カツカレーはいつできた? 食べ物はじめて物語

2020年9月5日 オフ 投稿者: animeoyagi

人類はいったい何を食べてきたのだろうか?

食材や食品、料理や料理店を出現年代順に並べてみました。

これからも少しずつ項目を増やしてゆくつもりです。

世界食物百科―起源・歴史・文化・料理・シンボル
日本の食文化史――旧石器時代から現代まで

ミカン 柑橘の原種は3000万年前のインド東北部のアッサム地方近辺を発祥とし、様々な種に分化しながらミャンマー、タイ、中国等へ広まったとされる。

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中国においては古くから栽培が行われており、戦国時代に完成したとされる文献『晏子春秋』には「橘化為枳」(橘、化して枳と為る。境遇によって元の性質が変化するという意)との故事が記されている。

バナナ パプア・ニューギニア高地のワギ渓谷にあるクック遺跡での発掘によって、オーストロネシア人の到来以前の完新世前期(約1万年前)にオーストラリムサ(Australimusa)というニューギニア在来種が人の手によって栽培されていたいくつかの証拠が見つかっている。

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東南アジアからニューギニアにかけての地域で栽培化されたバナナは、マレー・ポリネシア系民族が太平洋の島々に移住していくに連れて、それらの島々にも広がっていった。

稲作の起源は2017年現在、考古学的な調査と野生稲の約350系統のDNA解析の結果、約1万年前の中国長江流域の湖南省周辺地域と考えられている。

サトウキビ 紀元前8000年くらいに東南アジアでサトウキビを栽培。

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大豆

原産地は東アジアである。日本にも自生しているツルマメが原種と考えられている。

遺伝学的研究によれば、東アジアの複数の地域で野生ツルマメからの栽培化が進行し、日本も起源地のひとつである。

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2010年代の考古学的研究では、アジアでも他の地域に先駆けてダイズの栽培化が進行した可能性が判明しており他の起源地は中国や朝鮮半島である。

縄文時代中期、紀元前4000年後半より日本列島での栽培が見られることが2015年の研究で判明し、この時期以降に野生種からの人為的な栽培に特徴的な種子の大型化がみられる。

小豆(アズキ)

原産地は一般に東アジアと考えられている。

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日本では古くから親しまれ、縄文遺跡から発掘されているほか、古事記にもその記述がある。滋賀県の粟津湖底遺跡(紀元前4000年頃)や登呂遺跡(弥生時代、紀元1世紀頃)などから出土しており、古代から各地でから栽培されていたと考えられる。

リンゴ スイス地方の先住民族といわれている湖棲民族の遺跡からはリンゴの化石が発見されており、推定4000年前にはリンゴが栽培されていたと考えられている。

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ヨーロッパに広まったリンゴは、16世紀から17世紀頃にかけてヨーロッパ中部以北各地で栽培が盛んとなり、19世紀中頃にはイギリスが大産地となった。

■北半球では古くから各地で野生イチゴの採集と利用が行われていた。スイスのトゥワン遺跡で出土した紀元前3830年から3760年頃の穀物のスープからはイチゴの痩果が発見されている。

イチゴの栽培は古代ローマでは既に行われており、14世紀から16世紀にはいくつかの品種が栽培されていた。

近代栽培イチゴであるオランダイチゴは、18世紀にオランダの農園で、北米産のバージニアイチゴ (F. virginiana) とチリ産のチリイチゴ (F. chiloensis) の交雑によって作られた。

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ブドウの栽培化の歴史は古く、紀元前3000年頃には原産地であるコーカサス地方やカスピ海沿岸ですでにヨーロッパブドウの栽培が開始されていた。

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ワインの醸造は早くに始まり、メソポタミア文明や古代エジプトにおいてもワインは珍重されていた。

メソポタミアでは気候や土壌的にブドウの栽培が困難なため、消費されていたワインの多くは輸入されていた。

古代ギリシアではワインのためのブドウ栽培が大々的に行われ、ギリシア人が植民した地域でもブドウ園が各地に開設されるようになった。

キュウリ インド西北部のヒマラヤ山脈の南の山麓地帯が原産で、紀元前10世紀ごろには西アジアに定着したとみられている。

紀元前4000年前にメソポタミアで盛んに栽培されており、インド、古代ギリシア、古代エジプトなどでも栽培された。その後、6世紀に中国、9世紀にフランス、14世紀にイングランド、16世紀にドイツと伝播していき、16世紀ごろのヨーロッパで栽培が盛んになった。

アメリカ大陸には15世紀末、クリストファー・コロンブスがハイチに持ち込んだのを端緒に普及していった。キュウリを好物とした歴史上の有名人としてローマ皇帝ティベリウスがいる。

原産地から東方への伝播は、シルクロードを経由して中国の華北に入ったものと、東南アジアに伝わってから北上して中国の華南に入った2ルートのものがある。

中国ではかつて、ビルマ経由で伝来した水分の少ない南伝種が普及し、シルクロード経由の瑞々しい北伝種の伝来まで、この南伝種を完熟させてから食べるのが一般的であった。のちに南伝種は漬物や酢の物に、北伝種は生食に使い分けられることになる。


日本には6世紀に華南系キュウリが中国から伝わったとされるが、明治期に華北系キュウリが入ってきたといわれ、本格的に栽培が盛んになったのは昭和初期からである。

チョコレート 

紀元前2000年ごろから主に中央アメリカにおいてカカオの栽培が始められ、アメリカ先住民族の間で嗜好品や薬用として珍重され、マヤ族、のちにはアステカ族も貨幣として使用した。飲み方は、コーンミールやトウガラシを入れることが普通であった。

カカオは1492年にクリストファー・コロンブスによってヨーロッパへと紹介され、やがてアステカ帝国などの中央アメリカ諸王国を滅ぼしてこの地方を支配したスペイン人にも好まれるようになった。

そして彼らを通じ、徐々にヨーロッパ大陸にも浸透していった。この過程で、スペイン人はチョコレートの苦味を打ち消すためにトウガラシの代わりに砂糖を入れるようになり、このやり方が他のヨーロッパの国々に伝わる際も引き継がれた。

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当初、チョコレートは薬として扱われたが、砂糖を入れることによって徐々に嗜好品へと姿を変えていった。

17世紀中ごろにはイギリスに到達し、そのころ隆盛したコーヒー・ハウスにおいてもさかんに供された。この時期には、チョコレートはヨーロッパの王侯貴族や富裕層にとって贅沢な飲み物として受け入れられていた。

の歴史は紀元前8世紀頃の古代中国に遡る。

醤の文字は周王朝の『周礼』という文献にも記載されている。

後の紀元前5世紀頃の『論語』にも孔子が醤を用いる食習慣を持っていたことが記されている。

初期の醤は現代における塩辛に近いものだったと考えられている。

餃子

中国の春秋時代(紀元前6世紀頃)の頃に、山東省で誕生したとされている。

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遺跡から、当時餃子が食べられていた痕跡が見つかっている。敦煌の唐代の墳墓では、副葬品として壺に入った餃子が乾燥状態で発見されている。

■イタリア半島におけるパスタの歴史は大変古い。

チェルヴェーテリにある紀元前4世紀のエトルリア人の遺跡からは現在のものとほぼ同じ形態のパスタを作る道具が出土している。

古代ローマ時代にはラガーナ (lagana) というパスタがあったが、現在のように茹でて食べるものではなく、焼いたり揚げたりして食べた。

豆腐の起源については諸説ある。16世紀に編纂された『本草綱目』では、豆腐は紀元前2世紀前漢時代の淮南王で優れた学者でもあった劉安によって発明されたとしているが、真偽については明らかでない。

中国の豆腐

豆腐の原料となる大豆は遅くとも紀元前2000年頃までには中国の広い範囲で栽培されていたと考えられており、大豆加工食品は前漢時代の馬王堆漢墓からも出土しているが、日本豆腐協会では劉安の時代の中国には豆腐の原料となる大豆が存在しなかったとしている。

砂糖は1世紀前後に北インドのサトウキビから初めて生産された。

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その”sugar”という言葉の由来はサンスクリット語のサルカラ(Sarkara)で、インドから伝わった紀元前1500-1500年の間に書かれたサンスクリット文学はインドのベンガル地域にサトウキビの栽培と砂糖の生産に関する最初の記録を提供した。

サンスクリットで、粗く精製された砂糖物質の名前はグダ(guda)で、「ボールやかたまりにすること」を意味している。

■【うどんの起源

★奈良時代に遣唐使によって中国から渡来した小麦粉の餡入りの団子菓子「混飩(こんとん)」に起源を求める説。
★青木正児の『饂飩の歴史』によれば、ワンタンに相当する中国語は「餛飩(コントン)」と書き、またこれを「餫飩(ウントン、コントン)」とも書き、これが同じ読み方の「温飩(ウントン)」という表記になり、これが「饂飩(ウドン)」となったとする説。
★平安時代に遣唐使として唐に渡った空海が饂飩を四国に伝えて讃岐うどんが誕生したという伝説。

そうめん(諸説あり)

日本では天武天皇の孫、長屋王(676年/684年(出生は諸説あり)~729年3月16日)邸宅跡(奈良市)から出土した木簡が最も古い「索餅」の記録となっている。

原形はもち米と小麦粉を細長く練り2本を索状によりあわせて油で揚げたもので、現在の油条に似たものと考えられる。

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唐菓子の索餅は神饌として現在でも用いられており、素麺の原形を知る手がかりとなる。

そうめん(諸説あり)

素麺は日本国内では奈良県桜井市が発祥の地とされており、奈良時代(710年 – 794年)に唐(618年 – 907年)から伝来した唐菓子の1つ、索餅(和名で「麦縄」とも書く事もある)に由来するとする説が広まっている。

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ソバの日本への伝来は奈良時代以前であることは確実である。

『類聚三代格』には養老7年8月28日(723年10月1日)と承和6年7月21日(839年9月2日)付けのソバ栽培の奨励を命じた2通の太政官符を掲載しているが、当時「曾波牟岐(蕎麦/そばむぎ)」(『本草和名』・『和名類聚抄』)あるいは「久呂無木(くろむぎ)」(『和名類聚抄』)と呼ばれていたソバが積極的に栽培されたとする記録は見られない(なお、『和名類聚抄』では、蕎麦(そばむぎ)を麦の1種として紹介している)。

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豆腐

一説には豆腐の起源は8世紀から9世紀にかけての唐代中期であるともいわれている。実際、6世紀の農書『斉民要術』には諸味や醤油についての記述はあるものの豆腐の記述が見当たらず、文献上「豆腐」という語が現れるのは10世紀の『清異録』からである。

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唐代には北方遊牧民族との交流によって、乳酪(ヨーグルト)、酪(バター)、蘇(濃縮乳)、乳腐(チーズ)などの乳製品が知られていた。豆腐は、豆乳を用いた、乳製品(特にチーズ)の代用品(乳「腐」から豆「腐」へ)として、発明されたと考えられている(篠田統(しのだおさむ)説)

なれ寿司 既に奈良時代に存在が知られる。平安時代の『延喜式』(927年)「主計寮式」には諸国からの貢納品が記されており、鮓・鮨の語を多く見出だすことができる。

九州北部、四国北部、近畿、中部地区に多く、関東以北には見られないのが特徴的。魚(または肉)を塩と飯で漬け込み熟成させる「なれずし」であると考えられている。

そうめん(諸説あり)

索餅の材料・分量・道具については平安時代中期の『延喜式(927年(延長5年)に完成)』に書かれており、小麦粉と米粉に塩を加えて作る麺(米粉は混ぜないという説もある)という事は分かっているが、形状については不明であり現在の素麺やうどんよりもかなり太く、ちぎって食べたのではないかとする説が有力的である。

そうめん(諸説あり)

中国では日本よりもはるかに早く、北宋時代(960年 – 1127年)に「索麺」の表記が出ている。

南宋時代末期から元初期頃の『居家必要事類全集』という百科全書に出ている索麺の作り方には「表面に油を塗りながら延ばしていくことで、最後に棒に掛けてさらに細くする」等といった日本の手延素麺の製法と酷似した特徴が書いてある。

■【うどんの起源】平安時代の989年、一条天皇が春日大社へ詣でた際に「はくたく」を食べたという『小右記』の記述から、発祥は奈良とする説。

■【おっきりこみ】手打ちの太麺と季節の野菜やサトイモ、ダイコンなどをたっぷりの汁で煮込んだ料理であるおっきりこみ(上州ほうとう)。

うどんを「切っては入れ、切っては入れ」食す様子から、自然とこの呼び名がついたとされる。地域によっては、「煮ぼうと」や「煮ぼうとう」、「おきりこみ」とも呼ばれる。

その由来には諸説あるが、中国から伝来し京都の宮中で食べられていた料理で、12世紀に上野国新田荘を開発した新田義重(1114年または1135年~1202年2月8日が、宮中の食材を管理する大炊助として務めていた際に習い覚えて、本拠地の上州に戻ってからも好んで食べ、一族に伝えたともいわれ、また、昔、農家の主婦達が農作業で忙しい中、栄養バランスに優れ手早く大量に作れる料理として作り始めたのが発祥とも伝わる。

今では一般家庭でも多く作られており、おふくろの味として愛されている。

おっきりこみが一般家庭で食べられるようになったのは、石臼が普及した江戸時代中期以降だと考えられている。

■一般に豆腐は中国から日本へ伝えられたとされる。

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遣唐使によるとする説が最も有力とされるが、その一員でもあった空海によるという説、鎌倉時代の帰化僧によるとする説もあるなど様々な説がありはっきりとしていない。

ゆばやこんにゃくなどとともに鎌倉時代に伝来したとみる説もある。

ただ、1183年(寿永2年)の奈良・春日神社の供物帖の中に「唐府」という記述がある。

甘柿は渋柿の突然変異種と考えられている。1214年に現在の神奈川県川崎市麻生区にある王禅寺で偶然発見された禅寺丸が、日本初の甘柿と位置づけられている。

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なお、中国の羅田県周囲にも羅田甜柿という甘柿が生育しており、京都大学の調査によると、日本産甘柿の形質発現は劣性遺伝であるのに対し、羅田甜柿は優性遺伝で、タンニンの制御方法も全く異なっていると分かった。

パスタは、肉、ミルクなどと共に茹でられて食べられていた。1000年頃からチーズと共に食べられ、13世紀の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が砂糖をかけて食したのを始め、金持ちはシナモンなどの香辛料をかけていた。

現在と同じような食べ方をしている事を記録している最古の書物は、1224年8月2日付のジェノヴァの公正証書(ベルガモの医師ルッジェーノが患者の羊毛商人ボッソにあてた文章)である。

■【うどんの起源】仁治2年(1241年)に宋から帰国した円爾(聖一国師)が製粉の技術を持ち帰り、饂飩、蕎麦、饅頭などの粉物食文化を広めたとする説。

承天寺(福岡市、円爾建立)境内には「饂飩蕎麦発祥之地」と記された石碑が建っている。

「饂飩蕎麦発祥之地」(左)と「御饅頭所」の石碑

■【そばに関する記述】鎌倉時代に書かれた『古今著聞集(1254年(建長6年)10月頃に一旦成立し、後年増補がなされた)』には、平安時代中期の僧・歌人である道命(藤原道長の甥)が、山の住人より蕎麦料理を振舞われて、「食膳にも据えかねる料理が出された」として、素直な驚きを示す和歌を詠んだという逸話を記している。

これは都の上流階層である貴族や僧侶からは蕎麦は食べ物であるという認識すらなかったことの反映とも言える。

この時代の蕎麦はあくまで農民が飢饉などに備えてわずかに栽培する程度の雑穀だったと考えられている。

■【マカロニ】現在は円筒形が主流であるが、元は菱形であった。

俗説ではマルコ・ポーロが中国から持ち帰った小麦粉を練った食べ物を教皇に献上した際、あまりの味の良さに「おお、すばらしい(Ma Caroni)」といったことが命名の由来とされているが、マルコ・ポーロが帰国したのが1295年で、その前の1279年にジェノヴァの公証人が作成した財産目録に「マカロニ一杯の箱」とあり、名称の由来ともども中国から持ち帰ったとする説も、認められるものではない。

イタリアの語源辞典では大麦のお粥のようなものからとしているが、『食文化百科』では「小麦などを練る」の「マッカーレ」から派生した「マッコ」を語源にしているという。

はっきりとした事情は不明だが、少なくとも14~15世紀のイタリアでは、小麦粉を練って成形、茹でて料理したものの総称として「マカロニ」の語が使用されていた。今日のように穴の開いたパスタを表わす語となったのは、17世紀以後とされる。

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■蕎麦の2字で「そば」と読むようになった初出は南北朝時代に書かれた『拾芥抄(永仁2年(1294年、公賢4歳の年)に書写された『本朝書籍目録』写本に「拾芥抄」の名が見られる)』であり、蕎麦と猪・羊の肉との合食禁(食い合わせを禁ずる例)を解説している。

■【うどんの起源】奥村彪生によれば、麵を加熱して付け汁で食するものは中国にはなく、日本の平安時代の文献にあるコントンは肉の餡を小麦の皮で包んだもので、うどんとは別物であり、うどんを表現する表記の文献初出は南北朝時代(1336年から1392年)の「ウトム」であるとする説。

そうめん(諸説あり)

古代中国後漢の『釈名』やの文献に度々出てくる「索餅」が日本に伝わったものとする説が有力である。その他の説として、南北朝時代にから禅僧の往来や貿易によって「索麺」が伝えられたものという説がある。

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祇園社の南北朝時代の記録である『祇園執行日記』の康永2年7月7日(1343年7月28日)の条に、麺類を指す言葉として索餅(さくべい)、索麺・素麺(そうめん)と3つの表記があり、これが「そうめん」という言葉の文献上の初出とされている(南北朝時代の「異制定訓往来」が「素麺」の文字の初出という説もある)。

★室町時代には現在の形になったとされ、「索餅」「索麺」「素麺」の名称が混じって用いられた。「そうめん」が初めて記録されるのは素麺の初見は康永2年(1343年)八坂神社の『祇園執行日記』で「丹波素麺公事免除」と記述、さらに奈良の法隆寺の『嘉元記』正平7年(1352年)5月10日条に、僧兵の快賢が南北朝の合戦に参加した恩賞の宴に「サウメマ」が振舞われていて、このころ「素麺」の名称が定着したとされる。

■【うどんの起源】南北朝時代(1336年から1392年)末期の『庭訓往来』や『節用集』などに「饂飩」「うとん」の語が現れる。

江戸時代は「うどん」と「うんどん」の語が並存し、浮世絵に描かれた看板などに「うんとん」と書いてあることがよくあり、明治初期の辞書『言海』には「うどんはうんどんの略」と記されている。

トマト 16世紀以前、メキシコのアステカ族がアンデス山脈からもたらされた種からトマトを栽培し始めた。新大陸の中でもトマトを栽培植物として育てていたのは、この地域に限られる。16世紀にアステカに入ったサアグン修道士の記録から、当時から複数種類の栽培種が開発されていたと見られる。

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ヨーロッパへは、1519年にメキシコへ上陸したエルナン・コルテスがその種を持ち帰ったのが始まりであるとされている。

■【ブイヤベース】原型は付近の漁師が、見た目が悪かったり、毒針があって危険などの理由で商品価値のない魚を自家消費するため、大鍋で塩と煮るだけの料理であった。

17世紀に新大陸からトマトが伝来すると食材に取り入れられ、また19世紀にマルセイユが観光地化すると、多数のレストランが地元料理のブイヤベースを目玉料理にして技巧を凝らし、料理法も発展、洗練されて今日に至る。

本格レストランのブイヤベース。スープと具は別皿で、アイオリソースと薄切りパンを添える

ミカンとして最初に日本に広まったのはキシュウミカンである。

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中国との交易港として古くから栄えていた肥後国八代(現熊本県八代市)に中国浙江省から小ミカンが伝り、高田(こうだ)みかんとして栽培され肥後国司より朝廷にも献上されていた、それが15 – 16世紀ごろ紀州有田(現和歌山県有田郡)に移植され一大産業に発展したことから「紀州」の名が付けられた。

ひやむぎ

一条兼良(1402年6月7日~1481年4月30日)が書いたとされる『尺素往来』には索麺は熱蒸、截麦(きりむぎ)は冷濯(ひやしあらい) との一節があり、当時索麺は蒸して熱いところを食べるのが主流で、截麦は冷やして食べるのが主流だったと伺える。

★『尺素往来』の執筆年代に関しては、勅撰和歌集に触れたくだりにおいて新後拾遺和歌集が最後に置かれ、永享11年(1439年)成立の新続古今和歌集に触れられていないこと、聖上の外祖父が武将を率いる(すなわち、将軍)でありながら准三宮になったと記され、聖上は称光天皇・准三宮は足利義満を指していると考えられることから、称光天皇の在位期(応永19年8月29日〈1412年10月5日〉- 正長元年7月20日〈1428年8月30日〉)に書かれたと考えられている。

★15世紀の日記類には、截麦のほか、切麺、切麦、冷麦、冷麺、切冷麺といった言葉が頻繁に出ており、同時代に頻繁に登場するようになった「饂飩(うどん)」とは明確に区別され、それとは形状の異なる切り麺であり、素麺と並べて論じられているので、形状は素麺に近い細い切り麺と推測されるのと、「冷麦」の読みは明らかに「ひやむぎ」であるため、この時期には「素麺に近い細い切り麺はひやむぎ」という概念は誕生していた模様である。

ラーメン

『蔭涼軒日録』に、長享2年(1488年)に中国の『居家必要事類』という書物の記載を参考にして「経帯麺」という料理を調理し来客に振舞ったという記述があることが2017年(平成29年)に判明した。この「経帯麺」は材料として小麦粉とかん水を使うことも書かれており、日本初のラーメンである可能性が示されている。

日本で最初に中華麺を食べたのは徳川光圀(水戸黄門)であるとする説がある。

1659年(万治2年)に明から亡命した儒学者の朱舜水が水戸藩に招かれた際に、所持品リストに中華麺を作る際に使うものが含まれるから、中国の汁麺を献上したとの記録はないものの、実際に作ったに違いないという。

1697年(元禄10年)には、光圀の隠居所である西山荘を訪れた僧や家臣らに中華麺がふるまわれたとの記録もある。

この説に基づき復元したものが新横浜ラーメン博物館にある。

日本への伝播としては、明治時代を迎え神戸や横浜などの港町に中華街が誕生し、そこで提供された南京そばに始まるとされる。

1884年(明治17年)に函館新聞(当時)に函館の船場町にある中華料理店養和軒が南京そばを15銭で提供を始める広告を出し、大正の頃まで提供したとされている。証拠が乏しく、当時の関係者も存命ではないため、養和軒の南京そばが今のラーメンと同種の食べ物であると断言できない状況である。

■日本国内で初めて餃子を食べた人物は江戸時代の徳川光圀とされており、明末清初の動乱で日本へ亡命していた朱舜水が伝えたという。

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ジャガイモがヨーロッパ大陸に伝えられたのは、インカ帝国の時代、15世紀から16世紀頃とされている。

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当初、インカ帝国の食の基盤はトウモロコシではないかと伝えられていたが、ワマン・ポマが1615年に残した記録やマチュ・ピチュの段々畑の史跡研究、気象地理条件、食生活の解析など、複数方面からの結果が、食基盤がジャガイモであったことを示しており、近年見直しが図られている。

しかし、具体的に「いつ」「誰が」伝えたのかについてはっきりとした資料は残っておらず、スペイン人がジャガイモを本国に持ち帰ったのは1570年頃で、新大陸の「お土産」として船乗りや兵士たちによってもたらされたものであろうと推測付けられている。

■【そば】古くは粒のまま粥にし、あるいは蕎麦粉を蕎麦掻き(そばがき、蕎麦練り とも言う)や、蕎麦焼き(蕎麦粉を水で溶いて焼いたもの。麩の焼きの小麦粉を蕎麦に置き換えたもの)などとして食した。

そばがきの一例

蕎麦粉を麺の形態に加工する調理法は、16世紀末あるいは17世紀初頭に生まれたといわれる。蕎麦掻きと区別するため蕎麦切り(そばきり)と呼ばれた。

現在は、省略して単に蕎麦と呼ぶことが多いが、「蕎麦切り」の呼称が残る地域も存在する。

ザワークラウト

英語ではサワークラウト、仏語ではシュークルート、オランダ語ではズールコール、ポーランド語ではキショナ・カプスタ、ロシア語ではクヮーシェンナヤカプースタ。

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フランスのアルザス地域やポーランドをはじめ北欧、東欧、ロシアでも食されているほか、ドイツ移民の多いアメリカ合衆国、カナダなどでもよく食べられている。1世紀には古代ローマで食べられていた記録があるが、現代のものは16世紀から18世紀にかけてヨーロッパに広く定着した。

製法
ザワークラウトの酸味は発酵の過程で乳酸菌が出す乳酸によるもので、酢などの酸味料は加えない。

産地や各家庭において作り方はさまざまであるが、基本的にはキャベツや赤キャベツを繊切りにし、瓶や漬物樽に入れ、適量(キャベツの重量の2%程度)の塩と香辛料を入れてよく混ぜたのち、漬物石など重しをのせて押しをかけ、常温で保管する。夏季なら3日、冬場でも1週間程度で酸味が出て食べごろになる。

■16世紀の初め、西インド諸島とアメリカの熱帯地域でのサトウキビの栽培と生産が広がる。続いて、17-19世紀の世界の西インド諸島やアメリカの熱帯地域の一部でより徹底的な生産改良。

カスタードプリン 

由来には、イギリス航海者(16世紀)の考案説と腸詰の派生説がある。

イベリア半島やラテンアメリカではスペイン語およびポルトガル語でフラン (flan、< 古仏: flaon < 羅: fladonem < 古高独: flado 「扁平なケーキ類」に由来) と呼ばれる。

アメリカ合衆国では英語の名称よりもスペイン語のフランやフランス語のクレーム・カラメル (クレーム・ランヴェルセ・オ・カラメル(ひっくり返しクリーム菓子カラメルがけ)の省略形) で知られていることが多い。

ベトナムにはフランス統治時代に伝来し、バン・フラン またはケム・カラメン(越: Bánh flan, kem caramen、バインはベトナム語で粉などを捏ねて作る食品、ケムはクリームのこと)と呼ばれている。

スペインのフランが伝来したフィリピンではレチェ・フラン(leche flan、「乳のケーキ」)と呼ばれる。フランスのフラン・オ・ズーは「卵のフラン」の意。

金平糖(こんぺいとう、コンペイトー)とは、砂糖と下味のついた水分を原料に、表面に凹凸状の突起(角状)をもつ小球形の和菓子。

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金米糖、金餅糖、糖花とも表記される。語源はポルトガル語のコンフェイト(confeito [kõˈfɐjtu]、糖菓の意)。

金平糖はカステラ・有平糖などとともに南蛮菓子としてポルトガルから西日本へ伝えられたとされる。

初めて日本に金平糖が伝わった時期については諸説あるが、戦国時代の1546年(天文15年)とも言われる。

■【てんぷら】奈良時代から平安時代にかけて中国から伝来したものは米粉などを衣にしたものであった。その後16世紀にポルトガルのカトリック宣教師が小麦粉を使った西洋式の揚げ物の調理法を日本に伝えた。

★現在までに、文献などではっきりと分かっている史料から、日本に到達した最初のキリスト教宣教師はザビエルであるとされる。

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フランシスコ・ザビエル1506年頃4月7日 – 1552年12月3日肖像

彼はイエズス会の創立メンバーの一人であり、すでにインドでの宣教活動で大きな成功を収めていた。

しかし、彼はインドでは宣教活動において植民活動をすすめていたポルトガル政府の干渉を受けることに不満を持っていた。そのころ、倫理意識が強く教育水準の高い国民が多いという日本の噂を聞き、実際にヤジロウという日本人と出会った。

そして、ポルトガル政府に干渉されない日本で自由に宣教してみたいと思うようになった。こうしてザビエルはインドを離れ、1549年に念願の日本に到着した。

トマトが新大陸からスペイン経由でナポリに伝わったのは1554年とされる

カステラ 1557年。

カステラの起源については、スペインの焼き菓子「ビスコチョ」(Bizcocho)とする説や、ポルトガルの焼菓子「パン・デ・ロー」(pão de ló)とする説がある。

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ビスコチョは、「二度焼くこと」が語源の焼き菓子である。元は乾パン状の堅いものだったが、1611年に出版されたスペインの辞書『コバルビアスのコトバ辞書』には、当時のビスコチョに「小麦粉と卵と砂糖で作る美味しい別のタイプ」もあったことが記されている。

1846年(弘化3年)の川北温山『原城紀事』に、江戸時代中期に書かれた『耶蘇天誅記』からの引用として、1557年(弘治3年)に肥前唐津で布教を進めた宣教師が作った菓子類が挙げられており、その中に「角寺鐵異老」(カステイラ)がある。1626年(寛永3年)の小瀬甫庵『太閤記』にも、宣教師が布教の際に「かすていら」などの南蛮菓子をふるまっていたことが書かれている。

■【麺状のそば】蕎麦切りの存在が確認できる最も古い文献は、長野県木曽郡大桑村須原にある定勝寺の寄進記録である。

同寺での1574年(天正2年)初めの建物修復工事完成に際しての寄進物一覧の中に「振舞ソハキリ 金永」というくだりが確認でき、少なくともこの時点で蕎麦切りが存在していたことが推定されている。

庶民への普及は18世紀(元禄時代)であったと推定されている。

■【ほうとう】幅の広い麺を生から地元の食材で煮込む同様の料理として、山梨県のほうとう・岩手県の南部はっとやひっつみ、九州のだんご汁、埼玉県深谷の煮ぼうとうなどが挙げられる。青森県八戸のせんべい汁も、広義には共通点がある。

ほうとうなど太い麺を生の状態から地元の野菜と一緒に煮込んだ料理は、戦国時代の武田信玄の領地や影響のあった地域である山梨県のほか、埼玉、群馬のおっきりこみ、長野などにある。このため、「ほうとうが食べられている地域は信玄の勢力範囲と一致する。武田軍の陣中食だった可能性がある。」とする説がある。)

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■【煮込みうどんの起源】戦国時代、武田信玄の陣中食だったほうとうが、武田家滅亡後、徳川家に召し抱えられた武田家遺臣によって徳川家に伝えられたものであるという説や、明治時代、愛知県一宮市周辺で盛んであった繊維産業に従事していた女性従業員達が、ほうとうを参考にうどんと野菜を豆味噌で煮込み食していたものが名古屋市周辺に伝わったという説など、ほうとうにルーツを求めるものを中心にその起源には諸説ある。

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ジャガイモが日本にもたらされたのは1598年にオランダ人によって。

キタアカリ/じゃがいも 5kg 無農薬栽培
キタアカリ/じゃがいも 5kg 無農薬栽培

ジャワ島のジャガタラを経由して長崎へ伝来したためジャガタライモと呼称されたが、それが短縮されジャガイモとなった。

ドーナツの原型は、オランダの小麦粉・砂糖・卵で作った生地を酵母で発酵させ、ラードで揚げたボール状のオリーボーレンという菓子だとされており、オランダ人はこれを「オリークック(Olykoek)」と呼んでいた。

後にイギリスで迫害を受けた清教徒が1607年 – 1620年のオランダ滞在中にオリークックの作り方を覚え、ピルグリム・ファーザーズの植民と共にドーナツの原型がニューイングランドに伝わった。その後、オランダ移民によって再度ヨーロッパからアメリカに持ち込まれ、オランダ領ニューアムステルダムへも伝わったとされる。

シチュー(ラグー)の料理としての確立は、16世紀後半から17世紀前半のフランスにおいてとされる。

稲庭うどんについて記述のある「稲庭古今事蹟誌」によると、寛文年間(1661年から1673年)以前に秋田藩稲庭村小沢集落(現:秋田県湯沢市稲庭町字小沢)の佐藤市兵衛によって始まると伝えられている。

稲庭うどん

また、秋田には同じ製法で作った「稲庭そうめん」もある。

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■【わんこそば】わんこそばの起源として、以下の2説が言われている。

花巻起源説
およそ400年前の慶長時代(1596年から1615年)、当時の南部家27代目当主、南部利直(1576年4月13日~1632年10月1日)が江戸に向かう際に花巻城に立ち寄り食事を所望した。「殿様に対して市民と同じ丼で差し上げる事は失礼」との発想から、山海の幸と共に漆器のお椀に一口だけのそばを試しに恐る恐る出したところ、利直はこれを「うまい」と何度もお代わりをした。という説。

その後明治時代になり花巻市の蕎麦屋「大畠家」が一般にもわんこそばを振る舞うようになり「お殿様の召上がったわんこそば」は市民の人気になった。大正から昭和初期にかけて花巻の一般家庭にはわんこそばの道具があり、「わんこそば」が楽しまれていた。
花巻市出身の斎藤市太郎氏が盛岡で始めた「わんこや」(現在廃業)が「わんこそば」を商標登録し、戦後から盛岡の蕎麦屋でもわんこそばが振舞われるようになった。
盛岡起源説
盛岡出身の政治家・原敬(1856年3月15日〈安政3年2月9日〉- 1921年〈大正10年〉11月4日)が帰省して大好物のそばを食べた際に、「そばは椀コに限る」と言ったことが広まった。

■【てんぷら】16世紀には、南蛮料理を祖とする「長崎天ぷら」が誕生している。

これは衣に砂糖、塩、酒を加えラードで揚げるもので、味の強い衣であるため何もつけずに食するものであった。

これが17世紀に関西に渡り、野菜を中心としたタネをラードに代わりごま油などの植物油で揚げる「つけ揚げ」に発展する。

そして、江戸幕府開府とともに天ぷらは江戸に進出、日本橋の魚河岸で商われる魚介類をごま油で揚げる「ゴマ揚げ」として庶民のあいだに浸透していったといわれている。

当時の天ぷらはゴマ油で揚げることで魚の生臭さを消し、同時に魚介類の保存期間・賞味期間を少しでも延ばそうという狙いもあった。

ボーロ (bolo) とは、ポルトガル語においてはケーキを主とする菓子の総称であり、特定の菓子の名前ではないが、日本においては小麦粉、砂糖、卵、牛乳を材料とした南蛮焼き菓子のこと。

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丸ボーロ

日本には16世紀に伝えられ、江戸時代の『古今名物御前菓子秘伝抄』などの菓子の製法書に製法が残されているが、当時の材料には卵は用いられていなかった。

次第に材料に胡麻や大豆などを用いる工夫も重ねられ、造形も王冠、あるいは花びらのような形に成形された花ぼうろとして親しまれていた様子が『名代干菓子山殿』や『小紋裁』に記述されているが、成形の手間などから次第に廃れ、2016年現在その痕跡は沖縄県の花ぼうるとしてみるに留める。

これは他のボーロと異なり複雑な形をしており、食感はクッキーに近いものである。

■【たまり醤油】文献上に「たまり」が初出したのは1603年(慶長8年)に刊行された『日葡辞書』で、同書には「Tamari. Miso(味噌)から取る、非常においしい液体で、食物の調理に用いられるもの」との記述がある。

また「醤油」の別名とされている「スタテ(簀立)」の記述が同書に存在し、1548年(天文17年)成立の古辞書『運歩色葉集』にも「簀立 スタテ 味噌汁立簀取之也」と記されている。

ジャガイモ

ヨーロッパでの食用作物として本格的に栽培が始められたのは17世紀のアイルランドで、さらにジャガイモは1621年に、アイルランド移民の手により北アメリカへ渡り、アメリカ独立戦争における兵士たちの胃袋を満たす貴重な食料源となった。

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■1624年(寛永元年)福砂屋(長崎県長崎市)創業

現在は「カステラ本家」を商標登録

福砂屋 カステラ0.6号2本

■記録は残っていないが、1613年、慶長遣欧使節がヨーロッパに赴いた時期は、チョコレートを飲む習慣がヨーロッパの上流階層に広がっていた時期と重なるため、これに参加していた支倉常長たちが、初めてチョコレートを口にした日本人ではないかという説もある。

豆腐 17世紀に清で布教したスペインのドミニコ会宣教師ドミンゴ・フェルナンデス・ナバレテはその著書の中で「teu fu」を豆から作られる中国のチーズとして紹介した。

18世紀にナバレテの書物の英訳を読んだベンジャミン・フランクリンは豆腐に強い興味を示し、イギリス東インド会社のジェームズ・フリントに「tau-fu」の製法を問い合わせた。

フリントはフランクリンあての1770年1月3日づけの手紙で「towfu」の製法を説明した。これが英語ではじめて豆腐に言及した文献と考えられている。

■ベルギーはフリッツ(フライドポテト)発祥の地を称しており、ブルッヘ(ブルージュ)にはフリッツ博物館がある。17世紀、ナミュールで不漁に困った住民がジャガイモを揚げて食べたことが起源と同国では伝えられている。

これに対して、フランスの新聞『フィガロ』電子版が2018年8月1日付で、19世紀初頭のパリで登場したと唱える研究家のインタビューを掲載し、論争になっている。

蕎麦屋の文献上の記載は、文政12年(1829年)の文政町方書上に蕎麦屋が3軒あったと記載されているうちの1軒が寛永18年(1642年)から店を構えていたとされる。

屋台形式の移動店舗は江戸時代後期に書かれた『三省録』・『近世風俗志』・『昔々物語』等に、寛文4年(1664年)に「けんどん蕎麦切」の店が現れたとの記述がある。

また、貞享3年(1686年]に江戸幕府より出された夜間の煮売り禁止対象に「うどんや蕎麦切りなどの火を持ち歩く商売」という意味の記載があり、寛文10年(1670年)のお触書には記載が無いことから以降の16年で夜間の屋台販売を代表する存在になっていった事が伺える。

これらの屋台形式の蕎麦屋は、時代や業態によって二八蕎麦・夜鷹蕎麦・風鈴蕎麦などとも呼ばれた。

■【醤油】日本国外への輸出は1647年(正保4年)にオランダ東インド会社によって開始された。

この当時は樽詰めされた物が一般的だった。

最初は東アジアへ、18世紀には欧州へ輸出された。

伝承によればルイ14世の宮廷料理でも使われたという。

当時の記録によると腐敗防止のために、一旦沸騰させて陶器に詰めて歴青で密封したという。

用いられたビンは「コンプラ瓶」と呼ばれた陶器の瓶であり、多数が現存する。なお、「コンプラ瓶」が使用され始めたのは、1790年(寛政2年)からである。

■1651年 ベシャメルソース(仏:sauce béchamel)は、白あるいは黄色いルーを牛乳で溶いて煮詰めた白いソースである。

フランス料理の基本的なソースのひとつであり、チーズを加えてモルネーソースを作るなど、他のソースのベースともなる。

ベシャメルソースの発祥にはいくつかの説があり、定かではない。

ベシャメルソースを使った料理、マカロニグラタン

イタリアでは、カトリーヌ・ド・メディシスのトスカーナ州出身料理人が発明し、17世紀にイタリアからフランスに伝えたとされている。Sauce Béchamelは、牛乳、子牛のストック(煮出し汁、ブイヨン)と調味料をゆっくりと煮立て、クリームで濃くしたものを濾したものである。


フィリップ・ド・モルネー(英語版)(Philippe de Mornay)が、モルネーソース、リヨネーズソース、ポルトソース同様に発明した。


17世紀の財務官で、ルイ14世の名誉主任執事であるルイ・ド・ベシャメイユ(英語版)(Louis de Béchameil)・マルキ・ド・ノワンテル(Marquis de Nointel)(1630年 – 1703年)が発明した。


ルイ14世の宮廷シェフであるフランソワ・ピエール・ラ・ヴァレンヌ(François Pierre La Varenne、1615年 – 1678年)が発明し、当時のルイ・ド・ベシャメイユに敬意を表しソースを名付けた。


このソースの名が最初に使われたのは、ラ・ヴァレンヌ著『フランス料理人(Le Cuisinier Français )』(1651年出版)である。

フランス料理の基本として『フランス料理人』は75年間で約30版を重ねた。このソースはブルターニュの行政官マルキス・ド・ベシャメイユの機嫌を取るために名付けられたとされる。

多くのシェフはルイ・ソルニエ著『フランス料理総覧』によるオーギュスト・エスコフィエのレシピ、「白いルーを牛乳で溶いて、塩、タマネギにクローブを刺し、20分間調理する」を権威と考える。

■1659(万治2) 東海道名所記 「東海道中に4軒のうどん・蕎麦を出す茶屋がある」「京都の遊郭島原の茶屋で饂飩・蕎麦を売っている」の記述あり。

東海道名所記』  国立国会図書館デジタルコレクションより

■【てんぷら】「てんふら」という名称で文献上に初めて登場するのは、江戸時代前期の1669年(寛文9年)刊『食道記』である。

ただし、「素材に衣をつけて油で揚げる」という料理法は既に精進料理や卓袱料理などによって日本で確立されていたため、それらの揚げ物料理と天ぷらの混同によって古くから起源・語源に混同が見られる。

■1690(元禄3) 東海道分間絵図 東海道中に蕎麦切り専門の茶屋が21ヵ所描かれている。

ケチャップという言葉がトマトケチャップを指すようになったのは近代以降で、それまでは魚介類やキノコ、野菜などを材料とする調味料を指した。

1690年に出版された北アメリカの飲食用語辞書 A New Dictionary of the Terms Ancient and Modern of the Canting Crew(英語版) に ketchup、1699年に出版されたイギリスの飲食用語辞書 BE’s Dictionary of the Canting Crew of 1699 に catchup という言葉が収録され、説明として「東インド奥地のソース(a high East-India Sauce)」と記されていた。

「東インド奥地」つまり現在の中華人民共和国南部から東南アジアの、魚介類の塩漬けを発酵させた液体調味料(魚醤)の呼び名が、語源と考えられている。

中国に数百年前からある「ケ・ツィアプ」と呼ばれる調味料が由来だという説が有力である。

これは現在のナンプラーや魚醤のように、魚に塩を加えて発酵させて作ったものだった。

中国南部の福建語では魚から作ったソース(魚醤)のことを「KE-chiap」と呼び、人々は調味料のような形で料理に使用していた。

これは現在の中国南部の泉州周辺や台湾南部の鹿港周辺で鮭汁(コエチアッ、ケーチアッ等と呼ばれているのとも符合する。

■1691年(元禄4年)に、初代玉屋忠兵衛が上野の輪王寺の宮といわれる第111代後西天皇の第6皇子、公弁法親王のお供をして京より江戸に移り、根岸新田(現在地)で絹ごし豆富を作り料理屋を開いた。

江戸で初めてできた絹ごし豆富を親王に献上したところ、京を懐かしみ「笹の上に積もりし雪の如き美しさよ」よ称されたので、屋号を「笹乃雪」と名づけた。

この「笹乃雪」は2020年9月現在も東京都東京都東京都台東区根岸二丁目で営業している。

■1696年 歴史的にトマトベースのソースを記した最初のイタリア料理書は、在ナポリスペイン副王の宰相に家令として仕えたイタリア人シェフ、アントニオ・ラティーニ(英: Antonio Latini)が著し1696年に発行された Lo Scalco alla Moderna(『近代的家令』あるいは『現代の給仕長』など)である。

同書にはトマトを使った「Salsa di pomadoro alla spagnola(スペイン風トマトソース)」が記されている。

このソースは、皮をむいて刻んだトマトに、みじん切りのタマネギとピーマン、イブキジャコウソウ、塩、オイル、酢などを混ぜたもので、ラティーニ自身は茹でた肉にかけることを奨めていた。

■【うどんひやむぎ】元禄10年(1697年)の本草書『本朝食鑑』では、うどんは寒い時期のものであり、ひやむぎは暑い時期に良い との内容で書かれており、この時代にはうどんとひやむぎの季節による食べ分けが定着していたと推測される。

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■信州産の蕎麦の評価に関しては、17世紀末の『本朝食鑑(元禄10年(1697年))』に、「武蔵・上総・常陸国の蕎麦は産出量が多く、味も悪くは無いが、信州産には及ばない」と記し、関東産蕎麦より評価が上と認識されている(この本朝食鑑の記述は、そのまま『蕎麦全書』にも引用されている)。

蕎麦湯の文献上の初出は元禄10年(1697年)の 人見必大による『本朝食鑑』であるとされる。

そこに「呼蕎麦切之煮湯稱蕎麦湯而言喫蕎切後不飲此湯必被中傷若雖多食飽脹飲此湯則無害然未試之」(蕎麦切りを食べた後で蕎麦湯を飲まねば病気になる、また過食して腹が飽脹しても蕎麦湯を飲めば害がないというが試したことはない)と伝聞調の記述が見られる。

また、寛延4年(1751年)の日新舎友蕎子による『蕎麦全書』の中に「先年所用の事ありて信州諏訪を通る事有り。信濃そばとて名物を聞居ければ、旅宿にてそばを所望せしに、其そば製大きによし。成程名物程の事有り。然るにそば後直に蕎麦湯を出して飲しむ」という記述がある。

そこでは「そば後直に蕎麦湯を飲む時は食するそば直に下腹に落着て、たとえ過食すとも胸透きて腹意大きによろしき物也」と整腸作用のために飲むと説明されている。

直前に「江戸にてはそば切を人に振舞時、そばの後、定って吸物とて豆腐の味噌煮を出す。能麺毒を解すと云伝ふ」ともあるように、この時代には麺類は毒という考え方が存在していた事も確認できる。

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また薬膳では蕎麦は涼寒性食品、新舎友蕎子が蕎麦を微寒と記しているほか諺に“蕎麦食ったら 腹あぶれ”というものもあり、冷たい蕎麦を食べた後に温かくする事が病気予防になるとされていた事が伺える。

俳句の世界における蕎麦湯は歳時記に冬の季語として紹介されている。これは蕎麦切りの茹で湯という副産物ではなく、前述の蕎麦湯の文献上の初出の時代には大変貴重な砂糖と蕎麦粉を溶いた蕎麦がき状のものを指し、和菓子の文脈に近い、似て異なるものであったと考えられる。ただし、こちらの解釈でも体を温めるものという認識があった事は伺える。

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ウナギのかば焼き

徳川家康時代に江戸湾の干拓によって多くの湿地が出来てウナギが住み着いた結果、労働者の食事(雑魚)として串に刺して蕎麦などと同様に屋台による立ち食いの簡単に提供される安価な軽食として食べられていた。

ウナギを割いて骨を取り除き、串を打つという現在につながる調理方法は1700年頃に登場したが、味付けにはまだ味噌や酢を用いていた。

下総国野田(現在の千葉県野田市)と銚子(現在の千葉県銚子市)で造られる関東醤油(濃口醤油)の普及にあわせ、醤油を使った蒲焼も登場した。タレの登場以前からウナギは食されていたが、調理法は塩焼きや味噌焼きであった。

醤油を使った調理法で「醤油の掛け焼き」というものがあったが、その調理法ではウナギから染み出る脂のために醤油が弾かれてしまい、中まで味を染み込ませることができない。

蒲焼の誕生には、醤油・みりん・酒・砂糖などの甘み調味料の普及と同時に、生きたウナギをさばく技術がなければ完成しなかったといわれている。

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■【讃岐うどん】讃岐でのうどん屋の記述が、元禄末(18世紀初頭)に描かれた『金毘羅祭礼図屏風』に現れる。

200軒あまりの建物がひしめく金刀比羅宮門前町の活況を描いたこの屏風には3軒のうどん屋が認められ、いずれも絵馬様イカ型の特徴的な形の招牌(しょうはい、看板のこと)を掲げて営業している。

同時代の浮世草子『好色一代男』(1682年)の挿絵でも、三河国は芋川に開いたうむどん屋(うどん屋)が同じ形の招牌を掲げている。この形状の招牌は、讃岐に限らず麺類を出す店の看板として一般的であった。

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■江戸時代中期頃 五平餅(ごへいもち)は、中部地方の山間部(長野県木曽・伊那地方、岐阜県東濃・飛騨地方、富山県南部、愛知県奥三河地方、静岡県北遠・駿河地方)に伝わる郷土料理。

粒が残る程度に半搗きにした粳米(うるちまい)飯に[1]タレをつけ、串焼きにしたものである。「御幣餅」とも表記する。

五平餅

神道において神に捧げる「御幣」の形をしていることからこの名がついたとするのが一般的である。

実際、「御幣餅」と表記して販売しているところもある。

また五平、あるいは五兵衛という人物(樵であったり猟師であったり、また大工とするものもある)が飯を潰して味噌をつけて焼いて食べたのが始まりとする伝承も各地に形を変えて存在する。

いずれにせよ、江戸時代中期頃に木曽・伊那地方の山に暮らす人々によって作られていたものが起源というのが濃厚である。

米が貴重であった時代、ハレの食べ物として祭りや祝いの場で捧げられ、食べられていた。

■サツマイモの栽培は17世紀前半までには琉球に、宝永2(1705年)頃には薩摩国にも広まり、本州でも享保4年(1719年)旧暦9月12日に京都郊外で酒や餅とともに焼き芋が売られていた、と朝鮮通信使が『海游録』に記している。

 享保20年(1735年)の小石川植物園での種芋栽培の成功をきっかけに関東地方でも大々的に栽培されるようになった。

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■【出石そば(いずしそば)】江戸時代中期の宝永3年(1706年)信濃国上田藩より但馬国出石藩に国替えとなった仙石政明が、蕎麦(信州そば)職人を連れてきたことに始まるとされる。

現在は割り子そばの形態をとっており、この形式となったのは幕末の頃で、屋台で供される際に持ち運びが便利な手塩皿(てしょうざら)に蕎麦を盛って提供したことに始まるとされる。

昭和30年代(1955年-1964年)に「出石皿そば」として現在見られるスタイルが確立された。

店舗では通常一人前5皿で供される。1皿に盛られた蕎麦の量は2〜3口程度であり、1皿単位での追加注文も可能な店が多い。

663highland – 投稿者自身による作品, CC 表示 2.5, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4145694による

蕎麦は実を丸引きしており、色は茶褐色である。徳利に入ったダシと、薬味として刻みネギ・おろし大根・おろしワサビ・トロロ・生鶏卵1個などが出される。

わさびはおろさずに出てきて客が自分でおろすようになっている場合もある。

蕎麦猪口にダシと薬味を好み分入れ蕎麦を浸して食する。以前は出雲割り子そばのように皿に直接ダシと薬味をかけて食していたという。「挽きたて」「打ちたて」「茹がきたて」の“三たて”が伝統的な信条とされている。

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大豆

東アジア原産の大豆がヨーロッパやアメリカに伝わったのは意外にも新しく、ヨーロッパには18世紀、アメリカには19世紀のことである。

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ヨーロッパにダイズの存在を伝えたのはエンゲルベルト・ケンペルだといわれており、彼が長崎から帰国した後、1712年に出版した『廻国奇観』において、ダイズ種子を醬油の原料として紹介した。

ヨーロッパでは1739年にフランスでの試作、アメリカでは1804年にペンシルベニア州での試作が最初の栽培とされている。

■【チョコレートケーキ】カカオは主要原産地の中央アメリカではかつて飲み物として用いられ、ケーキのような食べ物に使われることはなかった。カカオが16世紀にヨーロッパへ紹介された後も、しばらくは飲み物、飲み薬として利用されているだけだった。

記録上、最初のチョコレートケーキが現れるのは、18世紀である。1719年、料理研究で知られる貴族のコンラッド・ハッガーが書き残した料理手帳には、「チョコレートトルテ」のレシピが記録されている。

思わずつくりたくなる 極上のチョコレートレシピ by [NHK出版]
画像は当時のレシピではありません 思わずつくりたくなる 極上のチョコレートレシピ

天ぷらの作り方を示した文献としては、一般に『歌仙の組糸』(1748年、寛延元年)が初出であるとされるほか、『里白精味集』(1746年、延享3年)ともされる。

また、現代の天ぷらの料理法とほぼ同じものが詳細に明記された文献としては1671年(寛文11年)の『料理献立抄』などがある。

この形が出来上がった江戸時代前期には、天ぷらは「天ぷら屋」と呼ぶ屋台において、揚げたての品を串に刺して立ち食いする江戸庶民の食べ物であった。

江戸時代の天ぷら屋台。鍬形蕙斎 「近世職人尽絵巻」(東京国立博物館蔵)
江戸後期と同じ技法と建材で再現された天ぷら屋台(深川江戸資料館) DryPot – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=13290054による

■【蕎麦屋】砂場(すなば)は、大坂(大阪)を起源とする蕎麦屋老舗のひとつ。蕎麦屋の老舗としては、更科・藪とあわせて3系列が並べられることが多い。


名称の由来は、大坂城築城に際しての資材置き場のひとつ「砂場」によるものとされ。

砂場(大坂)の正確な創立年代はわかっておらず諸説ある。

1757年に出版された『大坂新町細見之図澪標』の中に、「津国屋」と「和泉屋」という2軒の麺店が見られる。和泉屋については、1730年に出版された別文献にも、店頭風景が掲載されており、遅くともこの年までに成立している。

この2軒について、場所名で呼ぶことが定着し、「す奈バ」(砂場)の屋号が生まれたものと考えられている。

1799年の『摂津名所図会』の大坂部四下の巻新町傾城郭の項には「砂場いづみや」の図があり、そば切りとうどんの両方を提供しているように見える。


★江戸への進出時期についても明確な記録はないが、1751年に出版された『蕎麦全書』に「薬研堀大和屋大坂砂場そば」の名称が、1781年-1789年に出版された『江戸見物道知辺』に「浅草黒舟町角砂場蕎麦」の名称が、それぞれ見られる。

ただし大坂の砂場との関係は明らかではない。

■【蕎麦屋】藪(やぶ)は、江戸の蕎麦屋の老舗で、「藪」といえば、「更科 (蕎麦屋)」、「砂場 (蕎麦屋)」と並び、蕎麦御三家の一つに数えられている。

藪蕎麦の麺の色は緑色である。

平仮名表記は「やぶ」「やぶそば」であるが、ロゴとして表記する場合、「ぶ」の表記には平仮名の「ぬ」に濁点を付した「ぬ゛」に似た変体仮名「Hentaigana fu.png゛」(漢字「婦」から派生)が用いられることがある。


1735年(享保20年) – 『続江戸砂子温故名跡志 5巻』、菊岡沾涼著、享保20年、に次の記述がある。


「雑司谷蕎麦切 ぞうしがや鬼子母神門前茶屋 同所 藪の蕎麦切」
— 『続江戸砂子温故名跡志 5巻』、菊岡沾涼著、享保20年より抜粋


鬼子母神の門前茶屋と、茶屋町を離れた藪の中にも蕎麦屋が一軒あったことが分かる。藪の蕎麦は御獄という字にあり、いまの雑司谷一丁目付近と思われる、竹藪が繁茂し俚俗「藪の内」と称した。

■1738年、イタリアで結晶化した精製糖が生産され始める。

カップ印 白砂糖1kg

クロケット(仏: croquette。フランス語発音: [krɔkɛt] クロケット、コケットゥ)とは、小さな丸い揚げ物料理である。

円筒形のクロケット


フランスの大事典ではクロケットの初出文献は1740年(元文5年)との記載がある。しかし、イギリスの英語文献にクロケットが登場するのは1706年(宝永3年)。この両者の年代には34年の間があり、クロケットの起源説には謎がある。(参考「おいしいコロッケ大百科」

円筒型のジャガイモのクロケット AndyWeber, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3991817による

菜飯田楽(なめしでんがく)は、米の飯に大根葉を乾燥させ炊き込んだものと味噌田楽を合わせた料理。

きく宗の菜飯田楽


尾形乾山(1663年-1743年)の道中記には、吉田宿の隣にある御油宿(現・豊川市)で菜飯田楽を名物として看板に掲げる店に入ったという記述がある。

食文化研究家である吉川誠次は、「菜飯田楽 きく宗(文政年間創業(1818年~1831年))」の創業以前から渥美半島産大根や三河国産八丁味噌を用いた菜飯田楽がこの地域の名物となっていたのではないかと推測している。

文政年間(1818年-1830年)創業の「菜飯田楽 きく宗」は東海地方屈指の老舗であり、菜飯に大根だけを用いた菜飯田楽を提供している。

鴨南蛮(かもなんばん、かもなんば)は、日本の麺料理。鴨肉とネギが入った熱い汁を掛けた季節蕎麦。

鴨肉ではなく鶏肉を使用してもそう呼ぶ場合がある。またこれは「鶏南蛮」や「かしわ南蛮」とも呼ぶ。単に「南蛮蕎麦」・「南蛮」と呼ぶ場合もあり、この「南蛮」は「ネギ」を表している。

鴨南蛮 Harumi, Tokyoからjetalone – Flickr, CC 表示 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1991951による

醤油と削り節をベースにした熱い汁で食べる「ぶっかけそば」が江戸時代中期に広まった。そこに鴨肉とネギを乗せて鴨南蛮の形にしたのは、日本橋馬喰町にあった「笹屋」とされる。一寸五分ほどのネギを縦に割って炒め、鴨肉を加えて煮たものを乗せたこの鴨南蛮は、当時の好みに合い繁盛したという。

幕末期の風俗に詳しい『守貞謾稿』にも、「鴨肉ト葱ヲ加フ、冬ヲ専トス」として鴨南蛮の紹介がある。

【北海道産蕎麦粉・鴨肉使用】 手打ちそばさくら 鴨せいろセット(生そば3人前・鴨肉3人前210g) 『幻の奈川』と呼ばれる希少な蕎麦粉を使用、職人が丹精込めて時間を掛けて手打ちした蕎麦は絶品。女性自身『全国極ウマ麺』で掲載された逸品。時にはギフトに、時には自分へのご褒美をちょっと贅沢に。 (鴨せいろ 3人前)

■1773年には、ナポリ在住のヴィンチェンツォ・コラード(伊: Vincenzo Corrado)が、著書Il Cuoco Galante(『粋な料理人』)の中でトマトソースの汎用性を賞賛し、トマトソースと組み合わせるものの例として、肉、魚、卵や野菜とともにパスタも挙げている。

■【チョコレートケーキ】1774年、ベルギーのブリュッセルで刊行されたムノン(Menon)著の料理本『ブルジョワの女料理人(La Cuisinière Bourgeoise)』(初版1746年、フランス)の中には、「チョコレートのビスキュイ」が紹介されている。

これは、小麦粉に同量の細かく砕いたチョコレートを混ぜ、メレンゲを加えて膨らませるビスキュイ・ア・ラ・キュイエール類似の焼き菓子である。

ビスキュイ・ア・ラ・キュイエールと同じようにスプーン(キュイエール)で成型した小さなケーキとも、丸いマンケ型を使った大きな切り分けるタイプのケーキとも言われる。

これらは、チョコレートが菓子の材料に使われた最初の例でもある。

■【ピザ】現在「ピッツァ」と呼ばれる料理が誕生したのはイタリアのナポリである。ナポリ第二大学の栄養学教授カルロ・マルゴーニによれば、初めて薄くのばしたパン生地にトマトソースを載せて焼いたピザが作られたのは1760年頃だという。1803年には初めてピッツェリアが創業した。

ピザの定義や語源は曖昧であるが、イタリアにはフォカッチャがあり丸パンに具材を乗せるところから、ピザの原型とされている。

フォカッチャが作られる前にも、エジプトには円盤状のパンに具材を乗せて焼いた物が現ピザの調理法と酷似していることから、原型はエジプトからイタリアに伝来していると言う説もある。

■【ハッシュドビーフ】1788年に発行されたイギリス料理の本に記されたレシピでは、残り物のローストビーフを薄く切ってエシャロットやピクルスと共に煮込む。

■1790年には、ローマ出身の料理人フランチェスコ・レオナルディ(英: Francesco Leonardi (chef))も、著書L’Apicio moderno(『現代のアピキウス』)で、トマトソースパスタとの組み合わせを紹介している。

■【焼き芋】寛政5年(1793年)に本郷四丁目の木戸番が初の焼き芋を木戸番屋で売り出すと、冬のおやつとして急速に人気を集め、それまでの蒸し芋に取って代わるようになった。

 特に各町の木戸横に設けた木戸番屋などで、かまどの上に載せた焙烙に並べて焼いた焼き芋が売られた。

 焼き芋は甘味や香りに加えて「10文も出せば、食べ盛りの書生でも朝食になる」と言われるほど安価なことが大きな魅力であり、低コストな舟運で輸送できる下総国の馬加村(現・幕張)および武蔵野台地の川越藩領が原料のサツマイモの2大供給地となり、江戸に運ばれる荷物の梱包材として使用された俵や縄が調理の燃料として利用されていた。

 焼き芋の人気とともに需要が増加すると、素焼きで割れやすいため大型化の難しい焙烙に代わり、鋳物製の浅い平鍋で焼かれるようになった。

 丸ごと1本の芋を焼いた丸焼きは「〇焼き」と看板に書かれ、また味が栗(九里)に近いとして「八里半」、後に「栗より(四里)うまい」として「十三里」と書く看板が増えたと『宝暦現来集』に記録されている。

 天保3年(1832年)の『江戸繁盛記』には「木戸番屋では早朝から深夜まで焼き芋が売られ、裕福な人も貧しい人も好んで食べるため、一冬で番屋一軒の売上は20~100両にも達する」と書かれている。

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ビュッシュ・ド・ノエル (仏: bûche de Noël) は、クリスマスに作られる木を模したケーキ。ブッシュ・ド・ノエルとも。


フランス語でノエルが「クリスマス」、ビュッシュは「木(丸太)」で「クリスマスの木」の意。その名の通り丸太(または、切り株、木の薪)の形をイメージしている。基本的にクリスマスケーキとして食べられる。

他のケーキ同様に洋菓子店で売られるが、一部出来合いの材料を使うことで、家庭でも比較的簡単に作ることができる。

ビュッシュ・ド・ノエル GPL, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=643558

輪切りにしていない長いままのロールケーキの表面をココアクリーム(ココアで茶色く着色したバタークリーム)で覆い、そこにフォークでひっかくようにして波型の筋をつけて、樹皮をかたどる。さらに枝を模したチョコレートや、雪を模したホイップクリームや粉砂糖でデコレーションして作られる。

なぜ丸太の形なのかについては幾つかの説があるが、クリスマスがキリスト教以前の冬至祭を起源とするのと同様、もともと北欧の古い宗教的慣習「ユール」で使われた丸太を、田舎の風習を守るためにパリのお菓子屋が「ユール・ログ」(「ユールの丸太」)をかたどって作ったもの。

ビュッシュ・ド・ノエル Ziel – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3273761による

もう一つには「キリストの誕生を祝い、幼い救世主を暖めて護るため、暖炉で夜通し薪を燃やした」ことに由来するとも言われる。

オリジナルのレシピは19世紀に登場している(出典不明)。

■【すいとん】すいとんの歴史は長く、室町時代の書物に「水団」の字が見られる。「水飩」ともいう。

資料上のすいとんの調理法は変遷が激しく、今日のような手びねりした小麦粉の形式が出現したのは江戸時代後期のことである。

江戸時代から戦前は、すいとん専門の屋台や料理店が存在しており、当時の庶民の味として親しまれていた。

大正の半ばには一旦かなり減少したが、関東大震災直後には食糧事情の悪化に合わせて焼け野原のいたるところに出現した。

江戸買物独案内(えどかいものひとりあんない)とは、1824年(文政7年)に大坂で出版された江戸市内の買い物や飲食関連の商店約2600店を紹介するガイドブックである。

プロデューサーは中川五郎左衛門(中川芳山堂)で、上方の版元である。江戸の各店舗から出稿料を取り、出稿料を払った分だけスペースを取って載せた。そのため、有名店であっても出稿料を払わなかった店舗は掲載されていない。

リンツ&シュプルングリー(ドイツ語: Chocoladefabriken Lindt & Sprüngli AG, ショコラーデファブリーケン・リント・ウント・シュプリュングリー、通称リンツ)は、スイス・チューリッヒ州キルヒベルクに本社を置き、チョコレートを中心とした菓子の製造・販売や、関連店舗の運営を行う企業。子会社を含め多くのチョコレートブランドを保有する。

1845年、ダーフィト・シュプルングリー=シュヴァルツ (David Sprüngli-Schwarz) と息子のルドルフ・シュプルングリー=アマン (Rudolf Sprüngli-Ammann) が、チューリッヒ旧市街の小さな菓子店を購入。

1859年に中心街のパラデプラッツに2号店を開業、1870年に大規模なチョコレート工場がチューリッヒに設立された。

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■【卓袱蕎麦(しっぽくそば)】
かけ蕎麦で、「しっぽくうどん」の麺を蕎麦に換えたもの。寛延年間(1748年から1751年)の江戸で、しっぽくうどんの影響を受けて成立した種もの蕎麦で、おかめ蕎麦の原型とも言われる。

古典落語『時そば』の中にも「しっぽく」が出てくるが、現在の関東地方の蕎麦屋には無いことが多い。地域によっては数種類の煮込んだ野菜を具とするものを指す場合もある。

しっぽくそば

冨美家のホームページより  https://www.kyoto-fumiya.co.jp/shopdetail/000000000016/

■【氷見うどん】作り方は稲庭うどんと同じで竹によりながらかける手縫いで、油を塗らない。

ルーツは輪島のそうめんで、1751年(宝暦元年)に「高岡屋」が輪島から技法を取り入れて作り始めたとされる。

氷見うどんの一例。

元々は「糸うどん」との名称で、他の手延べうどんとは異なり、最後まで手で撚りをかける特徴があり、高岡屋においては『一糸伝承』の名で現在も販売されている。

このうどんは加賀藩御用達のうどんであり、商品名の通り製法は家伝のものであった。

なお、かつて高岡屋では「手打」の表記を採用していたが、これは周辺に類似する製法がなく、市販のような機械製麺ではないとの意味であり、切って麺にしているわけではない。

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マヨネーズ

18世紀半ばに小説『三銃士』でも知られるフランス宰相リシュリューの甥の息子ルイ・フランソワ・アルマン・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシが、七年戦争の際に名付けたとされている。

フランスメイド欧州スタイルのマヨネーズ5l
フランスメイド欧州スタイルのマヨネーズ5l

メノルカ島マオン(Mahón)が起源とする伝承によると、18世紀中頃、当時イギリスに占領されていたミノルカ島を、リシュリュー公率いるフランス軍が攻撃し(1756年、ミノルカ島の海戦)、サン=フェリペ要塞に立籠もるイギリス・スペイン連合軍を包囲した。

布陣を終えたリシュリュー公は、当地の飯屋に食事を求めたが、そこで出された、卵と油とレモン果汁を使ったドロっとしたソースをかけた肉料理を激賞した公が、そのソースをパリに伝えた。

当時の名称は salsa de Mahón (マオンのソース)であって、マヨネーズの名で料理に登場するのは、19世紀中ごろである。

■18世紀初めまでは、スパゲッティは民衆の食べもので、チーズだけをかけて手でつかみ、頭上にかざして下から食べるものであった。

1770年代、庶民の風俗を深く愛したナポリ国王フェルディナンド2世が宮廷で毎日スパゲッティを供することを命じ、この時にスパゲッティを品良く食べるため、からみやすいように先が4本のフォークが考案されたと言われる。

■『甲府買物独案内』(こうふかいものひとりあんない)は、江戸時代後期に成立した甲斐国の甲府城下町に関するタウンガイド。

甲府城下町における諸職種・商種が一覧されており、表題には「甲府繁盛之図」と称された城下町の遠景を写実した図版が掲載され、甲府城下町の賑わいを示す資料として注目されている。

刊行は嘉永7年(1854年)で、明治5年(1872年)には増補改訂版が出版されている。

編集・出版は甲府在住の書肆である伊勢屋宗助。別称は甲斐市中買物独案内。

コールスローの歴史は長く、おそらくは古代ローマの時代から食べられてきたと考えられている。しかし近代的なコールスローの人気が高まったのは18世紀になり瓶詰めのマヨネーズが発明されてからであった。

英語の「コールスロー (coleslaw)」という名前は18世紀ごろにオランダ語の “koolsalade”(キャベツサラダ)を短縮した「コールスラ (koolsla)」から生まれたものだが、1860年ごろまでのアメリカ合衆国とイギリスでは誤って “cold slaw”(冷たいスロー)と呼ばれており、ホットスローという温サラダが作られることもあった。

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英語の “cole” には本来ラテン語から派生したキャベツの意味があり、これはまたオランダ語 kool の語源ともなっている。

その後 “cole” の意味が復活して英語でも coleslaw と呼ばれるようになった。今ではこの “slaw” の部分が独立してひとつの単語のように扱われることも多く、キャベツ以外の野菜を用いた「コール」スローでない別のスロー(ブロッコリースローなど)も知られている。

大福もち 江戸時代初期に生まれた鶉餅(うずらもち)が明和8年(1771年)に江戸・小石川の未亡人により小形化され、餡に砂糖を加えたものが始まりとされる。腹持ちがよいことから腹太餅(はらぶともち)、大腹餅(だいふくもち)の名で大いに広まった。

■【花巻蕎麦】かけ蕎麦で、海苔を具とするもの。花巻蕎麦が誕生したのは江戸・安永年間 (1772-81) の頃とされる。海苔を「磯の花」として例えた事から名付けられた。『時そば』で「しっぽく」と並んで登場する。

■『豆腐百珍』(とうふひゃくちん)は、天明2年(1782年)5月に出版された料理本。100種の豆腐料理の調理方法を解説している。

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■1789年(寛政元年) – 信州出身の八代目堀井清右衛門(現・「更科堀井」初代布屋太兵衛)は、「信州更科蕎麦所 布屋太兵衛」を創業した。

堀井家は、信州高遠の保科松平家の御用布屋で、信州特産の晒布を背負って保科家の江戸屋敷に出入していた。

初代は堀井清助(布屋太兵衛)といい、江戸では麻布1番通り竹屋町にあった保科家屋敷内の長屋に滞在を許されていた。

堀井清助は、1693年(元禄6年)の秋ここで世を去った。

八代目堀井清右衛門のとき、領主保科兵部少輔から、そば打ちがうまいのを見込まれ、布屋よりも蕎麦屋の方が良いのではと勧められ、麻布永坂町の三田稲荷(高稲荷)下に「信州更科蕎麦所 布屋太兵衛」の看板を掲げた。

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■【マカロニ】アメリカでは、1789年に第3代大統領トーマス・ジェファーソンがフランスから帰国した時にマカロニを作る機械を持ち帰ったとされている。

またジェファーソンは自邸モンティチェロで茹でたマカロニをおろしたチーズとバターで和えてオーブンで焼いた、今日の「マカロニ・アンド・チーズ」とよく似た料理を供させたことが知られている。

マカロニ・アンド・チーズの歴史は古く、アメリカ合衆国建国以前のイギリスではよく似た料理が「マカロニプディング」という名で知られていた。

今日ではマカロニ・アンド・チーズは家庭で人気のあるアメリカ料理の1つとなっており、乾燥マカロニとレトルトパック入りソースと粉チーズをセットにした商品や冷凍食品としても製造及び販売されている。

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トマトケチャップ (前略)イギリスのケチャップ(トマトは使用していない)がアメリカにも伝わった。当時ようやくトマトが食用とされ始めるようになっていたが、アメリカで生産されるトマトは酸味が強すぎるなど品質が優れず評判が悪かった。

そこで、この売れ残ったトマトを使ったケチャップが考案された。

18~19世紀にアメリカに渡ったヨーロッパ人によって考案されたとされる。

当初は家庭で手作りされていた。

最古のレシピは1795年の “Receipt Book of Sally Bella Dunlop” とされるが、切ったトマトに塩を振り、2・3日置いてからしみ出した果汁を香辛料と煮詰めたもので、酢も砂糖も加えていない(現在とは違い、調理中に隠し味として使ったと考えられている)。

その後、19世紀初頭になってトマトを砂糖で甘くし、酢で酸味を加え、クローブ・ナツメグ・ジンジャーといったスパイスで味付けした、いわゆる現代の「ケチャップ」が誕生した。

このトマトベースのケチャップの考案者は、フィラデルフィアの医師であり科学者でもあったジェームス・ミーズだったとされ、そのレシピが1812年の「Archives of Useful Knowledge, vol. 2」という本に記されている。

■日本にチョコレートが伝わったのは江戸時代である。

寛政9年(1797年)3月晦日に、長崎の寄合町の大和路という遊女が、オランダ人から貰った贈り物の記録中に「しょくらあと六つ」という記載がある。

これが、日本国内でチョコレートの事を記した最初の史料とされる。

他にも、京都の蘭学者の廣川獬が、長崎に6年ほど遊学したときの事をまとめた「長崎聞見録(1800年、寛永12年刊行)」では、「しょくらとを」の記録がある。

「しょくらとを」は、「紅毛人の持渡る腎薬」と記されており、溶かして飲む薬として扱われていたようである。

ただ、幕府が正式にチョコレートを輸入したという記録はなく、一部オランダ人が私的に出島に持ち込み、彼らと付き合いのあった人々だけが、チョコレートを知っていたようである

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■1811年に、ロシア帝国の化学者K.S.キルヒホフが、ジャガイモのデンプンからシロップを抽出する方法を発見した。やがてシロップ製造は工業生産化し、アメリカでは1840年代まではジャガイモを原料として、1860年代以降はトウモロコシを原料として生産された。

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握り寿司 「妖術と いう身で握る 鮓の飯」『柳多留』(文政12年〈1829年〉、作句は1827年)が、握り寿司の文献的初出である。

握り寿司を創案したのは「與兵衛鮓」華屋與兵衛とも、「松の鮨(通称、本来の屋号はいさご鮨)」堺屋松五郎とも言われる。

■【チョコレートケーキ】1832年にオーストリアのウィーンで作られたザッハトルテがある。

ザッハトルテは翌日にはウィーン中の評判になるほどの好評だったという。今でもザッハトルテは「ケーキの王様」と称えられる。

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ウースターソース

1835年頃、当地のマーカス・サンズ卿が、イギリスの植民地であったインドからインド・ソースの作り方を持ち帰り、薬剤師であった二人の人物ジョン・W・リーとウィリアム・ペリンズに依頼して作らせたことがきっかけで商品化され、後に世界初のソースメーカーであるリーペリン社(Lea & Perrins)が設立された。

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トマトパスタを組みあわせた料理のレシピが文献に登場するのは、1839年にナポリのヴォンヴィチーノ公爵であるイッポリート・カヴァルカンティ(伊: Ippolito Cavalcanti)が著した Cucina Teorico-Practica(『料理の理論と実践』)に記載された「ヴェルミチェッリのトマト添え」が最初だとされる。

担担麺また担々麵(たんたんめん、中国語: ダンダンミェン、成都方言: ダンダルミェン 拼音: dàndār miàn)は、中国四川省発祥の辛みを利かせた挽肉やザーサイの細切りなどをのせた麺料理である。日本の麺料理の一種としても定着しているが、各地で大きくアレンジされ、風味などが異なっている。

成都の担担麺

1841年ごろ、四川省自貢の陳包包というあだ名の男性が考案して、成都で売り歩いたと言われる。

もともとは、天秤棒の片側に豆炭を使う七輪と鍋を、もう一方に麺、調味料、食器、洗い桶などを吊して、担いで売り歩いた。鍋はまん中に区切りがあり、片方には具を、片方には湯を入れるようにしていた。温かく、辛い麺を出したのが受けて流行ったという。

ジャガイモ飢饉

1845年から1849年の4年間にわたって、ヨーロッパでジャガイモの疫病が大発生し、壊滅的な被害を受けた。ジャガイモを主食としていた被支配層のアイルランド人の間からは、ジャガイモ飢饉で100万人以上ともいわれる多数の餓死者を出した。

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また、イングランド、北アメリカ、オーストラリア大陸へ、計200万人以上が移住したといわれる。

アメリカ合衆国に渡ったアイルランド人移民は、アメリカ社会で大きなグループを形成し、経済界や特に政治の世界で大きな影響力を持つようになった。この時代のアメリカ合衆国への移民の中には、ケネディ家の先祖も含まれていた。

■1847年にイギリスのジョセフ・フライが固形チョコレートを発明し、1875年にはスイスの薬剤師であるアンリ・ネスレとショコラティエのダニエル・ペーターがミルクチョコレートを開発した。

さらに1879年にはスイスのロドルフ・リンツによりコンチェが発明され、ざらざらしていた固形チョコレートが滑らかな口当たりのものへと変化した。上記の発明は「チョコレートの4大技術革命」とも呼ばれ、これらの発明によって固形チョコレートはココアに代わってカカオの利用法のメインとなっていった。

ドーナツの原型は、オランダの小麦粉・砂糖・卵で作った生地を酵母で発酵させ、ラードで揚げたボール状のオリーボーレンという菓子だとされており、オランダ人はこれを「オリークック(Olykoek)」と呼んでいた。

後にイギリスで迫害を受けた清教徒が1607年 – 1620年のオランダ滞在中にオリークックの作り方を覚え、ピルグリム・ファーザーズの植民と共にドーナツの原型がニューイングランドに伝わった。その後、オランダ移民によって再度ヨーロッパからアメリカに持ち込まれ、オランダ領ニューアムステルダムへも伝わったとされる。

リングドーナツの形に至った経緯は様々な説があり、判然としないが、19世紀中頃あたりから見られるようになったという。

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ジャーマンケーキ (German chocolate cake、もともとはGerman’s chocolate cake) は、生クリームを挟んだ2層のチョコスポンジケーキの上にココナッツフィリングを塗って作られたケーキ。チョコレートケーキの一種。

ジャーマンケーキ Tracy Hunter from Kabul, Afghanistan – German Chocolate CakeUploaded by Beria, CC 表示 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2206618による

★1852年、アメリカのベーカーズチョコレート社(Baker’s Chocolate Company)のサミュエル・ジャーマン(Samuel German)が開発したケーキ用チョコレート “Baker’s German’s Sweet Chocolate” に由来する。

それから100年以上を経た1957年になって、同チョコレートを用いるこのケーキのレシピが一人の主婦によりテキサス州ダラスの新聞に投稿され、当時ベーカーズの商標を所有していたゼネラルフーヅ社がアメリカ各地に広めたため、ジャーマン考案のチョコレートの知名度をも一気に押し上げることになった。

それゆえ「ジャーマンケーキ」の名称は「ジャーマン氏のチョコレートを用いたケーキ」という意味であり、「ドイツ風(チョコレート)ケーキ」というのは誤りである。

甘納豆 

由来には諸説有る。関西に弟子の多い岡女堂では安政年間(1855年から1860年)に甘納豆の老舗である岡女堂の初代である大谷彦平が京都本能寺門前にてぜんざいを火にかけすぎたことから偶然に甘納豆を発見し、大徳寺納豆から甘納豆と名付け、1895年(明治28年)第4回内国勧業博覧会の京都開催時に「ぼうだいの甘納豆」として出品され、宮内省御用達となったとされている。

大阪天王寺の甘納豆専門店「青山甘納豆」では戦前の広告に甘納豆の文字があり、関西では戦前から広く甘納豆の名が親しまれていたことが確認できる。

関東では安政年間に榮太樓の3代目である細田安兵衛が菓子の原料として向かなかった大角豆と榮太樓の蜜飴を創意工夫して安くて美味しい菓子として苦労して初案し、当初は淡雪と名付けられたが、田中謨某という文士が淡雪はよろしくない。浜名納豆に似ているゆえに甘名納糖と名づけたら、との助言を入れて命名されたとされる。

大言海には甘名納糖の発明者として記載されている。なお、甘名納糖は1877年(明治10年)の内国勧業博覧会にて優等賞を得ている。

また、榮太樓ではその後も開発を継続し、1887年(明治20年)に白隠元を原料とした甘納豆を創製して村時雨と名付け、昭和初期には栗を料とした甘納豆を創製し、栗納糖と名付けた。

フィッシュ・アンド・チップス(英語: fish-and-chips)は、イギリスを代表する料理の一つ。タラなどの白身魚のフライに、棒状のポテトフライを添えたもの。イギリスではファーストフードとして親しまれ、長い歴史がある。

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19世紀中ごろのイギリスでは、既に魚のフライとポテト・チップスが店舗で販売されていた。

魚のフライとチップスを提供する店は「フィッシュ・アンド・チップス」と呼ばれ、そこで出される料理そのものも店と同じ名前で呼ばれた。

記録に残る限りでは、1860年にロンドンのジョセフ・マリンが開いたフィッシュ・アンド・チップスが最古のものである。

ホットドッグ 熱いソーセージをパンに挟んで供するという工夫はドイツからやってきた移民達によって伝えられたと考えられている。ソーセージを掴んで食べるための手袋を貸していた売り子が、それを持ち去る客に困惑し、代案としてパンに挟むことを思いついたという伝説もある。

また、1860年頃にアメリカに移住したドイツ人が鍋で温めてソーセージを売り歩いていた時、手でそのまま持つと熱いのでパンに挟んで提供したのがホットドッグの始まりという話もある。

ちなみに、ホットドッグに挟んであるソーセージは元々はドイツのフランクフルトで生まれたフランクフルターソーセージだった。当時のホットドッグの呼び名は「フランクフルター」だった。

このスタイルがアメリカ合衆国において広まるきっかけを作った人物はコニーアイランドで屋台を開いていたチャールズ・フェルトマン(フェルトマンの使用人のネイサンが始めたホットドッグスタンドがネイサンズである)や、ポロ・グラウンズの売り子であったハリー・スチーブンスなど諸説あるが、定かではない。

いずれにせよ19世紀後半のニューヨークではこうした形の食べ物が認知され、様々な場所で販売されていたことは間違いのないところである。

ちなみに、名付け親は、漫画家のタッド・ドーガンだという説が有力である。

この説では、球場で売っているダックスフントソーセージの様子を新聞漫画にしたいと考えたが、ダックスフントのつづりが分からなかったためDogと書いた。そして、HOT DOGという表記で新聞漫画に描かれた。この事がきっかけで以後はホットドッグと呼ばれるようになったとされる。ただし、この漫画はまだ見つかっていない。

牛丼の源流に該当する料理は牛鍋であり、1862年(文久2年)横浜入船町の居酒屋「伊勢熊」が店の半分を仕切り、日本初の牛鍋屋を開業したとされる。

■【おかめ蕎麦】かけ蕎麦で、蒲鉾や椎茸、伊達巻き、麩など多種類の具材を載せたもの。傍目八目から五目より具が多い意味で、また、おかめの顔を模した具材の配置をするからとも言われている。

幕末に江戸の下谷七軒町に存在した太田庵が発祥で、松茸、湯葉、蒲鉾、椎茸、ミツバがおかめの顔に見立てて配置されている。現在では松茸や湯葉は別の食材に置き換えられることが多い。

■【たらいうどん】釜揚げにしたうどんを、茹で汁と一緒にたらいにうつし、つけ汁につけて食べる。

江戸末期、宮川内谷川周辺にて、きこりが河原に作ったかまどでうどんを茹で、川魚で出汁を取ったつけ汁で食べていたのが起源とされる。

本来、たらいうどんには、じんぞく(カワヨシノボリの地方名)で取った出汁をつけ汁に用いる。

だが、近年はじんぞくの漁獲量の減少などの理由により、じんぞくを使う飲食店は減り、じんぞく以外の出汁を用いたものが主流となっている。

★1931年(昭和6年)、御所村を訪れた当時の徳島県知事の土居通次が、飯盆(はんぼう)に入ったうどんを振る舞われた際、その見た目に対し「たらいの様な器に入ったうどんを食べてうまかった」と感想を述べたことが名の由来となったとされる。

後に、その日が11月7日であると判断したことから、11月7日を「御所のたらいうどんの日」と制定した。

■日本人とチョコレートとココア

日本が本格的にチョコレートの事を知ったのは、幕末の頃である。1858年にヨーロッパへ派遣された文久遣欧使節がチョコレートの工場を見学している。

他、幕府の命によりフランスに留学していた徳川昭武は、慶應4年(1868年)8月3日、「朝8時、ココアを喫んだ後、海軍工廠を訪ねる」と日記に記しており、これが記録に残る限り、日本人が初めてココアを飲んだ史料である。

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■【きつねうどん】諸説ある。

●江戸時代に大阪で作られたという説。
●明治10年代に大阪で誕生したという説。
●1893年(明治26年)創業の大阪市船場のうどん屋「松葉家」が油揚げをのせたうどんを考案したという説。きつねうどんをメニューとしており、「大阪きつねうどん」の石碑が建てられている。
●江戸で油揚げを種にした蕎麦があり、文献によれば大坂よりも江戸の方が古いとする説。
★『衣食住語源辞典』(東京堂出版、1996年)では、きつねうどんが先行し後にきつねそばが誕生したものと解説されている。

★一般的に「きつねそば」と呼ばれている物を、大阪では「たぬき」と称する。

大阪を中心とした近畿地方では、醤油と砂糖で甘辛く煮た薄揚げを乗せたうどん料理を「きつね」、そば料理を「たぬき」と呼ぶことが一般的であり、「きつねそば」や「たぬきうどん」というメニューは通常存在しない。

近畿において、一部に前述の京都の様に、同じ名称でも出される物が異なることがある。

けつねなどと訛って発音する者もいるが、これは親愛をこめた呼び方といわれ、また、多くの場合は軽いジョークの様なノリで、わざとそう呼んで注文している場合であるともいわれる。

大阪でも「しのだ」と呼称されることがある。

■【蕎麦屋】1869年(明治2年) 麻布永坂更科は、神田錦町に初代布屋丈太郎「神田錦町分店(現・神田錦町更科)」を開店した。

創業以来五代目に至るまで、一軒も支店を出していなかった。初代布屋丈太郎は、麻布永坂更科の六代目松之助の妹堀井かねとは従兄妹同士の間柄で、丈太郎が堀井かねの婿養子になる形で結婚、分店として出店、屋号は布屋丈太郎であった。

一門の古いしきたりで、暖簾分けには分店と支店のふた通りがあった。分店と名乗れるのは本家の子どもが新たに出した店の場合に限られた。

Kanda Nishikicho Sarashina1.JPG
神田錦町更科
(2016年3月1日撮影)江戸村のとくぞう (Edomura no Tokuzo) – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=47258390による

■製品としてのマーガリンは、19世紀末に発明された。

1869年にナポレオン3世が軍用と民生用のためにバターの安価な代用品を募集したところ、フランス人のイポリット・メージュ=ムーリエ(フランス語版)が牛脂に牛乳などを加え硬化したものを考案。

これは、オレオマーガリン (oleomargarine)という名前がつけられ、後に省略してマーガリンと呼ばれるようになった。

マーガリン パン屋さんのおいしいマーガリン 200g

ムーリエの考案したマーガリンは公に採用され、その後1871年にオランダのアントニウス・ヨハネス・ユルゲンスが特許権を買収。ユルゲンスはサミュエル・ファン・デン・ベルフと共にマーガリン・ユニを創業し、これは現在のユニリーバに繋がっていく。

■日本へのシチューの伝来がいつかについて明確な記述はないが、すでに1871年(明治4年)、東京の洋食店「南海亭」のちらしに、「シチウ(牛・鶏うまに)」との品書きが見出されている。

1872年の仮名垣魯文『西洋料理通』においても、牛肉や豚肉、トマトなどを用いたシチューが紹介されている。

■【トンカツ】1872年(明治5年) – 仮名垣魯文著『西洋料理通』に「ホールコットレット」として紹介されたものがルーツと考えられる。

■【マカロニ】日本には明治時代までに紹介されており、1872年に出版された日本で最初の西洋料理解説書『西洋料理指南』は竹管の如き「温純」(饂飩)として長いマッケローニを紹介している。

カレーライスの調理法を初めて記載したのは、1872年(明治5年)に出版された敬学堂主人『西洋料理指南』である。

食材として「ネギ・ショウガ・ニンニク・バター・エビ・タイ・カキ・鶏・アカガエル・小麦粉・カレー粉」を挙げている。同書はインドのチャツネも掲載しているが、カレーとは結び付けられていない。また、同年に出版された仮名垣魯文『西洋料理通』では、食材として「牛肉・鶏肉・ネギ・リンゴ・小麦粉・ユズ・カレー粉」を挙げている。

小菅桂子は、材料に蛙肉が入っているところから、フランス料理の要素が取り入れられた可能性を指摘している。

しかし蛙肉を使ったレシピはあまり普及せず、ネギ(長ネギ)も大正時代にはほぼタマネギに置き替わった。

現在、カレーの具として普及しているジャガイモ・ニンジン・タマネギは、明治のはじめにはまだ珍しい「西洋野菜」であったが、開拓地の北海道を中心に徐々に生産が広がった。

国産の安価なカレー粉が登場したこともあいまって、大正時代の頃に現在の日本のカレーライスの原型が完成したと考えられる。

1905年(明治38年)、大阪・瓦町の薬種問屋の二代目今村弥兵衛が、国産初のカレー粉「蜂カレー」を発売した。

この会社は現在もハチ食品としてカレーの製造販売を行っており、日本最古のカレーメーカーである。

ハチ食品 蜂カレー カレールー中辛180g×2個

あんパンは1874年(明治7年)に、木村屋(現・木村屋總本店)創業者であり茨城県出身の元士族・木村安兵衛とその次男の木村英三郎によって考案された。

胡麻、芥子などと並んで表面のアクセントに用いられることの多い桜の花の塩漬けが初めて用いられたのは翌1875年(明治8年)4月4日のこと。

花見のため向島の水戸藩下屋敷へ行幸した明治天皇に山岡鉄舟が献上し、宮内省御用達となって以来である。それ以降、4月4日は「あんぱんの日」となっている。

御用達となったことにより、あんパンと共に木村屋の全国的な知名度も向上し、1897年(明治30年)前後には全国的にあんパンが流行。

木村屋では1日10万個以上売れ、長蛇の列で30分以上待たさせることもあったという

あんぱん

■新潟県新潟市のホテルイタリア軒は、日本初のスパゲッティミートソースの提供者とされることがあるが、明治14年(1881年)の開店ののちいつ発売されたかは明らかではない。

東京・銀座の「煉瓦亭」のオーナーは、遅くとも大正時代にはメニューにこれを書き加えていることを明かしている。

キユーピー あえるパスタソース ミートソース フォン・ド・ヴォー仕立て (80g×2)×6個

■【京都のにしんそば】現在、京都市四条大橋近くの南座にある「松葉」が元祖である。

1861年に創業の芝居茶屋でもともと四条通を隔てた北座にあったが、1882年(明治15年)に二代目の松野与三吉がにしんそばを発案し、南座の一角に場所を移して、屋号を松葉とした。松葉は、他店では少ない冷やしにしんそば、冷にしんおろしそば、にしん丼も提供している。

京都府京都市松葉のにしんそば

もともと北海道から輸送されたニシンを使用した名物蕎麦として知られる。山に囲まれた京都市は、乾燥させた保存食を戻して使う技術も進歩し、棒鱈を戻した芋棒もそのようにして出来た料理のひとつである。

現在、市内および近隣の市町のうどん店、蕎麦店の多くで提供されている。また、鰊の甘露煮は食品店でも売られており、京都市民は年越し蕎麦としてにしんそばを食べることも多い。

【手打ちそばさくら にしんそば 幻の奈川北海道そば粉使用 極太ちぢれ麺田舎そば 生そば4人前 タレ付き】 日本テレビ『月曜から夜ふかし』で紹介された『幻の奈川』と呼ばれる希少な蕎麦粉を使用。幻の味、幻のそばとも呼ばれおり、豊かな香ばしい風味としっかりとした濃い口そばつゆに、まろやかな甘みあるニシンの出汁がまじわった相性抜群のニシンそばセットです。時にはギフトに、時には自分へのご褒美をちょっと贅沢に。 (にしんそばセット 4人前)

■【マカロニ】日本では1883年(明治16年)、フランス人宣教師のマルク・マリー・ド・ロが長崎市に日本初の工場を作り、製造を始めている。

このマカロニ工場(旧出津救助院)は、2003年(平成15年)12月25日に、国指定の重要文化財に指定されている。

■【親子丼】確認できる最古の文献資料としては、1884年(明治17年)に神戸元町の「江戸幸」が出した新聞広告に「親子上丼」「親子並丼」「親子中丼」の名が見られる。

グリコ DONBURI亭 親子丼 210g×10個

■日本にウスターソース類が登場したのは、19世紀末の明治時代である。現存する最古のソースメーカーである神戸の阪神ソースは、創業者である安井敬七郎が1885年に業務用として開発販売(一般ルートによる発売は1896年より)したソースを日本最初のものであるとしている。

阪神ソース 特別生産 プレミアムソースギフトセット(敬七郎ソース/SUNRISE SAUCE in1984) 明治18年創業 伝統の技術 厳選素材 こだわりの味 オリジナルギフトBOX付き (200ml×2本)

また、ヤマサ醤油の7代目濱口儀兵衛も米国遊学時代にソース製造に着目し、その遺志を継いだ高島小金治と8代目儀兵衛が1885年(明治18年)に「ミカドソース」を発売、「新味醤油」として商標登録したが、当時の日本人の口には合わず1年ほどで製造は中止されたという。

■日本最古の駅弁がどこの駅で発売されたのかについては諸説ある。

1885年(明治18年)7月16日に日本鉄道の嘱託を受けた旅館「白木屋」がこの日開業した日本鉄道宇都宮駅で握り飯2個とたくあんを竹の皮に包んで販売した例が、最初とされる。

駅弁の元祖は「おにぎり」だった! | おにぎりJapan – 一般社団法人おにぎり協会

そのため、宇都宮説による駅弁発売日である7月16日は「駅弁記念日」となっており、数多くの文献やウェブサイトが駅弁記念日を紹介する際に宇都宮説を紹介している。

起源についてはこの他に以下の説がある。

1877年(明治10年)頃の梅田駅(現大阪駅)説。
1877年(明治10年)頃の神戸駅説。
1880年(明治13年)の銭函駅説。
1883年(明治16年)7月に熊谷駅で寿司とパンを売り出したのが始まりという説。
1883年(明治16年)の上野駅説。
1884年(明治17年)の敦賀駅説。
1884年(明治17年)に高崎駅説。これは高崎弁当が自説として1884年(明治17年)に高崎駅でおにぎり弁当を発売したと述べているものであるが、一般的には高崎弁当の販売開始は信越線開通の横川駅での駅弁販売開始に続く1886年(明治19年)3月だったと言われている。

現在のような折詰に入った駅弁は、1890年(明治23年)に姫路駅でまねき食品が発売したものが最初との説がある。

芥川製菓(1886年(明治19年)~)

1896年 – 日本初のドロップ製造開始
1914年 – チョコレートの製造開始

日本で初めてドロップを製造し、日本で3番目(1番目は風月堂、2番目は森永商店=現在の森永製菓)にチョコレートの製造を始めた企業である。

現在では業務用チョコレートの製造・卸売が主な事業となっている。そのため、小売りはされておらず、製造されたそのほとんどはOEM商品が占めており、通常は全国の著名なホテルなどの高級ブランドや、アミューズメント機械用、池袋ショッピングパークにある直営店やネットによる通信販売でしか手に入れることは出来ない。

【製菓用】 芥川製菓 E-9 モカビーンズ 500g×2 1kg
芥川製菓 おみくじ神社ジャンボ 193g × 2箱

■1887年 ドボシュトルタ(ハンガリー語:dobostorta [ˈdoboʃˌtortɒ]、ドイツ語:Dobostorte、英語:Dobos Torte、Dobosh)はハンガリー起源のトルテ。

ドボシュ・トルタとも。日本ではドイツ語風にドボシュ・トルテと言う表記も見られる。ドボストルテは誤読。

ドボシュトルタ

5層~7層からなる薄いスポンジケーキの層の間にモカ・チョコレートクリームをはさみ、一番上のスポンジケーキをカラメルで覆って仕上げる。ドボシュトルタ生みの親のドボシュ・C・ヨージェフ(Dobos C. József [ˈdoboʃˌʦe̝ːˈjoːʒɛf]、ブダペシュトのグルメフード店の経営者および料理研究家)に因んで名付けられた。

ジェルボーのドボシュトルタ Savannah Grandfather – https://www.flickr.com/photos/savannahgrandfather/364949591/sizes/o/, CC 表示 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6141167による

ドボシュは1887年にドボシュトルタを創造し、包装を工夫して国内外に発送した。1896年の万国博覧会にはドボシュパビリオンが造営され、作りたてのドボシュトルタを来場者に供した。

ドボシュトルタのあまりの人気から粗悪な偽物が出回るようになったため、ドボシュは1906年にドボシュトルタのレシピを公にし、ブダペシュトの菓子職人とメーゼシュカラーチ(mézeskalács [ˈme̝ːzɛʃˌkɒlɑ̈ːʧ]、ジンジャーブレッドの一種)職人のギルドに寄付した。1962年には、ハンガリーの料理人と菓子職人の組合がドボシュトルタの生誕75周年記念式典を催し、菓子職人達が直径6フィート(約1.8m)のドボシュトルタと共にブダペシュトの通りをパレードした。

ドボシュトルタはオーストリア=ハンガリー二重君主国の君主、ハンガリー国王フェレンツ・ヨージェフ1世兼オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の好物でもあった。

ブダペシュトでは、老舗のパティスリー、カフェ・ジェルボー (en)(Gerbeaud) [ˈʒerboː] でも食べることができる。また、最近では日本でもジェルボー東京本店でドボシュトルタは提供されている。

ブラウニー(英語: Brownie)は、平たく正方形に焼いた濃厚なチョコレートケーキである。

目の詰まったチョコレートケーキからバー状に切り出したりもする。

チョコレートの濃厚さによってファッジ(やわらかいキャンディ)状であったりクッキーに近いケーキ状であったり、また、ナッツ・クリームチーズ・チョコチップなどを混ぜたり、砂糖がけをするなど様々な形態がある。

ブラウン・シュガーを材料とし、チョコレートを使用しないものは「ブロンディ」と呼ばれる。

★ブラウニーが初めて公に登場したのは、1893年に開催されたシカゴ万国博覧会においてであった。

シカゴにあったホテルであるパーマーハウスのあるシェフが、「万博に参加する女性のために、ケーキひと切れよりも小さくて、お弁当箱から気軽に出して食べられるようなデザートを作ってほしい」というホテル創業者の妻バーサ・パーマーの要求に応えて、このお菓子を考案したとされる。

この時のブラウニーの表面にはクルミがトッピングされ、その上からアプリコットのグレイズが掛けられている。今でもパーマーハウスで当時のレシピそのままに作り続けられている。

ブラウニーの名が初めて文献に登場するのは、1896年ボストンの料理学校の教科書である。これは糖蜜のケーキを小さな金型で焼いたものであったという。

今日のようなブラウニーのレシピの中で最初のものは、アメリカの女性料理家ファニー・メリット・ファーマーが著した1906年版『ボストン・クッキングスクール・クックブック』である。この初期のレシピによって、ブラウニーは比較的甘口な、よりケーキらしいものへとアレンジされた。

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ミルクチョコレート ブラウニーミックス522g Milk Chocolate Brownie MIX18.4OZ ×2

■【コロッケ】1895年(明治28年)の女性誌『女鑑』には、クロケット(「仏蘭西コロツケ」と表現)をジャガイモを使ったコロッケと対比して、それぞれはもはや「別の料理」と書かれている。

レンジで簡単 むかしのコロッケ プレーン 25個セット(5袋×5個入り)《*冷凍便》

■【ちゃんぽん】【皿うどん】1899年(明治32年)に四海樓が操業。当時の清国福建省から来日した陳平順が長崎市広馬場(籠町)にて現在の名で中華料理店兼旅館として創業した。

店名である四海樓は、世界・天下を表す「四海」より、「世界中が平和であってほしい」という願いから命名されたとされる。

ちゃんぽんは、陳が身元引受をしていた清からの留学生らの食生活の悪さを見かねて、安くボリュームと栄養のある食事を取らせようと考案したもので、ほどなく長崎市内の他の中華料理店にも広がっていった。

また、ちゃんぽんのバリエーションである皿うどんも同様にして広まった。

★1907年(明治40年)に出版された『長崎縣紀要』には「チヤポン」の表記で濃厚な味ながら支那留学生や書生の好物で、すでに市内十数か所で提供されていたことが紹介されている。

【8食具材付】リンガーハット 長崎ちゃんぽん 8食(4食×2セット)(冷凍)
【公式】みろくや 長崎皿うどん スープ付 揚麺60g×6袋入り

■【トンカツ】1899年(明治32年)、東京市・銀座の洋食店「煉瓦亭」が「豚肉のカツレツ」(「ポークカツレツ」)をメニューに載せた。

それまでのカツレツと違い、牛肉でなく豚肉を使い、ソテー(炒め揚げ)ではなく天ぷらのように大量の油で揚げ(ディープ・フライ)、温野菜のかわりに生キャベツの千切りを添えて提供した。

西洋人だけではなく日本人の客に受け入れられることを目論んで作った料理で、人気となった。

四国日清食品)高原三元豚のロースカツ 120gx30個

ラミントン (英: Lamington) とは、 四角状に切ったスポンジケーキを伝統的なチョコレートソースでコーティングし、乾燥ココナッツをまぶして作られるオーストラリア・クイーンズランド州発祥のデザートである。

二つに切られ、その間に生クリームや苺ジャムをはさんで出されることもあり、それらは南アフリカやオーストラリアのカフェやランチバー、ベーカリー、ホームインダストリーやスーパーマーケットで見うけられる。

ラズベリー味はニュージーランドで出回っており、オーストラリアにはレモン味のラミントンもある。

生クリームを挟んだラミントン

★ラミントンの名は1896年から1901年までクイーンズランド州総督であったラミントン卿ことラミントン男爵チャールズ・コクラン=ベイリー、又はその妻であるラミントン夫人からきているとされている。

「ラミントンケーキ」に初めて言及されるのは1896年、クイーンズランド・タイムズ新聞の記事「ラミントンの機能」においてである。

この記事内にて執筆されているイベントはラミントン卿の名誉を讃えて行われたものであり(本人は出席していなかったようだが)、ラミントン・ティー、ラミントン・スープなどという名前も挙げられた中でラミントン・ケーキについての特別な記述はないため、この記事内で挙げられたラミントン・ケーキはイベントの名前以上の意味をもっていない可能性もある。

1900年のラミントンのレシピはクイーンズランド・カントリー新聞から見つかっている。もとのレシピがクイーンズランドでできたようである一方で、それは急激に広がり、1901年にはシドニーの新聞内でもレシピが見られるようになった。

しかしながら、どのレシピもレシピの作者やラミントンという名前の由来を示していない。

最古のラミントンの名前についての文献としては今のところ、1927年6月のものであり、そこにはラミントン卿との関係が記されている。

マーガリンは日本へは1887年に初めて輸入され、1908年に横浜の帝国社(現在のあすか製薬の前身)によって国産化に成功している。

丸和油脂 ホテルマーガリン 800g

■現在広く知られているハッシュドビーフは、外国料理の技法を元に明治時代に成立した日本の洋食である。

1888年に日本で刊行された料理書に、ローストビーフ(原文は「ロースビフ」)とデミグラスソース(原文は「スチウのソース」)を用いる現在のハッシュドビーフに近い味付けの料理が「ハヤシビフ」という名前で登場する。

煉瓦亭の「元祖ハヤシライス」 メニューの英語表記は Hashed Beef w/rice となっている


1909年発行の主婦向けの指南書では、小麦粉を炒ってとろみを付けるブラウンソースの手法を用いた「ハヤシビーフ」のレシピが紹介されている。

ハンバーグ 18世紀より米国に移住したドイツ人が食した独自の挽肉料理が「ハンブルク風(ハンバーグ)ステーキ」と呼称するようになったもので、1891年の文献には既に「ハンバーガーステーキ」の文字が見られる。

■1891(明治24)年に制定された日本海軍の『五等厨夫教育規則』に「シチュウ仕方」すなわち「シチューの作り方」と書かれている。

■【煉瓦亭】1895年(明治28年)創業の老舗洋食屋である。創業者は木田元次郎の叔父。

Ginza Restaurant Renga tei (01).jpg
東京・銀座 煉瓦亭 正面

現在の豚カツ、オムライス、カキフライ、エビフライ、ハヤシライス、これら代表的洋食メニューのほか、食事の提供の仕方「皿にライスを盛る」着想を考案したとされているが、異論もある。

明治時代、洋食メニューとの組み合わせは西洋諸国に習った「パン」であった。しかし利用者から「パンより米を食べたい」との要望があり、「皿にライス」というスタイルで提供したとしている。

これは茶碗でナイフ・フォークでは食べづらいためである。そこからフォークの背にライスをのせて食べる慣習を作ったとされている。

また同じように付け合せにも温野菜が使われていたが、これをキャベツの千切りに置き換えトンカツ(当時は「カツレツ」と呼んだ)と盛り合わせた。

これは日露戦争でコックが徴兵されてしまったので手間を省くために、「キャベツの一夜漬け」からヒントを得て食べやすい千切りとして提供を始めたことが始まりとしている。

安くてソースにあう、という事も大きな理由である。トンカツも、「カツレツ」そのままでは「味がくどい」と日本人には不評であったため、ドミグラスソースではなくウスターソースをかけることにしたところ好評で、これがその後定番となった。

オムライスは元々は賄い料理であり、手早く作れる料理として溶き卵、ミンチ、タマネギ、ライスを混ぜ合わせてフライパンでふっくら焼き上げた料理であったが、客からの要望によりメニューに取り入れた。

ハッシュドビーフアンドライスも、ハッシュドビーフアンドライス・ハッシュドライス・ハヤシライスへと名称を変更しながら受け継がれている代表的な人気のメニューの一つ。

煉瓦亭の三代目は「日本橋丸善が元祖ではあるが、あれはチャプスイに近い」とし、ドミグラスソースでハヤシライスを作ったのはここが発祥であると主張している。

洋食煉瓦亭銀座 ポークカレー 5食まとめ買いセット
洋食煉瓦亭銀座 ポークカレー 5食まとめ買いセット

現在の煉瓦亭の店舗は、1964年(昭和39年)に建てられたものである。

■【うどん】1898年10月に香川県善通寺市に駐屯していた陸軍第11師団の師団長に着任した乃木希典も、兵士の多くが休日に地元でうどんを食べていることに着目して栄養価や体力作りの面から部隊食にするよう提案・推奨し、除隊した兵士たちが日本各地でうどん店を開業したことが全国に広まったきっかけだとする説がある。

牛丼は牛鍋を丼飯にかけた料理が原型で、当時は「牛めし」と呼ばれ、明治時代に誕生した。

吉野家 冷凍 大盛 牛丼の具 10食 セット (160g×10P)

「牛丼」の名称は、吉野家を1899年(明治32年)に創業した松田栄吉が名付けたとされている

サイミン(saimin)は、ハワイ発祥のラーメンによく似た麺料理。また、それに用いられる麺。

サイミン

サイミンの起源についてはよくわかっていないが、20世紀初頭のプランテーション時代に、外国人移民、特に日本人労働者たちの間で手軽な軽食として発展してきたことは確かである。中華麺そのものは中国人移民が伝えたものであるが、その後日本をはじめとする他の国々の食文化や嗜好が影響し合って現在の形になったものと考えられている。

語源についてもまったく不明で、中国語説、日本語説、琉球語説、ハワイ語説などさまざまであるが、現在ではハワイで発生したピジン言語のひとつとして分類されている。

広東語で読むと字音がぴったり合う「細麺(sai3 min6)」という漢字が当てられることがあるが、広東語の「細」は「細い」でなく「小さい」という意味である。

北京語であれば「細い麺」という意味にはなるが音がシーミエン(xìmiàn)で合わない。「ミン」の部分については、広東語の「麺(min6) 、英語 mein /miːn/」であるという説が有力である。

いずれにしても、1920年代には既にSAIMINという表記が確認されており、ハワイの移民たちの間ではかなり早い時期からサイミンという呼称が定着していたのは間違いないところである。

現在のサイミンのスタイルは日本人およびその子孫である日系人の手によって確立され、サイミン・スタンドと呼ばれる専門店の大半は現在も日系人によって運営されている。

そのため日本発祥の食べ物であると理解されることも多いが、日系移民が中国人の助けを得て作ったとも言われ、起源が中国、日本、現地のいずれなのかについては議論がある。中国人には日本発祥だと、日本人には中国から伝わったと主張される。

■1903年にフランス料理の大家エスコフィエが著したLe Guide culinaire(『エスコフィエ フランス料理』)には、「Garniture à la Napolitaine(ガルニチュール・ア・ラ・ナポリテーヌ)」という名のパスタ料理が収録されている。そのレシピは、「スパゲティ500gをゆでて、グリュイエール・チーズ50g、パルメザンチーズ50gをおろしたもの、トマト・ピュレ1dlを合わせてつないだもの、バター100gを加えて仕上げる。ソース 主料理の肉のフォン」というものである。これは単品の料理ではなくautre garnitures(その他の付け合わせ)として収録されている。

蜜豆 

みつまめの原形は江戸時代末期に売られていた糝粉細工の船に赤エンドウマメを入れて蜜をかけた子供向けの菓子であった。

現在の基本形態のみつまめは、ゆでた赤エンドウマメ、さいの目に切った寒天、求肥、白玉だんご、ミカンやモモなどのフルーツ(シロップ漬けされた缶詰を使うことが一般的)などを器に盛って、黒蜜や糖蜜(もしくはシロップ)をかけたものだが、これらの形態は1903年(明治36年)に浅草の「舟和」が売り出したものが最初と言われる。

銀の容器に赤エンドウマメ、賽の目に刻んだ寒天、あんず、切り餅などを入れ蜜をかけたものであった。舟和はみつまめを当時流行していた「ビヤホール」「ミルクホール」にあやかった「みつ豆ホール」と名付けた西洋風喫茶で売り出し、大人向けの甘味として好評を博した。

カツ丼の起源については、「1995年9月付けの地方紙『山梨日日新聞』に、明治30年代後半には甲府のそばの老舗「奥村本店」でカツ丼が提供されていた、という記事が掲載された」との記事があり、執筆者は関係者への聞き取りをしたうえで、「少なくとも明治30年代後半には甲府にカツ丼が存在していたということになる」と主張している。

このため、現時点で確認されている情報では甲府説が最古と見なされている。

TBS公式 / 銀座梅林 カツ丼の具 16食セット

ハンバーガー ハンバーグをパンに挟んだ形状であるハンバーガーの誕生や命名の由来については諸説がある。

1904年に米国セントルイスで開催されたセントルイス万国博覧会の会場内で、ハンバーガーステーキを挟んだサンドイッチが「ハンバーガー」という表記のもとで販売されていたという事実からも、20世紀の初頭には専用の丸いバンと組み合わさり、今日のハンバーガーの原型がアメリカで誕生していたと考えられる。

■【クリームパン】シュークリームの美味しさに感銘を受けた中村屋の創業者、相馬愛蔵がこれをパンに応用することを考え、1904年(明治37年)にクリームパンの製造・販売を始めたのが元祖である[。

発売されたクリームパンは体力向上が叫ばれていた時代に栄養価の高い食べ物として受け入れられ、次第に全国へ広まっていった。

ヤマザキ 高級クリームパン 山崎製パン横浜工場製造品 ×15個セット

■1904年(明治37年)には旧帝国海軍軍艦の昼・夕食として、「煮込み」の名でシチューカレーが供されている。

これはイギリス海軍との交流に端を発するとされている。

明治末期にはシチューのレシピが上流階級向けの婦人雑誌に掲載されるようになった。

しかし、本格的にシチューが全国に浸透したのは、第二次世界大戦終結以後のことである。

■『vesta』編集部によれば、1905年(明治38年)に西洋酒食料品雑貨を輸入していた「亀屋」が発行した非売品の本『佛国料理 家庭の洋食』に、トマトソースを用いた「スパゲット・アラ・イタリアン」という料理が紹介されている。

これはマカロニの代わりにスパゲッティを用いた、トマトソースのグラタン風の料理である。

■1905年(明治38年)頃より、東京銀座の洋食店、煉瓦亭がメニューに初めてクリームコロッケを載せている。4代目主人によれば、当時はあくまでまかない料理であり、客に出した店はそれまでなかったという。

画像はイメージです ますよね カニ屋の 蟹クリームコロッケ 大粒 800g(80g×10個入)(蟹身22%)

たい焼きは、今川焼き(大判焼き)から派生した食べ物である、とされている。

  たい焼きとしての発祥については、明治時代に鋳物の型を使って作られたとされる説があり、明治時代末期の文学作品(後述)や著述、記述が散見される。

 また、明治四十四年九月二十日発行の読売新聞三面記事には、警察の取り調べに対しに鯛焼屋が「今日まで五年間も鯛焼を営み、日に四五円の売高あり」、「餡一円五十銭を仕入れうどん粉をこねて鯛型の中に流し込み餡を包みて四百二十個を作り午後八時迄に全部売り尽した」と述べたとの記述がされていることから、少なくとも明治39年には既にたい焼きは販売されておりしかも1日420個以上とかなりの数が売れていたことになる。

 さらに当時のたい焼きの生地には小麦粉ではなくうどん粉を使用し作られていたと記述されていることから、安価で購入出来る駄菓子感覚で食されていたことがうかがい知れる。

■明治39年頃 たい焼きは、今川焼き(大判焼き)から派生した食べ物である、とされている。

  たい焼きとしての発祥については、明治時代に鋳物の型を使って作られたとされる説があり、明治時代末期の文学作品(後述)や著述、記述が散見される。

 また、明治四十四年九月二十日発行の読売新聞三面記事には、警察の取り調べに対しに鯛焼屋が「今日まで五年間も鯛焼を営み、日に四五円の売高あり」、「餡一円五十銭を仕入れうどん粉をこねて鯛型の中に流し込み餡を包みて四百二十個を作り午後八時迄に全部売り尽した」と述べたとの記述がされていることから、少なくとも明治39年には既にたい焼きは販売されておりしかも1日420個以上とかなりの数が売れていたことになる。

 さらに当時のたい焼きの生地には小麦粉ではなくうどん粉を使用し作られていたと記述されていることから、安価で購入出来る駄菓子感覚で食されていたことがうかがい知れる。

 発祥店に関しては、麻布十番にある「浪花家」の考案説が存在している。

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■大矢は、1907年に発行されてベストセラーになったペレグリーノ・アルトゥーシ(英: Pellegrino Artusi)の主婦向けレシピ集『料理の科学と美食の技法』の「ナポリ風マッケローニ」がナポリタンのルーツであり、戦後都心にできた新興のイタリア料理店が米兵の好みに合わせて提供していた料理が広まった可能性を挙げている。

■【カレー南蛮

カレー粉を蕎麦のつゆでのばし片栗粉でとろみをつけた汁をかけたもの。
考案者については以下のようにいくつか説がある。

明治41年(1908年)ごろに麻布の「朝松庵」で発売された。朝松庵はその後、中目黒に移転し、現在に至っている。
明治42年(1909年)に大阪の「東京そば」で発売された。東京そばは、朝松庵二代目の角田酉之介が開いた朝松庵の大阪支店とされる。

●「カレーうどん」という料理自体は、明治末期の1908年(明治41年)頃、東京都新宿区早稲田の「三朝庵」が、洋食屋に奪われた客足を取り戻そうと考案したものが起源とされる。

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浪花家総本店(なにわやそうほんてん)は、東京都港区麻布十番にある甘味処、和菓子店。

1909年(明治42年)、創業の鯛焼き専門店。初代の神戸清次郎が浪花(現在の大阪市)出身であったため、故郷にちなんで浪花家と命名した。

元々今川焼きを売り始めたが売れず、亀の形の「かめ焼き」も売れなかったが、「めでたい」にちなんで、さらに庶民の口になかなか入らない高級品である[鯛の型で焼くことを考案し、売り出したのが始まりとされている。

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麻布十番の浪速家総本店(2009年)

■【天津飯

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来々軒説
1910年(明治43年)に浅草で創業した大衆的な中国料理店「来々軒」が発祥であるという説。

三代目の主人が、戦後に東京駅八重洲口に来々軒を出店した際に、銀座の萬寿苑からコックに来てもらった。ある時、そのコックは何か早く食べるものを作ってと客に言われて、特別に「蟹玉」(芙蓉蟹肉)を丼ご飯にのせ、酢豚の餡を応用した甘酸っぱい醤油味の餡をかけたものを作り、「天津芙蓉蟹肉丼」と称した。

この説は、来々軒に1958年に入った元従業員から聴取をして記されている。

大正軒説
大正時代に大阪城近くの馬場町に開業した大正軒の山東省出身の亭主が、戦後の食料不足の際に売り物がなく、天津の食習慣である「蓋飯」(皿盛りの飯におかずを乗せたもの)を発想のもととし、天津で多く捕れたワタリガニの蟹玉で作って、上からとろりとした餡をかけた「芙蓉蟹蓋飯」を作った。

しかし、蟹肉は高かったので採算に合わず、後に大阪湾のサルエビ(トビアラ)に代えて、「天津飯」とした。なお、当時は卵も入手難で、天津から輸出されてきた小さなサイズの鶏卵を使った。

この説は、大阪の調理師からの又聞きとして伝えられている。

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■【カツレツ】民間だけでなく軍隊である帝国陸軍の「兵食(軍隊食)」にもカツレツは取り入れられており、明治後期に編纂し1910年(明治43年)に制定・配賦された陸軍公式レシピ集『軍隊料理法』に他の洋食とともに記載されている。

なお、この『軍隊料理法』でカツレツは「ビーフ、カツレツ(牛肉ノ油揚)」と「ポーク、カツレツ(豚肉ノ油揚)」の二種類がある[7]。帝国陸軍の「兵食」にてカツレツは人気メニューであり、『軍隊料理法』を元に昭和期に改訂された『軍隊調理法』でも採用されている。

■1911年(明治44年)永井荷風の随筆「銀座」では露店で供される「トンカツ」について触れられている。また高村光太郎の1912年(大正1年)の詩「夏の夜の食欲」にも「トンカツ」への言及を見ることができる。

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■【たぬきうどんたぬきそば】大正時代(1912年から1926年)、東京で揚げ玉を無料で出していたところ人気となり、東京では後に有料となったことから地域差が生まれた。戦時中にはパーッと広がる様子から「バクダン」とも呼ばれた。

語源には諸説ある。蕎麦や饂飩の「たぬき」が表す料理は地方によって異なる料理を示す事もありそれぞれ異なる説もある。

たぬきうどん

●天かすを入れたものをたぬきと称する事に関する説
タネ抜きの転訛であるとする説。
天ぷらの「タネ」を入れない(タネを抜いた)揚げ物の「タネヌキ」であり、そば屋で「ぬき」を頼むと天ぷらそばのそば抜き(そばつゆに天ぷらだけが入っている)が出てくるのと同様で、「タネ抜き」を語源に「たぬき」とした説。
きつねそば・きつねうどんに比べてかけ汁の色合いが濃く濃厚な味付けであることに由来するとみる説。
世田谷区砧(キヌタ)家で始めたキヌタソバがその始まりだという説があり、「きぬた」を逆さに読んだ。
天かすの印象が腹を膨らませた「たぬき」の様子を連想させることに由来するという説。
●油揚げを入れたそばの語源に関する説
うどんの麺の白に対して、そばの麺の黒を「たぬき」に例えたとする説。
関西においては、そばよりうどんが一般的に好まれているとされる事を元にして「うどんからそばに化けた」事から「たぬき」と呼ばれるようになったという説。
関東において、江戸後期のある店でイカのかき揚げの衣に対して具が小さいものが出され、それがたぬきに化かされた感じがすることから「たぬき」と呼ばれるようになったという説。

大阪では油揚げを乗せた「そば」を「たぬき」と呼ぶ。油揚げは甘辛く味付けしたものである Kyoww – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=27789577による

■【チキンライス】日本発祥の洋食のひとつとされており、味付けには大抵の場合においてトマトケチャップが用いられる。

基本的な具材としては鶏肉、玉葱、マッシュルームなどが挙げられ、これらをみじん切り、あるいは小さな賽の目切りにして米飯と合わせた料理である。

一般的な作り方はフライパンで調理し、最後にトマトケチャップを加えて仕上げるという方法であるが、油で炒めず炊飯器で調理したり、トマトケチャップ以外の調味料で味付けされる場合もある。

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チキンライスは大正時代にはチッケンライスと呼ばれ、炒めた鶏肉、にんじん、玉ねぎを加えて炊いた西洋風の炊き込みご飯であり、ケチャップを使用していないため、赤くはなかった。

ケチャップ味になるのは、大正末期から昭和に入ってからとされている。チッケンライスは、主に教会で開かれる「クリスマス慈善会(現在のクリスマス会)」で、貧しい家庭の子供や孤児におむすびにして振る舞われた。

クリスマスの知識を参考にしたボランティア・スタッフにより、西洋的で栄養価が高く大人数の子供でもたくさん食べられるものを、との理由で供された。

ソースカツ丼

記録として残されている限りにおいては、早稲田大学向かいの鶴巻町にあった洋食店「ヨーロッパ軒」の初代・高畠増太郎が1913年に東京の料理発表会で披露し、同年より提供を開始したというものが最古である。

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■【沖縄そば】1915年(大正4年) – 支那そばの表記を「琉球そば」に変更するよう当時の那覇警察署長が指導。しかしこの呼称は定着せず、単に「そば」「すば」と呼ばれるようになる。

■【カレーパン】大正5年(1916年)に新宿中村屋の迎えたインド独立運動家のラス・ビハリ・ボースが純インドカレーを伝え、これにヒントを得た相馬愛蔵によって発明されたという説も存在する。

■1917年(大正6年)当時、洋食の豚カツは13銭、ビーフステーキは15銭だったのに比べ、コロッケは25銭と高価な料理であった。

またこの年には、「ワイフ貰って嬉しかったが、いつも出てくるおかずはコロッケ♪」という歌詞の「コロッケの唄」がヒットしている。

安価な惣菜としてのコロッケは1917年(大正6年)の東京「長楽軒」のメニューに端を発し、ここのコック阿部清六が関東大震災後の1927年(昭和2年)に立ち上げた精肉店「チョウシ屋」での商品化により、肉屋の惣菜としてのコロッケの地位は揺るぎないものとなった。

肉屋において多量に生じる、切断面の黒ずみで見栄えの悪くなった肉や細切れ肉、揚げ油に使えるラードなどの利用が、より安価なコロッケを提供できるようになった理由としてあげられる。

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酢昆布

都水産 が1918年に山口の都こんぶ」を発売。

都こんぶ

創業者である中野正一が、堺の昆布問屋に勤めていた頃に、売れない昆布の切れ端をおやつ代わりに食べていた所、「昆布自体も旨いが、さらに味を付けて売ればおやつになるし儲かるのではないか?」と考えたのが始まりとされている。

1931年(昭和6年)、19歳にして独立した中野は試行錯誤の末に昆布に合う味の調味料を開発し、昆布にまぶした上で食べやすい大きさに切った物を『都こんぶ』(中野の故郷である京都から『都』の名前を発想)と名付け販売したところ大ヒットとなった。

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駄菓子店、紙芝居屋、映画館、国鉄の駅売店と販路を広げていくうちに、手のひらにおさまる縦長のサイズが基本となった。なお『都こんぶ』の赤いパッケージ箱は、店頭に並べられたときに目立つという理由から中野が発想したものである。

お好み焼き

大正7年(1918年)3月24日の読売新聞朝刊に「蝦フライ一銭のどんどん焼」と題する記事が掲載されており、記事内では「どんどん焼き」という表現を用いながらも、その屋台の暖簾や品書きには「お好み焼」という表現が使用されている。

また柳田国男は、昭和6年(1931年)に刊行された「明治大正史 第四巻 世相篇」において「子供を相手の擔ひ商ひの方でも飴や新粉の細工物は通りこして、御好み焼などといふ一品料理の眞似事が、現に東京だけでも数十人の専門家を生活させて居る」と書いている。

池田弥三郎の「私の食物誌」には「昭和6〜7年(1931〜1932年)ごろに銀座裏のお好み焼き屋が密会所のようになり、風俗上の取り締まりで挙げられた」というエピソードが記録されており、当時のお好み焼き屋は飲食を口実として懇ろの男女に逢瀬の場を提供する、どちらかと言えばいかがわしい業態としても機能していたことが読み取れる。

食文化史研究家の岡田哲は、「お好み焼き」は当時の東京の花街において、座敷にしつらえた鉄板で客が自分の「好み」に焼く風流な遊戯料理として誕生したというこの証言に基づいた解釈を紹介しており、日本コナモン協会会長の熊谷真菜も自著にて同じ説を採用している。

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■1918年(大正7年)「カツカレー(河金丼)」

東京市浅草区浅草(現・台東区浅草)の洋食屋台「河金」が豚カツを載せた丼飯にカレーを掛けて「河金丼」と称して1918年(大正7年)に提供した。

■【コッペパン】アメリカで修行し、アメリカ式製パン法の普及に尽力した田辺玄平を祖とする丸十製パンによれば、1919年に日本陸軍へ納入するために開発した、食パン生地を使った小型パンをもってコッペパンの元祖とし、丸十の「十」にちなんで毎月10日を「コッペパンの日」としている。

太平洋戦争中、主食が配給制だった時にコッペパンが考案され、1個が1人の1食相当とされた。

デニッシュハウス コッペパン(小麦粉・塩・酵母菌だけで焼き上げたパン)5本×2セット
画像はイメージです デニッシュハウス コッペパン(小麦粉・塩・酵母菌だけで焼き上げたパン)5本×2セット

カルピス 1908年(明治41年)、当時30歳の三島は内モンゴル(現在の中華人民共和国・内モンゴル自治区)を訪れ、そこで口にした酸乳を参考にして、1919年(大正8年)にカルピスを開発・発売し、この飲料と同名の企業の創業者となったと伝えられている。

国民的飲料「カルピス」はモンゴルの発酵食がルーツだった【100年前の驚き】 - メシ通 | ホットペッパーグルメ

脱脂乳を乳酸菌で発酵(酸乳)しこれに加糖、さらに酵母(馬乳酒中の酵母と近似)による発酵がカルピス独特の風味に不可欠であることは、長く企業秘密とされていたが、1990年代半ばに公開された。

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■築地精養軒の料理長を務めた鈴本敏雄が1920年(大正9年)に著した『仏蘭西料理献立書及調理法解説』で、「Garniture à la Napolitaine(ガランチン・ア・ラ・ナポリテーイン)」という料理名で「Parmesan乾酪を加へたるTomato sauceにて調理したる”Spaghetti”」と、「Macaroni(又は)Spaghetti à la Napolitaine(マカロニ又はスパゲイチ・ア・ラ・ナポリテーイン)」という料理名で「ざつと茹でたるものを、赤茄子の原漿及び乾酪を加へ、充分にハムの風味を有たしたる羹汁にて煮込む」パスタ料理が収録されている。

スパゲッティ・ウィズ・ミートボール (Spaghetti with Meatballs) は、スパゲッティ、トマトソース、ミートボールによって構成されるアメリカ料理。

ミートボール・スパゲッティ (Meatball Spaghetti、ミートボール・スパゲティと表記されることもある) のほか、日本語では前置詞を省いてスパゲッティ・ミートボールとも表記される。

本記事においては、記事名で記述する。ソースの種類や、パスタの種類を変えたバリエーションも存在する。

●イタリア料理において、ミートソースは通常フェットゥチーネやタリアテッレ(共に平打ちの生パスタ)に合わせるもので、スパゲッティには用いられない。

これは断面が丸い乾麺であるスパゲティには挽肉が絡みにくいためであるが、これをフォークで扱える肉塊とすることで食べやすくしたものがスパゲッティ・ウィズ・ミートボールである。

テレビ番組フード・ネットワークの司会者で記者のアルトン・ブラウンによると、スパゲッティ・ウィズ・ミートボールが最初に作られたのは20世紀初頭で、最初に作ったのはニューヨーク市に住んでいたイタリア系移民のアメリカ人だという。

同じくブラウンによれば、1920年代にアメリカパスタ協会(当時はNational Macaroni Manufacturers Associationという名称だった)が、スパゲッティ・ウィズ・ミートボールのレシピを最初に出版したという。

これに対し、料理評論家で作家のKyle Phillips[6]は、これより以前にイタリアで似た料理を見つけたと主張する。

“…イタリアでは、スパゲッティ・ウィズ・ミートボールは珍しいが、イタリアにその祖先が存在する。私は、プッリャ州で小さなミートボールが入ったスパゲッティを食べた。シチリア料理の権威であるPino Correntiは、シチリアでは、祝日のパスタソースに加える具材として、ミートボールは一般的なものであったと記している…”

トルタ・カプレーゼは”uno dei pasticci più fortunati della storia” (人類の歴史上、失敗から生まれた幸運な物の一つ)と言われている。

トルタ・カプレーゼ

★歴史
トルタ・カプレーゼの起源については、真偽のあやしい話がいくつもある。そのうちの一つが、1920年代にあるパン焼き職人が、観光客からアーモンドケーキの注文を受け、彼の工房で作ったというものである。

彼は穀粉を加えるのを忘れたが、観光客は出来上がったケーキを好み、ごちそうとみなすようになった。

ほかの記述では、この発明をオーストリアの画家・オーギュスト・ウィーバーの2人の相続人に帰し、1930年代に the Strandpension Weberで作られたとしている。セシリア・コッポラの著書 Zeppole, struffoli e chiffon rosso にもトルタ・カプレーゼの起源の話が書かれている。

カスターニャ 「トルタ カプレーゼ」

起源は知られていないものの、いくつかの作り方はよく知られている。最初にカプリ島の療養施設で作られるようになり、主に島を訪れる観光客に振る舞われていた。

当初は、おそらくティールームで出されるデザートのような位置付けだったのである。やがて、世界的に有名になり、あらゆるレストランでメニューに加えられるようになった。

■【小倉トースト】発祥はかつて名古屋市の栄地区に存在した「満つ葉」という喫茶店とされる。大正10年(1921年)ごろに当時のハイカラブームに乗ってバタートーストをメニューに加えたところ、客の学生たちがトーストをぜんざいに浸して食べるようになり、それを見た店主が最初からトーストに餡を乗せた小倉トーストを考案。これが愛知県各地に広まっていった。

これにヒントを得て松永製菓で1966年に開発され、現在までロングセラーになっているのが、同社代表商品の「しるこサンド」である。

■東京・銀座の煉瓦亭には、1921年(大正10年)の時点で「イタリアン」というメニューがあった。外国航路のコックが陸に上がって伝えたものという。

同店の4代目店主によれば、当時の「イタリアン」にはトマトピューレを用いていたが、関東大震災後から戦時中に食料配給制になるまではケチャップを使用していたという話もあるという。

■1923年(大正12年)には、横浜と東京の深川に初めて日本人経営のかん水業者が営業開始した。

かん水(かんすい、梘水、鹹水、乾水、漢水、鹸水、礆水、鹻水、堿水、碱水)は、中華麺などの製造に使うアルカリ塩水溶液で、小麦粉に混ぜることで柔らかさや弾力性をもたせる。

中華麺特有の麺の風味、感触、色合いは、かん水を入れることにより生じる。

かん水を混ぜた中華麺 Kropsoq – photo taken by Kropsoq, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=333880による

■1923年(大正12年)の関東大震災後、洋食や中華料理の人気におされて人気が下降していた日本蕎麦屋が、起死回生策としてカツ丼やカレーライスを扱いはじめたところ、気安く食べられる「蕎麦屋の洋食」として大人気となった。

■【クリームシチュー】日本では1924年(大正13年)に、手塚かね子の『滋味に富める家庭向西洋料理』において牛乳とダンプリングを加えたシチューが紹介される。

マヨネーズ

日本では、1925年(大正14年)3月9日、キユーピーが発売した「キユーピーマヨネーズ」が、日本産マヨネーズの元祖である。

キユーピー マヨネーズ 1kg

オムライスは、調理済みの米飯を鶏卵でオムレツのように包んだ日本の洋食。英語のomelet(あるいはフランス語のomelette)とriceを組み合わせた和製外来語である。

「オムライス発祥の店」を自称する店はいくつかあるが、大阪心斎橋の「北極星」もしくは東京銀座の「煉瓦亭」が有名である。

北極星のオムライスは、ケチャップライスを薄焼き卵で包んだ、現在一般的となっているスタイルのものである。

大阪 大正十一年創業「北極星」オムライス(6袋)

1925年(大正14年)に、大阪市難波の汐見橋にあった大衆洋食屋「パンヤの食堂」(「北極星」の前身)の主人・北橋茂男が、いつも白飯とオムレツを頼んでいた胃の弱い常連客に「くる日もくる日も同じものではかわいそうだ」とケチャップライスを薄焼き卵で包んだものを提供し、「オムライス」と命名したとされる。

★煉瓦亭にはそれよりも25年も前から「ライスオムレツ」という料理があった。ただしこちらはご飯を溶き混ぜた卵焼きといった料理であり、現在一般的に認知されているオムライスとは異なるスタイルのものである。溶き卵に白飯とみじん切りの具材、調味料を混ぜ込んで焼いたもので、1900年(明治33年)に賄い料理として誕生した。

カレーラーメン(諸説あり)

新潟県三条市発祥説
新潟県三条市にあったラーメン店「東京亭」の店主が、戦前(昭和初期)に東京・向島の修業先の食堂から持ち帰ったのが始まりとされ、三条市では70年の歴史があると言われている。
三条市では、市内に70店舗以上のカレーラーメン提供店があり、三条商工会議所の取り組みにより名物化が進み、2009年2月25日にはセブン-イレブンより「三条名物カレーラーメン」が発売されるまでに至った。

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2011年頃から、石神秀幸が定義した新潟四大ラーメン(新潟あっさり醤油ラーメン、新潟濃厚味噌ラーメン、燕三条背脂ラーメン、長岡生姜醤油ラーメン)に三条カレーラーメンを加えることで、新潟五大ラーメンとしてのメディアへの露出が多くなっている。

■【カレーパン】起源については、東京都江東区にある「名花堂」(現:カトレア)2代目の中田豊治が1927年に実用新案に登録した、洋食パンが元祖と言われることが多い。

同新案は「具の入ったパンをカツレツのように揚げる」という主旨であり、カレーの言葉はまったく含まれていないが、この開発時にはちょうど関東大震災が起こり、店の建て直しを急いだ2代目が「洋食の2トップ」であるカレーとカツレツを取り入れたパンを思いつき開発したのだ、と5代目主人は語っている。

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■日本でのボルシチの紹介は、東京・新宿中村屋にロシアの作家、ウクライナ人のヴァスィリー・エロシェンコが伝え、1927年に販売されたものが本格的な始まりとされているが、このボルシチはテーブルビートを使用せず、トマトを煮込んだものである。

同じくボルシチを供する老舗である渋谷ロゴスキーでは、トマトを使用したものを「いなか風」、テーブルビートを使用したものを「ウクライナ風」と分けて呼び習わしている。

■1927年(昭和2年)の若林ぐん子『欧米の菓子と料理』には、「ナポリ式スパゲッチ」という料理が紹介されている。これはベーコン、タマネギ、トマト缶、トマトペーストを煮込んでソースを作り、茹でたスパゲッティにかけるものだった。

うどんすきは大阪府の郷土料理。だし汁でうどんと様々な具材を煮ながら食べる料理。すきうどんなどの名称を用いる店もある。

1928年(昭和3年)に大阪市の蕎麦屋「美々卯」によって考案された。

■1928年、日本で初めての国産スパゲッティ「ボルカノ」は兵庫県尼崎市南塚口町(現在のピッコロシアター)にあった高橋マカロニ(髙橋胖)によって製造された。

この商品名は高橋がイタリアでスパゲティに出会った時に見たヴェスヴィオ火山にちなんでおり、当時は「スパゲッチ」と称した(現在は日本製麻株式会社ボルカノ食品事業部)。

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■【冷やし中華】1929年(昭和4年)に発刊された「料理相談」(安東鼎編、鈴木商店出版部)という本には冷蕎麦(ひやしそば)の一項があり、シナそばを茹で、酢、砂糖、氷をまぶし、その上に叉焼、キュウリ、ラッキョウ、タケノコを乗せ、冷スープ、醤油、酢、コショウをかけるとの記述がある。

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■1929年(昭和4年)、御徒町の洋食店「ポンチ軒」が「とんかつ(トンカツ)」を発売。

カツを包丁で切り分け、茶碗飯と漬け物と味噌汁で食べさせるという和定食のスタイルで提供し、評判となった。

画像はイメージです

2.5 – 3センチメートルという厚切りの豚肉に十分に火を通す加熱調理法を考案した同店のコック島田信二郎を「とんかつの発明者」と呼ぶ者も多いが、彼は自分の料理を「とんかつ」と呼ばれることを嫌っていたともいう。

このスタイルの「とんかつ」は好評を博し、全国に広まった。

冷やし中華

発祥地とされる店は2つある。一つは東京都千代田区神田神保町の揚子江菜館、もう一つは仙台市青葉区錦町の龍亭である。

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1929年(昭和4年)に発刊された「料理相談」(安東鼎編、鈴木商店出版部)という本には冷蕎麦(ひやしそば)の一項があり、シナそばを茹で、酢、砂糖、氷をまぶし、その上に叉焼、キュウリ、ラッキョウ、タケノコを乗せ、冷スープ、醤油、酢、コショウをかけるとの記述がある。

1936年(昭和11年)に発行された雑誌『栄養と料理』には三絲涼麺(サンスーリャンメン)として鶏肉、焼豚、キュウリ等を細切りにして、水にさらした麺の上にのせ、酢、砂糖、醤油等のタレをかける料理が紹介されている。

あんみつ 発祥については二説あり、1930年に銀座のしるこ屋「若松」の森半次郎(2代目)が考案したとも、1938年に銀座の蜜豆店「月ヶ瀬」(現・コックドール)の創業に参画した俳人橋本夢道によって考案されたともいわれている

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■【お子様ランチ】1930年(昭和5年)12月1日に、東京府東京市日本橋にあった三越の食堂部主任であった安藤太郎が数種類の人気メニューを揃えた子供用定食を考案し発売した。

当時は「御子様洋食」と呼称されており、値段は30銭(カレーライスとカツレツの中間の価格帯)。世界恐慌の暗い時代でもあり、子供には楽しい気持ちになってもらおうと開発したという。

翌1931年3月には、動物園や花見帰りで子供連れ客が多い上野松坂屋の大食堂がコックのアイデアを元に同じく30銭で「お子様ランチ」の提供を開始。当初は振るわなかったが、英国王太子来日の際の歓迎の旗やグリコのおまけをヒントにメニューに改良を加えたところ好評を博し、この名称とスタイルが全国的に定着することになる。

お子様ランチの食品サンプル
お子様ランチによく見られる盛り付け C121749n – 投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=12572549による

ヤクルトは、京都帝国大学医学部で微生物を研究していた医学博士代田稔が、1930年(昭和5年)に乳酸菌の一種であるラクトバチルス・カゼイ・シロタ株(L. カゼイ YIT9029)の強化・培養に成功し、1935年(昭和10年)に福岡県福岡市で代田保護菌研究所のもとに飲料として製造・販売を開始したことに始まる。

1968年(昭和43年)10月に容器がプラスチック製になった。

ヤクルト - Wikipedia
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■【ドミグラスソースカツ丼】岡山市の料理店「味司野村」の創業者である野村佐一郎が、東京のホテルでの料理修行中に考案し、1931年の開業時より提供を開始した。


その後、市内の大衆食堂や喫茶店、洋食店、ラーメン店なども同様の料理を提供し始め、いつしか岡山市の中心部では多くの店がメニューに掲げるようになった。

代表的な有名店は、ラーメン屋の「だて」、洋食屋の「やまと」、寿司屋の「もりや寿司」などである。

たこ焼きの創始者は、大阪市西成区「会津屋」の初代・遠藤留吉とされている。

1933年(昭和8年)、遠藤はラジオ焼きを改良し、従来のこんにゃくの代わりに醤油味の牛肉を入れて肉焼きとして販売。1935年(昭和10年)、タコと鶏卵を入れる明石焼に影響を受け、牛肉ではなくタコ・鶏卵を入れるようになり、たこ焼きと名付けた。

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遠藤の故郷会津の郷土料理であるこづゆの味付けを模したダシで、小麦粉を溶いて仕上げていたという。

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会津屋のたこ焼きは、生地に味がついているため、何もかけずに食べるが、戦前は会津屋以外のたこ焼き屋でも出汁や醤油風味で何もかけずに食べるたこ焼きが大半だった。

■【カレーパン】練馬区の「デンマークブロート」(1934年創業)では、創業者がカレーパンを発明したとしている。こちらはまずカレーサンドを発売し、後に揚げることを思い付いている。

■横浜市教育委員会が発行した『横浜の食文化』p.79には、1934年(昭和9年)1月の横浜ホテルニューグランドのメニューが掲載されており、そこには「Spaghetti Napolitaine」の記載がある。

また、同ホテルの支店である東京ニューグランドの1935年(昭和10年)のメニューには、カタカナで「スパゲチ ナポリテーイン」と書かれている。

この「スパゲチ ナポリテーイン」は、裏ごししたトマトとチーズで作ったソースをかけたものだったと推定されている。

当時のホテルニューグランドの総料理長はドリアの考案やアラカルトの導入などで知られるサリー・ワイルであり、戦前に同ホテルで修業経験のある小野正吉は、「スパゲッティナポリタンだとか、ご飯をグラタンにしたドリアなんか、ワイルさんがはじめて出したんですよ」と発言している。

■古川ロッパの『古川ロッパ昭和日記』には、1934年(昭和9年)12月22日に「三越の特別食堂」で「ナポリタン」というスパゲッティを食したことが書かれている。

ただし、ロッパの記述には「少し水気が切れない感じ」とあるため、茹でたパスタにソースを絡めた料理だったと推測される。

鴨せいろ
冷たいそばを、鴨肉とネギの入った温かいつけ汁で食べる。「鴨ぜいろ」、「鴨せいろう」とも。1935年に元祖鴨南ばんで着想されたとも、1963年に銀座長寿庵で着想されたともいう。

笹かまぼこ 

笹かまぼこの名称の由来は、その形状が笹の葉に似ているところからきたもの。その他「ベロかまぼこ」「木の葉かまぼこ」「手の平かまぼこ」などとも呼ばていました。

 笹や竹は、古来より生々発展のイメージを持ち、瑞々しくゆかしいものとして、昔から愛されてきました。

 それをもとに、1935年(昭和10年)創業した当社阿部蒲鉾店において、旧仙台藩主伊達家の家紋「竹に雀」の笹にもちなみ、「笹かまぼこ」と呼ぶようになってから、旧仙台藩地域で次第に名称が統一されていきました。(阿部蒲鉾店ホームページより)

阿部蒲鉾店(BM-2S) 仙台笹かまぼこ詰め合わせ

カツサンドは、1935年(昭和10年)に東京上野のとんかつ店井泉の女将(当時)である石坂登喜が発案したとされ、正式には「かつサンド」と呼ぶものであった。

当時の井泉は花柳界の芸者衆がよく利用していたため、口紅が取れずに食べられるよう小さなパンを特注して作っており、また箸で切ることのできる、肉を丁寧に叩いた柔らかいカツを売り物にしていた。

カツサンド 参考画像

焼きそば

『にっぽん洋食物語大全』(小菅桂子著)には「ソース焼きそばを浅草焼きそばと呼ぶ人もいる」と書かれており、昭和10年代(1935年 – 1944年)の浅草でソース焼きそばが名物とされていたことが記されている。

旭屋 なみえ焼きそば  8食 赤辛旨ソース付き 常温90日日持ち

大正から昭和初期に流行したどんどん焼きの屋台でも焼きそばは販売されており、少なくとも東京などの都市部においては戦前から一般的な軽食として定着していたことがわかる。


■【冷やし中華】1936年(昭和11年)に発行された雑誌『栄養と料理』には三絲涼麺(サンスーリャンメン)として鶏肉、焼豚、キュウリ等を細切りにして、水にさらした麺の上にのせ、酢、砂糖、醤油等のタレをかける料理が紹介されている。

■『婦人之友』1937年(昭和12年)12月号には、スパゲティの代わりにうどんを代用して作る「スパケテナポリタン」という料理が紹介されている。

これは肉と脂とニンニクを炒めてから汁だけを残し、トマトを入れて炒め、トマトケチャップ、月桂樹の葉とシェリー酒を加えて湯で伸ばし、塩と胡椒で味付けしてソースとするレシピである。

■【チョコロネ】コロネはコロネは日本発祥で明治生まれと言われている。

1939(昭和14)年刊行の『製パン教程』(糧友会編、糧友会)
に「チョコレートスネール」の記述がある。

「スネール」は英語で巻貝を意味する。

低糖質 チョココロネ 8個(4個入×2袋) 糖質オフ 糖質制限 低糖パン 低糖質パン 糖質 食品 糖質カット 健康食品 健康 低糖工房 糖質制限におすすめ! 1個あたり糖質2.9g 低糖質チョココロネ

■マクドナルド(英: McDonald’s)は、アメリカ合衆国に本社を置くファストフードチェーンストア[2]。その登録商標である。

世界的に展開するファストフードチェーンであり、日本における店舗および運営会社は日本マクドナルドである。

本記事のMcDonald’sの日本語転写は公式にライセンスを取得した日本マクドナルドが定める「マクドナルド」に準ずる。


最初のマクドナルドはアメリカ合衆国・カリフォルニア州サンバーナーディノでマクドナルド兄弟が1940年に始めたものである。「スピード・サービス・システム」のキャッチフレーズと、工場式のハンバーガー製造方法、そしてセルフサービスの仕組みにより、第二次世界大戦後の1948年以降、特に有名になった。

人生で大切なことはみんなマクドナルドで教わった

■【魚うどん】魚うどん(ぎょうどん)は、宮崎県日南市周辺の郷土料理である。

太平洋戦争の空襲によって日南市と外部をつなぐ道路や線路が寸断されると物流が滞り、油津港などで穫れる魚が販売できずに余り、一方で米や小麦粉は不足するようになった。

このため、トビウオなどのすり身を小麦粉の代わりに用いて、うどんの代替食として魚うどんが作られた。

当時は各家庭が雑魚を用いて作っていたが、戦後は存在を忘れられるようになったという。

しかし、郷土料理として注目した日南市漁協の女性部が昭和50年代から復活させる取り組みを始めた。

トビウオの処理方法を工夫して臭みを減らすなどの改良を加えて2000年頃から朝市で販売を始め、2007年に同漁協と日南商工会議所が共同で商品化した。

2009年には市内の小中学校の給食にも登場し、同年3月に商標も登録されている。2011年には全国青年・女性漁業者交流大会で、日南市漁協の魚うどんが流通・消費拡大部門の農林水産大臣賞を受賞している。

日南名産 丸万 魚うどん 200g(2人前)2袋

■【すいとん】第二次世界大戦末期から終戦にかけ、食糧事情の悪い時期の日本では主食の米に変わる代用食として、すいとんの名を借りた料理が作られた。

戦争による物資に乏しい時代背景から小麦粉が不足していたため、大豆粉やトウモロコシ粉、高粱粉など、あるいは糠(ヌカ)などが混ぜられたものを材料としたことがあり、これらはとても本来のすいとんと呼べるような代物ではなかったという。

水で溶いた粉を汁、またはただの湯に直接落とし込んで団子のように固め、昆布、煮干や鰹節が入手できないために出汁は取られず、味噌、醤油、塩が不足していたためにまともな味付けの余裕も無かった。

戦時中の食べ物と今 http://www7b.biglobe.ne.jp/~nonaka2000/tossland/syasin/suiton1/index.htmlより

塩味を補うため、海水で煮るなどの調理も行われた。

ほとんどの場合、野菜や肉などの具が入ることは無かったうえ、サツマイモの葉や蔓など本来、日本では捨てられる部位を具にしていた。

当時の体験談によれば、燃料不足で炊事に十分な熱量を得られず、団子は中心部まで火が通らない生煮えの状態で食べざるを得なかった。

団子を噛むと生煮えの生地が歯にニチャニチャとこびり付き、原料粉の品質の悪さも手伝って非常に不味かったそうである。

■餃子

日本で一般の日本人が食べられるようになったのは第二次世界大戦後で、関東軍や満蒙開拓団などの引揚者によって広く普及するに至った。

しかし、戦前の女性向け料理本などは知られていなかったため、引揚者が焼き餃子を日本に紹介したと信じられるようになった。

米飯が主食の日本では水(茹で)餃子ではなく、おかずとして薄目の皮を使用した日本独特の焼き餃子が主流となった。

大阪王将 肉餃子 50個入×2(合計100個) たれ×12袋付

一説には、引揚者が茹で餃子を作ろうとしたものの、鍋がなく代わりに鉄板を使ったのが始まりとされる。

以降、大衆的な日本人向けの中華料理店やラーメン店、また餃子専門店、スーパーやデパートの惣菜コーナーなどで広く扱われ、家庭の手軽な惣菜として定着している。

■【焼うどん】1945年 小倉市魚町(後の北九州市小倉北区)のだるま堂にて焼きそばのそば玉の代わりに干しうどんが用いられる。

焼うどんの一例

■ホテルニューグランド第4代総料理長の高橋清一は、ナポリタンは第2代総料理長の入江茂忠が戦後に考案したと述べている。

ホテルニューグランドは、1945年(昭和20年)8月30日のダグラス・マッカーサーの来日直後から7年間GHQに接収されていた。

入江は進駐軍の兵士がケチャップで和えただけの具なしスパゲッティを食べているのを見て、ケチャップだけでは味気ないと考え、生トマト、タマネギ、ニンニク、トマトペースト、オリーブオイルでトマトソースを作り、炒めたハム、ピーマン、マッシュルームを加えてソースで和えたスパゲッティを考案したという。

このスパゲッティは「スパゲッティーナポリタン」と呼ばれた。

画像はホテルニューグランドのナポリタンではありません

高橋によると、「ナポリタン」という命名は、中世のころナポリの屋台で庶民向けにトマトソースをかけたスパゲティが売られていたことをヒントにしたものだという。

入江の「スパゲティーナポリタン」はケチャップを使ってはいないが、7割がた茹でたパスタを冷まし、5-6時間放置したうえで湯通しすることで麺のもっちりした食感を出す、というひと手間を加える工夫は入江の功績と見なされる。

高橋は中世ナポリ風であることが「ナポリタン」という名前の直接の由来であるとしているが、澁川は、入江は師のサリー・ワイルを通じてフランス料理の「スパゲッティ・ナポリテーヌ」の存在を知っており、日本人が呼びやすいように「ナポリテーヌ」を「ナポリタン」に変化させたのではないかと考察している(なお、入江は「スパゲチ ナポリテーイン」の提供されていた東京ニューグランドに1936年(昭和11年)ごろから勤めている)。

上野は、戦時中に陸軍の厨房兵として従軍していた入江に、旧海軍の「マカロニナポリタン」という料理名の記憶があったのではないかと考察している。

■横浜市野毛の洋食レストラン「センターグリル」では、1946年(昭和21年)の開業時よりナポリタンにケチャップが使用されていたとされる。

高価で加工に手間もかかるトマトを使わずケチャップを用いるのは町の洋食店ならではの工夫だとして、センターグリルが「ケチャップナポリタン」の発祥であると見る向きもある。

ただし、同店の創業者の石橋豊吉は、ワイルの経営していたセンターホテルで修業をしていて入江とも親交があり、開業後にも入江からアドバイスを受けていたという。

盛岡じゃじゃ麺(もりおかじゃじゃめん)は、岩手県盛岡市の郷土料理。わんこそば、冷麺と並んで「盛岡三大麺」と称される麺料理のひとつである。

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盛岡じゃじゃ麵 Searobin – Searobin’s file, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=409843による

戦前、現在の中国東北部にあたる旧満州に移住していた後の「白龍(パイロン)」の初代主人である高階貫勝が、満州時代に味わった「炸醤麺(ジャージアンミエン)」を元に、終戦後の盛岡で日本の食材を使って屋台を始め、そこで盛岡人の舌にあうようにアレンジをくりかえすうちに、「じゃじゃ麺」としての独特の形を完成させたといわれる。

中華麺とは異なり、じゃじゃ麺用の平打ちうどんかうどんのように感じられる独特の麺に、特製の肉味噌とキュウリ、ネギをかけ、好みに合わせてラー油やおろしショウガやニンニクや酢をかけて食べる。

戸田久 盛岡じゃじゃ麺 390g ×5個

■1947年(昭和22年)に学童の栄養補給用として学校給食のシチューに脱脂粉乳が加わるようになり、政府はこれを「白シチュー」と呼んで広めた。

■【かつめし】ビフカツとご飯を一緒にして「お箸で気軽に食べることができる洋食」をコンセプトに創作された。

豚カツを使ったかつめし(「ロッキー」加古川)

ビフカツとご飯を一緒にして「お箸で気軽に食べることができる洋食」をコンセプトに創作された。

終戦直後の1947年に加古川町寺家町で創業した「いろは食堂」が最初に出したといわれる。

当時ビーフカツレツをだす際に皿が足りず、ひとつの皿に、ご飯、ビーフカツレツを盛り、たれをかけたことが始まりとされる。これがコンセプトとなり、広まった。かつめしをスプーンで食べることは少なく、箸で食べることが一般的である。

■グリルスイスとは、日本の洋食屋。1947年(昭和22年)、東京都中央区銀座六丁目に創業。現在は銀座三丁目に移転。築地にキッチンスイス築地店がある。カツカレー発祥の店として知られる。

画像はイメージです 【松屋】ロースかつカレー10食セット(三元豚ロースかつ×10 オリジナルカレー×10)(冷凍食品)

1948年、店の常連客であった東京読売巨人軍所属のプロ野球選手千葉茂が、試合後にカレーライスと豚カツを同時に注文。

さらに豚カツをカレーの上に載せて出すように注文していた。これをヒントとして、店主の岡田義人が正式にメニューに取り入れており、これがカツカレーの発祥とされている。

同店では、2020年現在でも「千葉さんのカツレツカレー」(通称「チバカツ」)「カレーライスバッファロー」という名のメニューを販売している(日本プロ野球OBクラブ)。

外見は、アーモンド型にライスが盛られたカツカレーだが、カレーライスに豚カツを載せた名残りで、千切りのキャベツも盛られている。

■粘度の高いとんかつソース(濃厚ソース)は、終戦直後の1948年に神戸の道満調味料研究所(現:オリバーソース)によって発明された。

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オリバーソース 特級 とんかつソース 360g×3本

■【チョコロネ】『最新各種製パンの秘訣1949(昭和24)』(締木信太郎著、太洋書院)に、

渦巻きパン(スネーク)は、デンプンを低温で焙焼したものを生地に混ぜると、よい焼き色に仕上がるという記述と、

「コルネツト(円すい形の焼型に巻きつけて焼上後クリームやチョコレートを詰める)は加熱生地を使用すると巻きめがきれ易い」との記述がある。

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/39923?page=4より抜粋。

低糖質パン 糖質制限 糖質オフ ふんわりブランパン チョココロネ スイーツ お菓子 置き換え

■【焼きそばパン】発祥は諸説あるが、東京都荒川区南千住にあった『野澤屋』(2010年に閉店)が1950年代に焼きそばとコッペパンを同時に販売していたところ、客に「面倒だからはさんで」と言われて作り広まったとする説が有力とされる。

キャセロール(casserole, フランス語で鍋の意)または、ココット(cocotte)とは、家禽類や猟の獲物などの硬い肉を野菜や調味料と共にとろ火で煮込んだ料理。

★キャセロールは1950年代に多くの理由により非常に普及した家庭料理になった。

材料すなわちツナ缶、缶詰の野菜、缶詰のスープ、およびエッグヌードルが安価で手に入りやすいこと、そして35分あれば作ることができるのが主な理由である。

また、残りを冷凍または冷蔵し、翌日に温めなおして食べることもできる。

ポットラック(持ち寄り食事会)や病人のお見舞い品としてもたいへん普及している。

ツナキャセロールは一皿ごとに異なるが、歴史的には、エッグヌードル、刻みタマネギ、卸したチェダーチーズ、冷凍グリーンピース、漬け油を切ったツナ缶、缶詰の濃縮マッシュルームスープ、缶詰の薄切りマッシュルーム、砕いたポテトチップスを材料とする。

ゆでた麺、タマネギ、チーズ、グリーンピース、ツナ、マッシュルームを耐熱皿に入れて混ぜ合わせ、ポテトチップとチーズを天面に振りかけてオーブンで焼く。

マカロニを使ったキャセロール

トルコライスは、長崎県、主に長崎市を中心としたご当地グルメ。一皿に多種のおかずが盛りつけられた洋風料理。
豚カツ、ピラフ、スパゲティが一つの皿にのっていることを基本とする。ピラフは当初、ドライカレー(カレーチャーハン、カレーピラフ)が主流だったともされ、あるいはチャーハンなこともある。スパゲティはナポリタンが多い。上からドミグラスソースやカレーソースなどがかけられる。サラダものるかまたは別皿でつくこともある。細部は店によって異なり、また一軒の店で複数の種類のトルコライスを提供する場合もある。「トルコ風ライス」として出している店もある。

長崎のトルコライス パブリック・ドメイン, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?curid=1237252

一つの皿に複数の料理をのせることからお子様ランチにたとえられ、「大人版お子様ランチ」、「大人のお子様ランチ」などと形容されることがある。

1950年代に誕生したとされるが、名前の由来も含めて確かなことは分からない。

■具に春雨を入れる日本風ピロシキは1951年創業の渋谷ロゴスキー初代料理長・長屋美代が考案し、同店で提供するほか、料理レシピ本(柴田書店・「ロシア料理」「標準ロシア料理」など)やロシア料理講習会を行うことによって全国に広まった。

これは肉や野菜から出る旨みのあるスープをパン生地に閉じ込めるための方法であり、小麦粉によるとろみづけに代わる工夫であった。

ケンタッキーフライドチキン(KFC)は起業家カーネル・ハーランド・サンダースによって設立された。

【文庫】 カーネル・サンダース 65歳から世界的企業を興した伝説の男 (文芸社文庫)

サンダースは、大恐慌の時代にケンタッキー州コービンの国道沿いのレストランでフライドチキンの販売を開始した(1930年3月20日からサンダース・コート&カフェ)。

サンダースは、レストラン業におけるフランチャイズビジネスの潜在的可能性を見いだし、1952年には最初の「ケンタッキーフライドチキン」のフランチャイズ加盟店がソルトレイクシティ(ユタ州)で生まれた。

KFCはファストフード業界にフライドチキンを普及させ、ハンバーガーによる確立された支配に挑戦することで市場の多様化をもたらした。

■1952年【冷やしラーメン】(諸説あり)山形県山形市本町のラーメン店「栄屋本店」の初代店主が、夏に冷たいラーメンを食べたいという常連客の要望で開発を始め、試行錯誤の末、1年かけて1952年に完成させた。

【1箱4人前】山形名物 元祖 冷やしラーメン

1952年2月に福島県会津坂下町でも「冷やしラーメン」が誕生している。

冬に食堂「いしやま」を訪れた、風邪のための高熱で食欲のなくなった女性にラーメンの麺を水で洗って食べさせたのが発祥とされる。

長岡市栃尾地域の鈴多食堂(1935年創業)が戦後に提供を始めたとされる。裏付けのある正確な登場時期は不明だが、1950年代とされる。同店では「ラーメンの冷やし」と称するが、他店でも追随し、冷や丼(冷やし丼)とも呼ぶようになった。

★静岡県旧志太郡(藤枝市、焼津市、島田市)では、水で締めた麺に酢の入っていない甘口スープの「冷やしラーメン」を提供する店もある。発祥は不明だが、1919年創業の「マルナカ」では戦前から冷やしを提供していたという証言がある。

■【油そば】1952年(昭和27年)に創業した国立市の一橋大学そばの「三幸」が、のびたラーメンをヒントに昭和30年代前半頃から酒の肴として提供を開始したとする説や、同じく昭和30年代に武蔵野市境の亜細亜大学そばの「珍々亭」が中国の拌麺をヒントに油そばを発売したという2説が存在している。

いずれにしても、東京都武蔵野地区から他地域に広がっていった。その後、1996年(平成8年)ごろから流行し、1997年の読売新聞では『今年ヒットした話題の商品』の13位にランクインしている。

マルちゃん 袋 珍々亭 油そば 110g×10個

■1953年当時、東京でスパゲッティが食べられる店は帝国ホテルと、CIA東京支局初代局長のポール・ブルームが自邸の元料理人に開かせた田村町の「壁の穴」など3軒ほどしかなく、帝国ホテルでは960円、壁の穴では100円で提供された。

マ・マー パスタキッチン ミートソース 140g×6個

盛岡冷麺(もりおかれいめん)は、岩手県盛岡市の名物麺料理。

辛味のある冷麺である。わんこそば、じゃじゃ麺と並んで「盛岡三大麺」と称されている。

盛岡では一般的に「冷麺」というとこれを指す事が多く、主に焼肉店での定番として供される。公正取引委員会が承認する特産・名産麺料理10品目の中で唯一の冷製専用品目である。

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「ぴょんぴょん舎」の盛岡冷麺 Shacho0822 https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=761220による

朝鮮半島北部(現・北朝鮮)の咸興生まれの在日朝鮮人1世の青木輝人(朝鮮名:楊龍哲(よう りゅうてつ、ヤン・ヨンチョル:양용철))が、1954年(昭和29年)5月に盛岡でテーブル4つの「食道園」を開業し、店で出したのが最初である。

料理人としてのプロの技術を持たなかった楊は、自分が子供のころに食べた咸興の冷麺を独力で再現しようとした。

咸興の冷麺はスープのないピビム(ビビン)冷麺が有名だが、咸興冷麺にもユクス(肉水:牛肉の出汁スープ)つきのものもあったといい、楊は自分が好きだったスープつきの咸興冷麺を自分の店で出した。

しかしコシの強い麺や辛いキムチは当時馴染みが薄く、特に麺は「ゴムを食べているようだ」などとまったく受け入れられなかった。

咸興の冷麺は蕎麦粉入りの灰色の麺だったといい、初期は店でも蕎麦粉入りの麺を出していたが楊自身にもおいしそうに見えなかったため、白い冷麺を参考にそば粉を抜き、麺を白く変える。

一方、ジャガイモのでんぷんを使ったコシの強い麺や、キムチのトッピング、牛骨ダシ中心の濃厚なスープという「故郷の味の3要素」は守り続けた。

やがて盛岡の新しいもの好きな若者たちの間で、そのユニークさが「一度食べたらあとを引く」と評判になり、店には客が入る様になった。

ここに、「盛岡冷麺」の基本形が完成したといわれる。ただし楊自身は、「盛岡冷麺」でも「咸興冷麺」でもなく「平壌冷麺」という看板を掲げ続けた。平壌の方が大きな街で有名だからそうしたのだという。

戸田久 いわて盛岡冷麺 324g ×5個

■1954年には、長崎ちゃんぽんの白濁スープをヒントに、トンコツスープを濃厚にした白濁トンコツラーメンの「元祖長浜屋」が開業。

マルタイ 元祖長浜屋協力豚骨ラーメン 145g ×12個

天むす(てんむす)とは、海老の天ぷらを具にしたおにぎり。名古屋めしの一つとして知られるが、三重県津市発祥の津名物でもある。

1950年代に、三重県津市大門にある天ぷら定食店「千寿」の賄い料理として考案されたのが始まりである。

昭和30年代の初め、初代水谷ヨネが忙しくて夫の昼食を作る暇がない折に、車えびの天ぷらを切っておむすびの中に入れたのが発想のきっかけで、その後味付などを試行錯誤し、常連客向けの裏メニューとして振舞うようになったとされる。好評を得た天むすは「千寿」の正式なメニューとなり、1959年(昭和34年)頃に天むす専門店となった。

1965年(昭和40年)、天むすを商標登録する。

「千寿」の天むす(津市)

■【つけ麺】日本のつけ麺の発祥には諸説存在するが、1955年(昭和30年)に東京都の大勝軒(中野店)にて山岸一雄が開発・商品化したという説が定説になっている。

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★山岸が17歳の時に勤めた修業店で、残ってしまった麺を、スープと醤油を湯のみ茶碗に入れ浸して食していた賄食がベースである。

このころ山岸は、親の従兄弟であり、「兄貴」と慕っていた坂口政安と一緒に修業をしていた。1年後、坂口が独立し大勝軒(中野店)を立ち上げた際、山岸は行動を共にした。後に坂口が別の場所に本店(代々木上原店)を構えた事により、山岸が中野店の店長として任され活動していた頃、引き続きこの賄食を食していた。

それを見ていた客の関心を惹きつけ、試食してもらうと好評価を得たことから「これをメニューにしたら売れるかもしれない」と感じ、様々な試行錯誤の後、冷やし中華の甘酸っぱさを参考に酢と砂糖で調味し、麺の量は見栄え良くするためラーメンの3割増しにして、メニューの一品「もりそば」として完成させた。

1955年「特製もりそば」(当時の代金40円)として供されたのが商品化された最初のつけ麺とされる。

また、その3年後に坂口の本店からもつけ麺と同様の「つけそば」が独自研究開発されて商品化となった。

千葉・松戸 中華蕎麦 とみ田 つけ麺 6食セット (2食入X3箱) (極太麺 豚骨 魚介 つけだれ)(ご当地 有名店 ラーメン)

★つけ麺の名称が最初に使用されたのは1973年(昭和48年)頃『元祖つけ麺大王』によるものとされる

ミスタードーナツ(英称:Mister Donut)は、アメリカ発祥のドーナツチェーンのブランド。

1955年にアメリカ合衆国・マサチューセッツ州ボストンで創業。

1990年にアメリカ合衆国の食品大手企業アライド・リヨンズに買収され、北米の店舗は一部を除き同社が同じく所有するダンキンドーナツ(現・ダンキン)に転換された。

その後アライド・リヨンズはダンキンドーナツを含むレストラン部門ダンキン・ブランズをトーマス H. リーパートナーズ、カーライル・グループ、ベインキャピタルの3社に売却し、本家たるミスタードーナツ・オブ・アメリカは消滅した。

その消滅後は提携先が各自にブランドを維持しており、日本ではダスキンが事業を継承している。

■札幌の味噌ラーメンは、札幌市内の大衆食堂『味の三平』店主の大宮守人によって1955年に考案された。

大宮は、雑誌『リーダーズ・ダイジェスト』に掲載された、スイスの食品メーカー・マギー社の社長の「日本人は味噌をもっと料理に活用するべき」という文章を目にして以来、味噌を用いたラーメンの開発に従事する。

日本各地から味噌を取り寄せたり、試作品を常連客に出して意見を聴くなど試行錯誤を重ねた末、1963年に店のメニューに正式に「味噌ラーメン」が載ることとなった。

日清 ラ王 濃厚味噌 118g ×12個

■【ローメン】炒肉麺(チャーローメン)略称ローメンは、羊肉と野菜を炒め蒸した太めの中華麺を加えた長野県の伊那地方の特有の麺料理。ラーメン用のスープを加えるものと加えないものがあるが、ラーメンとも焼きそばとも異なる独特の風味の料理でもある。

1955年に、伊那市の中華料理店「萬里」の主人であった伊藤和弌(いとう わいち、1931年 – 2007年5月11日)が地元の製麺業者服部製麺所社長の服部幸雄の協力を得て創作した。

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中央道駒ヶ岳SAで提供される牛すじローメン 切干大根 – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=59945091による

伊藤は東京・横浜で料理人として修行し、郷里の伊那に戻って小さな中華料理店を開いた。当時は冷蔵庫がまだ一般的でなく、仕入れた生麺を翌日まで保存できないため、伊藤も麺の保存法に苦慮していた。そこで、伊藤は試行錯誤の末、麺を蒸すことで日持ちさせる技法を考案する。

この蒸し麺独特の風味を活かして伊藤の創作した料理がローメンである。

(「萬里」発行のパンフレットによれば、ローメンの完成は1955年8月であったという)。

肉は伊那市周辺で羊毛生産のため盛んに飼育されていた牧羊に伴う副産物のマトンが活用され、塩漬け肉にして日持ちさせたものが使用された。野菜は、これまた周辺で多く栽培されていたキャベツを使用した。

冷凍ミカン 収穫したみかんをそのまま夏まで冷凍することにし、1955年(昭和30年)から小田原駅のキヨスクで販売するようになったのが始まり。

流し素麺
竹製の樋(とい)を使って素麺を流し、箸で捕まえてめんつゆ等に付けて食べる。夏の風物詩とされている。

パール金属 そうめん流し器 ブルー 流麺 スライダー D-1404

商業化発祥の店
1955年(昭和30年)に創業した宮崎県西臼杵郡高千穂町の高千穂峡にあるお茶屋「千穂の家」が店頭に「昭和参拾年創業 元祖流しそうめん」と掲げており、商業化発祥の店とされている

オペラ(フランス語: Opéra)は、フランス発祥のケーキである。

絢爛豪華な威容で知られるオペラ座をモデルとして作られ、ケーキの表面にはオペラ座の屋根に立つアポローン神像の黄金の琴にちなみ、金箔を施されている。

DALLOYAU ダロワイヨ オペラ (小) 冷凍便発送

1955年にパリの洋菓子店・ダロワイヨのオーナー、シリアック・ガビヨンが発案した。この菓子店でのオペラの7層は2cmの薄さを特徴としている。

カレーラーメン(諸説あり)

千葉発祥説
1955年に千葉県小見川町(現:香取市)で開店した「実之和食堂」が当初から定番メニューとしてカレーラーメンを提供している。

画像はイメージです

■1957年(昭和32年)12月に、花巻市の嘉司屋(かじや)で「わんこ相撲冬場所」が開催され、多くの参加者が集まって何杯食べられるかの競争が行われた。

現在わんこそばを多く食べた人を「横綱」「大関」等というのは、当時大会開催にあたって趣向を凝らし、「わんこそば」を「相撲」になぞらえて開催したことの名残である。

その後何度か大会の名称や競技方法等を変えながらも今日まで毎年開催され、その歴史は60年を超える。

現在では「わんこそば全日本大会」という名称となったこの大会がきっかけとなり全国に「わんこそば」が知れ渡り、現在は主として観光客向けの「いわて花巻名物」としてわんこそばの食べ方が定着し、岩手県外でも「食したわんこそばの杯数」が大食いの度合いを示す指標の一つとしてしばしば用いられるようになっている。

■1958年(昭和33年)に大阪で回転寿司店「廻る元禄ずし」が開店。

■日清食品ホールディングスによれば、インスタントラーメン1958年(昭和33年)に日清食品創業者の安藤百福が発明したもので、世界でもそれを認める報道が多い。

安藤が発明した瞬間油熱乾燥法を含むインスタントラーメンの基本的な製法は、1963年(昭和38年)に「即席ラーメンの製造法」として特許登録されており、発明協会の戦後日本のイノベーション100選の「トップ10」にも選定されている。

日清食品 チキンラーメン 5食パック (85g×5P)×6個

ベビースターラーメン

1955年におやつカンパニーの前身である松田産業有限会社が世界初のインスタントラーメン「味付中華めん」を発売したが、営業的には失敗に終わる。
1958年にサンシー殖産(現・日清食品ホールディングス)がチキンラーメンを発売して成功。
1959年に製造工程で発生する麺のかけらを従業員におやつとして配ったところ評判となり、商品化。初代作「ベビーラーメン」を発売。価格は10円。


1973年 – 子供向けスナック菓子で一番(スター)になりたいという想いを込め「ベビースターラーメン」に名称を変更。1971年とする資料もある。

おやつカンパニー ベビースターラーメンチキン 74g×12袋

■【イタリアン】1959年に、新潟市(現在の中央区)の甘味喫茶であった『三日月』(1972年にみかづきに改称)のオーナー経営者であった三日月晴三は、箱根での経営者セミナー受講のために上京した際に、東京都中央区京橋の甘味処の『中ばし』で、大阪風の焼きそばをアレンジしたソース焼きそばに遭遇した。

彼はこれにヒントを得て、イタリアンスパゲッティのイメージを取り入れ、フォークを用いて食べるスタイルのイタリアンを考案したとされる。

名前から想像されるスパゲティの類や、具にもやしやキャベツを用いた焼きそば・焼きうどんの類ではなく「洋風ソースかけ焼きそば」と表現すべきものである。

原材料は焼きそば同様に蒸した中華麺で、太めの中華麺とキャベツやもやし等を多めの食用油で炒め、ソースなどで味付けが施される。このソース焼きそばに様々な具材が入ったトマトソースを上掛けしたものがイタリアンである。

塩気は比較的控えめで、トマトソースの甘味と酸味が前面に出た味わいとなっている。上掛けするソースは、トマトソースの他にも、カレーソース、ホワイトソース、エビチリ、麻婆豆腐などがあり、更にハンバーグ・オムレツ・チーズや鶏の唐揚げおよび餃子等をトッピングしたものなど、種類が多い。

Italian(2) (Mikazuki), Japanese local fast food.jpg
イタリアン tail_furry – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3627405による

イタリアンとは、新潟県の新潟市から三条市・燕市を挟んで長岡市までの地域で独自の、主にカフェテリア型のチェーン店で販売されているファストフード・ジャンクフードで、ご当地グルメの一種である。新潟県民の中でも、とりわけ上記地域の在住者の間では長年に亘って浸透しており、中には県外に出て初めて「新潟だけの食べ物である」と気付く者もいる程である。

■1959年、キユーピーが独立した缶入り商品としてミートソースを発売したことが、家庭によりミートソースを普及させる下地を作った。

八王子ラーメン

昭和34年(1959年)、北野駅前にあった惣菜店が区画整理で子安町に移転することになった。

惣菜屋を続けることが難しいと考えた店主は、ラーメン店を始めることにした。

その当時、ラーメンを出す店といえば、出前もする中華料理店が当たり前だった。

ラーメン専門かつ店内での飲食のみで何かしら特徴を出そうと試行錯誤をしていた時に、北海道旅行で刻んだタマネギが入ったラーメンに出会った。

タマネギの食感を損なわずに辛味を抜いたスープが作れないかと工夫を重ねた結果、ラードの油がタマネギの辛味を抑え甘味を引き立ててくれたという。

そのラーメンを供する店が「初冨士」で、八王子ラーメンの発祥の地とされる。以後、急速にこの形式のラーメンが広がった。

■インスタントラーメンにおいては、1961年に袋麺の日清食品「チキンラーメン プラスカレー」とエースコック「カレーラーメン」が発売されており、カレーとラーメンの融合というコンセプト自体、比較的古い時期から確立されていた。

画像はチキンラーメン プラスカレーではありません 日清 チキンラーメンどんぶり スパイシーカレー 90g ×12個
画像は1961年当時の製品ではありません エースコック 全国ラーメン店マップ 苫小牧編 味の大王 元祖 カレーラーメン 99g ×12個

あんかけスパゲッティは、1961年に愛知県名古屋市で登場したスパゲッティ料理。略称は、「あんかけスパ」。

あらかじめゆで置きしておいた太いスパゲッティを、焼きそばのように、ラードや植物油で炒め、中華料理の餡のような粘性とコクのある辛味の効いたソースがかかった料理である。

この辛味は胡椒をたっぷりと使うためであるが、味のベースはトマト味である。ミートソースを名古屋人好みの味に仕立てようとしてできたと言われる。

後に独立してスパゲッティハウスヨコイを立ち上げる横井博が『そ~れ』で働いていた時期の1961年(昭和36年)に生み出した。

■1963年(昭和38年)には日清食品がインスタント袋麺「日清焼そば」を発売し、ヒット商品となって広まった。

日清食品は「世界初のインスタント焼きそば」としている。

日清焼そば 5食パック×2(合計10食分)

エスカロップは、ケチャップライスまたはバターライスに豚カツを乗せてドミグラスソースを掛けた料理。北海道根室市のご当地料理で、略してエスカとも呼ばれる。

「エスカロップ」の語源は諸説があるが、一般的にはフランス語の「エスカロープ」 escalope (肉の薄切り)とされる。

1963年(昭和38年)頃、根室市の洋食店「モンブラン」のシェフが考案し、短期間のうちに根室市内で普及した。

当初は仔牛肉のソテーあるいはカツレツをナポリタンスパゲッティの上に載せたものであったといわれるが、やがてトンカツを用いるようになり、スパゲッティはケチャップライスに代わった。

これが「赤エスカロップ」の原型である。その後赤エスカを基に白エスカが出現した。ライスには当初マッシュルームが混ぜ込まれていたが、当時の流通の関係により筍に変更された。

■【彦根のちゃんぽん】滋賀県彦根市には、鰹・昆布出汁ベースのスープを特徴とするちゃんぽんが存在する

。主な具材は中太麺とたっぷりの野菜で、通常は魚介類を入れない。長崎ちゃんぽんと違い、具材は炒めずに煮込む。途中でスープに酢を入れて味に変化を加えるのが定番の食べ方である。

1963年に銀座商店街で開業した食堂「麺類をかべ」の店主が、旅先で食べた長崎ちゃんぽんに触発されて独自に開発した。

「麺類をかべ」のちゃんぽんはやがて市内の他の食堂や中華料理店にも広まり、1990年代からは「ちゃんぽん亭総本家」(ドリームフーズ)が「近江ちゃんぽん」のブランド名で県内各地や近隣府県にチェーン展開を行っている。

発祥店である「麺類をかべ」は土地の貸借契約切れのために2012年6月末に閉店したが、閉店前に市内の別の場所で2号店を開き、昔ながらの味を継承している。

■【たらこスパゲティー】1963年から1967年頃、東京都渋谷区にあるスパゲッティ専門店の老舗「壁の穴」で、常連客であった人物から、キャビアを持ってきたので、これでスパゲッティを作ってくれという要望を切っ掛けとして店主の成松孝安が考案したレシピである。

キッカケとなったキャビアを加えたスパゲッティは大変美味であったが、高級食材のキャビアを日常的に店で出すことはできなかったため、安価な代替品を探した結果として、たらこを用いて作られるようになった。上に振りかけられる海苔は、茶漬けに着想を得ているという。

キユーピー あえるパスタソース たらこ (23g×2P)×12個

ひつまぶし櫃まぶし)とは、ウナギの蒲焼を用いた日本の料理である。名古屋めしのひとつ。

あつた蓬莱軒のひつまぶし


歴史
この料理の成立については諸説あり、正確にはわかっていない。

蒲焼のうち、型崩れしていたり[3]切れ端の部分を勿体ないからとご飯に乗せて客に提供したものが始まりだという説が紹介されたこともあるが、その始まりの時期が、まだウナギの養殖が始まる前の質にバラつきがあった頃(明治時代以前)であるとされていたり、第二次世界大戦後の食糧難の時代であるとされていたりと、はっきり特定されていない。

当時の文献としては1964年(昭和39年)に創元社より発行された『名古屋味覚地図』の「いば昇」の項に「櫃まぶし」の記述が確認できる。

津市発祥説
三重県津市の明治8年創業の店によると、うなぎの養殖が始まる前は天然うなぎを使っており、大きさが不揃いで太いものは硬く客に提供できるものではなく、廃棄するのももったいないということで、焼いて細かく刻んでまかないにしたという。

手早く焼くと臭いが残るため、薬味を入れ、お茶漬けにもしたのだろうと推測している。

以上から当時はしかたなく食べるものであったという。メニューとしては名古屋で提供されていることを聞きつけた店主によって昭和50年頃から提供を始めており、津市内の複数の店舗もひつまぶしの問い合わせから提供を開始したという。

名古屋市発祥説
発祥店を名乗る店としては、愛知県名古屋市熱田区の「あつた蓬莱軒」や錦三丁目の「いば昇」があるが、ひつまぶしの成立時期を、「あつた蓬莱軒」は明治時代、「いば昇」は大正時代であったとしており、こちらも相違が見られる。

ひつまぶしの成立に関して「あつた蓬莱軒」は、当時鰻飯を1人前ずつ瀬戸物の丼に盛って提供していたが、出前が多かったことに加え、出前持ちが出前を下げに行く際に空の丼を割って戻ってくることが頻繁にあったため、器を大きめで割れにくい木の器(お櫃)にし、かつ複数人分をその器に盛って取り分けるようにしたのが始まりであるとしている。

■【アメリカンコーヒー】アメリカン・コーヒーという名称は、日本で使われる呼称であって、世界基準となる珈琲鑑定士用語には存在していない。

また、アメリカ人は自国のコーヒーについて「アメリカンコーヒー」と呼称しない し、21世紀のアメリカではスターバックスに代表されるシアトル系コーヒーなどのエスプレッソ等も好んで飲まれるようになっており、薄いコーヒーを見つけることのほうがむしろ困難である。

由来としては、「1964年東京:芝田村町の、とある石油会社ビル内の地下で営業している某喫茶店において、日本のコーヒー(当時深煎りが主流であった)を何杯でも飲めるようにというアメリカ駐在帰りの会社員の客からのリクエストに応え、コーヒーカップより一回り大きいミルクカップにコーヒー豆の量を少なめにして淹れることで、浅煎りのコーヒーに見立てた」という説や、「1966年に設立された日本珈琲販売共同機構を本部とする珈琲専門店フランチャイズ『コーヒーハウスぽえむ』が日本(世界的にも)で初めてメニューとして登場させた」説、アメリカ中西部では石灰岩層の影響で水質が強いアルカリ性であるため、移民たちが飲用に中和させる目的で浅煎りのコーヒー豆を使用した[9] 説など、複数の説が存在する。

大森洋平『考証要集』(文春文庫)にはミリタリー・ライターの菊月俊之の説が紹介されている。「これは第二次大戦中、米国内でもさすがに物資が不足したために、コーヒー豆の節約法として考案された飲み方という(『月刊コンバットマガジン』2011年)」

アバンス アメリカンコーヒー 粉 500g×2個

中濃ソースは1964年にキッコーマンから発売されたものが最初である。

キッコーマン食品 デリシャスソース中濃 500ml

この頃から、日本の家庭の食卓が洋風化したことにより、消費量が拡大し、多くの家庭に常備されるようになった(東日本では中濃ソースが、西日本ではとんかつソースとウスターソースの併用が普及した)。

家庭だけでなく、大衆食堂では、醤油とともに食卓上に常備されていることが多い。

カレーラーメン(諸説あり)

北海道発祥説
北海道においては、苫小牧市の「味の大王」が1965年に、札幌でブームとなった味噌ラーメンに対抗するために始めたのが最初とされる。

発祥とされる苫小牧市では「とまこまいカレーラーメン振興局」が地図を作成するほかプロモーション活動を行っている。

「味の大王 室蘭本店」の「室蘭カレーラーメン」 切干大根 – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=73121792による 
元祖 味の大王 カレーラーメン2人前

■【ホワイトシチュー】1966年(昭和41年)、ハウス食品から発売された粉末ルウ「クリームシチューミクス」がヒット商品となったことで、この料理の名は「クリームシチュー」として定着するに至った。

画像はイメージです ハウス シチューミクス(クリーム) 180g×2個

なお、開発者はこの商品を作るにあたってアイリッシュシチューを参考にしながらも、給食の延長線上にあるごはんによく合うシチューを目指したという。

ポッキー(和製の欧字綴りおよび英語名:Pocky)は、日本の菓子メーカー・江崎グリコが1966年(昭和41年)から発売しているチョコレート菓子で、同社の登録商標(第3103630号他)である。

江崎グリコ ポッキーチョコレート 2袋×10個

ミルメークは、大島食品工業株式会社(本社:愛知県名古屋市守山区)の製造する牛乳用調味料で、同社の登録商標(第1097971号)である。

1967年(昭和42年)に「コーヒー牛乳の素」としてミルメーク(粉末タイプ)を発売した。牛乳が苦手でもミルメークを混ぜると飲める子供が増えたため、全国の学校給食に普及した。

ミルメークコーヒー 120g×4袋

当初はコーヒー味、いちご味、ココア味といった粉末状の商品のみだったが、テトラパック牛乳の普及に伴い、1978年(昭和53年)ストロー差し込み口から注入できるチューブ入りの液体タイプも開発された。1993年(平成5年)からは市販展開によりスーパーや百円ショップで店頭販売されている。

味噌カツ(みそカツ)は、豚カツに味噌をかけた料理。中京圏で供する飲食店が多い。

八丁味噌などの豆味噌のベースに店によって鰹出汁、砂糖など様々なものを加えた独自のタレを豚カツにかけたもの。一つの惣菜として並ぶこともあれば、カツ丼やカツサンドの形で用いられることもある。味噌ダレは東海地方を中心に市販され、味噌カツだけでなくおでんにも用いられる。

味噌カツ定食。タレは八丁味噌。西三河の飲食店にて。

1967年(昭和42年)に刊行されたガイドブックに、中区錦三丁目にあった「和食レストラン なごや」が、八丁味噌をベースにしたソースを豚カツにかけて提供している旨の記述があり、またその後1970年代に刊行された他の書籍などでも、名古屋市内や尾張地方周辺の店舗で広く提供されている旨の記述がなされている。

起源に関しては、平皿の上に豚カツを載せ、その上から味噌ベースのソースをかけた形態の味噌カツは三重県津市の「カインドコックの家 カトレア」が1965年(昭和40年)に考案したものであると店主自ら名乗りを上げており、これを味噌カツの発祥とする説があり、いくつかの書籍がこの説を紹介しているが、かかっている味噌ダレが津市と名古屋市で違うことから、三重県民の間で、同名の別物であるとする受け止め方があるという記述のある文献もある。

なお、カトレアの味噌ダレがカツオなどのきいた甘くゆるめのものなのに対し、名古屋の味噌ダレは、赤味噌の色を濃く残した、こってりとしたものが多い。

名古屋の味噌カツのルーツは戦後間もない屋台で、客が串カツを赤味噌で煮込んだどて煮に付けて食べていた事から味噌カツが誕生したとの説もある。

「名古屋めし」の一つとされる。

■日本ではブイヨンと混同され、「西洋料理に用いる出汁」全般がコンソメと呼ばれることもある。

非常に多くの材料と長い時間を要するため(500グラムもの肉を用いても、250グラムほどのコンソメスープにしかならないようなものすらある)、家庭では肉や野菜などから作ることが少なく、固形状の「コンソメスープの素」を溶かしてコンソメ味を作ることがほとんどである。

なおこういった混同の理由については、味の素の定番商品である固形ブイヨン「コンソメ」(商品名)の存在が挙げられる。

味の素 コンソメ 固形 21個入×2個

この1967年に発売された固形ブイヨンは、定番商品として黄色と赤のパッケージがスーパーマーケットやコンビニエンスストアでも必ずといって良いほどに見られるが、野菜などの煮込み料理で味付けに使ったり、そのままカップの湯に落として溶かし(好みで乾燥ワカメを入れたり胡椒などを少量利かせるなどして)コンソメ風のスープとしても飲めるものとしても販売されつづけている。

■【焼きラーメン】1968年に福岡県福岡市天神で創業した屋台「小金ちゃん」が発祥と言われ、人気も高い。

茹でたラーメンの麺に豚骨スープと特製ソースを絡めて鉄板で焼いた料理である。暑い時期にスープを飲めない客のための初代店主が考案した。

博多屋台の名物料理 小金ちゃん焼きラーメン (2食入り)

■【ケンタッキー・フライド・チキン】日本では1968年7月に設立。1970年3~9月の日本万国博覧会に実験店を出店。同年11月より店舗展開している。

日本における提携先・マスターライセンシーは日本ケンタッキー・フライド・チキン。

地方によって呼び方が変わる。「ケンタ」は関東、東北地方なのに対し、東海地方以西は「ケンチキ」と呼ぶ人が多い。

KFCⓇ 50th Anniversary やっぱりケンタッキー! (TJMOOK)

■1968年 えびおろしは、名古屋めしの一種。

出汁を注いだ蕎麦・きしめん・うどんの上に大根おろしをかけ、さらに海老の天ぷらを乗せたもの。麺類の温かい・冷たいは問わないが、一般的には冷たいものの方が多い。

大ぶりな海老の天ぷらを乗せるためか、底の浅い平らな丼を器とすることが多い。

1968年に橋爪淳が愛知県名古屋市瑞穂区で「えびすや」を開業(現在は愛知県海部郡大治町で「えびすや大治店」を営業)し、新メニューとして考案されたのが始まりであり、店主の橋爪淳が独立して開業する前に、「えびすや本店」(名古屋市中区)で、修業していた時、賄い料理として大根おろしをのせたうどんと、客からのリクエストでざるうどんにえび天を乗せていたことから、えびおろしの発想を思いついた

■【ミスタードーナツ】日本での略称は「ミスド」。1971年に日本での事業を開始しており、ケンタッキーフライドチキンやマクドナルドなどと同じく、日本国内では最も早い時期に営業を開始したフード系フランチャイズチェーンにして、最大規模のドーナツチェーン店である。

ドーナツを主力商品とするが、それ以外のさまざまな食品も扱うファストフード店として知られる。全店舗のうち直営店は少数で、大半の店舗がフランチャイズ店として運営される。

日本国内における運営会社は、大阪府吹田市豊津町に本社を置くダスキンであるが、ミスタードーナツ事業本部は隣の芳野町にある。

まったくの異業種である同社がドーナツ事業に進出したきっかけは、創業者の鈴木清一がアメリカでハリー・ウィノカーに出会い、意気投合したことから始まる。

また、ダンキンドーナツが日本へ進出した際、鈴木が「うち(ダスキン)と似た名前のドーナツ屋があるらしいので、間違えてドーナツは無いのかと客に言われる前に作ってしまおう」と言った冗談をきっかけに、本当に米ミスタードーナツと提携した、という説もある。

リカちゃん ミスタードーナツへようこそ!

■日本マクドナルド株式会社(にほんマクドナルド、英語: McDonald’s Company (Japan), Ltd.)は、アメリカ・マクドナルドのフランチャイズ企業。

ハンバーガーチェーンのマクドナルドを経営する企業藤田商店の社長(当時)藤田田がアメリカよりフランチャイズ権を獲得。

マクドナルド子会社・日本マクドナルド株式会社を設立し、1971年(昭和46年)7月20日に、第1号店である銀座店を銀座三越店内に開店した。

日本マクドナルドは米国マクドナルドと藤田商店との合併企業であり、前者が製造と販売のマニュアル・技術の提供、後者がマネージメント提供、出資率は折半、「社長以下全社員が日本人」、ロイヤリティは双方とも1%という異例の取り決めだった。

当初マクドナルド本社からは、アメリカと同様な郊外型の店舗で展開するよう指示があった(交通量の多い神奈川県茅ヶ崎市を希望したといわれる)。

しかし、1号店として郊外でなく東京都中央区銀座にこだわったのは、「(開店当時は)銀座が流行の情報発信基地だ、銀座で話題になれば商売も必ず成功する」と踏んだ藤田の発案による。

マクドナルドで学んだ最強の人と組織の育て方

■カップヌードル

日清食品が1971年(昭和46年)9月18日から発売しているカップ麺。

日清食品 カップヌードル 78gx20個

■【台湾ラーメン】1970年代に、名古屋市千種区今池にある台湾料理店「味仙」(みせん)の台湾人店主である郭明優が、台南名物の担仔麺(担通麺、タンツーメン)を元に賄い料理として作ったのが起源とされる。

台湾ラーメン(たいわんラーメン)は、主に中京圏で供されるラーメンの一種である。「台湾麺」とも。豚挽き肉・ニラ・長ねぎ・モヤシなどをトウガラシで辛く味付けして炒め、醤油ベースのスープを加えて茹でた麺にかけたもので、大量のニンニクを入れるのも特徴。

「台湾」と名付けられているが発祥は愛知県名古屋市で、名古屋めしの一種とされ、台湾では「名古屋拉麺」と呼ばれている。

台湾ラーメン 小太刀 – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=827917による

郭明優は1970年代初期の時、友人と一緒に故郷の台湾に旅行で行き、台湾で担仔麺を食べて、日本に帰った後に、友人から台湾で食べた担仔麺を日本でも食べたいから作ってくれという事で、色々研究して担仔麺を作ろうとしたがなかなかうまくいかず、郭明優自身が辛い食べ物が好きという理由でトウガラシやニンニクなどを炒めたりアレンジを加え、混ぜてみたりして従業員のための賄い料理として振る舞っていた。

郭明優の友人でもある店の常連客が、ピリ辛の担仔麺の賄い料理を見て美味そうだから作ってくれと頼まれて作ってあげたところ、美味いからメニューに加えた方が良いと説得され、店に出す事になった。

「台湾ラーメン」の名前の由来は、店に出す際に郭明優がネーミングをどうしようかと考えた時、故郷の台湾で担仔麺を食べて、担仔麺を日本で作ろうとした事から、台湾の麺料理の繋がりにより、命名したという。担仔麺を名古屋人の好みに合わせて味付けを辛くしたものであり、1年近くの試行錯誤の研究の末の1971年頃に完成したという。

■カレーラーメンの存在を一躍有名にし、メニューを定着させたのが、1973年発売の日清食品「カップヌードル カレー」であった。

これ以降、各社から様々なカレーを取り入れたインスタントラーメンが発売されている。

日清 カップヌードル カレー 87g×20個

■初のカップ焼きそばは、1974年(昭和49年)7月に発売された恵比寿産業「エビスカップ焼そば」であり、続いて同年8月にヤマダイが「ニュータッチ焼そば」を発売[、同年12月にエースコックが「カップ焼そばバンバン」を業界初の縦型容器で発売、1975年に東洋水産が「マルちゃん やきそば弁当」、同年3月に「マルちゃんホット焼そば」、同年同月にまるか食品が「ペヤングソースやきそば」を業界初の角型容器入りで発売、同年4月に日清食品が「ジョイカップ101焼そば」を発売、と各メーカーから新発売されている。

当時の製品ではありません ニュータッチ 大阪 かす焼そば 127g ×12個

1976年5月には日清食品が日清焼そばU.F.O.を発売。翌1977年に「日清焼そばU.F.O.」はテレビCMにピンクレディーを起用してから爆発的人気となり、当時のカップ焼きそばにおけるシェア60%超を獲得した。

日清食品 焼そばU.F.O. 128gx12個

■肉じゃが(にくじゃが)は、日本の煮込み料理の一つである。「肉じゃが」と呼称されるのは、1970年代中盤以降とされる。

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■全日本冷し中華愛好会は、1975年(昭和50年)に、山下洋輔、筒井康隆、タモリなどによって結成された”団体”。

略称は「全冷中」。冬に冷やし中華を食べられないことに憤慨した山下が、周囲に呼びかけて結成した。

1977年(昭和52年)と1978年(昭和53年)に『冷し中華祭り』というイベントを開催した。

ところが冷やし中華用スープを製造し、祭りのスポンサーにもなっていたヒゲタ醤油に山下の兄が勤務していたため、『会長とスポンサーの黒い癒着』が疑われることとなり、山下は「自分がこのまま居座ると会の発展を阻害する」として第1回の『冷し中華祭り』の場で辞意を表明し、筒井康隆が2代目の会長となった。

また全冷中は会報『冷し中華』を発行した。その内容は書籍『空飛ぶ冷し中華』・『空飛ぶ冷し中華 part2』にまとめられた。執筆者は、山下洋輔、筒井康隆、奥成達、平岡正明、坂田明、日比野孝二、河野典生、上杉清文、山口泰、伊達政保、舎人栄一、岡崎英生、瀬里なずな、小山彰太、池上比沙之、堀晃、黒鉄ヒロシ、赤瀬川原平、高信太郎、長谷邦夫、南伸坊、末井昭、長谷川法世、タモリ、吉峯英虎、赤塚不二夫、高平哲郎、朝倉喬司。

■1975年(昭和50年) – 名護でソーキそばが誕生。

麺が自慢のソーキそば 3食箱入り

■ナタ・デ・ココ(スペイン語: nata de coco)とは、ココナッツ果汁を発酵させてゲル化した、フィリピン発祥の伝統食品である。

[トクホ]伊藤園 ナタデココ ヨーグルト味 (缶) 280g×24本


日本においては、1970年代後半にデルモンテがフルーツ缶に入れたのが最初とされる。

その後、食品会社のフジッコがデザートとして商品化したが、当初はまだナタ・デ・ココが一般的になっておらず停滞気味だった。

1992年7月に大手ファミリーレストランチェーンのデニーズがメニューに加え、1993年春以降にマスコミで大きく取り上げられたことにより大流行した。

缶詰や瓶詰として単独で販売されるようになったほか、各種食品、飲料と組み合わせて、デザートや菓子として販売されている。

タピオカティー(中国語: 珍珠奶茶、英: bubble tea、black pearl ice tea)またはパールミルクティーは、ミルクティーに大粒のタピオカパール(スターチボール)を入れた台湾発祥の飲料。タピオカパールをストローで吸い込む感覚と、弾力のある食感(台湾ではこれを「QQ」と表現している)を楽しめるのが特徴。主に冷たくして飲むが、ホットのものもある。

ミルクティー以外にタピオカを入れる飲み物はタピオカドリンクと呼ぶ。

珍珠奶茶【24本セット】 タピオカミルクティー パールミルクティー 315mlX24本 台湾産

タピオカティーの発祥には二つの説がある。一つ目は1983年に台湾・台中市の喫茶店、春水堂のオーナーである劉漢介が「清涼飲料水に対抗できるような中国茶」として誕生させたという説。二つ目は台南市の喫茶店、翰林茶館のオーナー涂宗和が由来であるという説である。

この二店はいずれも「タピオカティーの元祖」を名乗っており、のちに両者が10年間にわたり裁判で争う事態にまで発展した。

日本では1990年代後半ごろから快可立 (Quickly) やEasyWayなど台湾チェーン店が進出してきた事によりタピオカティーの知名度が一気に高まった。

また中華街の店頭で製造販売しているほか、2000年ごろからコンビニエンスストアの棚にも並ぶようになった。

丸大食品の子会社・安曇野食品工房が製造する珍珠奶茶(別名・Q-PON〈キューポン〉、現名称・タピオカミルクティー)は2002年11月発売で、タピオカパールが食べやすいように太いストローが付いている。

日本では2018年から2019年に渡って流行しており、これは第3次タピオカブームと言われている。

■1984年 東洋水産が北海道限定でカップ麺の焼きうどんを発売。

■【南部はっと鍋】はっと自体は古くから存在する郷土料理であるが、地元でとれる海産物と地元の有名な南部鉄器を用いた新しい郷土料理として1987年(昭和62年)に考案されたものである。

南部はっと鍋 Awoono – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=48446383による

フォンダン・オ・ショコラ(フランス語: fondant au chocolat)は、フランスのチョコレートケーキである。日本語では「フォンダン・ショコラ」「フォンダント・ショコラ(こちらの方がフランス語の発音に忠実。fondant と au の間でリエゾンが発生するため)」などと表記されることがある。fondant は「溶ける」という意味の動詞 fondre の現在分詞に由来する男性名詞である。

ケーキ生地の中心にガナッシュチョコレートを入れて焼くため、焼成後に割ると中からチョコレートが溶け出すのが特徴。

米国を拠点とするシェフのジャン・ジョルジュ・フォンゲリヒテン(Jean-Georges Vongerichten)は、1987年にニューヨーク市で溶かしたチョコレートケーキを発明したと主張していますが、フランスのシェフでチョコレート職人のジャックトーレスは、そのような料理がすでにフランスに存在していたと主張して異議を唱えている。

■2003年、エースコックの大盛カップ麺「スーパーカップ」に、即席麺として初めて鴨南蛮が登場した。

■スパゲッティを両端から曲げると高確率で3本以上に分割されることが経験上知られていたが、理由についてはリチャード・P・ファインマンなどの物理学者が取り組んだものの長らく不明のままだった。

この現象を研究したピエール・アンド・マリー・キュリー大学の研究者は2006年のイグノーベル賞物理学賞を受賞している。さらに2018年にマサチューセッツ工科大学の研究者らが、捻ることで2つに折れると明らかにした。

バリラ No.5 スパゲッティー 5kg [並行輸入品]

台湾まぜそばとは、愛知県名古屋市を発祥とするラーメンの一種である。名古屋めしの一種とされる。

麺屋はなびの台湾まぜそば

2008年(平成20年)に愛知県名古屋市中川区に本店を持つ麺屋はなび高畑本店にて発祥した。

同店の主人が名古屋市発祥の名物料理「台湾ラーメン」を作ろうと思い、具材の台湾ミンチを作るも当時のスープに合わず断念。

作ったミンチを捨てようとしたところ、当時勤務していたアルバイトの1人に「茹で上げた麺にかけてみたらどうでしょう?」と言われたのが始まりとされる。

それをきっかけに研究し、何度もの試行錯誤を繰り返して現在の台湾まぜそばが完成した。

現在では台湾ラーメンと同様に、名古屋めしの一種となり、東海圏のみならず、近畿圏・関東圏でもさまざまな店が各店の特徴を加えながら提供している。

2013年の名古屋めし総選挙では準グランプリを受賞し、当時の名古屋市長である河村たかしから表彰された。

日清食品冷凍より、冷凍食品として商品化された。

【冷凍】日清 日清の台湾まぜそば X6袋

■【豊橋カレーうどん】観光コンベンション協会が、地域おこしのために2009年夏頃から構想していたメニューを地元の麺類組合に開発を依頼。ご当地グルメによる地域おこしがブームになっていること、豊橋市のうどんは100年以上の歴史があり、うどんの消費量も多いことなどに着目して企画された。

豊橋市と商工会議所の協力の元、8回の試食を経て、2010年4月24日に、豊橋市内の40店で発売された。

Toyohashi Curry Udon, at Mikawa no Sato 1.jpg
豊橋カレーうどんの一例。みかわの郷カルミア店にて Lombroso – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=17885125による

発売直後のゴールデンウィークの観光客に好評で、2週間でうどん店の売り上げが2割伸びたことから、町の活性化に効果があったと報じられている。

作り方の特色は、丼の底の方にとろろご飯をよそい、その上からカレーうどんが盛りつけられていることである。普通のカレーうどんでは食べた後に残ってしまう出汁を、カレーライス・カレー雑炊として美味しく食べきれるように工夫された。

先にうどんの層だけを食べることで、2種類の違った味が楽しめる。ご飯を後から入れるのには抵抗を感じるという人にも配慮したという。食器が一個の丼で済むため、イベントでの提供が容易というメリットもある。

丼の中には、とろろご飯が入っている Lombroso – 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=17885127による

油味噌かつサンド(あぶらみそかつサンド)は、沖縄都市モノレール線(ゆいレール)の那覇空港駅で「日本最西端の駅弁」として販売されているカツサンド。

2012年(平成24年)8月10日に販売を開始した。

■【煮こじ蕎麦

長野県佐久地方の郷土料理の「煮こじ」という煮物と信州蕎麦を一緒に食すもので、佐久商工会議所が平成25年(2013年)に考案した新作料理。温かいタイプや冷たいタイプ、煮こじが麺の上に乗ったものや、様々なものがある

煮こじ蕎麦

「らいあん・はぎわら」のホームページより http://www.raian-hagiwara.com/m-nikojisoba.html

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