に出勤。寛政11年(1799年)に死去。法名は玉応院(又は玉慶院)宗桂元奥日印。

 34番を対局、さらに御好でも30番対局したとされる。

 天明2年(1782年)10月26日には徳川家治と平手で対戦、棋譜も存在している(『御差将棋集』所集、横歩取り4五角を後手の宗桂が採用、家治が勝利)。

 当時珍しかった振り飛車の美濃囲いや左美濃、相居飛車でのひねり飛車や空中戦法の原型と見られる指し方も積極的に試みている。

『将棋営中日記』には「代々名人の甲乙」として、六代宗英、三代宗看、六代宗看に次ぐ第4位に名が挙げられている。

 著書に定跡書である『将棊妙手』があり、没後の1815年に開板された。養子の十代宗桂は名人位に就くことはなく文政元年(1818年)6月28日に44歳で没している。

大橋家文書
 筆まめな人物で、大橋家文書のほとんどは同じく筆まめであった五代宗桂、十一代宗桂とこの九代宗桂の手書きの文書類で占められているという。

 天明2年(1782年)より五代宗印と共に「奥御用」を務めたことも明らかになっている。

 また、足袋の着用をたびたび願い出たり、「将棋所」を役職名として幕府に認めさせようとしてその度に拒絶されるなど、将棋指しの地位向上や待遇の改善に腐心したという。

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六代大橋宗英(おおはし そうえい、宝暦6年(1756年) – 文化6年11月17日(1809年12月23日))は江戸時代の将棋指し。九世名人。将棋三家の一つ大橋分家当主。大橋分家出身者としては2人目の名人。五代大橋宗順の子。七代大橋宗与の父。

 江戸時代の最強名人


 幼名を七之助という。根岸鎭衞の著した『耳袋』によると、五代宗順の庶子の身分であった為、幼少時代に里子に出されていたが、将棋の抜群の才能(「天然の上手」)を認められて呼び戻されることとなり、家督を継ぐことになったという。

(安永2年(1773年)に宗英と改名。

 しばらくは鵜飼弥五郎、福島竜治、井出主税といった在野棋客との対戦が続いた。

 安永7年(1778年)に御城将棋へ初出仕。伊藤家の五代伊藤宗印と角落されで対戦し圧倒する。

 同年の11月23日には大橋本家の大橋印寿(九代大橋宗桂)と藤堂和泉守宅で角落されで対戦し、やはり圧勝した。

 安永8年(1779年)の2月18日に五代宗印と左香落されで対戦、新戦術の鳥刺しを用いて勝つ。

 同年の御城将棋では父の宗順との父子対戦を行う(左香落されで勝ち)。

 天明2年(1782年)と天明3年(1783年)の御城将棋で、五代宗印と印寿(九代宗桂)とそれぞれ右香落されで対戦、五代宗印には勝利するが印寿には敗れる。

 天明4年(1784年)の御城将棋で伊藤印嘉(後の六代宗看)と右香落ちで対戦して勝つ。

 翌天明5年(1785年)には六段に昇段、九代宗桂(この年に印寿より改名)と右香落されで対戦し勝つ。

 その後も後輩の宗看を寄せ付けず、名人候補者となった九代宗桂との好勝負を続け、寛政元年(1789年)には七段になる。

 同年に九代宗桂は将棋所を再興し名人となる。

 同年の御好で左香落されで宗桂と対戦し、持将棋となった。

 この前後に宗英は八段を許されたと推測されている。

 寛政2年(1790年)の御城将棋には宗桂と平香交りで対戦、平手戦は稀代の一局と称される名局となった(宗英勝ち)。

 寛政4年(1792年)の10月3日、父の宗順が60歳で没する。

 寛政7年(1795年)の御城将棋で六代宗看に香落ちで勝つ。

 寛政10年(1798年)の御城将棋では宗看との手合いは平香交りに接近したが、平手番で宗英が勝利した。

 寛政11年(1799年)8月14日、九代宗桂が没し、宗英が名人を襲名。

 これまでの名人は詰将棋(献上図式)を献上していたが、宗英の代でその伝統は絶えた。

 「詰め物なら君仲(桑原君仲)にでもできる」と語ったという伝承があるが、真相は不明である。

 文化3年(1806年)の御城将棋で初出勤となる子の英長(七代宗与)と父子対戦する(飛車落ちで英長の勝ち)。

 文化6年(1809年)11月17日、御城将棋の日に出勤したが急病を起こし退席、帰宅後まもなく息を引き取ったという。

 11月11日に内調済であった伊藤看理(六代宗看の子)との飛車落ちでの対戦が絶局となった(看理が勝ち)。

 墓所や戒名は不明となっている。

 榊原橘仙斎の『将棋営中日記』の中で挙げられた一世から十一世までの歴代家元の中では最強の名人と謳われ、「守りを固める」などの「負けにくい将棋」を指すという戦術、飛車先交換の有利性など大局観の革命をもたらした人物でもある事から「近代将棋の祖」ともいわれている。

 嫡子の七代大橋宗与は棋才には恵まれなかったが、宗英の著書の出版事業にいそしみ、将棋の普及に尽力した。

 また、大橋柳雪は六代宗英の晩年の弟子で七代宗与の養子となり、一時大橋宗英を名乗ったが廃嫡された。

 六代宗英の棋才は柳雪を経て幕末の棋聖・天野宗歩に受け継がれることになる。

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六代伊藤宗看(ろくだいいとうそうかん、1768年(明和5年) – 1843年10月9日(天保14年9月16日))は、日本の江戸時代の将棋指し。十世名人

 将棋家元三家の一伊藤家当主。前名は松田印嘉。子に伊藤看理(六段)、伊藤看佐(七段)、伊藤金五郎(六段)。養子に七代伊藤宗寿。


 1761年に三代伊藤宗看が没すると、四代伊藤得寿が後を継ぐが、1763年に24歳で早世してしまう。

 伊藤家は鳥飼忠七を当主に迎え、忠七は五代伊藤宗印を名乗った。

 1786年に山東京伝が開板した『指面草』に青木昆陽と並ぶ江戸の出世頭として「菓子屋の子胤将棋所になりたるものもあり」と紹介されているが、名人になることもなく七段のままで終わった。★伊藤家を継いだのは「菓子屋の子胤」といわれた鳥飼忠七であり、五代伊藤宗印と名乗る。

 1768年に松田家の子として江戸で生まれた印嘉は1784年、17歳のときに三段となり、伊藤家の養子となり伊藤印嘉として御城将棋に初出勤する。1785年には宗看の名で出勤した。

 1789年、大橋本家の九代大橋宗桂が将棋所を再興し八世名人となった。

 この年に五代宗印は引退し宗看が伊藤家の当主となる。

 五代宗印は1793年に没した。同年までに宗看は七段の昇段を果たしている。

 1794年に長男の看理が誕生した。

 同年、宗看宅において名人である九代宗桂の立会いの元、大橋分家の六代大橋宗英(八段)と平香交じりの手合いで対戦し香車落番で敗れている。

 1795年の御城将棋で六代宗英と再び対戦、左香落されで敗れる。

 1798年の御城将棋で六代宗英と平香交じりの手合いで対戦、平手番で敗れる。

 1799年に九代宗桂が没すると、六代大橋宗英が九世名人を襲位した。

 1804年には御城将棋で六代宗英と左香落されの手合いで対戦し勝利。

 1809年に六代宗英が没すると、名人は再び空位となる。

 1810年に看理が御城将棋に初出勤し、1812年には宗看と角落で親子対決している(持将棋)。

 少なくとも1815年までに宗看は八段に昇段した(『御城将棋留』)。

 この間の1811年と1816年に、大橋本家の十代宗桂と対戦しており(それぞれ半香交じり、左香落ちの手合い)、宗看が勝利している。

 十代宗桂は1818年に没した。

 1820年の御城将棋では大橋分家の英俊(大橋柳雪)と右香落ちで対戦して勝つ。1823年の御城将棋でも同手合いで勝利。

 1825年に宗看が十世名人位を襲う。

 この間の1824年に宗看の嫡男の看理が没している。

 1827年の2月には次男の看佐が没した。

『将棋営中日記』によると、博打好きで多額の負債を抱えた末に縊死したという。

 三男の金五郎は素行が悪く勘当されていたという。

 大橋分家の英俊(二代宗英)も御城将棋から離れ、大橋本家・大橋分家共に人材が不足していたこともあり、1833年には、家元三家以外の者として河島宗臨が御城将棋に初出勤している。

 1834年、天野宗歩と角落ちで対戦した(86手で指し掛け)。

 廃嫡後に上方で名声を博した大橋柳雪は1837年に江戸に戻り、翌1838年の六代宗英の30回忌追福会で宗看は柳雪と香落ちで対戦した。

 1842年に最後の御城将棋を勤める。

 この年に甥で初代伊藤看寿の孫にあたる宗寿を養子に迎えた。

 1843年3月に三男の金五郎に先立たれた。9月16日に76歳で没している。法名は飛行院宗看日将。

 宗看の死去後、後継と目された十一代大橋宗桂はまだ七段であったこともあり、30余年名人位は空位となってしまった。

 養子に迎えた宗寿も1846年に没し、十一代宗桂の門下であった上野房次郎が伊藤家を継いでいる。

 この房次郎が江戸幕府滅亡後に家元最後の名人(十一世)である八代伊藤宗印となる。

「荒指しの宗看」と謳われたほどの豪快な攻めを得意とする名人であり、十一代大橋宗桂の「気象張り丈夫」との評が残る。また、御城将棋35局のうち11局が持将棋であった。

 柳雪・宗歩の先駆者にあたり、近代将棋に通ずる数多くの新手を開発したともみなされている。

 著書に実戦集である『将棊妙手』と定跡書である『将棋図選』がある。

『将棋営中日記』によると、図式の作成を試みていたらしいが、献上図式の伝統は復活しなかったという。

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大橋柳雪(おおはし りゅうせつ、寛政7年(1795年) – 天保10年(1839年))は江戸時代の将棋指し(七段)。

 将棋家元の大橋分家・七代大橋宗与の養子となり、八代目当主が予定されていたが、後に廃嫡。

 天野宗歩らに影響を与えた存在として知られる。

 初名は中村喜多次郎(なかむら きたじろう)。

 後に中村英節、大橋分家の養子となってからは、大橋英俊、大橋宗英とも名乗る。

 中村喜多次郎は江戸の小石川で生まれた。

 その後、江戸時代最強の名人とも呼ばれる大橋分家の九世名人六代大橋宗英に入門。六代宗英が1809年に死去した後、七代宗与のもとで頭角を現した。

 1818年、抜群の棋力で若くして六段に上り、大橋分家の後継者に指名されて七代宗与の養子となった。

 これ以降大橋英俊と名乗った。

 翌1819年からは御城将棋にも出勤した。

 1827年、将来の名人を期待され、元の師匠であり、大橋分家の伝説的な名人である大橋宗英の名跡を継いで二代目大橋宗英を襲名する。

 しかし、1830年に健康上の理由(「将棋営中日記」では梅毒によって聴力を失ったためとしている)により廃嫡され、野に下った。

 大橋分家の後継者ではなくなったことから大橋柳雪と名を改めた。

 後に京都に住み、在野の強豪として名を馳せるようになる。

 1834年、修行に来ていた当時19歳の後の棋聖・天野宗歩と対局する。

 宗歩は大橋本家の門人であったが、技術上の師は柳雪であるとも言われる。

 1837年から1839年にかけては、盲目の名棋士として知られる石本検校との間で21番勝負を行った。

 この勝負では、柳雪が19勝2敗と圧倒したが、これらの棋譜は後の棋士たちによって研究されることになり、大きな影響を与えた。

 1839年、45歳で死去。

評価
 大内延介は、柳雪を「近代将棋の開拓者」と称して、将棋の技術革新に大きく貢献した大橋宗英九世名人と天野宗歩棋聖との間を繋ぐ存在と位置付けている。

 実際に柳雪は現代に繋がる手を数多く指しており、特に横歩取りの研究で著名である。

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天野 宗歩(あまの そうほ(「そうふ」とも)、文化13年(1816年) – 安政6年5月13日(1859年6月13日))は、江戸時代末期の将棋指し[1]。正字表記では天野宗步。七段。十一代大橋宗桂門下。

 大橋家、伊藤家といった将棋三家の出ではないため、当時世襲制だった名人には推挙されず、段位も七段までしか上がらなかったが、「実力十三段」と言われ、後に棋聖と呼ばれるようになる。

 十三世名人関根金次郎によって棋聖の称号が公式に認められた。現在のタイトルのひとつである「棋聖戦」は、ここに由来する。

 大橋家に残された「天野宗歩身分留」という古文書には、武蔵国の生まれとある。


 文化13年(1816年)11月、江戸の本郷菊坂にて、小幡甲兵衛の次子として生まれる。幼名は留次郎。後に天野家の養子に入る。


 文政3年(1820年)8月、5歳で大橋本家の大橋宗金(十一代大橋宗桂)の門下となる。同5年(1822年)の加藤看意との四枚落ち戦が、記録にある最古の棋譜である。


 同9年(1825年)、初段となる。

 
 同12年(1829年)、14歳で二段となる。


 天保元年(1830年)12月、15歳で三段となる。


 同3年(1833年)、17歳で四段となる。5月24日に中橋木屋忠右衛門方で弘めの会を催している。


 同4年(1834年)3月、五段に昇段する。上方に旅立ち、同年6月5日に大橋柳雪と左香落で対戦する。


 同5年(1834年)9月、江戸に戻ったが、同6年(1835年)3月下旬には再び上方に旅立つ。途中、沼津において米村利兵衛と平手で4戦している。そのまま上方で生活するようになる。


 同13年(1842年)、江戸に帰ったが、同14年(1843年)には再び京都に戻り、妻帯する。


 弘化2年(1845年)6月、江戸に戻る。富次郎と改名する。


 同年9月26日に神田松永町の甲州屋佐吉方で六段弘めの会を催す。ここで伊藤印寿(後の八代伊藤宗印)と左香落で対戦する。


 同3年(1846年)9月、七段を許される。


 同年11月、弟子の市川太郎松を伴い京都に上る。


 同4年(1847年)5月2日、大阪難波新地において七段弘めの会を催す。


 嘉永2年(1849年)5月24日、妻が死去する。


 同3年(1850年)、妻のために京都深草霊光寺の初代宗桂の駒形の墓碑の隣に同じく駒形の墓碑を建立、「歩兵」と刻む。台石には宗歩門下の49名の名が刻まれた。


 同5年(1852年)5月、別家を許され、剃髪して宗歩と名乗る。

 十一代大橋宗桂ら将棋三家の推薦を得て、伊藤家門下の和田印哲とともに「別家」をたてて、御城将棋に出仕が許されている。(なお、御城碁の場合は、七段以上であれば無条件に出場可能となっていた。) 


 同6年(1853年)正月、定跡書『将棋精選』を開板する。

 
 安政元年(1854年)、奥州路の旅に出る。


 同2年(1855年)、越後路の旅に出る。


 同3年(1856年)、御城将棋に出勤。これが宗歩最後の御城将棋となった。後妻のフサとの間に宗次郎をもうける(7年後に夭折)。


 同4年(1857年)春、市川太郎松、渡瀬荘次郎を伴い越後路の旅に出る。御城将棋は欠勤し、同5年(1858年)正月まで旅先で過ごした。

 
 同6年(1859年)3月28日に市川太郎松と右香落で対戦。26手で指し掛けとなった。これが宗歩の絶局となる。


 同年5月13日に死去。44歳であった。


 晩年の宗歩は将棋は強かったが、素行は悪く、酒色に溺れ賭将棋をしていた記述が残されている。

『天野宗歩身分留』には、表向きは病死ということで寺社奉行に届け出たとあり、実際の死因は別であった可能性がある。

 法名は玉用院名宗日歩居士。墓所は東京巣鴨の本妙寺にある。

★棋譜も多数残されているが、宗歩の実力が抜きんでていたため、その手合割の多くは駒落ちである。

 定跡書「将棋精選」(嘉永6年=1853年)、「将棋口伝」(発行年未詳)、実戦集「将棋手鑑」(明治10年=1877年)などが発行されている。


 将棋の駒の書体にも「宗歩好(そうほごのみ)」と名付けられたものがある。
真剣師の平畑善介は将棋が上手くなりたいなら宗歩の棋譜だけを読めと言っている。


 角使いの名手として知られ、特に安政3年(1856年)の対伊藤宗印戦における▲1八角は、将棋史上に残る名手として有名である(但し中原誠、佐藤康光らは、苦心の一手ではないかと考えている)。この他、角を使った好手が多い。


 江戸時代の棋士でありながら、隙あらば動く序盤のスピード感覚や、中原囲いに類似した囲いの使用など現代の棋士と比べても遜色なく、最強棋士候補の一人である。

 羽生善治も「歴史上、誰が一番強いと思いますか?」という質問に升田幸三と並べて天野の名を挙げ「今の目で見たらすごいスピード感溢れる将棋を指している現代に現れてもすごい結果を残したのではないだろうか」と評した。

 先崎学は「香落の上手でのさばきが絶品。さばきのうまさは久保利明に匹敵する」と語っている。

 十一代大橋宗桂の弟子ではあったが、八段への昇段が絶たれてからは将棋の家元である大橋家、大橋分家、伊藤家の御三家とは独立に活動し、多くの門下生を育てた。

 特に天野宗歩の四天王と呼ばれた市川太郎松、渡瀬荘次郎、小林東四郎、平居寅吉の4名はいずれも強豪として知られる。

 このうち、市川太郎松は天野の一番弟子であり、将棋太平記の主人公として有名である。

 また、小林東四郎は後に小林東伯齋と名乗り、関西名人(大阪名人)と呼ばれた。

 十二世名人小野五平の後継候補として関根金次郎と争った井上義雄や坂田三吉は小林の弟子であり、天野の孫弟子にあたる。

 なお、小野五平はしばしば「天野宗歩門下」とされているが、これは京都に上った時に小野が宗歩の指導を受けたことによる。

 生前の本人も天野宗歩門下と自称していた。

 記録を重視して小野は十一代大橋宗桂門下とする見解もある。

日本将棋大系〈11〉天野宗歩 (1978年)

八代伊藤宗印(はちだいいとうそういん、1826年(文政9年7月) – 1893年(明治26年)1月6日)は、江戸時代の将棋指し。十一世名人。将棋三家の一家伊藤家当主。最後の家元出身の名人である。

 実子に伊藤印嘉(早世)。弟子に小菅剣之助名誉名人、関根金次郎十三世名人がいる。

 江戸幕府が衰退していくにつれて、家元三家に対する支援も次第に減少していった。

 これにより将棋も道連れのように衰退の道を辿り、名人位不在の期間が長らく続くほどの後継者不足にも陥ってしまった。

 八代宗印は初名は上野房次郎といい、大橋本家の十一代大橋宗桂の弟子の一人であったが、後に伊藤家の養子となり伊藤宗印を名乗るようになる。

 1859年に兄弟子である天野宗歩が死去すると、次期名人候補として期待を集めるようになった。

 明治維新の頃には、家元制度は家禄を失い有名無実と化してしまった。

 八代宗印は高齢の十一代宗桂に代わって将棋界の中心となり、1869年(明治2年)には大橋分家の当主九代大橋宗与らと協力して将棋界の再興を図り「百番出版校合会」を呼びかけ、大矢東吉・小野五平ら各地の強豪の参加をとりつけ、将棋界の再興に着手した。

 しかし八代宗印と大矢・小野はその後昇段などの件をめぐり対立し、九代宗与の投獄事件などもあって将棋界は分裂状態になってしまう。

 宗印の名人襲位にあたって、若手の有望株である松本竹次郎に角落ち(宗印が上手)で指し分け(五分)以上の成績ならば認めるという小野らとの妥協が成立した。

 1873年(明治6年)、1局目は敗れたが2局目で勝利し、ここで勝負は打ち切りとした。しかし、名人襲位の実現はさらに6年後になった。

 1879年(明治12年)、35年ぶりに十一世名人を襲位した。しかし上方方面に支持基盤を得た小野五平との溝は埋まることはなかった。

 1881年(明治14年)、『将棊新報』を刊行する。

 1893年(明治26年)に死去。

 宗印が死去してから6年後に小野五平が十二世を襲位する事となり、江戸初期より続いてきた家元制名人位の制度が崩壊した。

 駒落ち将棋に長け、「駒落ち名人」の異名もあったという。

 実戦譜に小菅が編集した『将棋名家手合』がある。本法寺に墓誌がある。

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十二代大橋宗金(じゅうにだい おおはし そうきん、1839年(天保10年) – 1910年(明治43年)11月17日)は、明治時代の人物。日本の将棋指し。将棋家元三家の一つである大橋本家当主。十一代大橋宗桂の子。


 大橋家を継いでいた父の十一代宗桂の子として生まれる。明治元年(1868年)に家督を相続する。

 明治時代になり、他の将棋三家とともに家元制度は家禄を失った。

 歴代の当主と比べて棋力が低く、明治26年(1893年)に十一世名人伊藤宗印が亡くなった時も、就位とはならなかった。

 明治19年(1886年)に『将棋早稽古』を出版する。明治31年(1898年)、小野五平が家元を継ぐことなく十二世名人に就位している。

 同年,宗金のもとに後の十三世名人関根金次郎が入門し,さらに関根は入門希望者を取り次いで大橋家に入門させた。

 明治38年(1905年)に家督を長男の大橋五郎に譲って隠居。

 五郎は棋士ではなく、関根が段位の審査を行い免状を発行するようになるなど、関根が実質的に家元である大橋家を掌握するようになった。

「御水尾天皇御筆跡の写」(宸筆錦旗)の駒作者でもある。

 なお、木村義雄名人による他説では、「御水尾天皇御筆跡の写」ではなく「水無瀬兼成書の写」が正しく、「箔をつけたがる。良くある話」と述べている。

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