YouTubeで観るアニメの歴史 幻燈から1960年代へ
原点に戻るのも良いかと思いまとめてみました。
60年代の日本のテレビアニメを追加しました。量が膨大なので一度1960年代で区切ります。
※文章は基本的にWikipediaによりました。
■ジョゼフ・ニーダムによれば、2世紀の中国で既に幻灯機が文献に現れているとされている。
西洋では15世紀以前からランタンによってイメージを拡大投影する装置が作り出されていたが、それにレンズとスライドの機構を取り入れた幻灯機の再発明には、イエズス会のアタナシウス・キルヒャーと、オランダ人プロテスタントのクリスティアーン・ホイヘンスが貢献したと言われている。
17世紀半ばに登場したは幻灯機はヨーロッパ各地に拡がり、旅芸人や修道士、学者、眼鏡商などによって興行や布教、講演などに使用された。1670年代にはイエズス会士クローディオ・フィリッポ・グリマルディ(ノルウェー語版)が中国の皇帝の前で上演を行った記録がある。
18世紀にはオランダの数学者ピエール・ファン・ムッセンによって投影されるイメージを動かす方法が考案され、スモークや恐怖を煽る音楽など奇術的な効果を組み合わせたファンタスマゴリアというショーに発展した。ファンタスマゴリアはパリで大流行し、その模倣はヨーロッパ全域に拡がった。
イギリスでは幻灯機を使った巡回上映が盛んとなった。スライドには特殊効果を施したものもあり、複数枚のスライドを重ねたり、一部を回転させたりといった手法が用いられた。子供に人気のあった有名なものとして、The Rat Swallowerがある。これはラットが列をなして眠っている男の口に飛び込んでいくという内容であった。ナポレオン戦争のころには、イギリスの戦艦とフランスの戦艦が戦ってフランスの戦艦が沈むという愛国心をかきたてる内容のものが人気となった。
■日本に幻灯機が知られるようになったのは18世紀と言われ、たとえば1779年(安永8年)に刊行された手品の解説書『天狗通』には「影絵眼鏡」の名称で幻灯機が紹介されている。
1803年には幻灯機を使ったオランダ渡来の「エキマン鏡」という見世物が行われ、それを見た都屋都楽が「写し絵」という名で寄席に取り入れ、以来幻灯は寄席芸として成立した。
■ソーマトロープ(英: Thaumatrope)とは、ヴィクトリア朝時代に一般的だった玩具の一種である。円板やカードの両面に絵を描き、2本の紐を取り付ける。紐を両側から持って素早く振り回すと、円板が回転することで両面の絵が交互に見え、残像現象によって1つの画像に見える。割り箸などで円板を挟み、両手で竹とんぼの軸のように回転させる形状もある。
ソーマトロープの発明者は一般に、イギリス人医師 John Ayrton Paris と言われている。彼は1824年、ロンドンの英国王立医科協会で視覚の性質をデモンストレーションするのにソーマトロープを使った。
■1831年にフェナキストスコープが発明された。
■1834年に回転のぞき絵(ゾエトロープ、ゾートロープ、英: Zoetrope、仏: Zootrope)が発明された。
■1877年、フランスのエミール・レイノーがプラキシノスコープ(英: Praxinoscope)を発明した。
■エドワード・マイブリッジ(Eadweard Muybridge、1830年4月9日 – 1904年5月8日)は、イギリス生まれの写真家。本名はエドワード・ジェームズ・マガーリッジ(Edward James Muggeridge)。
1872年、カリフォルニア州元知事リーランド・スタンフォードは、当時一般に議論されていた、ギャロップする馬の脚運びについて、4本全ての脚が地面から離れる瞬間があるという立場をとっていた。彼は友人との間でこれについて賭けをしており、最高で25,000ドルの勝負であったという話もあるが、確たる証拠はない。 スタンフォードはマイブリッジに2,000ドルで写真の撮影を依頼した。
1秒で約17m移動する馬の一瞬を撮影するためには、シャッタースピードは高速でなくてはならず、大口径レンズと高感度の感光材料が要求される。 写真用レンズについては1843年にはフォクトレンダー父子商会からペッツヴァールタイプF3.7が販売されていたが、感光材料であるコロジオン湿板は感度が低く、晴天の日でも秒単位の露出時間を要した。
彼は写真感度向上のための化学研究を行い、電気技師のジョン・D・アイザクスと協力して写真装置を制作、結局5年と5,000ドルを費やし、1877年の7月1日に一枚の写真を撮影、議論に決着をつけた。
連続写真
さらに翌年の1878年6月15日にはこの装置を等間隔に12台並べ、疾走する馬の連続撮影を成功させた。
シャッターは当初ゴムやスプリングを用いたものであったが、後には安定して高速度を得るために電気式のものに改良された。 これにより露出時間は1/1,000秒~1/6,000秒が得られた。
レンズはダルメイヤー製、焦点距離90mm、レンズ口径32mmが用いられた。
この馬の撮影はそれまでヨーロッパの絵画表現において支配的であった、前足は前方に、後ろ足は後方にそれぞれ伸ばして走るというのが事実とは異なっていることを示しただけでなく、得られた連続写真を用いて動的錯覚をもたらしたことで衝撃を与え、喝采を浴びた。
まずゾエトロープと組み合わされ、次に幻燈機のように投影するための装置が作られた。図像がディナー皿程度の大きさのガラスの円盤の縁に沿って並んでいるもので、「ズープラクシスコープ」と呼ばれた。投影されたのは実のところ写真ではなく、写真をもとに描かれた絵であった。1879年にスタンフォードと友人らを相手に上映され、サンフランシスコで一般にも公開された。スタンフォードの出資により、パリとロンドンでの講演旅行も行われた。
この連続写真を見たトーマス・エジソンは大いに触発され、後に映写機キネトスコープを発明することになる。これがシネマトグラフにつながり、映画が誕生することになる。
Muybridge’s Zoopraxiscope
■1892年にフランスで作られたエミール・レイノーの『哀れなピエロ』(原題:Pauvre Pierrot)を初めとする一連の作品がある。
しかし、レイノーの作品は純粋な意味での映画ではなく、テアトル・オプティークと呼ばれるゼラチンフィルムに別々に描かれた手書きの人物と背景をプロジェクターで同時にスクリーンに投影する装置によって上映されていた。
■1899年 Matches: An Appeal(イギリス)アーサー・メルボルン・クーパーによる、マッチ棒によるコマ撮りアニメーションを用いた広報映画。世界最初のコマ撮りアニメーション映画。
■1902年のジョルジュ・メリエスによる『月世界旅行』の最後の、ロケットが港に戻るシーンで、すでに切り絵アニメーション(静止した背景画の前で、船の切り絵を少しずつずらしてコマ撮りする)が用いられ、これが映画のコマ撮り(ストップモーション)によるアニメーショントリックである。
[日本語字幕]『月世界旅行』(1902)”Le Voyage dans la Lune / A Trip to the Moon”
■1906年
アメリカのジェームズ・スチュアート・ブラックトン(英語版)監督による『愉快な百面相(英語版)』(1906年、原題:Humorous Phases of Funny Faces)。
これは黒板に白チョークで描く実写と、そのコマ撮りを組み合わせた線画アニメであり、この最後のピエロの部分では白い枠線の切り絵がチョークアニメーションと組み合わされて用いられている。
■1907年 『幽霊ホテル』ザ・ホーンテッドホテル(The Haunted Hotel )
■実写部分を含まない世界最初の純粋な短編アニメーション映画は、フランスの風刺画家エミール・コールによる『ファンタスマゴリ』(1908年、原題:Fantasmagorie)である。
■1908年 彫刻家の悪夢(The Sculptors Nightmare)
■1908年 Hôtelélectrique(電気ホテル)
Hôtelélectrique(スペイン語ではEl hoteleléctrico:The Electric Hotel)は、1908年フランス語のコメディファンタジー映画で、セグンド・ドゥチョモンが監督し、パテフレールが制作しました。
この短編映画は、1907年のアメリカの短編映画「The Haunted Hotel」に触発されたようです。
■日本で最初に封切られたアニメーション映画は1912年(明治45年)4月に東京市の映画館で公開されたエミールの作品『ニッパールの変形』(1911年、原題:Les Exploits de Feu Follet)といわれる。
■『リトル・ニモ』(1911年、原題: Little Nemo)
マッケイにより、1911年4月8日に2分の短編映画が作られ、その中に、動くニモも2シーンに登場する。
内容は、
葉巻オヤジ(フリップ)と土人(イムプ、『ニモ』より前の作品『ジャングル・イムプ』のキャラクター)が、唐突にケンカしたあと、ニモの左右で縦に延びたり縮んだりする。
そのあと、ニモが女王とドラゴンの口に乗っていなくなる。
別の紳士が、落ちてきた葉巻オヤジと土人につぶされる。
つまり、4シーンがバラバラで、ニモは主人公ではなく、物語にもなっていない。
フィルムに直接マッケイが彩色したフルアニメーションで、4千枚の絵をマッケイ自身が描いてコマ撮りしたという。
だが、これはマッケイが大げさに言っている。1秒30コマでも枚数の計算が合わない。
この作品はマッケイのボードビル(舞台公演)の出し物として製作されたが、映画館でもマッケイが登場する実写部分を追加した上で、『ニューヨーク・ヘラルド紙の人気漫画家ウィンザー・マッケイとその動く漫画(Winsor McCay, the Famous Cartoonist of the N.Y. Herald and his Moving Comics)』の題で上映された。
■1912年 The Cameraman’s Revenge
カメラマンの復讐(ロシア語:Местькинематографическогооператора)は、WładysławStarewiczが監督、執筆した1912年のロシアの実験的なストップモーションアニメーションショートフィルムです。
Starewiczの他の作品とともに、すべてのキャラクターを描写する関節式のストップモーション人形として実際の乾燥した昆虫標本(カブトムシ、バッタ、トンボなど)を使用することで、ストップモーションアニメーションの歴史の中で際立っています。
■1914年にはセル画によるアニメーション技術がアール・ハード(英語版)によって開発、特許申請される。しかし、当時、一般には、背景を印刷した紙にペン描き、というのが、一般的だった。
背景を印刷した紙にペン描きした作品の一例『クレイジー・カット』シリーズ(1916年、原題:Krazy Kat)
■『恐竜ガーティ』(Gertie the Dinosaur)は、1914年に製作されたアメリカのアニメーション映画。
製作・脚本・監督・アニメーター:ウィンザー・マッケイ
ガーティは、世界最初の個性を備えたアニメーションキャラクターとして評価されている。
■1915年 The Dinosaur and the Missing Link: A Prehistoric Tragedy(恐竜とミッシングリンク:先史時代の悲劇)
恐竜とミッシングリンク:先史時代の悲劇は、ウィリス・オブライエンによってストップモーションでアニメーション化された1915年のアメリカのコメディサイレント映画。
この映画は、トーマスエジソンの映画会社コンクエストピクチャーズによって1917年に配布された。
■世界初の純粋長編アニメーション映画は1917年にアルゼンチンのキリーノ・クリスティアーニによって製作された。
クリスティアーニは世界最初の純粋な切り絵アニメーションの制作者でもある。
■日本では大正期にかけて外国から輸入されたアニメーション映画の人気を受けて、天活(天然色活動写真株式会社)で下川凹天が、小林商会で幸内純一が、日活で北山清太郎が独自にアニメーション制作を開始。
1917年(大正6年)1月、下川が手がけた短篇アニメーション映画『凸坊新畫帖 芋助猪狩の巻』が公開され国産アニメーション映画の第1号となったが、他の2人との差は数カ月程度でそれぞれ独自の方法で製作しているため、3人とも日本のアニメーションの創始者として扱われている。
3作品はいずれも1917年に公開されたが、現存するのは幸内純一の『なまくら刀』のみである。
■1919年 ロトスコープ
モデルの動きをカメラで撮影し、それをトレースしてアニメーションにする手法。マックス・フライシャーにより考案され、短編アニメーション映画『インク壺の外へ』で初めて商業作品に使用された。
この装置を使って、フライシャー兄弟は1919年にブレイ・スタジオと契約し、『インク壺の外へ(原題:Out of the Inkwell)』と題されたシリーズ作品を制作した。この作品には、フライシャー兄弟による最初のキャラクターである道化師ココが登場する。
■『ロスト・ワールド』(英: The Lost World)は、アーサー・コナン・ドイルの『失われた世界』を元にした、1925年のアメリカ映画(無声映画)。55分。完全版は100分。
ストップモーションや特殊メイクを積極的に使用、当時としては非常にリアルな「異世界と、そこに生きる生物達」を描き、大ヒットを記録。本作品の成功が、同様に特撮映画の古典である『キングコング』へ、ひいては特撮映画(モンスター映画)というジャンルの定着へと繋がっている。
監督:ハリー・O・ホイト
原作:アーサー・コナン・ドイル
特殊効果・技術監督:ウィリス・オブライエン
★SFXはウィリス・H・オブライエンが担当、7年がかりで撮影している。なお、1960年には、本作のリメイク映画『失われた世界』が公開され、ウィリス・H・オブライエンの名もクレジットされている。
■サウンドトラックは、元来はトーキーが実用化された際、フィルムの長手方向に画像コマとは独立に設けた音声用トラックを指した技術用語である。
台詞・効果音・BGMなどが含まれ、上映に際して再生される。この方式を使って公開された最初の映画は、1926年公開のフライシャー・スタジオ製作の映画『なつかしいケンタッキーの我が家』である。
■『飛行機狂』(ひこうききょう)、『プレーン・クレイジー』(原題:Plane Crazy)は、ウォルト・ディズニー・プロダクション(現:ウォルト・ディズニー・カンパニー)が制作したアニメーション短編映画作品。
ミッキーマウスの短編映画シリーズ、そしてディズニーの最初期の一作品である。
当初サイレント映画として作られた本作品は1928年5月15日に試写された。しかし、当時の他のサイレントアニメーション映画と特に代わり映えするものではなく、配給会社には相手にされなかった。
トーキー映画の『蒸気船ウィリー』 (Steamboat Willie) がヒットしたのち、本作もそちらに合わせトーキー映画として作り直され、シリーズ3作目として初めて一般に公開された。制作から10か月が経過した1929年3月のことであった。
■1928年9月には ポール・テリー が同期音声つきアニメ映画 Dinner Time を公開。
■『蒸気船ウィリー』(じょうきせんウィリー、原題:Steamboat Willie)は、1928年11月18日にアメリカ合衆国で公開されたディズニー制作の短編アニメーション作品である。
ウォルト・ディズニーは社運を賭けた博打に打って出て、自身初のトーキー短編アニメーション『蒸気船ウィリー』(原題:Steamboat Willie)を公開した。
配給業者さがしに難航した本作であるが、封切られてからはプレスや観客の評判を呼び、映像と音声を完璧にシンクロさせた画期的・独創的な手法が評価された。
■1929年 Max Fleischer’s Screen Song Cartoon
■1930年8月9日に、フライシャー兄弟による『トーカートゥーン』(原題:Talkartoon)シリーズ6番目の作品『まぶしい皿』(原題:Dizzy Dishes)で、ベティ・ブープは銀幕へのデビューを飾った。
■彼女が正式に「ベティ・ブープ」の名を授けられたのは、1932年の短編映画『花形ベティ』(原題:Stopping the Show)からである。また、この短編は『トーカートゥーン』シリーズではなく、「ベティ・ブープ」シリーズの正式な第一作であった。
初期のシリーズでは、複数の声優がベティの声を演じたが、1931年にメイ・クェステルがベティ役を演じて以降は、彼女がベティの声優として定着することになった。
■1933年 エルジー・クリスラー・シーガーの漫画キャラクター『ポパイ』のカートゥーンシリーズへの使用許諾を得た時に、フライシャー兄弟の成功はより堅固なものとなった。最終的に『ポパイ』はフライシャー兄弟が制作した最も有名なシリーズ作品となり、その成功はウォルト・ディズニーのミッキー・マウス物に匹敵した。
■『キング・コング』(英語:King Kong)は、メリアン・C・クーパー、アーネスト・B・シェードザックが監督・制作した1933年のアメリカ合衆国の映画。
ジェームス・クリールマンとルース・ローズは、メリアン・C・クーパーとエドガー·ウォーレスのアイディアを素に脚本を書いた[2]。
フェイ・レイ、ブルース・キャボット、ロバート・アームストロング主演で、1933年3月2日にニューヨークで初演された。
映像面では、コングが人形アニメ(ストップモーション・アニメ)で表現されたことが大きな特徴である。
『ロスト・ワールド』(1925年)に続いてウィリス・オブライエンが手腕をふるう卓越した特撮映像は多くの映画人に影響を与え、数多くの著名モンスターメーカーを生み出すこととなった。
レイ・ハリーハウゼンが本作の影響から映画制作を志し、のちにオブライエンの部下として『猿人ジョー・ヤング』に参加したことは有名である。また、本作は世界初のトーキーによる怪獣映画としても知られる。
■『三匹の子ぶた』(さんびきのこぶた、原題:Three Little Pigs)は、1933年5月27日にユナイテッド・アーティスツから配給された、ウォルト・ディズニー製作、バート・ジレット監督のアニメーション短編映画作品である。
同題の伝統的なお伽話を原作としたこの短編映画は、シリー・シンフォニーシリーズ第36作であり、1934年度のアカデミー賞短編アニメーション部門を受賞した。
1994年にジェリー・ベックによる『The 50 Greatest Cartoons』で行われた投票では、本作はアニメーション史における11番目の重要な作品として格付けされた。
2007年にはアメリカ議会図書館による合衆国国立フィルム登録簿に、「文化的、歴史的、美術的に重要な作品」として収録された。
■1933年 日本初の本格的オールトーキー動画映画『動絵狐狸達引』(二巻)を制作
大石 郁雄(おおいし いくお、1901年 – 1944年12月4日)は、日本の映画監督、アニメーション作家、脚本家である。初期には大石 郁(おおいし いく)とも。
1933年(昭和8年)12月5日、ピー・シー・エル映画製作所が創立され、松竹の現像技師長だった増谷麟が専務取締役で迎えられ、増谷は配下の西川悦二現像技師らともども、大石や市野ら、大石プロのアトリエスタッフをそっくり引き抜く。
同年、新会社「P.C.L.」で最新式の撮影機材を得た大石は、日本初の本格的オールトーキー動画映画『動絵狐狸達引』(二巻)を制作。
同作品は有楽町邦楽座で上映され評判となった。この作品では作画は切り抜き形式で行われた。
■のらくろ二等兵・教練の巻、演習の巻(1933年)横浜シネマ商会
■『コングの復讐』(コングのふくしゅう、英語:Son of Kong 1933年12月22日公開)同年3月に公開された『キング・コング』の続編。
★本作は1933年3月に公開した『キングコング』の大ヒットを受け制作が決定した作品だが、引き続いて脚本を担当したラス・ローズは本作には乗り気ではなく脚本にも力を入れなかった。
当初の脚本では髑髏島沈没の前に原住民との闘争が用意されていたが、前作を下回る予算と短期間の撮影スケジュールのため没となった。
一方、デンハム役のロバート・アームストロングは「デンハムのキャラクターを広げることが出来た」として本作を好意的に捉えている。
本作に登場するリトルコングは制作段階では「キコ」の通称で呼ばれていたが、本編ではこの通称は呼ばれていない。
アップのシーンで登場するリトルコングの腕は、前作で使用されたキングコングの腕を体毛を張り替えたものが使用されている。この腕は現存しており、映画史家のボブ・バーンズが所有している。
特殊効果も前作と同じくウィリス・オブライエンが担当したが、終盤ではほとんどの仕事を弟子に任せていたという。
前作で使用したスティラコサウルスの模型を使用してストップモーション・アニメーションの撮影を行っているが、前作よりもその規模は縮小されている。
その後、スティラコサウルスの模型はリメイク版『キング・コング』の監督ピーター・ジャクソンが所有している。
この他にも前作で登場したアパトサウルスの模型が、髑髏島が沈没するシーンに使用されている。
■1934年に映画作品に厳しい検閲を課すヘイズ規制がハリウッドで制定された。それはアニメーション界も例外ではなく、その結果、ベティ・ブープからは色気が取り除かれ、彼女の魅力の多くは失われてしまった。
★ヘイズ・コード( Hays Code. the Breen Code や Production Codeとも呼ばれる)とは、かつてアメリカ合衆国の映画界で導入されていた自主規制条項である。
アメリカ映画製作配給業者協会(のちのMPAA)によって1934年から実施され、名目上は1968年まで存続した。
映画史上、この条項が実施される以前のハリウッド映画を「プレコード pre-code」期の映画と呼ぶことがある。
しばしば誤解されるような検閲制度ではなく、一部の映画を不道徳だとして非難する団体などに対抗してハリウッド作品の上映を保証するため、業界側が自主的に導入したガイドラインである。
後述するように、条項ではさまざまな描写が「禁止」とされたが、そうした描写を含む作品が条項の導入で全く作られなくなったわけではない。
★この制度は、いくつかの禁止事項と注意事項によって構成されている。
以下の項目は、いかなる方法においてもアメリカ映画製作配給業者協会の会員が映画を制作する際に用いてはいけない要素である。
冒涜的な言葉(“hell,” “damn,” “Gawd,”など)をいかなるつづりであっても題名・もしくはセリフに使うこと
好色もしくは挑発的なヌード(シルエットのみも含む)または作品内のほかの登場人物による好色なアピール
薬物の違法取引
性的倒錯
白人奴隷を扱った取引
異人種間混交(特に白人と黒人が性的関係を結ぶこと)
性衛生学および性病ネタ
出産シーン(シルエットのみの場合も含む)
子どもの性器露出シーン
聖職者を笑いものにすること
人種・国家・宗教に対する悪意を持った攻撃
また、いかなる方法においても、以下の要素を用いるときは、下品で挑発的な要素を減らし、その作品の良いところを伸ばすためにも、細心の注意を払うようにすること
旗
国際関係(他国の宗教・歴史・習慣・著名人・一般人を悪く描かぬように気を付けること)
放火行為
火器の使用
窃盗、強盗、金庫破り、鉱山・列車および建造物の爆破など(あまりにも描写が細かいと、障がい者に影響を与えるおそれがあるため)
残酷なシーンなど、観客に恐怖を与える場面
殺人の手口の描写(方法問わず)
密輸の手口の描写
警察による拷問(英語版)の手法
絞首刑・電気椅子による処刑シーン
犯罪者への同情
公人・公共物に対する姿勢
教唆
動物及び児童虐待
動物や人間に対して焼き鏝を押し付ける
女性を商品として扱うこと
強姦(未遂も含む)
初夜
男女が同じベッドに入ること
少女による意図的な誘惑
結婚の習慣
手術シーン
薬物の使用
法の執行もしくはそれに携わる者を扱うこと(タイトルのみも含む)
過激もしくは好色なキス(特に一方が犯罪者である場合は要注意)
■1935年 證城寺の狸囃子 塙団右衛門
片岡芳太郎 作
■『風車小屋のシンフォニー』(ふうしゃごやのシンフォニー、原題:The Old Mill)はウォルト・ディズニー・カンパニーによるシリー・シンフォニーシリーズのアニメーション短編映画作品である。
ディズニーが初めてマルチプレーンカメラを導入したアニメーション作品。第10回アカデミー賞短編アニメ部門・技術部門受賞作。
■『白雪姫』(しらゆきひめ、原題:Snow White and the Seven Dwarfs)は、1937年のアメリカ合衆国のファンタジー映画。
ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ製作で、世界初の長編アニメーション映画である。
■べんけい対ウシワカ
巨匠アニメ作家・政岡憲三が1937年に京都で創設した日本動画研究所。そこで1939年に完成した第一号作品。
■『ガリバー旅行記』(ガリバーりょこうき、Gulliver’s Travels)は、1939年の、フライシャー・スタジオ製作、パラマウント映画配給のアメリカ映画で、アニメーション映画である。
また、日本では最初に公開された長編カラーアニメーション映画である。
マックス・フライシャーは、1934年から長編カラーアニメーション制作の構想を練っていたが、当時のパラマウントは金銭の問題や長編アニメーション公開の前例が無かったため、フライシャーの提案を却下し続けてきた。
しかし、1937年にウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ制作の長編カラーアニメーション『白雪姫』が大成功を収めるとパラマウントはディズニーに対抗、その成功を再現したいと考え、1939年のクリスマス公開を予定し製作を開始する。
フライシャーは、生身の俳優のフィルムをトレースするロトスコープを主人公であるガリバーのアニメ化に使用。
その他にも製作に様々な工夫を凝らした結果、この映画はアメリカで公開されると大成功を収め、50の劇場での上映に限られていたにもかかわらず、327万ドルの興行収入を稼いだ。登場人物のリリパット人は後に短編映画にも登場した。
製作会社倒産と版権不継承によりパブリックドメインとなったことから、現在は各社からパブリックドメインDVDが発売されている。
■『ピノキオ』(原題:Pinocchio)は、1940年2月7日に公開されたウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオによる長編アニメーション映画。原作はカルロ・コッローディ作の童話『ピノッキオの冒険』である。
前作『白雪姫』のように莫大な制作費を掛けたが公開当時は『ファンタジア』同様にヒットに至らず会社は大赤字になり、更にディズニー社の労働条件の劣悪さからくる大規模な労働争議も相まって、会社の株式が1株25ドルから4ドルに大暴落し、経営危機にさらされウォルトは大ピンチに陥った。
しかし劇中でジミニー・クリケットが歌った『星に願いを(When You Wish Upon a Star)』は第13回アカデミー賞で歌曲賞を受賞し、アメリカ映画協会による、「映画史における偉大な歌100選」でも第7位に入るなど、古典アニメーションの傑作として今日も愛され続けている。
■世界初のステレオ映画は1940年公開の『ファンタジア』で、映写フィルムとは別にもう1本、光学式で4トラック音声記録されたフィルム(左、中、右のスピーカーともう1つは同期信号)を用意し、上映した。
■バッグス・バニー(Bugs Bunny)は、ワーナー・ブラザースのアニメーション作品、ルーニー・テューンズに登場する架空のウサギで、ワーナー・ブラザースにおけるマスコットキャラクターでもある。
1940年、テックス・アヴェリーの『野生のバニー』(原題:A Wild Hare)でデビュー。
■トムとジェリー(英語: Tom and Jerry)は、アメリカ合衆国の映画会社メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)に所属していたウィリアム・ハンナとジョセフ・バーベラが創作した1940年から続く短編アニメーション映画シリーズおよびテレビアニメ、カートゥーン、ギャグアニメである。
1940年に第1作目「上には上がある」(“Puss Gets the Boot”) をアメリカで公開。公開当時、TOM and JERRY というタイトルは付けられておらず、トムは「ジャスパー (Jasper)」、ジェリーは「ジンクス (Jinx)」という名前だった。製作も、お馴染みのハンナ=バーベラの2人の連名ではなく、ルドルフ・アイジング (Rudolf Ising) という、全く別の製作者の名前が冒頭で公開されていた。
当初はMGM製作の長編映画上映時のフィルムの架け替えの時間を埋める作品であった。1話の時間が10分弱程度と短い(1カートン)のはそのためである。
■1940年 『Evolution(進化)』自主制作
★レイ・ハリーハウゼン(Ray Harryhausen、1920年6月29日 – 2013年5月7日)は、アメリカ合衆国の特撮映画監督・ならびに特殊効果スタッフで、ストップモーション・アニメーター。
映画史上、20世紀の映画における特撮技術の歴史を作ってきたといわれる人物である。
主に1950年代から1970年代に活躍し、多くの特撮SF・ファンタジー映画を手がけた。
■『スーパーマン』(Superman)は、1941年から1943年に製作された、DCコミックス社のヒーロー、スーパーマンのアニメ映画。
製作はフライシャー兄弟のフライシャー・スタジオ、およびその後身、フェイマス・スタジオ(Famous Studios)によるもので、「フライシャーのスーパーマン」の通称で呼ばれることもある。
日本では大阪テレビで1957年5月10日から同年11月20日まで放送、その後『まんがスーパーマン』というタイトルで、1963年9月15日から9月29日までフジテレビでも放送された。
1961年にも日曜朝9時30分から10時まで放送していた事がある。放送時間は日曜18時00分 – 18時30分
シリーズの第一作「Superman」は1941年アカデミー短編アニメ賞にノミネートされた。
なお、フライシャー・スタジオは1942年に、フェイマス・スタジオは1967年にそれぞれ破産しており、権利不継承のため、著作権の保護期間が50年の国ではパブリック・ドメインとして扱われている。
■『SUPERMAN (The Mechanical Monsters) The Cartoons of Dave & Max Fleischer』(1941) No.2
のちに宮崎駿が影響を受けている。
■アジアでは1941年に中国において万籟鳴と万古蟾の万氏兄弟監督で公開された『西遊記 鉄扇公主の巻』がアジア初の長編アニメーション映画とされる。
1942年には戦時下の日本に輸出され、当時16歳の手塚治虫に影響を与えると共に、海軍省に長編アニメーション映画『桃太郎 海の神兵』(1945年)を制作させる動機となった。
■バッタ君町に行く(バッタくんまちにいく、原題:Mr. Bug Goes to Town )とは、1941年12月5日にアメリカ合衆国で公開された長編アニメーション映画である。
制作はフライシャー・スタジオ。日本では戦後の1951年1月24日に初公開された。
前作『ガリバー旅行記』の大ヒットを受けてフライシャー・スタジオが新たに制作した長編アニメーション映画である。
■1941年 ラガディアンとラガディアンディ
ラガディアンとラガディアンディ
ブフライシャー兄弟の作品
https://youtu.be/5Ji_sm6P1mY
■『桃太郎の海鷲』(ももたろうのうみわし)は、日本政府より国策アニメ映画製作の命を受け、1942年に藝術映画社で製作され、戦時下の1943年3月25日に公開されたアニメ映画。
日本初の長編アニメ映画といわれることがある。
上映時間は37分間であり、日本で作成された漫画映画では異例の長編映画となった(それまでの国産アニメは10分程度という常識であった)。
1943年の封切映画館入場者数で68本中9位とヒット作になり、文部省推薦映画に選ばれるなど、アニメの社会的地位を高めた記念碑的作品である。
■テックス・アヴェリー(Frederick Bean “Fred/Tex” Avery、1908年2月26日 – 1980年8月26日)
1942年にはアヴェリーはMGMの従業員となっており、フレッド・クインビー(Fred Quimby)指揮下のカートゥーン部門で働いた。
シュレジンガー率いるワーナー・スタジオの下で窒息しそうな気分になっていたアヴェリーはMGM在籍時に創作力を爆発させた。
彼のカートゥーンはペースの早さと気の狂ったようなナンセンスなギャグ、およびアニメーションや映画という媒体自体を使った遊びや楽屋落ちなどで有名となった。
MGMはアヴェリーにワーナー時代以上の予算を与えよりクオリティの高い映画を求めた。
こうした環境の変化は彼のMGM時代最初の短編映画『The Blitz Wolf』(『うそつき狼』)に明らかである。アドルフ・ヒトラーに対する風刺であったこの映画は1942年のアカデミー賞の短編アニメーション部門にノミネートされた。
■Japoteurs(1942)は、もともとジェリーシーゲルとジョーシュスターによって作成されたスーパーマンのDCコミックキャラクターに基づいた17のアニメ化されたテクニカラー短編映画の10番目です。
有名なスタジオ(フライシャースタジオの後継者)が制作した最初のスーパーマンの漫画であるジャポテュールは、日本のスパイが爆撃機をハイジャックして東京に持ち込むのを阻止するスーパーマンの冒険をカバーしています。
この漫画には有名なスタジオの名前は付いていません。
パラマウントピクチャーズによってマックスフライシャーが彼の名前を付けたスタジオから削除された後、その会社はまだ完全に組織されていなかったためです。
この漫画は元々、1942年9月18日にパラマウントピクチャーズによって劇場にリリースされました。(英文をGoogle翻訳した 原文はこちらhttps://en.wikipedia.org/wiki/Japoteurs)
■『つかまるのはごめん』(原題:Dumb Hounded)は、アメリカ合衆国の映画会社メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)に所属していたアニメーターのテックス・アヴェリーによる作品のひとつ。
刑務所を脱獄したオオカミ(ド・ギャング)をドルーピーら警察犬が追いかける。オオカミは全米各地から北極点、大都会とあちらこちらへ逃げ回るがことごとくドルーピーに発見されてしまう。最後はニューヨークにある高層ビルから自殺すると見せかけて着地し、脱出しようとするがドルーピーがビルの上から落とした大きな石に抑えられ御用となる。そして、ドルーピーにオオカミを捕まえさせたご褒美として、賞金をもらいドルーピーは喜んでおおはしゃぎ。
この作品がドルーピーのデビュー作である。
下の動画はオープニングとクロージングのみ。
■テックス・アベリー監督
1943年の『Red Hot Riding Hood』(『「おかしな赤頭巾」』)には、赤ずきん(Red Riding Hood)の代わりにピンナップガールのようにセクシーなナイトクラブの女性が登場し、当時の少年たち(未来のアニメーターたちも含む)の心にインパクトを残した。
■『くもとちゅうりっぷ』は、1943年4月15日に松竹動画研究所によって製作・公開された日本の白黒アニメーション映画である。原作は横山美智子の童話集『よい子強い子』(1939年、文昭社)の中の一編。
1943年に松竹動画研究所(当時)によって制作されて公開された白黒アニメーション作品。太平洋戦争中(大東亜戦争)に日本で制作された貴重な国産アニメである。紅系で公開された2巻の16分作品。
松竹の初のアニメーション作品ということで多大な予算をかけ、大学初任給が60円だった当時に倍以上の150円の給料で10名のスタッフを雇い、1942年から制作を開始した。
16分の作品に2万枚の動画枚数をかけ、プレスコ方式が用いられている。
てんとう虫の声は童謡歌手の杉山美子、クモの声はオペラ歌手の村尾護郎があてて、歌いながら進行するミュージカルアニメである。
当時日本で一般的であった切り絵アニメーションではなく、このアニメではすべてセル画を利用して作られている。
しかし、まだ当時はセルは貴重品であったため、「セル洗い」を繰り返し、セルを使いまわしていた。色の諧調を綺麗に出すために、白黒作品ではあるが、セル画に彩色が施されている。
松竹動画研究所の製作課長に招かれた政岡憲三が監督を務め、主人公のてんとう虫の動きは水着を着た政岡の妻をモデルにして作画された。
漫画家の松本零士は、本作を幼少期に兵庫県明石市で見て、アニメ制作を志したという。
同じ明石市の劇場では偶然、後に漫画家になる手塚治虫も本作を見ていたといい、後年に二人が初めて出会った際、本作を同日に見ていたことが判明した。
後の漫画家のうしおそうじは、滋賀県八日市市で添え物として上映されているのを偶然見て、戦時下にこのような叙情的な作品が作られたことに涙を流したと記した。
なお原作は1ページ半のそっけないもので、アニメの叙情性は原作者よりも政岡憲三によるところが大きい。
■『桃太郎 海の神兵』(ももたろう うみのしんぺい)は、日本の海軍省より国策動画映画製作の命を受け1944年に松竹動画研究所によって製作され、戦時下の1945年4月12日に公開された長編アニメ映画(白黒、74分)でフィルムは9巻。
日本初の長編アニメ映画といわれることがある。
漫画映画『桃太郎の海鷲』(1943年)の姉妹編である。南方戦線のセレベス島・メナドへの日本海軍の奇襲作戦を題材に海軍陸戦隊落下傘部隊の活躍を描き、当時の日本政府の大義であった「八紘一宇」と「アジア解放」を主題にした大作である。
74分という当時の国産動画映画としては長編作品であり、当時の日本政府、海軍より27万円という巨費と100名近い人員を投じて制作されたという。
落下傘部隊のシーンは、1週間の体験入隊を行うなどして実際の動きを細かく分析、マルチプレーン撮影台や透過光などの特殊効果も用いた大掛かりな制作であった(特に透過光の使用は世界初であるとも言われている)。
手塚治虫は1945年4月12日付けの日記にこの映画を観た感想の文章と映画の1シーンの印象を絵で書き留めている。
■1945年(昭和20年)、政岡憲三は『桃太郎 海の神兵』に影絵担当として関わる。京の舞妓と桜吹雪のたわむれを描いた『桜』をほぼ単独で制作。
日本が敗戦となった後の12月、東宝と提携。その記念に、完成した『桜』のオールラッシュが湯原甫プロデューサー以下、全アニメ関係者を対象に一週間試写上映が行われ、政岡は講師として「漫画映画特別教育講座」を開講する。
■「デカ吉チビ助のニワトリ狩り」(HENPECKED HOBOES:1946年10月26日)
監督はテックス・アヴェリー(Frederick Bean “Fred/Tex” Avery、1908年2月26日 – 1980年8月26日)
■1947年(昭和22年)政岡憲三が村田安司、山本善次郎らとともに西武池袋線江古田駅近くに「日本動画株式会社」(現:東映アニメーション)を設立。
「日動スタジオ」でオペレッタ形式の児童向け映画『すて猫トラちゃん』(全2巻)をフルアニメーションで制作。
『すて猫トラちゃん』は「東宝第一回プログラム」として、他3作品と4本立てで、日劇でロードショー公開された。
■『太りっこ競争』(原題:King-Size Canary, 公開:1947年12月6日)は、アメリカ合衆国の映画会社メトロ・ゴールドウィン・メイヤー (MGM) に所属していたアニメーターのテックス・アヴェリーによる作品のひとつ。
■『ウルトラ子がも』(原題:LUCKY DUCKY 公開:1948年10月9日)は、アメリカ合衆国の映画会社メトロ・ゴールドウィン・メイヤー (MGM) に所属していたアニメーターのテックス・アヴェリーによる作品のひとつ。
■1949年『コントラバス物語』イジー・トルンカ(Jiří Trnka、1912年2月24日 – 1969年12月30日)
■『呪いの黒猫』(原題:Bad Luck Blackie, 公開:1949年1月22日)は、アメリカ合衆国の映画会社メトロ・ゴールドウィン・メイヤー (MGM) に所属していたアニメーターのテックス・アヴェリーによる作品のひとつ。
■未来シリーズ(Tomorrow)とはアニメーターのテックス・アヴェリーによって制作されたシリーズ。シリーズと言っても4作品のみ。痛烈な社会風刺も込められている。
★「こんなお家は」(HOUSE OF TOMORROW 1949年6月11日)
■テックス・アヴェリー(Frederick Bean “Fred/Tex” Avery、1908年2月26日 – 1980年8月26日)は、アメリカ合衆国テキサス州出身のアニメーター。ハリウッドにおけるカートゥーン黄金時代を築いたアニメーター、アニメ監督のひとり。
ワーナー・ブラザースとメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)のために最高の仕事をし、バッグス・バニー、ダフィー・ダック、ドルーピーなどの人気キャラクターを生み出した。1940年代から1950年代のほとんど全てのカートゥーンに彼の影響を見ることが出来る。
★アヴェリーは1950年に1年間の休暇年度をとったが、この間にウォルター・ランツ・スタジオから移ったディック・ランディー(Dick Lundy)がアヴェリーの制作班を引き継ぎドルーピーの短編を作った。
アヴェリーは1951年秋のスタジオ復帰後、『DEPUTY DROOPY』(呼べど叫べど)、『CELLBOUND』(逃げてはみたけど)の二本を作り、1953年に完成させた(公開は1955年)。
これらはのちの彼の作品同様、アヴェリーの班にいたアニメーター、マイケル・ラー(Michael Lah)との共同監督作品であった。ラーは以後、ドルーピーシリーズのシネマスコープ映画を多数監督する。燃え尽きたアヴェリーは1953年にMGMを退社してウォルター・ランツ・スタジオに戻った。
■『猿人ジョー・ヤング』(原題:Mighty Joe Young)は、1949年7月27日公開のアメリカ映画。
『キング・コング』(1933年)のスタッフが再集結し、製作された娯楽作品。
当時としては最高峰の特撮技術が駆使され、1949年度のアカデミー視覚効果賞を受賞している。1998年には、『マイティ・ジョー』というタイトルでリメイク制作した。
監督:アーネスト・B・シュードサック
製作:メリアン・C・クーパー、ジョン・フォード
脚本:ルース・ローズ
特殊効果スーパーバイザー:ウィリス・オブライエン
効果技術:レイ・ハリーハウゼン
音楽:C・バカライニコフ、ロイ・ウェッブ
■未来シリーズ(Tomorrow)とはアニメーターのテックス・アヴェリーによって制作されたシリーズ。シリーズと言っても4作品のみ。痛烈な社会風刺も込められている。
★「ステキな自動車 」(CAR OF TOMORROW 1951年9月22日)
■『へんてこなオペラ』(原題:Magical Maestro)は、アメリカ合衆国の映画会社メトロ・ゴールドウィン・メイヤー (MGM) に所属していたアニメーターのテックス・アヴェリーによるアニメ作品のひとつ。アメリカでは1952年に公開された。
■クレイアニメ 『Gumbasia』
南カリフォルニア大学の学生、アート・クローキーによって創られた。
1950年代初めのアートが南カルフォルニア大学の映画学校(映画芸術学部)を卒業した直後から彼の妻ルース(旧姓:パーカンダー)と本格的な創作活動をスタートさせた。
1953年に3分余りのショートアニメ『Gumbasia』が初めて作られた。ディズニー作品の『ファンタジア』のパロディー音楽に合わせて、粘土がシュールな挙動をしたり、広がる様な動きをするのが特徴的である。
この『Gumbasia』ではアートが在学中に学んだ「Kinesthetic Film Principles」(筋覚映画の原理)が取り入れられている。この手法は「massaging of the eye cells」(目の細胞のマッサージ)とも言われるもので、このカメラ動作や編集の手法は多くのガンビーの作品に見られる。
■1953年にテレビ放送が始まると、単発で数分程度のアニメーションが番組内の1コーナーとして、あるいはCMにも用いられるようになり、エイケン(旧・TCJ動画センター)のルーツとなる日本テレビジョン株式会社(現・TCJ)や漫画家の横山隆一のおとぎプロが制作に携わっている。
また同年に日本初のフルコマ撮り人形アニメーション『ほろにが君の魔術師』が持永只仁、川本喜八郎らの手によって制作されている。
■『セロ弾きのゴーシュ 』(セロひきのゴーシュ)は、宮沢賢治の童話『セロ弾きのゴーシュ』を原作として、人形劇をカメラで撮影して制作された、1953年の日本映画。
「日本で最初の長編・総天然色・人形劇・音楽映画」と宣伝された。
撮影は35ミリミッチェルで、小西六のテクニカラー方式の巨大なカメラでは身長50センチほどの人形の撮影が出来ず、日本初のコニカラーネガを使用。
廃工場を臨時スタジオとし、冷房のない時代、熱風地獄の中で三ヶ月半の撮影。
撮影の後、音楽製作に入り、伊福部昭氏の指揮するオーケストラの生演奏を録音。
チェロは井上頼豊氏で素晴らしい演奏が録音されたが、完成プリントでは音声と画面の次元がずれて、プリントは日ごとに退色。
ニュープリントを作っても結果は同じであった。
一年かかって完成したが、ネガ、プリント共に退色は著しかった。後に「幻のフィルム」ともされるのはこのことからであると推察される。
35ミリミッチェルで撮影された事実は、現場の撮影風景の写真が残っていることから明らかである。
現存するフィルムは16mm、さくらカラー、5巻である。
2014年現在、ソフト化はされておらず、上映もほとんどないが、2011年7月9日・10日には神戸映画資料館で上映された。
■『うらやましいテレビ』(T.V. OF TOMORROW、1953年6月6日)は、アメリカ合衆国の映画会社に所属していたアニメーター、テックス・アヴェリーによって制作された作品のひとつ。
■『原子怪獣現わる』(げんしかいじゅうあらわる、The Beast from 20,000 Fathoms)は、1953年(6月13日公開)に制作されたユージーン・ルーリー監督によるモノクロ特撮怪獣映画。製作はアメリカ合衆国のワーナー・ブラザース映画。
核実験で現代に蘇った恐竜と人間との攻防を描き、映画史上初めて核実験の影響を受けた怪獣が登場した作品[4][5]。『Monster from Beneath the Sea』のタイトルでも知られる。「核実験で蘇った巨大な怪獣が都市を襲撃する」という本作の設定や特撮技術は、『ゴジラ』(1954年)など後世の作品にも大きな影響を与えた
監督:ユージーン・ルーリー
製作:ジャック・ディーツ、ハル・チェスター
原作:レイ・ブラッドベリ
脚本:ルー・モーハイム、フレッド・フリーバーガー、ユージーン・ルーリー、ロバート・スミス
撮影:ジャック・ラッセル
音楽:デビッド・バトルフ
美術:ユージーン・ルーリー
編集:バーナード・W・バートン
特殊効果:ウィリス・クック
特殊撮影:レイ・ハリーハウゼン
★本作のヒットにより『ゴジラ』『放射能X』『海獣ビヒモス』『怪獣ゴルゴ』など「放射能の影響を受けた巨大生物」が登場する怪獣映画が数多く制作された。
■1954年から1956年まで清水崑が原作の『かっぱ川太郎』がシリーズとして全861回放送された。
「かっぱ川太郎」は1951年に清水崑が小学生朝日新聞に連載を行った作品である。
作画枚数は非常に少なく、紙芝居に近い作風であったといわれている。
1955年には朝日新聞社の企画で映画化まで行われ、当時としては高い人気を誇っていたと推測されている。
録画放送の技術が無かった頃の作品であるため、原画は残っているが動画は残っていない。
■未来シリーズ(Tomorrow)とはアニメーターのテックス・アヴェリーによって制作されたシリーズ。シリーズと言っても4作品のみ。痛烈な社会風刺も込められている。
★4作目は「楽しい農場」(FARM OF TOMORROW 1954年9月18日)
■1955年 『DEPUTY DROOPY』(呼べど叫べど)テックス・アヴェリー
■『逃げてはみたけど』(にげてはみたけど 原題:CELLBOUND 公開:1955年11月25日)は、アメリカ合衆国の映画会社メトロ・ゴールドウィン・メイヤー (MGM) に所属していたアニメーターのテックス・アヴェリーとマイケル・ラーとの共同制作による作品である。
■『水爆と深海の怪物』(すいばくとしんかいのかいぶつ、It Came from Beneath the Sea)は、1955年7月のアメリカ合衆国のSF・怪獣映画。コロンビア映画製作。
監督:ロバート・ゴードン
脚本:ジョージ・ワーシング・イエーツ、ハル・スミス
製作総指揮:サム・カッツマン
製作:チャールズ・H・シニア
撮影:ヘンリー・フリューリッヒ
特殊効果:レイ・ハリーハウゼン
音楽:ミッシャ・バカライニコフ
★本作に登場するタコは元々巨大という設定だが、一部の書籍では水爆実験の放射能で巨大化したと誤記されている。
タコのモデルは、時間と製作費を節約するため足が6本しかない。足に入っていたギミックは、『恐竜100万年』と『恐竜グワンジ』の恐竜の尾部分に流用された。
■ガンビー(英: Gumby)は、緑色の粘土でつくられたヒューマノイド。またはそれを主人公とするアニメーション。このアニメは35年間にわたって233のエピソードが放送されており、人気長寿番組となっている。
★NBCの子供向け番組『Howdy Doody』で放送。
3つ目のエピソード『Robot Rumpus』が1956年8月に放送され、ガンビーのテレビデビューは成功に終わった。その後、1957年からガンビーとしての単独番組が放送されるようになった
■「ビールむかしむかし」(電通映画=人形芸術プロダクション、1956年)
人形操作 持永 只仁
■『世紀の謎 空飛ぶ円盤地球を襲撃す』(せいきのなぞ そらとぶえんばんちきゅうをしゅうげきす、Earth vs. the Flying Saucers)は、1956年(7月1日)に製作されたアメリカ合衆国のSF映画。
UFO研究家であるドナルド・キーホーの著述を元にした侵略もの。
監督:フレッド・F・シアーズ
製作:サム・カッツマン
製作総指揮:チャールズ・H・シニア
原作:カート・シオドマク
脚本:ジョージ・ワーシング・イエーツ、レイモンド・T・マーカス
製作:チャールズ・H・シニア
撮影:フレッド・ジャックマン・Jr
特殊効果:レイ・ハリーハウゼン
音楽:ミッシャ・バカライニコフ
■『原始怪獣ドラゴドン』(げんしかいじゅう – 、原題: The Beast of Hollow Mountain)は、1956年8月公開、ユナイト映画が製作した恐竜映画。カラー、シネマスコープ。
★傑作『ロスト・ワールド』、『キングコング』を手掛け、ストップモーション・アニメーションの第一人者と言われたウイリス・H・オブライエンは、『コングの復讐』以来家庭や仕事に恵まれず、1949年の『猿人ジョー・ヤング』ではアカデミー視覚効果賞を受賞したものの興行的には失敗、不遇の時期をすごしていた。
オブライエンは、1942年に”Gwangi”(1969年にレイ・ハリーハウゼンが『恐竜グワンジ』として映画化)という企画を出すも採用されず、1950年には”The Valley of Mist”という同様の映画を企画するがこちらも実現しなかった。
映画プロデューサーのナサウア兄弟は、この怪獣映画と西部劇の融合した物語に目を付け、オブライエンより企画を買い取り映画化したが、彼らはオブライエン自身を製作に参加させることはなかった。
しかしながら本作は、モデル・アニメーションが使用された映画では最初のカラー作品であり、かつ最初のワイドスクリーン作品である。
特殊撮影
前述のとおり、オブライエンは参加しておらず、怪物の造形や動きは非常に稚拙である。
怪物はティラノサウルスのように見える恐竜形状で1匹のみの登場、かつクライマックスの10分間しか登場しない。
公開当時、「レジスコープ」という新技術を使って撮影したと宣伝されたが、これは事前に動きに合わせて形成された複数の人形を順次入れ替えながら撮影する技法で、当時としても斬新なものではなかった。
また、足元のクローズアップでは着ぐるみも使われている。
作家の菊地秀行は、この映画の特撮に触れ、基本的に同一平面でしか動かない従来のモデル・アニメーション作品と比較し、本作の怪獣は坂道を駆け上がり、駆け下り、転ぶという描写が斬新であると語っている。
日本での公開
日本では1958年に新東宝が買い付け配給した。「ドラゴドン」という怪獣の名前はその際につけられたもの。日本語吹替版で公開された。
■『漫画ニュース』は、1957年から1959年まで日本テレビで放送されていた最初期のテレビアニメシリーズである。1959年06月10日からは『漫画ショック』と改題して放送された。
日本テレビ系列で毎日放送されていた帯アニメ。『もぐらのアバンチュール』に先立つ「日本初の国産テレビアニメ」といわれる場合がある。
日本テレビ社内のライブラリーには、リストに記載はあるものの、現物は見つからない状態だという。 また、NHK放送文化研究所の高橋浩一郎は「映像は残っていない」としている。
なお、本作のスチル写真は「テレビ夢50年 番組編①」、「キネマ旬報」1958年2月上旬号、「キネマ旬報」1958年3月下旬号に掲載されている。
■1957年 『こねこのらくがき』は、東映動画初の短編アニメーション映画。1957年5月13日完成。13分。
こねこのらくがきが動き出すというモチーフで擬人化されたこねことねずみたちが動き回るアニメーション作品。
全編を通じ、音響は音楽と効果音のみで台詞はなく、作画はほぼフルアニメーションで、13分の間に40,000枚の動画を使用したとも言われる。モノクロ作品。
アニメーションの神様と言われた森やすじがメインアニメーターとして参加。
この作品は、東映動画が日本初の長編アニメーション映画『白蛇伝』の制作にあたり、その準備段階の手慣らしとして作成された意味合いが強いが、非常に丁寧な作画でキャラクターの愛らしさとアニメーションの動きの魅力を存分に魅せつける作風であり、その後の数々の動物擬人化アニメの原点とも言える作品となっている。
後に同じキャラクターが登場するカラー作品のこねこのスタジオが制作されている。
■『地球へ2千万マイル』(ちきゅうへ2せんまんマイル、英:20 MILLION MILES TO EARTH)は、1957年(6月公開)に製作されたアメリカ映画。
『金星怪獣イーマの襲撃』というテレビ放映時の題名でも知られる。
★本作の撮影は1956年9月にイタリア・ローマで行われ、その後10月30日から11月9日にかけてアメリカでも撮影された。
ただし、メインキャストの中でローマの撮影に参加したのは主演のウィリアム・ホッパーのみだった。
レイ・ハリーハウゼンはヨーロッパへの旅行を熱望していたため、ヨーロッパを舞台とする映画を企画し、結果的に本作のローマ市内ロケで念願を叶えたというエピソードがある。
動物園絡みのシーンでは、象に餌をやる客役の俳優が来なかったため、ハリーハウゼンが象にピーナッツをやる客と逃げる群衆の1人を演じている。
ハリーハウゼンはカラー撮影を希望していたが、予算の関係でカラー撮影を断念せざるを得なかった。
監督のジュランの死後5年が過ぎた2007年に、ハリーハウゼンはレジェンド・フィルム(英語版)に依頼してコンピュータ着色処理を行い、公開50周年記念として同年7月31日にカラー版が発売された。
日本では劇場未公開に終わったが、大伴昌司によるビジュアル紹介の功績で、多くのSF映画ファンに知られている。
■『黒い蠍』(くろいさそり,原題:The Black Scorpion)は、1957年10月11日公開、アメリカのアメックス・プロが製作したモンスター映画。
製作に『原始怪獣ドラゴドン』のジャック・ディーツが参加し、ポール・ヨーウィツの原作を、『大怪獣出現』の脚本を書き、後に『タイム・マシン 80万年後の世界へ』を手がけるデヴィッド・ダンカンと、後年『プロジェクトUFO』の製作・脚本に参加するロバート・グリーズが脚色。
西部劇を多く手がけたエドワード・ルドウィングが監督した。
出演は『大アマゾンの半魚人』のリチャード・デニングや、『世紀の怪物 タランチュラの襲撃』のマーラ・コーディ、『原始怪獣ドラゴドン』のカルロス・リヴァスとマリオ・ナバロといった特撮映画経験者が顔を並べた。
1972年3月11日、テレビ朝日「土曜映画劇場」でTV放映された時の題名は『SF巨大さそり大都会襲撃』。
製作 – フランク・メルフォード、ジャック・ディーツ
監督 – エドワード・ルドウィング
脚本 – デヴィッド・ダンカン、ロバート・ブリーズ
撮影 – ライオネル・リンドン
編集 – リチャード・ヴァン・エンジャー
音楽 – ポール・ソーテル
特撮 – ウィリス・オブライエン、ピート・ピーターソン
■1958年 『白蛇伝』(はくじゃでん)は、中国の四大民間説話のひとつ『白蛇伝』を題材にした、日本最初のカラー長編漫画映画(アニメ映画)である。
カラー、スタンダード(長編作では唯一)、79分。
昭和三十三年度・芸術祭参加作品。文部省選定(少年向・家庭向)映画であった。アニメ映画ではあるが、森繁久彌が初めて東映の映画作品に出演したものである。
■ロマン・カチャーノフ (Роман Качанов、Roman Kachanov 1921年2月25日-1993年7月4日)は、ロシアのスモレンスク出身の、主にソビエト連邦時代に活躍していたアニメーション監督、脚本家。人形アニメーションのコマ撮りを得意とする。
1958年にアナトーリ・カラノーヴィチと共同製作の『老人と鶴』(Старик и журавль)を発表し、人形アニメーションの監督としてデビュー。
■『もぐらのアバンチュール』は、1958年7月14日に日本テレビで放送されたアニメ作品。
カラーテレビ放送の実験放送用として、村田映画製作所出身の鷲角博(わしずみひろし)に日本テレビが試作させ、6月に完成したアンスコカラー16mmの10分作品。
セリフと歌は中島そのみ。
切り絵風の絵柄で、実験的な表現が随所にみられる。
日本における最初期の国産テレビアニメにして、日本初の国産カラーテレビアニメでもある。
■『シンバッド七回目の航海』(シンバッドななかいめのこうかい、The 7th Voyage of Sinbad)は、1958年(12月23日公開)のアメリカ合衆国の冒険ファンタジー映画。
劇場公開時のタイトルは『シンバッド七回目の航海』であったが、後にソフト化された際に、『シンドバッド7回目の冒険』『シンドバッド7回目の航海』と改題された。
シンドバッド三部作の最初の作品で、主役の伝説の船乗りシンバッド(シンドバッド)をカーウィン・マシューズが演じている。
製作は、特撮の名匠レイ・ハリーハウゼン。
■1959年『真夏の夜の夢』イジー・トルンカ(Jiří Trnka、1912年2月24日 – 1969年12月30日)
『真夏の夜の夢』は西ヨーロッパで最も知名度が高い作品で、シェイクスピア作品の映像化という点が知名度の高さに貢献していると考えられている。
『真夏の夜の夢』の評価は賛否が分かれ、カンヌ国際映画祭では賞を贈られず、チェコ国内からもトルンカに対する批判が起きた。
■1959年の『恋する雲』(Влюблённое облако)ではブカレストの映画祭などで受賞した。
ロマン・カチャーノフ (Роман Качанов、Roman Kachanov 1921年2月25日-1993年7月4日)
■1959年 『こねこのスタジオ』
東映動画(現・東映アニメーション)制作の短編アニメーション映画。原画・演出を森康二が担当。
■『たぬきさん大当り』(たぬきさんおおあたり)は、1959年に制作された東映動画製作の短編アニメーションである。15分。
★東映動画の設立目的の一つに、「海外輸出」があった。人種や言語の壁から実写では難しい作品輸出をアニメーションで実現しようという目論見である。そのため、当時アメリカから映画研究に来て日本滞在中の映画青年ジョージ・M・リードを東映動画に迎え、戦前からのベテランアニメーター熊川正雄と組ませて演出に当たらせた。
なぜ狸を主人公にしたかというと、アメリカでは「ラクーン(アライグマ)」として通用するからだという。
内容は貧乏なたぬきさんが、制作当時流行のマンボコンテストで偶然から優勝するというもの。
日本文化に対するリードの理解が浅かったこともあり、ストーリーはかなり珍妙な仕上がりになっている。
また、作画レベルも同時期の短編作品の中では低いものだった。
■海獣ビヒモス (Behemoth, the Sea Monster) は1959年(3月3日公開)に製作されたイギリスの怪獣映画。アーティスト・アライアンス、ダイアモンド・ピクチャーズ製作。モノクロ。
監督:ユージン・ルーリー、ダグラス・ヒコックス
製作:デヴィッド・ダイアモンド、テッド・ロイド
脚本:ユージーン・ロウリー
音楽:エドウィン・T・アストレイ
特殊効果:ウィリス・オブライエン
■1960年1月15日に、中村メイコのトークや実写を交えて3つの童話をアニメーション化した30分番組『新しい動画 3つのはなし』(NHK)が放送された。
新しい動画 3つのはなしは、1960年1月15日に日本で放送された、日本のテレビアニメ。1958年の『もぐらのアバンチュール』に次ぐ、最初期の国産のテレビアニメとして知られている。
この番組はNHKのテスト放送として作られた短編集アニメであり、3本の童話で構成されている。1本目の「第三のさら」は日本で初めてテレビアニメになった作品と紹介されてきたが、実際にはこれより2年前の1958年に日本テレビにて国産の『もぐらのアバンチュール』が放映されている。
この番組は合計で30分の長さとなっている。
1953年の時点でNHKを見られるテレビは866台で、7年後にインフラストラクチャーがどうなったかはわかっていないため、この番組がどれぐらいよく知られているかは分かりにくい。
また、この番組は日本で初めてクロマキーを用いている。
番組内容
第三のさら(浜田広介)
オツベルと象(宮沢賢治)
眠い町(小川未明)
■アヌシー国際アニメーション映画祭 (アヌシーこくさいアニメーションえいがさい、仏: Festival International du Film d’Animation d’Annecy)は、毎年6月にフランスのアヌシーで開催されるアニメーションを専門に扱う国際映画祭である。
1960年、カンヌ国際映画祭からアニメーション部門を独立させる形で創設され、アニメーション映画祭としては世界で最も長い歴史を持つ国際映画祭である。
また、同時に世界最大規模のアニメーション映画祭でもある[2][3]。国際アニメーション映画協会、映画芸術科学アカデミー公認。
■『西遊記』(さいゆうき 英文表記:ALAKAZAN THE GREAT)は、1960年公開の長編漫画映画(アニメ映画)である。
。東映動画(現:東映アニメーション)スタジオの長編漫画映画第3作目。手塚治虫の『ぼくの孫悟空』が原案である。
■虫プロダクション(むしプロダクション、通称: 虫プロ)は、日本のアニメ制作会社。
漫画家でアニメーターである手塚治虫が関係したアニメーション専門プロダクションである。本項では1961年(昭和36年)に設立され1973年(昭和48年)11月に倒産した。
■『ガリバーの大冒険』1960年12月16日公開。
イギリスとスペインで撮影されたガリバーは、ジャック・シャーが監督し、レイ・ハリーハウゼンがストップモーションアニメーションと特別な視覚効果を特集しました。
■『おとぎマンガカレンダー』1961年5月1日から1962年2月24日までフジテレビ(関東ローカル)で放送。3分間の話が全部で312回分放送された。
「今日の人々に知られていない」キャラクターによる歴史的な出来事を描いている。
出来事の説明のため、アニメーションとともに写真や映画の映像を用いたこともあった。出来事に関する資料は、当時横山隆一が『フクちゃん』を掲載していた毎日新聞から用いている。
「シリーズ放映されたテレビアニメとしては日本初の作品」とされることが多いが、「漫画ニュース(漫画ショック)」(1957年 – 1959年)が本作に先駆けている。
なおカラー放送アニメは『もぐらのアバンチュール』(1958年7月14日、日本テレビ)、30分のテレビアニメシリーズは『鉄腕アトム』(1963年1月1日 – 1966年12月31日、フジテレビ)がそれぞれ日本産アニメ初となる。
■『安寿と厨子王丸』(あんじゅとずしおうまる 英文:The Orphan Brothers)は、1961年7月19日公開の東映動画製作の劇場用アニメ映画。
人物モデルに演技を行わせ、その実写フィルムを下敷きに、アニメーション作画を行う「ライブ・アクション方式」が一部採用されている。
★原作の『安寿と厨子王丸』は中世より伝わり、説経節『さんせう太夫』をはじめ、浄瑠璃や童話といった様々な媒体で語り継がれてきた、本来より悲劇性を大きく伴う特徴を持つ物語である。
これを踏まえ本作でも、厨子王丸は肉親も家も奪われ、様々な辛苦を味合わされるが、憎い仇どもを自ら実力で討ち果たす描写は一切ない。
このため、映画としてのカタルシスが希薄であり、観方によっては盛り上がりの欠ける内容とも言える。
なにより山椒大夫らを逆転した身分で、いわば権力を笠に平伏させる結末には、制作スタッフが猛反発し、本社と東映動画労組が反目しあう中で制作が進められるという異例の事態となった。
■『SF巨大生物の島』(エスエフきょだいせいぶつのしま、Mysterious Island)は、ジュール・ヴェルヌの『神秘の島』を原作とした、1961年12月20日公開の映画。レイ・ハリーハウゼンが特撮を担当した。
★ジュール・ヴェルヌの小説『神秘の島』は何度か映像化されているが、本作は『地球へ2千万マイル』、『アルゴ探検隊の大冒険』、『恐竜グワンジ』、『シンドバッド黄金の航海』などを手がけたチャールズ・H・シニアが製作し、これらの作品に参加したレイ・ハリーハウゼンが視覚効果を担当している。
原作は大幅に脚色され、巨大生物が登場し、ハリーハウゼンのストップモーション・アニメーションによる人形アニメが主たる見所となっている。
撮影は後に『恐竜100万年』を手がけるウィルキー・クーパー、音楽は『悪魔の金』でアカデミー作曲賞を受賞したバーナード・ハーマンが担当した。
主演のマイケル・クレイグは脚本家としても活動しており、本作公開前年には “The Angry Silence” でアカデミー脚本賞にノミネートされた。
ジョーン・グリーンウッドは、後に『トム・ジョーンズの華麗な冒険』でゴールデングローブ賞助演女優賞にノミネートされている。
マイケル・カランは、当時ゴールデングローブ賞新人賞を受賞したばかりで、1995年の日米合作『漂流教室』にも出演している。
本作は日本では劇場公開されず、1970年11月2日TBS 月曜ロードショーでのテレビ放映が最初で、後にビデオやDVDが発売された。
■大藤信郎賞(おおふじのぶろうしょう)は、「毎日映画コンクール」において、日本のアニメーションの先駆者である大藤信郎を称え、1962年に創設された賞。
略して「大藤賞」とも呼ばれる。
日本のアニメーション映画賞としては最も長い歴史を持つ映画賞であり、虫プロ作品や東映アニメーションの受賞作から、現代アニメーションの作家までの幅広い受賞者をもつ。
1961年に大藤信郎が死去。大藤の唯一の遺族である姉が毎日映画コンクールへ遺産を寄託して、これを基金として開始された。選定委員による討議と多数決により、アニメーション映画の製作領域で、その年度内に特に成果をあげたと思われる個人またはグループに贈られる。
1989年度より、毎日映画コンクール内に大藤賞とは別に、アニメーション映画賞が設けられた。
ノミネーションは両賞で共通に長編、短編の区別なくおこなわれるものの、アニメーション映画賞は主に長編を、本賞については主に「実験的な作品」を対象としており、棲み分けがなされていることから、アニメーション映画賞と本賞を重複して受賞した例はない。
また両賞の選考はまずアニメーション映画賞の受賞作決定後、大藤信郎賞の受賞作を決定する。
最多受賞は岡本忠成(エコー社)であり、同じくエコー社の川本喜八郎の代表作も多く受賞している。アニメーション映画賞と本賞両方の受賞歴がある監督としては宮崎駿、高畑勲[4]、北久保弘之、今敏がいる。短篇の受賞作やスタッフインタビューなどは、『大藤信郎賞: 毎日映画コンクール : 受賞短編アニメーション全集』[5]で見ることができる。
■1962年『電子頭脳おばあさん』イジー・トルンカ(Jiří Trnka、1912年2月24日 – 1969年12月30日)
■1962年『ある街角の物語』
手塚治虫の設立した虫プロダクションの記念すべき第1作目。
セリフなどは一切なく、音楽と映像のみの演出で構成されている。手塚の代表作「鉄腕アトム」などの大ヒットTVアニメーション群とは一風違った、手塚治虫の実験アニメーション群のさきがけとなった。
■『アラビアンナイト・シンドバッドの冒険』(アラビアンナイト・シンドバッドのぼうけん 英: ARABIAN NIGHT’S SINDBAD THE SAILER)は、東映動画制作の日本の長編アニメーション映画。
カラー、東映スコープ、81分。1962年6月16日に「丸の内パラス」で先行公開され、続いて同年7月21日より全国一斉公開となった。
東映動画制作による劇場用長編アニメーション映画の第5作目にあたる作品で、初めて中国や日本の民話を離れ、中近東を舞台にした作品となった。
■『鉄腕アトム (アニメ第1作)』フジテレビ系列にて、1963年1月1日から1966年12月31日まで放送。全193話。一部を除きモノクロ作品。
日本で最初の本格的な1話30分の連続TVアニメ、日本初の国産ロボットアニメである。
■『わんぱく王子の大蛇退治』(わんぱくおうじのおろちたいじ)は、1963年に公開された東映動画製作の劇場用アニメ映画(長編漫画映画)。86分。カラーワイド版。封切1963年3月24日(首都圏先行)→1963年7月15日(全国)
東映動画の長編アニメ第6作。日本神話の天岩戸説話や素盞嗚尊の八岐大蛇退治に題材を採り、子供向けの明快なファンタジー映画としてつくられた。
製作費7,000万円、スタッフ180人、作画枚数25万枚、絵具1トンを使用。
これまで東映長編の監督を担当してきた藪下泰司に代わって、新東宝出身の新人の芹川有吾が監督に初登板。
従来、東映動画内では演出家はコーディネーター的立場だったが、アニメーター出身でない芹川は東映動画に本格的な演出を持ち込み、監督という職制を確立。
さらに本作では、作画の絵柄統一を図る日本独特の作画監督制度が初めて採用された。
その他にも美術監督の小山礼司の提案による平面的なグラフィカルなデザインなど、様々な新機軸が採用された意欲作であり、東映動画と日本のアニメ映画史に残る作品という評価が下されている。
『白蛇伝』『安寿と厨子王丸』など、当時の東映動画でよく使われていたライブアクションも、天岩戸のエピソードのアメノウズメの岩戸神楽や、クシナダ姫のアクションシーンで、作画の参考に撮影されている。
大塚康生と月岡貞夫が半年かけて作画した、天早駒(アメノハヤコマ)にまたがるスサノオと八叉の大蛇の空中戦は300カット・動画1万枚を超えており、日本アニメーション史上に残る名場面として高く評価する評論家もいる。
監督 芹川有吾(「演出」名義)
■4月7日、『銀河少年隊』(虫プロダクション) NHKとしては、初の国産テレビアニメシリーズ。ただし竹田人形座繰演の人形劇との組み合わせであった(画面合成ではない)。
■1963年(昭和38年)5月8日 スタジオ・ゼロ(登記上の商号は有限会社スタジオゼロ)は、1963年にトキワ荘出身の漫画家らが設立したアニメーション、漫画の制作会社。
1971年の事実上の解散以降は、アニメーション作家・鈴木伸一が法人格を継承・存続させて個人事務所の名称として使用。鈴木の自主作品、アニメCM制作、過去のゼロ作品の版権業務をメインとしている。
★鈴木伸一、石森章太郎、つのだじろう、角田喜代一(つのだじろうの兄。電通勤務)、藤子不二雄(安孫子素雄、藤本弘)と一人の社員により設立、のちに赤塚不二夫も参加。
「トキワ荘時代よもう一度」という触れ込みで、手塚治虫が設立したアニメ会社の虫プロダクションの様なアニメを作る会社を、すでにアニメ制作にたずさわっていた鈴木伸一を中心として1963年(昭和38年)5月8日に設立された。
当初の社屋は、中野の旧ボクシングジムを借りていた。
余りにも傷みの酷い建物だったため、「スタジオ・ボロ」と仲間内から揶揄されていたという。
その後、1965年(昭和40年)に新宿区淀橋(現・西新宿)の市川ビル内に移転している。
当初は役員5名、社員1名という体制で、任期2年の社長の順番はあみだくじで決定した。初代社長の鈴木から第2代社長のつのだじろうを経て、第3代の藤本のときに最盛期を迎え、第4代社長石森のときに解散した。
■『アルゴ探検隊の大冒険』(アルゴたんけいたいのだいぼうけん、原題 Jason and the Argonauts )は、1963年8月15日に公開されたイギリス・アメリカ製作の特撮映画。
特撮の巨匠レイ・ハリーハウゼンによる、ギリシア神話のイアソン率いるアルゴ船探検隊(アルゴナウタイ)の冒険を描いた作品。
製作:チャールズ・H・シニア (Charles H. Schneer) 、レイ・ハリーハウゼン
監督:ドン・チャフィ (Don Chaffey)
脚本:ジャン・リード (Jan Read) 、ビヴァリー・クロス (Beverley Cross)
撮影:ウィルキー・クーパー (Wilkie Cooper)
特撮:レイ・ハリーハウゼン (Ray Harryhausen)
音楽:バーナード・ハーマン (Bernard Hermann)
■『仙人部落』(せんにんぶらく)は、小島功の4コマ漫画。また、それを原作としたテレビアニメ。
1963年9月4日-1964年2月23日までフジテレビ系列で放送。全23話。初期の日本のテレビアニメである。
第8話までは水曜日23:40 – 23:55(JST、以下同)、第9話以降は日曜日22:30 – 22:45に放送。
当時のアニメとしてはかなり遅い時間に放送されており、特に第8話までは深夜枠だった為に日本最古の深夜アニメとされる。
また、4コマ漫画で初めてテレビアニメ化した作品でもある。
■『鉄人28号』(てつじんにじゅうはちごう)は、横山光輝の漫画作品『鉄人28号』の最初のテレビアニメ化作品。
1963年10月20日から1966年5月25日まで、フジテレビ系列で放送された。83話で終了し、3か月後に新作13話が放送され、全97話となった。その後第28話から第52話を再放送し第84話で終了した。モノクロ作品。
原作 – 横山光輝
監督 – 大西清、山本功、河内功、渡辺米彦、若林忠雄、上金史明、瀬古常時、松木功他
脚色 – アシエグループ
動画演出 – 庵原和夫
脚本 – 岡本欣三他
背景 – 星俊六
音楽 – 三木鶏郎、越部信義、嵐野英彦
アニメーション制作 – TCJ
製作 – TCJ動画センター
スポンサー – 江崎グリコ、グリコ乳業
■『エイトマン』1963年11月7日 – 1964年12月31日
主人公の躍動感あふれる構図に加え、タバコ型の強加剤を吸うシーンは当時の子供達に影響を与え、放送時にはタイアップで発売されたシガレット型の固形ココアが人気を得た(強加剤を吸うシーンは途中から無くなる)。
スポンサーは丸美屋食品工業で、同社のふりかけのキャラクターにもなった。
番組に2回CMが入る構成。
TBSにとっては初の自社制作によるアニメ参入作品である。最高視聴率は1964年9月17日放送の25.3%(ビデオリサーチ調べ・関東地区)。
漫画版の表記は数字の『8マン』だったが、テレビアニメ版の表記はカタカナの『エイトマン』に変更された。
フジテレビ (8ch) 系列ではなくTBS (6ch) 系列での放送だったためである(ネット局の中にも8chの中継局があった)。
国家の名称も変更されており、8マンのボディはアマルコ共和国という架空の国家で製作されたことになった(漫画版ではアメリカのNASA製)。
アメリカでは、アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニーの関連会社ABCフィルムズが放映権を取得し、1964年から『The Eighth Man』の題名(イギリス映画「第三の男」に引っ掛けた)で、ネットワークに乗らない番組販売の形で放送された。
なお番組は先述の通り1964年12月31日まで続いたが、話その物は前週の同年12月24日で終了しており、12月31日は次番組『スーパージェッター』の宣伝を兼ねた最終回特番『さよならエイトマン』を放送した。
エイトマンが走り出す際の瞬間的に発生する効果音は、電気掃除機の音をテープで逆回転させたものが使用されていた。
★テレビ局とスポンサー主体でタイアップ製作された最初のアニメ作品。
原作 – 平井和正
キャラクターデザイン・作画 – 桑田次郎
プロデューサー – 三輪俊道(TBS)
構成・監督 – 河島治之
脚本 – 平井和正、辻真先(桂真佐喜)、半村良、豊田有恒、加納一朗、大貫哲義
演出 – 大西清、佐々木治次
作画 – 大西清、高垣幸蔵、毛内節夫、江口徹、小畑俊志、鈴木竜造、藤原万秀、猪口利之、伊勢田幸彦、矢亀照子、村田保之、難波久衛、月川秀茂、椿清明、中川暁、林正行、熊尾義之、福田皖、木村光雄、角田昭一、高田哲夫
背景 – 泉谷実、小関俊之、五十嵐忠司
音楽 – 萩原哲晶
広告代理店 – 旭通信社(現・ADKエモーションズ)
■『狼少年ケン』(おおかみしょうねんケン)は、NETテレビほかで放送されていた東映動画制作のテレビアニメである。モノクロ作品。全86話。NETテレビでは1963年11月25日から1965年8月16日まで、毎週月曜 18:15 – 18:45 (日本標準時)に放送。
NETテレビ初の国産アニメ放映作であり、また東映動画が初制作したテレビアニメでもある。
★1963年元日に放送開始した虫プロダクションの『鉄腕アトム』により、日本に本格的なテレビアニメの時代が到来した。
3コマ撮りや止め絵・バンクシステムの多用などでテレビ向けの省力化を徹底していた『アトム』に対する東映動画関係者の評価は当初は低いものであったが、同作品が高い視聴率を獲得するとその存在を無視できなくなった。
東映動画内部でテレビアニメの検討が開始されると、元手塚治虫のアシスタントで若手の俊英アニメーターでもあった月岡貞夫は自らテレビアニメの企画を提出した。
月岡は自ら演出や原画を引き受けたが、毎週1本のペースで放送されるテレビアニメは、「天才」の異名を取った月岡といえどその全話を担当することは不可能であり、1話ごとに担当チームが組まれて制作に当たった。
しかし、当時は作品全体を統括する作画監督が置かれなかったこともあり、月岡はスタッフによる作品の不統一に耐えきれなかった。結局月岡は放映中の1964年2月初めに東映動画を退社した。
原作 – 大野寛夫(月岡貞夫)
監督 – 月岡貞夫
音楽 – 小林亜星
■『わんわん忠臣蔵』(わんわんちゅうしんぐら 英文:Doggie March)は、東映動画制作の長編アニメーション映画。カラー、東映スコープ、81分。1963年12月21日公開。
★作品のモチーフはタイトルどおり忠臣蔵(仮名手本忠臣蔵)。原案・構成は手塚治虫。しかし、手塚の原案であった『森の忠臣蔵』とはかけ離れた内容となっているという。
手塚は、本作と、同じく東映動画作品で脚本を北杜夫と共同で担当した『アラビアンナイト・シンドバッドの冒険』(1962年)について、「それこそ、めちゃくちゃに作りかえられてしまい、ボクの感じはなにひとつ残っていません」と記している。
監督 白川大作 脚本 飯島敬、白川大作
■1964年度大藤賞 「殺人 MURDER」和田誠
■1964年『天使ガブリエルと鵞鳥夫人』イジー・トルンカ(Jiří Trnka、1912年2月24日 – 1969年12月30日)
■『0戦はやと』(ゼロせんはやと)1964年1月21日から10月27日までフジテレビ系で放送された。全38話。ピー・プロダクション制作。明治キンケイカレー(現:株式会社 明治)の一社提供。
ピープロが初めて制作したテレビアニメである。
「折込広告社」が代理店となり番組が企画されたが、本作は戦時下の軍人を主役にしているため、「子供番組で戦争謳歌をやるのか」と、番組売り込みの際に各テレビ局の組合からの批判攻撃が厳しかった。
うしおそうじ(鷺巣富雄)は「特にTBSがきつかった」と述懐している。結局、保守系のフジテレビでの放送枠が決定。
これを機に以後、うしおそうじとピープロは、フジテレビでの番組制作を続けていくこととなる。
うしおによると、制作予算は虫プロの『鉄腕アトム』よりもさらに低く、一本あたり300万円(当時)を切っていたという。
このため、セル画の描画枚数を省くため、うしおの考案で木枠のガラス板がセル画の上で昇降する「ゴンドラ式撮影スタンド」という撮影機材を作り、ゴンドラ移動で手前のセル画を動かして飛行シーンの遠近感を演出した。
これはもともとうしおが東宝で特撮に従事していた経験から生まれたアイディアだったという。
この撮影スタンドはその後、アニメスタジオの定番機材となった。またバンクシステムが多用され、うしお自身が絵コンテと作画を手掛けた第24話『まぼろしの戦車』では、少数の新規作画シーンを除いたほぼ全編の動画がバンクシステムを使って製作された。
このほか、海面の描写に実景を用いたり、エアブラシによる雲の表現など、うしおが東宝での海軍属託時代に培ってきた技術が多用された。
番組途中で、大映で特撮助監督を務めた小嶋伸介や田賀保がピープロに参加。
合成撮影技術を持ち込んでいる。
小嶋によると、この時期のピープロの社屋はうしおのガレージにトタン張りしたもので、雨が降ると雨漏りするようなものだったという。
当初は3クールの放送予定を予定していたが視聴率が低迷し、フジテレビ側は2クール(26本)目での打ち切りを打診してきた。
うしおが泣きついてなんとか3クールまで延長してもらったが、ちょうどこの時、TBSからピープロに手塚治虫の『ビッグX』の製作依頼が支度金3000万円(当時)で舞い込んだ。
うしおはこれに飛びついたが、ピープロのアニメスタッフの組合が「30分物二本掛け持ちは無理」と猛反対し、うしおの説得むなしくこの話は流れた。
既に放映枠とスポンサーを確保済みで困ったTBSは、『ビッグX』製作のために新たなアニメ制作会社「東京ムービー」を旗揚げすることとなった。
脚本担当の倉本聡は、主題歌の作詞も担当している。
漫画原作と異なり、劇中では政治的理由から現実の国名は避けられ、敵国名はアルファベットで代用された。
1960年代の少年漫画誌では戦記ブームが湧き起こっており、『大空のちかい』『紫電改のタカ』『ゼロ戦レッド』『あかつき戦闘隊』など太平洋戦争を描いた漫画作品がいくつか存在したが、結局テレビアニメ化されたのは本作のみであった。戦争を題材にしていることにより、PTAから批判を受けていたとされる。
■『少年忍者風のフジ丸』(しょうねんにんじゃかぜのフジまる)は、1964年6月7日から1965年8月31日にかけてNETテレビ系列で全65話が放送された東映動画製作のテレビアニメである。
放送時間は、1964年6月から12月までは日曜日18時30分 – 19時。1965年1月から最終回までは火曜日19時30分 – 20時。モノクロ作品。
白土三平の貸本短編集『忍者旋風』(1959年)や、週刊少年マガジンに連載されていた『風の石丸』(1960年)などを原作としたテレビアニメである。
番組スポンサーの藤沢薬品工業(現:アステラス製薬)とのタイアップのため、主人公の名前(番組タイトル)が「フジ丸」と改められた。主題歌の最後にはスポンサークレジットとともに「♪フジサ〜ワ〜、フジサ〜ワ〜、藤沢や〜く〜ひ〜ん」[1]とスポンサー名を連呼する女性コーラスが入っていた。
作品は全話モノクロで放送されたが、第1話のみモノクロ版とは別にテスト用として制作されたカラー版が存在する。また作品中にハーモニーカットの実験も行われ、注目を集めた。
また、原作を離れ、オリジナルストーリーとなった第29話から原作者としての白土の表記もなくなった。
第28話まで、番組のラストには本間千代子を聞き手に初見良昭(戸隠流34代目)が忍術を詳しく解説する実写のミニコーナー『忍術千一夜』があった。
久松文雄による漫画版が雑誌『ぼくら』に連載されていた。
原作:白土三平 ※第28話まで
原案:木谷梨男、福原宗司
企画:飯島敬、小野沢寛、斎藤侑
脚本:飯島敬、志原弘、内田弘三、白川大作、谷井敬、田中実、加藤精二
演出:白川大作、矢吹公郎、田宮武、勝間田具治、村山鎮雄、白根徳重、真野好央、竹田満
美術:浦田又治 ほか
作画監督:楠部大吉郎、羽根章悦、大工原章、小田部羊一 ほか
音楽:服部公一
■『ビッグX』1964年8月3日から1965年9月27日までTBS系列局で放送。放送時間は毎週月曜 19:00 – 19:30 (日本標準時)。
東京ムービーの初制作作品である。
また、TBSでは『エイトマン』に次ぐ国産アニメにして、初の19時台での放送である。
国産アニメでは唯一の花王石鹸(現・花王)の一社提供で、オープニングのラストには宇宙空間に浮かぶ同社の商標「月のマーク」に腰掛ける朝雲昭(声 – 太田淑子)が映され、昭が「この番組を提供するのは、僕の大好きな月のマークの花王石鹸です」とコメントすると、画面が「提供(月のマーク)花王石鹸」と描かれた提供クレジットに変わる。
手塚治虫テレビアニメとしては初めて、手塚と直接関わりの無い外部のプロダクションの元請によって制作された作品である。
当初はTBSからピー・プロダクションに企画が持ち込まれたが、既に制作中のテレビアニメ『0戦はやと』などで手一杯だったため、社内の反対で話が流れた。
このため、TBSでテレビの人形劇を制作していた藤岡豊にアニメの制作プロダクション設立を促し、藤岡は間借りしたTBS社屋の4階で本作を制作した。
このときに設立された東京ムービーは本作制作のためのプロダクションであり、会社登記も第1話の放送後であった。
本作は同時期に放送されていた同じ手塚作品の鉄腕アトムなどの作品と比べて著しく作画力や動きが劣っている。これは、当初の東京ムービーが経験のない素人が大多数のスタッフであった故である。
原作 – 手塚治虫
動画監督 – 浜本征三
作画 – 鈴木英二、木下蓮三、堀口忠彦、井上晴美、中村やすお、小鷹文雄、藤井達朗、橋本吉雄、谷口守泰ほか
美術 – 半藤克美、椋尾篁ほか
背景 – 大塚綾子ほか
撮影指導 – 高橋澄夫
撮影 – 杉本伸一
トレス・彩色 – 田中文世ほか
録音監督 – 清水浩二
録音制作 – 中村武雄
録音進行 – 武田晴道
(録音)協力 – 東京プロモーション、東京人形シネマ
製作 – 稲田伸生
進行 – 石山卓也、花井稔ほか
(制作)協力 – 東京T.V.Fプロダクション、アートフレッシュほか
編集 – 佐々木喜美子
音楽 – 冨田勲
音響効果 – 斎藤大士
制作 – 藤岡豊、久保田仁司、郷田三朗
制作 – 東京ムービー、TBS
■『H・G・ウェルズのSF月世界探検』1964年8月6日(イギリスで公開)
Wikipedia英語版の原文
Ray Harryhausen provided the stop-motion animation effects, which include the Selenites, giant caterpillar-like “Moon Cows” and the large-brained Prime Lunar.
The film was made five years prior to man first landing on the moon.
Google翻訳による
レイ・ハリーハウゼンはストップモーションアニメーション効果を提供しました。これには、セレナイト、巨大な毛虫のような「月の牛」、大脳のプライムルナが含まれます。
この映画は、人間が月に着陸する5年前に作成されました。
■1964年 ルドルフ 赤鼻のトナカイ(ルドルフ あかはなのトナカイ、原題: Rudolph the Red-Nosed Reindeer)は、ロバート・L・メイによる童話、およびそれを原作とした人形アニメ。
1964年12月6日、ランキン・バス・プロダクション製作による同名の1時間のパペットアニメーションがNBCで初放送された。現在はCBSで毎年放送されている。
日本人スタッフが複数参加している。撮影も日本のMOMプロダクション(人形アニメ作家の持永只仁が設立)で行われた。
日本では、1967年12月24日にNHKで『赤鼻のトナカイ』として放送された[2]。現在は『ルドルフ 赤鼻のトナカイ』として、NHK[3]のほか、カートゥーン ネットワークでも放送されている。
監督:長島喜三、ラリー・レーマ
■トムとジェリー(TBS版)
1964年(昭和39年)5月13日から1966年(昭和41年)2月23日まで、毎週水曜日の19:30から20:00にTBS系列で放送された。
サンスターシオノギの一社提供。配給は、トランスグローバルである。開始当初はモノクロでの放送で、後にカラー放送へと移行した。2話目にテックス・アヴェリーなどの作品が挿入されたのは1971年(昭和46年)から。
日本語吹替:トム/八代駿、ジェリー/藤田淑子、ナレーション/谷幹一。放送終了後も長期にわたり、全国の地方局に再放送されていた。
■鉄腕アトム 宇宙の勇者
1964年7月26日、日活系封切、日本初のテレビアニメからの劇場版アニメ作品。併映作はユーゴスラビアの児童映画『ぼくらの冒険旅行』。
『宇宙の勇者』は正式サブタイトルだが、オープニングではクレジットされていない。
テレビ版の第46話・第56話(上記)・第71話を劇場用にブローアップし再編集した作品。これらの内、第56話はテレビでは使用しなかったカラー版を使用、また第71話は一部がカラー化された。更にプロローグやつなぎ部分が新しく作画された。
■1965年『手』イジー・トルンカ(Jiří Trnka、1912年2月24日 – 1969年12月30日)
■『新宝島』(しんたからじま)は、1965年1月3日(日曜) 18:30 – 19:30 (日本標準時、以下同)にフジテレビ系列局で放送された、虫プロダクション制作の単発テレビアニメである。
1966年6月19日から同年7月3日にも同系列局で、3回に分けられた上で再放送された。分割再放送版の放送時間は毎週日曜 19:00 – 19:30。
手塚治虫による同名漫画とは関係なく、スチーブンソンの小説『宝島』を翻案した内容である。
本作はキャラクターをすべて動物に置き換えている点が特徴である。
東映動画が後年制作した『どうぶつ宝島』でも海賊側のキャラクターが動物となっているが、本作の場合は全員が動物である点が異なる。
また、動物とはいえ擬人化された「人間としての意識」があり、終盤ではキャラクターが理性を失って本当の動物と化す描写がある。
モノクロ作品である。また小学館の学習雑誌に、本作のダイジェストが1回の読みきりで掲載されていた。
原作:ロバート・ルイス・スチーブンソン
脚色・演出:手塚治虫
作画監督:杉井儀三郎
美術:半藤克美
撮影:清水達正、佐倉紀行
編集:古川雅士
音楽:冨田勲
製作担当:明田川進、田代敦巳
製作協力:フジテレビ(担当:別所孝治)
■『スーパージェッター』は、1965年1月7日から1966年1月20日までTBS系列局で放送されていたSFアニメである。全52話。放送時間は毎週木曜 18:00 – 18:30 (日本標準時)。
現在、正式な作品名は『未来からきた少年 スーパージェッター』とされており、その典拠は現存するオープニングフィルムのタイトル表示である。しかし、このオープニングには話数がかなり進んだ本編のカットも含まれていることから差し替えである可能性があり、当時の出版物や玩具などの版権商品に「未来からきた少年」を冠したものは確認されていない。
本作はTBS(東京放送)が企画したオリジナル作品である。TCJ(現・エイケン)が動画制作を担当。
TBSが自らアニメ作品を企画した経緯は、『エイトマン』の海外放映権にまつわるトラブルに由来する。
TBSが『エイトマン』の海外放映権をアメリカのABC Filmsに販売した際、契約書が英語だったためにTBS側は契約時に内容を確認できなかった。
そのため、放映権以外にも商品化権・音楽著作権・出版権などの海外における『エイトマン』の諸権利を一括して売る契約であることが、契約書の翻訳後に判明した。
さらに、『エイトマン』は原作が存在する作品だったため、原作者や出版社に無許可で権利を売却してしまったことも問題になった。
そのため、原作者の平井和正、桑田次郎、そして出版社の講談社に事後承諾を求めることになった。
上記のトラブルの反省から、本作では権利をTBSに集中させるべくオリジナル作品になることになった。
久松文雄の漫画はいわゆる「原作」ではなく、雑誌展開のためのコミカライズ作品である。
第1話はパイロットフィルムとして制作された。
草創期のアニメ界ではSFものを書けるシナリオライターがおらず、前番組の『エイトマン』に続く形で、まだ売れっ子になる前のSF作家が脚本を執筆、SF性の濃いアイデアとストーリーを生み出した。
また、推理作家の加納一朗、山村正夫が参加したことで、日本推理作家協会のテレビラジオ委員会を通じたTBSとの交渉で脚本家にも原作権が認められ、商品化権料の半額を久松と分け合う形で配分された。
豊田有恒の場合、当時の大学卒の初任給100か月分にあたる約200万円を得たという。また筒井康隆はこの版権料によって、結婚し上京した。
■『宇宙パトロールホッパ』(うちゅうパトロールホッパ)は、1965年2月1日から同年11月29日までNET系列局で放送されていた東映動画製作のテレビアニメである。第32話からは『パトロール・ホッパ 宇宙っ子ジュン』(パトロール・ホッパ うちゅうっこジュン)と題して放送されていた。全44話。
放送時間は毎週月曜 19:00 – 19:30
異星人とのコンタクトを目的に宇宙へ旅立った宇宙船内で、異星人の科学力を軍事利用しようとする者とそれを阻止しようとする者との争いに巻き込まれ重傷を負い、ホッパ星の宇宙パトロール隊に救出された地球人の少年・ジュンが、自らの意思でホッパ星の科学力でサイボーグとなり、宇宙パトロール隊の一員となって宇宙や地球の平和を守るために戦う話である。
当初はホッパ星を舞台に話が展開していたが、後に地球が舞台の中心となった。
製作担当 – 笹谷岩男
企画 – 原徹、横山賢二
原案 – 深川鉄次、後藤みねお、太田欣二、福本智雄、黒田隆、保波順 、倉橋こうじ
美術 – 福本智雄、横井三郎(第17話)
音楽 – 菊池俊輔
作画 – 小華和為雄、生頼昭憲、香西隆男、永樹凡人、岡崎稔、小松原一男、鈴木伸一、今沢哲男 他
背景 – 小林七郎 他
撮影 – 池田重好、片山幸男、島本賀章、林昭夫、平尾三喜
編集 – 稲葉郁三、井関保雄、千蔵豊
録音 – 石井幸夫、宇田川誠也
記録 – 水上紘子、河島利子、菅原節代、前野美代子、星田絹代、的場節代
演出助手 – 三木成章、大谷恒清、高見義雄、浜崎慶嗣、大沼克之、神谷興一、新田義方、小湊洋市、伊藤誠一
進行 – 豊島勝義、吉岡修、秋庭勝彦、田口矩、中島勝夫、武田嘉昭、石橋暢通、石黒輝房、小林綏次
キャラクターデザイン・作画監修 – 森康二
制作 – 東映動画
■『ガリバーの宇宙旅行』(ガリバーのうちゅうりょこう 英文:Gullver Space Travel)は、1965年3月20日に東映系で公開された、東映動画製作の劇場用アニメ映画。東映スコープ、カラー。80分。
東映動画の劇場用アニメ映画第8作にして、初の宇宙SF作品。孤児テッドがふとした事からガリバー博士と知り合い、仲間達と共に「希望の星」目指して宇宙旅行に出発する物語。内容はジョナサン・スウィフトの名作で、本作冒頭でも映される『ガリバー旅行記』から取っている。
声優には、主人公テッド役に人気歌手・坂本九を起用、他には俳優・小沢昭一や宮口精二などを起用した。
★宮崎駿を含めた当時の制作スタッフからは不満の声が上がり、月岡貞夫はのちに「ガリバーがつまらなすぎて、狼少年ケンの制作に移動した」と語っている。
大塚康生も「準備不足、その他の原因から弱い作品に終わってしまいました」と評している。
宮崎によると子供にも不人気で、退屈した子供たちが劇場内を走り回っていたという。
★宇宙人の形はチェスの駒をヒントとし、動きは『ひょっこりひょうたん島』のひとみ座にモデル人形を作成させ、フィルム撮影したものを参考とした(ロトスコープの変型)。
製作スタッフには、若き日の宮崎駿も参加しており、一介のアニメーター(動画)にすぎなかった宮崎は、人間味を感じられないロボットのまま迎えるエンディングに納得がいかず、「ロボットは実は人間だった」という演出を提案し、採用されている。
少女が眠りから目覚めるシーンの作画も宮崎が手がけている。ロボットが暴れて壊すシーンなども担当しているが、後に「最悪の作品だと思っていますけど」と笑いながら評している。
■『ドルフィン王子』は1965年4月4日から同年4月18日までフジテレビ系列局で放送された。
虫プロの『ジャングル大帝』に先駆けること半年前に全3話が試験的にカラーで制作・放送され、日本初の本格的な30分カラーテレビアニメとされている。
原案 – 岡部一彦、北川幸比古、杉山卓
脚本 – 北川幸比古
演出 – 杉山卓
作画 – 杉山卓、松本元宏、真島文祐、青木たかし
美術 – 伊藤主計
背景 – 伊藤攻洋
撮影 – 辻友一、坂東昭雄、弘野正之
製作 – テレビ動画
■『宇宙人ピピ』(うちゅうじんピピ)は、NHKで1965年4月8日から1966年3月31日まで放送されたSFテレビドラマである。全52回。放送時間(JST)は木曜18:00 – 18:25
★宇宙人ピピと彼を取り巻く地球人との騒動を描いたコメディドラマである。ピピはアニメーション、円盤は写真で描かれており、実写とアニメを掛け合わせた日本初の合成作品とされている。
作は小松左京と平井和正の合作。小松の原作でディズニー映画『南部の歌』のようなアニメと実写を合成した作品をNHKで制作することになったが、小松が大阪から原稿を送り週1回の放送を1人でこなすのは困難だったことから、テレビアニメを経験していた平井にバックアップを頼み、合作が実現した。
小松が大体の構想について平井に説明してプロットを作り、平井がそれを受けてシナリオ化した。
また、本作には誕生して間もない星新一のトレードマーク「ホシヅル」が登場している。
石ノ森章太郎(当時:石森)によってコミック化も行われ、『たのしい幼稚園』に掲載された(1965年7月号から1966年3月号まで)。
2014年に配信された電子書籍『石ノ森正太郎デジタル大全』(講談社)の『エンゼル2』にこの作品が収録された。
■『宇宙少年ソラン』(うちゅうしょうねんソラン)は、1965年(昭和40年)5月4日から1967年3月28日までTBS系列局で放送されていたSFアニメである。
TBS(東京放送)と日本テレビジョン映画部(TCJ、現・エイケン)の共同製作。本放送時には森永製菓の一社提供で放送。全96話。放送時間は毎週火曜 19:00 – 19:30 (日本標準時)。
主要キャラクターであるチャッピーの設定などについて、手塚治虫が虫プロダクションで製作するつもりであったテレビアニメの企画『ナンバー7』に登場するキャラクターに類似性を主張して、情報漏洩・産業スパイ・盗作ではないかと言われた作品である(注:少年がリスを相棒とした冒険をする漫画は太平洋戦争前の作品「正チャンの冒険」にも先行例がある。)。
また、『ナンバー7』の後企画である『W3』連載中の『週刊少年マガジン』(講談社)に於いて本作のコミカライズ作品の連載が開始したため、手塚が『ワンダースリー』の連載を週刊少年マガジンから『週刊少年サンデー』(小学館)に切り替えたW3事件と後に呼ばれる騒動を招いた。
原作 – 福本和也、宮腰義勝
脚本 – 福本和也、豊田有恒、辻真先、光瀬龍、松本守正、小隅黎、野々あきら、藤村正太、加納一朗 ほか
演出 – 河内功、瀬古常時、鳥居宥之、小野辰雄、高垣幸蔵 ほか
作画 – 菰岡静子、芦田豊雄、矢沢則夫、海老沢幸男 ほか
■『宇宙エース』(うちゅうエース)は、1965年5月8日から1966年4月28日までフジテレビ系列局で放送されていたテレビアニメである。竜の子プロダクションと読売広告社の共同制作。全52話。
竜の子プロダクションが初めて手掛けたテレビアニメである。当時はテレビのカラー放送があまり普及していなかったため、モノクロで制作された。放送時間は、第1話から第48話までは毎週土曜 18:15 – 18:45、第49話から第52話までは毎週木曜 19:00 – 19:30 (日本標準時)。
平均視聴率は16.5%、最高視聴率は第21話の23.5%(タツノコプロが所有する資料による)。
本作の放送と並行して、吉田竜夫による同名の漫画作品が『少年ブック』に連載されていた。
原作 – 吉田竜夫
企画 – 吉田健二、九里一平、天馬正人
プロデューサー – 吉田健二、六郷晃生
SF考証 – 宇宙塵同人
キャラクターデザイン – 九里一平
音楽 – 小森昭宏
美術監督 – 山口あきら
撮影 – 黒木敬七
監督 – 笹川浩、木下敏治
制作 – 竜の子プロダクション、読売広告社
■『怪盗プライド』(かいとうプライド)は、1965年5月31日[要検証 – ノート]から同年11月4日までフジテレビ系列局で放送されていたテレビ動画制作のテレビアニメである。
原作 – 岡部一彦
脚本 – 前田武彦、北川幸比古、岡部一彦
演出 – 福原悠一、前田一、中島清、杉山卓、真島文祐、
音楽 – 宇野誠一郎
音響 – 横田邦男
キャラクターデザイン – 福原悠一
作画 – 福原悠一、杉山卓、松本元宏、渋谷哲夫、真島文祐、高梨吉勝、前田昭、石黒昇(動画・原画)[3]、北原健雄(原画)[4]、三橋千禾子、青木たかし
撮影 – 辻友一、坂東昭雄、弘野正之
美術 – 高梨吉勝[要出典]、伊藤主計
背景 – 水野尾純一
編集 – 木村儀勝
制作デスク – 児玉征太郎
制作事務 – 平尾ゆりか
製作 – テレビ動画
■『遊星少年パピイ』(ゆうせいしょうねんパピイ)は、1965年6月3日から1966年5月27日までフジテレビ系列局で放送されていたTCJ (現・エイケン)制作のテレビアニメである。全52話。
並行して、井上英沖による漫画作品が『少年』(光文社)で連載されていた。
第31話(1966年12月30日放送分)までの放送時間は毎週木曜 19:00 – 19:30 (日本標準時)で、『鉄人28号』に続く江崎グリコ提供『グリコ劇場』枠の第2作として放送されていた。
『鉄人28号』と同様に、オープニングと主題歌の最後にはスポンサーの「グリコ」を連呼するコーラス「グリココール」が入っていた。このコーラス部分も含めた主題歌の作詞・作曲は三木鶏郎が、歌唱はデューク・エイセスが担当した。
スポンサーには江崎グリコのほか、系列会社のグリコ乳業も名を連ねていた。
第32話(1966年1月7日放送分)からは『忍者部隊月光』との放送枠交換により、毎週金曜 19:00 – 19:30 に放送されていた。
原作 – 吉倉正一郎
脚本 – 加納一朗、双葉十三郎、大倉聡、山村正夫、足立明
演出 – 山本功、渡辺米彦、若林忠雄、河内功
原画 – 井上英沖
音楽 – 嵐野英彦
制作 – TCJ
■『W3(ワンダースリー)』アニメ版は虫プロダクション製作で、1965年6月6日 – 1966年6月27日にフジテレビ系で全56回(全52話+リピート放送4回)で放送されたモノクロ作品。
オープニングでは「W3」に「ワンダースリー」のルビが振られ、後の主題歌集などでは「ワンダースリー」となっている。
提供はロッテ。大まかなプロットは共通しているが、全52話のうち大部分が漫画版とは異なっている。
- 原作・総監督:手塚治虫
- プロデューサー:池内辰夫
- プロデューサー補佐:黒川慶二郎
- チーフディレクター:杉山卓
- OP原画:大塚康生
- 作画監督:中村和子
- 作画:杉山卓、中村和子、大貫信夫、三輪孝輝
- 音楽:宇野誠一郎
- 美術監督:伊藤主計
- 音響監督:鈴木芳男
- 技術監督:山浦栄一
- 仕上監督:進藤八枝子
- 演出助手:下崎闊
- 編集:松浦典良
- 資料:三上康雄
- 音響効果・録音:アオイスタジオ
- 広告代理店:東急エージェンシー
- 制作進行:下崎闊
- 制作協力:フジテレビ
- 制作:虫プロダクション
■『オバケのQ太郎』1965年8月29日 – 1967年3月26日、TBS系列(毎週日曜日19時30分 – 20時・不二家の時間枠)
1作目の放送後半からスタジオ・ゼロがアニメ制作協力として関わっているとされていることがあるが、鈴木伸一によると制作したのは『オバQ』のパイロットフィルムのみで、現場では能力不足と言われ関われなかったということである。
このパイロットフィルムの内容は、『鉄腕アトム』風の未来的な街に住んでいるという設定にされた。
その映像を見た藤子両人は内容の改変に違和感を覚えたという。
後に東京ムービーで制作が決まり、原作通りの設定で作られた。
ヒーローものアニメがまだ全盛期の時代であったため、放送初期はQ太郎の性格が多少好戦的なものになっていた。
本作は不二家が一社独占のスポンサーに付いたため、本作および次作『パーマン』、次々作『怪物くん』では、オープニングとエンディングでペコちゃん(声:斉藤尚子)と共演していた(『東京ムービー主題歌大全集』収録の映像はペコちゃん登場部分がカットされたものであるため見ることはできない)。
エンディングで使用された『オバQ音頭』のシネテープでは共演していることが伺える。
原作 – 藤子不二雄
監督 – 長浜忠夫
脚本 – 辻真先、若林一郎、松岡清治、中野健次、塩沢朝子、宮沢耕己、島修司、吉田史郎、田代淳二、岡本欣二、花島邦彦、木下連三、吉田進、松元力、吉田秀子、おおいひさし、大森施工、東京ムービー企画部 他
演出 – 大隅正秋、長浜忠夫、岡部英二、酒井七馬、木下蓮三 他
作画監督 – 楠部大吉郎、芝山努
原画 – 小林治、富永貞義、中村英一、谷口守泰、椛島義夫、森下圭介、山口泰弘、白梅進 他
音楽 – 筒井広志
製作協力 – Aプロダクション
製作 – 東京ムービー
■『ジャングル大帝』1965年(昭和40年) – 10月6日、カラーテレビアニメシリーズとして虫プロダクション制作でフジテレビ系で放送開始。
後に輸出されて『Kimba the White Lion』の題名で米国を初めとする世界の多くの国で放送される。
監督:山本暎一、八村博也
作画監督:勝井千賀雄
撮影監督:清水達正
美術:伊藤信治
音響:田代敦巳、内田かほる、明田川進
音楽:冨田勲 (注:字幕上の表記では「富田」となっているが、正しい人名は「冨田」である)
指揮:森田吾一
録音・効果:岩田廣一
特殊技術:田崎茉沙夫、橋爪朋二、安田隆亘
美術監督:松本強
動物監修:小原秀雄
編集:島田羨子、尾形治敏、古川雅士
現像:東洋現像所
資料制作:清水武彦、野崎欣宏
作画制作:小山暉
アイディアマン:久米みのる
作画技術:沢井裕之
チーフディレクター:林重行
プロデューサー:山本暎一
制作担当:もり・まさき
制作:虫プロダクション、山本暎一
■『ハッスルパンチ』は、1965年11月1日から1966年4月25日までNET系列局で放送されていた東映動画制作のテレビアニメである。全26話。
企画 – 斎藤侑、籏野義文
製作担当 – 浦田郁也、原徹
美術 – 千葉秀雄
音楽 – 小林亜星
作画 – 大塚康生、小田部羊一、吉田茂承、芝山努、小林治、宮崎駿、香西隆男 他
背景 – 井岡雅宏 他
撮影 – 平尾三喜、吉村次郎、篠崎文男、池田重好、杉山健児、白根基万、川上景司
編集 – 千蔵豊、鈴木亮、花井正明、古村均
録音 – 神原広巳、小西進
記録 – 中垣橲代、星田絹代、落合広子、前野美代子、佐伯節子
演出助手 – 奥西武、蕪木登喜司、大網郁夫、岡崎稔、川村一雄、笠井由勝、上島昭男、佐々木勝利、及部保雄、西沢信孝
進行 – 竹村璋二、久保田弘男、大野清、大辻平八郎、佐藤哲雄、本山昭永、渡辺敏雄、三沢徹夫、佐伯雅久、菅原吉郎
原案・キャラクターデザイン – 森やすじ
制作 – 東映動画
■『戦え!オスパー』1965年12月14日から1967年10月31日まで日本テレビで放送。
このうち1966年12月13日 – 1967年10月24日放送分は、それまでに放送してきた内容の再放送である。全53話。
本作は、日本テレビがシリーズ放送をした初の国産テレビアニメである。
しかしながらビデオソフト化されたことはこれまでに一度もなく、回顧番組で取り上げられることもほとんどない。
また、日本テレビとともに番組製作を担当した日本放送映画もその後身である日本テレビ動画も既に解散しており、フィルム全話分の保存状況も不明である。
そのため、ハミングバードから発売された『マニア愛蔵版 懐かし〜いTVアニメテーマコレクション』(規格 – VHS・LD)に収録されているオープニング映像が唯一視聴可能な映像資料となっている。
製作 – 岡本光輝、矢元照雄
プロデューサー – 新倉雅美
演出 – 新倉雅美、岡迫亘弘、正延宏三、富野喜幸、池羽厚生、浅野良一 他
作画 – 村野守美、菊地城二、池野文雄、岡迫亘弘、木下敏雄、鳥居一義、秋山勇二、熊野基雄、池羽厚生、柳田朝彦、長野美子
背景 – 中野良子
仕上 – 渡辺恭通
検査 – 松本とし子
脚本 – 山野浩一、永島輝 他
音楽 – 冨田勲
オーディオ演出 – 岸野良一
効果 – 小野田志朗
ミキサー – 木村哲夫
録音 – 東京テレビセンター
制作 – 日本テレビ、日本放送映画KK
■『おそ松くん』1966年2月5日 – 1967年3月25日
アニメ版の第1作にあたる『おそ松くん』は、1966年2月5日から1967年3月25日までNETテレビとその系列局で放送。製作は、当時同系列に属していた毎日放送ならびにチルドレンズ・コーナーとスタジオ・ゼロが担当した。毎日放送のテレビアニメ製作初参入作品にして、在阪局初の自社製作テレビアニメでもある。
制作
赤塚不二夫のアシスタントだった長谷邦夫によれば、チルドレンズコーナーは元々ニュースフィルムの会社で、アニメ未経験の新人アニメーターが制作したため、原作者の赤塚は出来上がりに不満を漏らしていた[55]シリーズ後半では一部制作をスタジオ・ゼロが担当するようになり、赤塚側の提案で「チビ太の金庫破り」を二部にわけることで30分1話として制作、局の同意を得て放送し、長谷自身も1話のみ演出を引き受けた。
内容
基本的には2話1回形式であるが、第39回から先述の「金庫破り」を始めとする前後編が3回放送、またAパートのみ新作でBパートは再放送という形式も増える。そしてラスト3回は前後編3本の再放送となる。
■『レインボー戦隊ロビン』(レインボーせんたいロビン)は、1966年(昭和41年)4月23日から1967年(昭和42年)3月24日までNET系列で全48話が放送された、東映動画製作のSFアニメである。白黒作品。
この作品は、東映動画がスタジオ・ゼロへ原案を発注したもので、『里見八犬伝』、『キャプテン・フューチャー』、『七人の侍』などをヒントに、キャラクターデザインを石ノ森章太郎や藤子不二雄(F・Ⓐ)で分担、石ノ森がそれらを清書した。
性格設定とシノプシスには、上記三人の他につのだじろう、鈴木伸一も参加している。
実際のアニメでは、これらのキャラクターや名称を若干変更した形で発表された。
制作担当 – 馬島巽
企画 – 飯島敬、馬島巽、大沼克之、斉藤侑
原案構成 – スタジオ・ゼロ(鈴木伸一、石ノ森章太郎、つのだじろう、藤子不二雄 ほか)
音楽 – 服部公一
作画 – 椛島義夫、森下圭介、高橋信也、鈴木伸一、小松原一男、今沢哲男、木村圭市郎、宮崎駿 他
背景 – 井岡雅宏、川本征平、小林七郎 他
効果 – 大平紀義
制作 – 東映動画
■『海賊王子』(かいぞくおうじ)は、1966年5月2日から同年11月28日までNET系列局で放送されていた石森章太郎(後の石ノ森章太郎)原案、東映動画制作のテレビアニメである。全31話。放送時間は毎週月曜 19:00 – 19:30
東映動画初の海洋冒険アニメで、『ピーター・パン』や『シンドバッドの冒険』の影響が見受けられるキャラクターコスチュームとストーリー展開が特徴。
主役のキッドの声を担当していた古谷徹(当時12歳)は、本作がデビュー作にして初主演作となった。
製作担当 – 笹谷岩男、飯島敬
企画 – 横山賢二
原案 – 石森章太郎(週刊「少年キング」連載、「まんが王」連載)
音楽 – 宮崎尚志
作画 – 田島実、近藤英輔、小華和為雄、羽根章悦、生頼昭憲、岡田敏晴、辻伸一、島充、渋谷哲夫 他
撮影 – 黒木衛、林昭夫 他
編集 – 井関保雄
録音 – 石井幸夫
記録 – 水上紘子、前野美代子 他
演出助手 – 浜崎慶嗣、及部保雄、金子允洋、田中哲郎 他
製作進行 – 菅原吉郎、渡部一雄、武田嘉昭 他
制作 – 東映動画
■『遊星仮面』(ゆうせいかめん)は、1966年(昭和41年)6月3日から1967年(昭和42年)2月21日までフジテレビ系列局で放送されていたTCJ (現・エイケン)制作のテレビアニメである。
全39話。
並行して本作キャラクターデザイナーの楠高治による漫画作品が、『少年ブック』(集英社)の別冊付録などに連載されていた。
物語の概略
2001年に新発見された、地球と同じ公転軌道で常に太陽を挟んで地球と反対に位置する惑星ピネロンと地球は友好関係になり、地球のロケット操縦士ヨハンセンとピネロン人のマリアとの間に「宇宙結婚」による第1号の子供ピーターが生まれた。
地球人とピネロン人は全く同じ外見をしており、ただ、ピネロン人およびその混血児のこめかみの付近に十字形の「ピネロンマーク」がある点が違う。
ピーター誕生後15年、地球とピネロン星の交流は進み、移住者や混血児もたくさんいた。
そんな時、ピネロン星に核物質を輸送していたヨハンセンのロケットがピネロンの大都市上空で爆発事故を起こし、彼は死亡、ピネロン側にも多大の犠牲者が出る。
ピネロン星では地球による攻撃だという誤解が広まり、ピネロンの権力者ホイヘンスは、その期に乗じて参謀役のイモシ博士と共に独裁的権力を手にし、地球との戦争を起こす。
地球でも、滞在・移住していたピネロン人の成人を強制収容所へ送り、混血児童は孤児院に送るなどの強硬的な対抗措置を取るが、ピーターは地球人のソクラトン教授に救われた。
地球の科学はピネロン星と比較して30年遅れており、地球軍は苦戦を強いられる。その時、「遊星仮面」と呼ばれる1人の謎の少年が現われ、危機に陥った地球を助けてピネロン軍と戦う。
遊星仮面の登場で良い戦果のあがらなくなったピネロン側は最新兵器を投入し、また「サップス」(宇宙忍者)と呼ばれる、特殊な能力を持った戦闘員を送り込むなどして対抗する。
遊星仮面はこれらの攻撃をことごとく打ち破るが、ピネロン軍はついに地球に進撃してきた。
一方、地球防衛軍のビッツ司令官やソクラトン教授らは、ヨハンセンの遭難・爆発事故当時のデータを分析し、これがピネロン側の策略である事を明らかにし、地球に来たホイヘンスに通告する。
ホイヘンスは知らなかったが、実は全て、宇宙の支配者になろうと企てたイモシ博士の陰謀だったのだ。
本性を現しホイヘンスを殺そうとするイモシ。
しかし決闘によりホイヘンスは搭乗する宇宙船ごと自爆させ、イモシを道連れに自決した。
あ然とするビッツらの前に現われ、素顔を見せる遊星仮面。その正体はピーターだった。
平和が戻った宇宙でピーターは父の跡を継ぎ、地球・ピネロン間の宇宙船の操縦士となる。
原作・企画 – 仁田信夫
制作補 – 渋谷功
脚本 – 足立明
キャラクターデザイン – 楠高治(キャラクター原案に相当する原画を担当)
作画 – 小室常夫、楠本勝利、大山隆、岡田宇啓、山岸博 他
美術 – 星俊六
音楽 – 嵐野英彦、はやしこば(TV工房)
オープニング – 遊星仮面(作詞・作曲 – 三木鶏郎 / 歌 – デューク・エイセス、〈セリフ〉藤田淑子)
アニメーション制作 – TCJ
スポンサー – 江崎グリコ、グリコ乳業
■『ものしり大学 明日のカレンダー』(ものしりだいがく あしたのカレンダー)は、1966年7月1日から1970年8月2日まで毎日放送で放送されていたテレビアニメである。
毎日放送とおとぎプロダクションの共同製作。麒麟麦酒の一社提供。全1274話。放送時間は毎週月曜 – 土曜 18:55 – 19:00
『キリンものしりシリーズ』の作品第2弾で、第1弾『おとぎマンガカレンダー』の最終回から2年のブランクを経て開始された。
本作は2部構成で、前半は作品放送日の過去の出来事を紹介するという、『おとぎマンガカレンダー』のコンセプトを継承した「まんがカレンダー」、後半は身の回りの事物を簡単に紹介する「ものしり教室」という構成になっていた。
しかし、いずれも静止画を紙芝居式に見せているだけに過ぎなかったため、本作は厳密なアニメシリーズとは言えない。
本作でシリーズ初の進行役が登場した。進行役は、麒麟麦酒の主力商品「キリンビール(現・キリンラガービール)」「キリンレモン」「キリンジュース(現・キリンオレンジ)」それぞれの空き瓶に顔や手足が付いた擬人化キャラクター「博士」「レモンくん」「ジュースくん」の3人で、彼らだけは静止画でなく人形アニメで作られていた。
前作同様のモノクロ作品で、制作も前作『おとぎマンガカレンダー』やさらにその前身の『インスタントヒストリー』(フジテレビ)から引き続き横山隆一主催のおとぎプロダクションが請け負っていたが、製作局はTBSから毎日放送に変更された。また、本作からは関東地区での放送が無くなった。
平均視聴率は9%、最高視聴率は27%を記録している。
■『サイボーグ009』1966年7月21日公開。カラー作品 64分。
★当時、東映のアニメ映画は文芸性の高い長編が製作されていたが、プロデューサーの旗野義文がテレビアニメの手法による中編映画を企てた。
東映動画が創立以来年に1本から2本公開してきた名作ものを原作とする長編のフルアニメーション作品をA作。このA作に対して長編フルアニメとテレビアニメの中間的位置付けとして、海外輸出を意識した3コマ撮りの中編で日本国内向け作品をB作とするものである。
テレビシリーズの『レインボー戦隊ロビン』のスタッフを投入して製作されたB作の第一弾が『サイボーグ009』だった。本作が選定されたのは『西遊記』などを演出した東映動画の白川大作と石ノ森との縁による。
演出は映画2作とテレビシリーズともに芹川有吾が担当。音楽は小杉太一郎が担当し、映画用の曲はテレビにも使用された(テレビシリーズ用に新曲も作成されている)。
これらの楽曲は、以後の複数の東映動画作品に流用されている(『タイガーマスク』、『マジンガーZ』など)。映画『怪獣戦争』の主題歌(第1作では挿入歌として使用)は、テレビシリーズでも継承された。その際、メンバーの名乗りが曲の前に入れられたが、このアフレコでは、009役の田中雪弥(現:森功至)が中々タイミングを合わせることができずNGを連発した、と述懐している。
■『ロボタン』1966年10月4日から1968年9月27日までフジテレビ系列で毎週火曜19時30分 – 20時(14話以降、毎週金曜19時 – 19時30分)の時間帯において放送された。
大広プロ制作。全104回(全208話)。江崎グリコの一社提供。
1966年放送の旧版は、大阪府に拠点を置く広告代理店「大広」が企画製作を務め、ほとんどすべての作品制作作業をも大阪のスタジオやアニメーターが担当したという異色作であり、大広が音頭をとって、サンプロダクション、Aプロ(シンエイ動画の前身とは無関係)、プッペプロダクション、ナカムラ・プロ(中村プロダクションとは無関係)などいくつかのプロダクションを組織化、動画制作はこれらのプロダクションが担当し、セリフ、音楽、効果音などの収録・編集など「完パケ作業」は大阪今橋にあった大広スタジオで行なわれた。
当時、江崎グリコが鉄人28号に代わる新たなキャラクターを探していたところ、オバケのQ太郎が大ヒットしていることに目を付け、同様のアニメを作ろうとして企画された。
主人公のロボタン役には元落語家「二代目 林家染之助」という異色の経歴で、映画や舞台に活躍した神戸瓢介、カンちゃん役には主に関西のテレビ・ラジオで活動していた三井洋子を起用、キーコ役の中森孝子とボッチ役の中里ひろみは当時ラジオやCMで売れっ子の声優で、ヤンマーの「ヤン坊・マー坊」の声で有名だった。
ボッチのパパには「チョーダイ!」のギャグで人気の財津一郎を起用し、ルーキー新一や「桂小米」時代の桂枝雀も出演した。
脚本家は、吉本新喜劇の若手作家・壇上茂(「壇上剛」名義)、東映出身の松原佳成を中心にしたが、放送が延長されたため、後に作詞家として名を馳せるたかたかし(「タカタカシ」名義)や、同じく作詞家となる阿久悠、小学館にコントなどを発表した山口琢也(「山口豕也」名義)など、東京の人にも何人か入った。
原作・キャラクター原案 – 森田拳次
脚本 – 壇上剛、山口琢也、松原仮成、タカタカシ、阿久悠 他
演出・オーディオ演出 – 斧宏
絵コンテ – 谷口守泰、木下蓮三 他
作画 – 橋本剛、谷口守泰、木下蓮三、富永貞義、山口泰弘、白梅進 他
■1966年11月11日『展覧会の絵』
手塚治虫の実験アニメーション作品のひとつ。
手塚治虫版の「ファンタジア」ともいえる作品。ムソルグスキーの組曲『展覧会の絵』から受けたインスピレーションをもとに10本のオムニバス・アニメが展開していく。
ラヴェルの編曲版に着想を得ているが、実際の編曲は冨田勲が担当。後に冨田自身のアルバム用にこの組曲をシンセサイザーで編曲していが、これは本作の影響が深いと思われる。
■『とびだせ!バッチリ』1966年11月14日から1967年4月15日まで日本テレビとその系列局で放送。
『戦え!オスパー』に続く日本テレビ2本目の国産テレビアニメシリーズであり、初のカラー作品である。アニメーション制作は日本放送映画。
放送時間は毎週月曜 – 土曜 18:35 – 18:45 (日本標準時)。その後も、1967年4月17日から同年9月16日まで同じ時間帯に再放送された。また、前述の『おはよう!こどもショー』内でも放送されていた。全132話。
少年探偵のバッチリが、相棒のロバやオウムとともに町のさまざまな事件を解決していく作品。
本作がビデオソフト化されたことはないが、オープニング映像についてはハミングバードから発売された『マニア愛蔵版 懐かし〜いTVアニメテーマコレクション』(規格 – VHS・LD)に収録されている。ただし、後奏部分はカットされている。
原作・美術 – 岡本光輝
製作 – 矢元照雄
監修 – 新倉雅美
脚本構成 – 成橋均
脚本 – 鈴木良武、成橋均、おぎわらやすひろ
音楽 – 宮内国郎
演出 – 片岡忠三、山本狙
オーディオ演出(音響監督) – 中野寛治
録音 – 太平スタジオ
原動画 – バッチリグループ
現像 – 東洋現像所
製作 – 日本テレビ、日本放送映画
■『魔法使いサリー』1966年12月5日 – 1968年12月30日
★世界初の魔法少女アニメ。日本初の少女向けアニメ。
アメリカの人気ドラマ『奥さまは魔女』のヒットがきっかけとなった、日本初の少女向けアニメである。
敏腕製作者・渡邊亮徳東映テレビ部部長(のち本社副社長)が原作者・横山光輝を説得し、東映動画として製作した魔法少女シリーズ第1作である。
『ジャパニーズヒーローは世界を制覇す!』 を始め、「ニッポン人脈記、いつもアニメがNo.5」(2010年3月25日付朝日新聞夕刊)などに、魔法使いサリー成功の経緯について詳しく書かれている。
17話まではモノクロ、18話(1967年4月3日初放送)からはカラー。
そのため、1970年代後期からの再放送は18話から行うようになっている。
雪室俊一によると当初は半年で終わる予定で、最終回のフィルムが早々と完成していたので、ポロンなどの延長分で登場したキャラクターは最終回に登場しないため、どうするか悩んだと言う。
最終回の予告では次番組『ひみつのアッコちゃん』(第1作)とコラボを行った。
これはVHSビデオソフト版最終31巻ラストやDVD-BOX『ひみつのアッコちゃん』シリーズ全巻購入特典としても収録されている。
また2004年9月 – 2005年8月に東映チャンネルの「わくわく!!アニメタイム」で放送された時も、次番組が『アッコちゃん』ということもあってそのまま放送された。
企画:笹谷岩男、飯島敬、松本貞光、横山賢二
製作担当:笹谷岩男
原作:横山光輝
音楽:小林亜星
撮影:菅谷正昭、白根基万、井出昭一郎、池田重好、不破孝喜、高梨洋一、藤橋秀行
編集:古村均、鈴木寛、花井正明、鈴木亮
録音:石井幸夫、神原広巳、荒川文雄、波多野勲、小西進
効果:大平紀義
記録:水上紘子、的場節代、前野美代子、河島利子、竹部ヒサ子、藤井雅子、池田紀代子、星田絹代、佐伯節子
演出助手:佐々木勝利、及部保雄、葛西治、宮崎一哉、山吉康夫、小湊洋市、岡崎稔、神谷興一、 川田武範、蕪木登喜司、金子充洋、大網郁夫、奥西武
製作進行:豊島勝義、菅原吉郎、堤四四三、佐伯雅久、大辻平八郎、三沢徹夫、渡部一雄、館浩二、佐藤哲雄、大野清、久保田弘夫
製作:東映動画
■『恐竜100万年』(きょうりゅうひゃくまんねん、One Million Years B.C.)は、1966年12月30日公開、イギリスのハマー・フィルム・プロダクションズ制作の、石器時代を舞台にした恐竜映画。
1940年の映画『紀元前百万年』のリメイク。特撮はレイ・ハリーハウゼンが手がけている。
★下の動画は1940年の映画『紀元前百万年』
恐竜は本物のトカゲを使っている。
★本作での革製のビキニ風衣装のウェルチの姿は、歴史に残る強いインパクトを与えた。
ウェルチはこれによりセックスシンボルとなると共に、その姿のポスターも時代を象徴するものとなっている。
映画『ショーシャンクの空に』では、壁に貼られた映画女優のポスターの変化で時の経過を表現していたが、最初のリタ・ヘイワース、次のマリリン・モンローに続いて、本作のラクエル・ウェルチのポスターが使われている。
■『世界の王者 キングコング大会』(1966)12月31日
後述のテレビシリーズが日本でも開始される前に放送されたパイロット版。テレビシリーズと同じく東映動画とビデオクラフトによる日米合作。
1966年12月31日(土曜) 20:00 – 20:56 (日本標準時)に大塚製薬の一社提供で放送されたが、同社がスポンサーを務めたのはこの回のみであり、その後のテレビシリーズには参入しなかった(テレビシリーズは複数社提供で放送)。
原作・企画 – 籏野義文
脚本翻訳 – 上野登史郎
演出 – 芹川有吾
美術 – 千葉秀雄
作画 – 窪詔之
音楽 – 小林亜星
プロデューサー – アーサー・ランキン・ジュニア、原徹、山梨稔
制作 – 東映動画、ビデオクラフト
■1967年『ミトン』(英語: Mitten 、原題:Varezhka(ロシア語: Варежка、ヴァレーシカ))は、1967年の人形アニメ作品である。ソ連・ロシアを通じて、国民的作品の一つである。
監督はソ連のロマン・カチャーノフ、原作・脚本はジャンナ・ヴィッテンゾン、美術はレオニード・シュワルツマン、制作はソユーズムリトフィルム。
1967年アヌシー国際アニメーション映画祭第一等賞受賞、1968年モスクワ国際映画祭銀賞受賞、1972年ヒホン国際児童映画祭グランプリ受賞。
■マッドモンスターパーティー(Mad Monster Party)は、1967年のアメリカのストップモーションアニメーションミュージカルコメディ映画で、Rankin / Bass Productions for Embassy Picturesが制作しています。
映画の主役は、ボリスカーロフ、アレンスウィフト、ゲイルガーネット、フィリスディラーです。 ランキン/バスのホリデースペシャルほど有名ではありませんが、カルト映画になっています。
■『悟空の大冒険』(ごくうのだいぼうけん)は、1967年1月7日から同年9月30日までフジテレビ系列で放送されていた日本のテレビアニメ。カラー作品。
手塚治虫が『西遊記』を元に描いた漫画作品『ぼくのそんごくう』を原作に、虫プロダクションがスラップスティックなギャグアニメとして作り上げたのが本作である。
『鉄腕アトム』(アニメ第1作)の後番組であり、引き続き明治製菓(現・明治)の一社提供で放送された。
キャラクターや話の内容が現代風にアレンジされており、三蔵法師が天竺まで経典を取りに行くという基本設定を除いてほとんど作り替えている。
登場人物も、竜子(たつこ)という女性キャラが追加されている。
当初は高い視聴率を稼ぎ、最高視聴率は1967年2月18日(土)に31.7%を記録している。しかし、同年4月に日本テレビ系列で同じ時間帯に『黄金バット』(読売テレビ製作)がスタートしてからは、視聴率の低下に苦しんだ。
「妖怪連合シリーズ」などの路線変更が行われたが、後半の視聴率不振の盛り返しには至らずに9か月(39話)で放送を終えた。
本放送当時に、内容が過激すぎてお蔵入りになったとされるエピソードが1つある。これは本作のDVD-BOXに収録されている。
また、本放送時およびそれからあまり年月が経っていない頃の再放送時にはエンディング前に次週の予告クリップがあったが、後に使われなくなり、いろいろな事情で失われた模様[要説明]。幾つかの音声の一部はDVD-BOXに収録されている。
- 総監督 – 杉井ギサブロー
- プロデューサー – 川畑栄一
- 作画監督 – 山本繁
- 美術監督 – 藤本四郎
- 音響監督 – 鈴木芳男
- 技術監督 – 土屋旭
- 制作担当 – 富岡厚司
- 資料 – 三上康雄
- 編集 – 松浦典良
- 文芸 – 鈴木良武
- 音楽 – 宇野誠一郎
- 録音・効果 – アオイスタジオ
- 現像 – 東洋現像所
- 制作協力 – フジテレビ、アートフレッシュ
- 制作 – 虫プロダクション
■サイボーグ009 怪獣戦争』1967年3月19日公開 『東映こどもまつり』枠
カラー作品 60分。
演出 芹川有吾
■『少年ジャックと魔法使い』(しょうねんジャックとまほうつかい 英文:JACK AND THE WITCH)は、1967年3月19日封切りの『東映こどもまつり』内で上映された、東映動画製作の劇場用アニメ映画である。イーストマンカラー、東映スコープ、80分。
「東映動画設立10周年記念」と銘打って製作された作品で、本作では初期に活躍していた藪下泰次と大工原章が演出と作画監督にそれぞれ登板、当時の東映動画の本流たる作品に仕上げている。特に、偏光フィルターを駆使した特殊効果や、モダン的な背景が目を引く。
音楽は宇野誠一郎がアニメ映画(および東映動画作品)初登板。そして挿入歌の歌詞は、当時NHK総合テレビで放送中の人形劇『ひょっこりひょうたん島』で宇野と関わっていた、山元護久と井上ひさしが担当。
この後山元・井上・宇野の3名は、同年7月20日公開の『ひょうたん島』アニメ版や、1968年3月19日公開の『アンデルセン物語』(アニメ映画版)、そして1969年3月18日公開の『長靴をはいた猫』に登板する事となる。なお宇野はこの後「毎日映画コンクール音楽賞」を受賞した。
■『黄金バット』1967年4月1日 – 1968年3月23日
放送局:読売テレビ制作・日本テレビ系列
放送期間:1967年(昭和42年)4月1日 – 1968年(昭和43年)3月23日(全52話)
放送時間:土曜 19時 – 19時30分
提供:大塚製薬
脚本:第一動画
絵コンテ:㐧一動画
動画制作:㐧一動画・東洋動画(東洋放送子会社)・一番動画 – 大韓民国初の下請け動画である。
日本で製作の脚本や絵コンテを参考に韓国側は中割、トレース、色づけ、背景といった一連の仕上げを行った。
こうして仕上げたセル画が再び東京に空輸され、日本のスタッフにより修正やチェック、撮影が行われた。
■『かみなり坊やピッカリ・ビー』ムロタニツネ象が小学館の漫画雑誌『週刊少年サンデー』に連載していた『ビリビリ・ビート』をアニメ化した作品。不思議な力を持つ子供ピッカリビーが巻き起こす騒動を描く。
製作局の毎日放送では1967年4月1日から1968年3月30日まで、毎週土曜 19:30 – 20:00 (日本標準時)に放送。
2部構成の番組で、10月14日放送分までは前半Aパートと後半Bパートとで別のエピソードを放送していた。
10月21日からは、新作エピソードの放送は基本的にAパートのみで行い、Bパートには前期1 – 2クールで放送したエピソードを流すという手法を採っていたが、Bパートも使って新作を放送する回もあった。
本作の放送に合わせ、ムロタニ自身による漫画作品『ピッカリ・ビー』が講談社の漫画雑誌『ぼくら』に連載されていた。
前番組の『おそ松くん』(アニメ第1作)は子供たちに人気を博していたが、原作のストックが底を突いた上に視聴者の親からワースト番組のレッテルを貼られ、番組スポンサーにも抗議が来た。
その事を危惧した毎日放送の会議で後番組は健全な路線で行くことになり、ムロタニの『ビリビリ・ビート』が題材に選ばれた。
結果的に本作はターゲットを小学校低学年までの層に絞った作品となり、次作の『ファイトだ!!ピュー太』は本作とは対照的な、世相・流行ネタをも取り入れたスラップスティックギャグアニメになった。
ムロタニの弁によれば、『ファイトだ!!ピュー太』より本作の方が自分の作品に近いとのことであるが、主人公のビーをもう少し悪い子にすれば良かったとも述べている。
本作はモノクロ作品だった為か、それほど再放送されなかった上に全話分のフィルムが長らく行方不明になっていたが、1990年に『おそ松くん』や『ファイトだ!!ピュー太』とともに毎日放送千里丘放送センターのフィルム保管倉庫から発見された。
それまで本作を収録したビデオソフトは無く、1989年にハミングバードから発売された『マニア愛蔵版 懐かし〜いTVアニメテーマコレクション』 (規格 – VHS、レーザーディスク) にオープニング映像が収録されているのみであったが、フィルム発見を機に本作および『ファイトだ!!ピュー太』を収録したVHSビデオソフトが、毎日放送開局40周年記念ソフトとして発売された。
2005年6月29日には、コロムビアミュージックエンタテインメント(現・日本コロムビア)から全53話収録のDVD-BOXが発売された。
エンディングと次回予告の収録は現存している回のみであり、次回予告のナレーションは収録されていない。またフィルムの保存状態が余り良くなく、画面中にはゴミの映り込みが多い。
第1話のAパートに当たる「空からきたヘンなやつ」もフィルムの保存状態が悪く、画面中には常に太い縦線が映り込んでしまっており、音声も終始ノイズが出ている状態である。
原作 – ムロタニツネ象
連載 – 毎日小学生新聞、ぼくら、たのしい幼稚園
音楽 – 萩原哲晶
オーディオ演出 – 好川純
制作担当 – 清水保夫、土田治、上山憲二
企画制作 – 毎日放送、放送動画制作、チルドレンズ・コーナー
各話スタッフ
脚本 – 新井豊、くにとしろう、吉田喜昭、松本力、おぎわらやすひろ、小宮敬、広山明志、ムロタニツネ象、鈴木良武、小川健一、畑中国明 ほか
演出 – 光延博愛、岡迫亘弘、倉橋孝治、小華和為雄、林政行、沢西樹、竹内大三、西浩二、彦根範夫、出崎統、近藤英輔、白石邦俊、上野寿夫、鈴木欽一郎、斉藤博
■『パーマン』1967年4月2日 – 1968年4月14日日曜19時30分 – 20時にTBS系列で放送、全54回(108話)。モノクロ作品。「不二家の時間」枠で放送された、不二家一社提供番組。
『おそ松くん』のテレビアニメ制作で力を付け始めたスタジオ・ゼロが、初めて藤子不二雄アニメに参加。
東京ムービー(Aプロ)と交代で制作した。
30分枠のAパートとBパートに亘り伏線が張られることもあり、またギャグ作品でありながらヒーロー然としたスリリングな展開もあった。
本作の放映より一足早く、前週に放送された前番組『オバケのQ太郎』(第1作)の第83話「Qちゃんパーマン大かつやくの巻」には、パーマン1号が宣伝として客演している。
当初、制作側ではカラーでの制作を望んでいたが、スポンサー側の資金面での了承を得られなかった。
また、マントの裾が原作や後のカラー版より若干長く描かれている。
最終回のAパート「パー子という名の女の子の巻」では原作漫画に先駆けて、初めてパーマン3号(パー子)の正体が明かされた。
最終回Bパートは原作「パーマンはつらいよ」を元にした「パーマンよいつまでもの巻」で締め括られている。
原作:藤子不二雄(藤子・F・不二雄)
監督:鈴木伸一
脚本:三春こうじ、浪江志摩、たむらたつお、小林準、三井偠市、中野健次、広田清、藤子不二雄 、長浜忠夫、辻真先、吉田進 他
演出:鈴木伸一、長浜忠夫、大隅正秋、岡部英二、荒木伸吾、森下圭介、秦泉寺博 他
音楽:筒井広志
制作協力:Aプロダクション
製作:東京ムービー、スタジオ・ゼロ
■1967年4月2日 – 1968年3月31日『マッハGoGoGo』(マッハ ゴー ゴー ゴー)は、タツノコプロ制作の日本のテレビアニメ作品。
自動車レース(スポーツカーレース)をテーマとした子供向けのテレビアニメで、1967年(昭和42年)にタツノコプロが制作し、フジテレビ系列で放送された。
吉田竜夫の漫画『パイロットA(エース)』が原作になっている。
アメリカでは『Speed Racer』のタイトルで放送され、人気を博した。主題歌のメロディは日本とほぼ同じで、ピーター・フェルナンデスによる英語の歌詞を乗せている。
原作・プロデューサー – 吉田竜夫
企画 – 鳥海尽三
美術監督 – 中村光毅
色彩設定 – 向井稔
録音ディレクター – 本田保則
音楽 – 越部信義(音楽企画センター)
効果 – 森健二、大野義信
録音 – 平野勝ほか
総監督 – 笹川ひろし
制作 – 吉田竜夫、タツノコプロダクション
■『リボンの騎士』TVアニメ作品は虫プロダクションの製作で、フジテレビ系で1967年4月2日から1968年4月7日にかけて放送された(カラー全52回、音声モノラル)。 本作品は日本のテレビアニメ史上で少女が主人公である第二番目の作品である(第一番目は「魔法使いサリー(東映動画、横山光輝)」)。
総監督:手塚治虫
チーフディレクター:赤堀幹治、勝井千賀雄
デザイナーディレクター:大貫信夫
アニメーションディレクター:上口照人
レイアウト:藤本四郎
作画監督:穴見和子(中村和子)、宮本貞雄
■『冒険ガボテン島』(ぼうけんガボテンじま)は、1967年4月4日から同年12月26日までTBS系列局で放送されていたテレビアニメである。全39話。
TBSが企画制作し、TCJ(現・エイケン)が動画制作を担当していた。また、久松文雄による同名の漫画作品が『週刊少年サンデー』(小学館)で連載されていた。
無人島に漂着した少年少女たちの、厳しい環境の中で懸命に生きる姿を描いている。
夜、遊園地の潜水艇に忍び込んだ「竜太」と妹の「トマト」。
だが、偶然にも遊園地の経営者の息子「イガオ」とその友達「キュウリ」と「カボ」も入り込んでいた。
竜太とイガオはと取っ組み合いの喧嘩になり、その拍子で誤ってスイッチが入り潜水艇が発進してしまった。
懸命に操縦して戻ろうとするがついに燃料が尽き、漂流の果て嵐に巻き込まれた後、無人島に漂着した。
彼らはこの島を「ガボテン島」と名付け、島で仲良くなった九官鳥に似た鳥の「ケロ」、ゴリラの「ゴリ」と共に自然の中で、時にはいがみ合いながらも力を合わせて生き抜き、冒険をする。
原作 – 豊田有恒、久松文雄
監督・構成 – 河島治之
脚本 – 豊田有恒、辻真先、石津嵐、吉永淳一
演出 – 渡辺米彦、鳥居宥之、村山修
キャラクターデザイン – 河島治之
作画 – 菰岡静子、角田利隆、木村光男、芦田豊雄
■『キングコング』(1967)1967年4月5日 – 1967年10月4日
ビデオクラフト社と東映動画による日米合作。
キングコングと少年ボビーの友情と、キングコングを生け捕りにしようとするドクター・フーとの戦いを描いた作品。
最終話では、暴風雨の中、行方不明になったコングがニューヨークに現れ、エンパイアステートビルに登るシーンもある。
ただし、急遽かけつけたボビー少年の機転でコングはビルを降り、落ちかけた橋を支えて多くの人命を救い、ニューヨーク市の鍵を贈られるというハッピーエンドになっている。
東宝映画『キングコングの逆襲』のメカニコングは、この作品に登場するロボットコングが元である。
アメリカでは、1966年9月10日から1969年8月31日までABCで放送。
日本では、1967年4月5日から同年10月4日までNET(現・テレビ朝日)系列局で放送。
放送時間は毎週水曜 19:30 – 20:00 (日本標準時)。全52話(2話×26回)で、第24回まではアニメ『001/7おや指トム』とのセットで放送されていた。基本的には本作Aパート→『001/7おや指トム』→本作Bパートという流れだったが、ラスト2回では本作のみを放送していた。
本放送の終了後も、1970年代前期まではNETテレビで朝や夕方に再放送されていたが、1970年代後期からはまったく放送されていない。
映像ソフト化もされておらず、東映ビデオから発売された『東映TVアニメ主題歌大全集』(規格 – VHS、LD、DVD)にも未収録である。
アニメ継続中は伊東章夫によって、月刊誌『ぼくら』(講談社)にコミカライズ版が連載された。
■『001/7おや指トム』(ゼロゼロななぶんのいちおやゆびトム)(英語表記:TOM of T.H.U.M.B.)は、アメリカのビデオクラフト社と日本の東映動画による日米合作のテレビアニメである。全24話。
タイトル表記について、『親指トム』や『親ゆびトム』と表記している文献やレコードが多いが、『おや指トム』が正しい。
日本では、アニメ『キングコング』とのセットで放送。NET(現・テレビ朝日)系列局で毎週水曜 19:30 – 20:00 (日本標準時)に放送されていた。番組自体は全26回で、1967年4月5日から同年10月4日まで放送されていたが、ラスト2回を『キングコング』の放送に使うため、本作は同年9月20日放送分をもって終了した。
本作の主人公は、名探偵のヒーローという設定である。対抗する悪の組織として、MAD(またまた悪事同盟)という組織が登場する。
■『ピュンピュン丸』(ピュンピュンまる)は、つのだじろうの漫画『忍者あわて丸』(にんじゃあわてまる)(少年画報社の『週刊少年キング』連載)を原作とした東映動画製作のテレビアニメである。1967年7月3日から同年9月18日、および1969年12月29日から1970年3月30日までNET(現:テレビ朝日)系列で放送されていた。
全26話だが、本放送時には第12話まで放送したところで一旦打ち切られ、2年あまりの休止期間が挿まれた。
企画 – 江藤昌治、大沼克之、宮崎慎一(NET)
原作 – つのだじろう(『忍者あわて丸』週刊少年キング連載)
音楽 – 小川寛興
編集 – 鈴木亮、井関保雄
製作 – 東映動画
■1967年7月3日 – 1968年12月30日にかけて毎週月曜19:30 – 20:00にTBS系列でブラザー工業提供の「ブラザー劇場」として、九重佑三子主演で初めてドラマ化された(ビデオ等では後述の大場版との区別のため『九重佑三子のコメットさん』と表記)。
第1話 – 19話はモノクロ、第20話からカラー制作になった。
全79話。
第49話から、住み込んでいる家庭の両親役(職業、家とも変更)が交代した(子ども役二人は続投)。
これをもって前期と後期に区分される。
後年の地上波(主にTBS)の再放送は専らカラー版のみで、長らく全話の再放送はされていなかったが、90年代にはキッズステーションにて、2000年代にはチャンネルNECOにて再放送された。
第1回週刊TVガイド賞(現・テレビ大賞)最優秀バラエティ喜劇番組賞など数々受賞。
日本以上にメキシコで根強いファンが多く、幼い頃にこれを観て影響を受けた映画監督もいる。
ギレルモ・デル・トロは、第75話を基に1992年に『クロノス』を製作し、翌年のカンヌ国際映画祭で批評家週間グランプリを受賞した。
また、アルフォンソ・キュアロンは、1991年に製作した『最も危険な愛し方』に登場する日本人の役名に、住み込んでいる家庭の子どもの役名を使用していた。
そのため、「九重佑三子は、メキシコで最も有名な日本人」といわれるほどである。
この事は、2018年9月8日に放送された「陸海空 地球征服するなんて」(テレビ朝日)において、「あなたの知っている日本人は?」とメキシコの26ヵ所で1000人に調査したところ、37票で3位にランキングされた事で改めて立証された。
また、2019年1月26日放送の同番組での「22の国・地域で20,000人に聞いた世界で一番有名な日本人ランキング」では、59位にランキングされている。
このシリーズの特徴として、アニメと実写の合成パートもある。
アニメ部分(校長先生やオープニングなど)は、当時東京ムービー(Aプロダクション)に在籍していた芝山努、椛島義夫が手がけていた。
また、人形アニメの多用も特筆される。人形アニメートは当分野の第一人者である、真賀里文子[4]が担当している。
アニメ部分はモノクロ版とカラー版では、冒頭のコメットのいたずら(流星を大砲で飛ばす→モニュメントを天馬で壊す)、校長の「いたずらしてはいかんとあれほどいっていたのに!!」の台詞場面(コメットの目前で言う→コメットの場所に移動しながら言う)、OPでの星への落書き(ロケット自身で落書き→バトンの魔法で落書き)など、様々な点で相違点がある。
更にカラー版は第49話より、校長先生のキャラが「ラッキョウ顔で柄パンツを着用」から「丸顔でマントを着用」に変更されたため、冒頭場面は校長キャラと「天馬が壊したモニュメント」を変更した。
プロデューサー:梅村幹比古(国際放映)、橋本洋二(TBS)
原画:横山光輝
音楽:湯浅譲二、田代雅士
特撮:築地米三郎
動画:東京ムービー、長浜忠夫
作画:Aプロダクション、芝山努、椛島義夫
人形アニメーション:マガリたけお
人形作製:小室一郎
撮影:大森二郎、秋元茂
照明:上村一雄、矢口明
美術:小汲明
編集:池月正
録音:坂田通俊
デザイナー:桂由美
助監督:川島啓志、佐藤重直、香月敏郎、今村明男
製作担当:大場正弘
衣裳:鈴屋
舞台装置:美建興業
現像:TBS映画社、東洋現像所
協力:NAC
■『ドンキッコ』1967年9月7日から1968年1月25日までフジテレビ系列局で放送。
前作『ハリスの旋風』と同様、カネボウハリス(現・クラシエフーズ)の一社提供で放送されていた。
全42話(全21回、1回につき2話放送)。
放送時間は毎週木曜 19:00 – 19:30
ドンキッコは訳あって田舎から都会へやって来た自然児。相棒のドンドンとともに放置されているチンチン電車を仮の住まいとしている。骨董品屋「わんわん堂」の娘あやめと親しくなり、意地悪オヤジ「ミスター・トウセンボウ」と戦いを繰り広げるなど、日々騒動を巻き起こす。
原作 – 石森章太郎アニメ制作 – ピー・プロダクション
監督・演出 – 石黒光一、布上善雄
脚本 – 雪室俊一、山崎忠昭、朝風薫、安藤豊弘、今村文人
作画 – 稲村孔志
美術 – 山田順司
音楽 – 淡の圭一
■『冒険少年シャダー』(ぼうけんしょうねんシャダー)は、1967年(昭和42年)9月18日から1968年(昭和43年)3月16日まで日本テレビ系列局で放送されていたテレビアニメ。日本テレビと日本放送映画の共同製作。
放送時間は毎週月曜 – 土曜 18:35 – 18:45 (日本標準時)。その後も、1968年3月18日から同年9月28日まで同じ時間帯に再放送された。
全26話(全156回)。
前番組『とびだせ!バッチリ』と同様に10分間の帯番組として放送されたが、本作は1週間(6回分)をかけて1つのストーリーが完結する連続作品の体裁を採っていた。
古代文明の生き残りで、富士山の洞窟から現代に復活した少年シャダーは、変身能力と悪魔的な呪術を使う魔人ゴースターが世界征服をたくらんでいることを知る。
マンボ博士の協力で現代科学を学んだシャダーは、博士の作ったイオンカーに乗り、助手のピンボケ(犬)とともにゴースターの野望に立ち向かう。
物語の中盤、狼の呪いに取り憑かれた一家の悲劇を描いた「狼家族」の回より、マンボ博士とピンボケは登場しなくなる。
そして、全滅した一家の中でただ一人生き残った少年ロコがシャダーの助手として活躍するようになる。
同時に、人語を解し人間的にふるまうギャグマンガ的なキャッ太は、人間味のないリアルな黒猫ブラックに変更された。
プロデューサー – 新倉雅美、上野徹、三島宏夫
原作 – 岡本光輝
脚本・原動画・背景・仕上・撮影 – シャダーグループ(辻真先、桑島信一 ほか)
演出 – 片岡忠三 ほか
オーディオ演出 – 吉沢京夫
録音 – 太平スタジオ
現像 – 東洋現像所
効果 – 大平紀義
企画制作 – 矢元照雄、藤井賢祐
製作 – 日本テレビ、日本放送映画
■『ちびっこ怪獣ヤダモン』(ちびっこかいじゅうヤダモン)は、1967年10月2日から1968年3月25日までフジテレビ系列局で放送されていたピー・プロダクション制作のテレビアニメである。
モノクロ作品。全52話(全26回、1回につき2話放送)。放送時間は毎週月曜 19:00 – 19:30 (日本標準時)。
ピー・プロダクション初のオリジナル作品であり、社長のうしおそうじが企画・原案・脚本を務めた。
実写特撮も手がけるピープロらしく、一部話数ではアニメと実写の合成も意欲的に取り入れられている。
原案・演出 – うしおそうじ
脚本 – 藤川桂介、生田大作、若林藤吾
作画 – 渡辺福男、有川旭一、稲村孔志
音楽 – 宇野誠一郎
■『スカイヤーズ5』(スカイヤーズファイブ)は、TBS主導で企画・制作されたオリジナルテレビアニメ、およびそれに先行してコミカライズされた、1966年から1968年まで集英社の月刊誌『少年ブック』連載の川崎のぼる作画の漫画である。
TCJ (現・エイケン)製作。1967年10月4日から同年12月27日までTBS系列局でモノクロ版が放送されたが、物語の決着を見ないまま1クール・全12話(+再放送1話)で終了した。
1971年4月にはテレビ新作を前提に小学館の学習雑誌での連載が開始されたが、新番組が中止となったため、わずか2か月で連載が終了した。
その半年後、カラー制作の新シリーズが実現し、1971年10月7日から1972年3月30日まで全26話が放送された。
モノクロ版のエピソードをカラーリメイクした「ゴーストプランを砕け」と「消えた設計図」以外は全て新作エピソードとなっており、このシリーズでは物語が中断することもなく、スカイヤーズ5とゴーストとの最終決戦で最終回を迎えている。
TBS側のプロデューサーの丸山崇は「川崎のぼるの原画の魅力を活かしたアクション活劇で、子供ばかりでなく家族全員で楽しめるように作った」と述べている。
モノクロ版には3話分の、カラー版には13話分(新作12話+モノクロ版のリメイク作品「消えた設計図」)の未放送エピソードが存在する。
原案 – 小泉太郎 / 石川喬司
漫画 – 川崎のぼる
音楽 – 司一郎
脚本 – 真弓真正、中野健次、安田多苗、藤村正太、山村正夫、高橋克雄
演出 – 佐々木治次、山本功、小野龍雄、河内功、村山徹、山口峯晴
編集 – 矢吹敏明
動画制作 – TCJ
企画制作 – TBS
TBSプロデューサー(ノンクレジット) – 丸山崇[1]
エイケンの公式サイトでは以下のスタッフが公表されている。モノクロ版・カラー版共通。
原作 – 真田喬次郎
原案 – 小泉太郎 / 石川喬司
原画 – 川崎のぼる
構成・監督 – 河島治之
動画 – 大西清ほか
美術 – 泉谷実、五十嵐忠司
音楽 – 司一郎
■『おらぁグズラだど』は、1967年10月7日から1968年9月25日までフジテレビ系列局で放送されていた笹川ひろし原作・タツノコプロ制作のテレビアニメである。森永製菓の一社提供。モノクロ作品。全104話(全52回、1回につき2話放送)。
『宇宙エース』・『マッハGoGoGo』に続くタツノコプロ制作アニメの3作目で、タツノコギャグ路線の鏑矢となった作品である。
原作は笹川ひろしが『週刊少年サンデー』1966年3月13日号に発表した『オンボロ怪獣クズラ』で、アニメの放送期間中には板井れんたろうによるコミカライズ作品が同じく『週刊少年サンデー』で連載されていた。
なお単行本は、まず曙出版から全3巻(年代不明)、その後1976年に汐文社から全2巻が発売されたが、いずれも絶版、2008年8月からは「マンガショップ」より発売されている(全2巻)。
平均視聴率は18.5%(タツノコプロが所有する資料による)。
総監督 – 笹川ひろし
プロデューサー – 吉田竜夫
企画 – 鳥海尽三
演出 – 笹川ひろし、原征太郎、西岡たかし、不二みね雄、鳥海永行、高橋良輔、木下蓮三、西牧秀夫、芹川有吾、坂本雄作、瀬山義文、林純夫、佐々木治次 他
美術 – 中村光毅
チーフアニメーター – 坂本雄作
作画 – 西城隆詞、水村十司、須田正己
音響ディレクター – 本田保則
音響効果 – 加藤昭二
アニメーション制作 – タツノコプロ
■『ゲゲゲの鬼太郎』(ゲゲゲのきたろう)は、1968年1月3日から1969年3月30日までフジテレビほかで全65話が放送された、東映アニメーション制作のテレビアニメ。
水木しげるの漫画『ゲゲゲの鬼太郎』を原作とする、妖怪アニメ作品のテレビシリーズとしては1シリーズ目に当たる。
企画:笹谷岩男、斉藤侑
原作:水木しげる(週刊少年マガジン連載)
音楽:いずみたく
製作協力担当:新藤善之、松本貞光
撮影:清水政夫、池田重好、高橋宏固、菅谷正昭、目黒宏、服部正行、吉村次郎、不破孝喜、山田順弘、森山一
編集:古村均、花井正明、鈴木寛
録音:荒川文雄、波多野勲、石井幸夫、小西進
効果:大平紀義
記録:関口泰子、多野田文恵、関根絹代、藤井雅子、波多野紘子、二ノ宮恬江、高野ヒサ子、二宮禧代、池田紀代子、竹部ヒサ子、関根節代、河島利子
選曲:賀川晴男→宮下滋
現像:東映化学
製作:東映動画
製作協力:フジテレビ
■『わんぱく探偵団』(わんぱくたんていだん)は、1968年2月1日から同年9月26日までフジテレビ系列局で放送されていた虫プロダクション制作のテレビアニメである。
雪印乳業(現・雪印メグミルク)の一社提供。全35話。放送時間は毎週木曜 19:00 – 19:30
原作は、江戸川乱歩の子供向け探偵小説シリーズ『少年探偵団』。
6人の少年少女によるわんぱく探偵団が、私立探偵明智小五郎とともに推理力と行動力を駆使して難事件に立ち向かい、怪人二十面相と対決する模様を描く。
虫プロでは初の、手塚治虫作品以外をもとにして制作されたアニメである。
原作での少年探偵団は10人以上でメンバーも流動的であったが、本作では団員を6人に絞って個性を明確化している[1]。怪人二十面相の容貌も、それまでのイメージとは異なる独特なデザインとなっている
原作 – 江戸川乱歩
制作担当 – もり・まさき
監督 – 林重行
技術監督 – 山浦栄二
編集 – 古川雅士
音響監督 – 田代敦己
録音 – 東京スタジオ・センター、種子田文雄
現像 – 東洋現像所
効果 – 相原満
音楽 – 山下毅雄
制作助手 – 岩崎正美
制作 – 虫プロダクション
■『アンデルセン物語』(アンデルセンものがたり)は、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの著作を原作とした日本のアニメーション作品。
1968年(昭和43年)3月19日に公開された、東映動画制作の長編アニメ映画。
前作『ひょっこりひょうたん島』より引き続き、井上ひさしと山元護久が脚本や挿入歌の作詞を手掛け、音楽は宇野誠一郎が担当している。
演出は長編初の矢吹公郎。これら4名は、翌1969年に長編アニメの傑作『長靴をはいた猫』を手掛けることとなる。また井上・山元・宇野のトリオは、後述のテレビアニメの主題歌を手掛け、宇野は挿入歌の作詞・作曲・編曲も手掛ける。
■『巨人の星』1968年3月30日 – 1971年9月18日
スポ根野球漫画『巨人の星』を原作として制作されたアニメシリーズ。
アニメ版は原作の構図や表現方法をほぼ忠実に再現しているが、アニメ版独自のストーリーやダイナミックな表現方法もふんだんに盛り込まれた。
特に大リーグボール3号については、花形が専用のピッチングマシンを作らせ、攻略しようとしたものの、マシンがその力に耐え切れず爆発してしまう描写や、飛雄馬が大リーグボール3号を投げた後にあまりの激痛でうずくまり、医者に見せた所、無理な筋肉の酷使により危険な状態になるという描写など、大リーグボール3号がいかに危険な投法なのかを、原作以上に解説している。
このほか戦争や後楽園球場のシーンでは、実写映像が使われていたことがある。
当時プロデューサーであった佐野寿七によると、自身は高校球児で野球経験者ではあったが巨人ファンではなく、また「原作者の梶原は『距離を置いて見ているから、作品が書ける』と言っていたため巨人ファンではなかったはず」とも述べたほか、作画担当の川崎のぼるも大阪出身であり連載が始まるまでは野球に関心がなかったなど、『巨人の星』は”非G党”の手で作られたものであった。
リテイクの多発
作画スタッフの大半が野球の知識がない素人だったため、リテイク(作り直し)が頻発した。
例えば、相手チームが犠牲バントをするシーン、守備側の巨人は一塁手王と三塁手長島がバント処理に備えてチャージ(前進)するため一塁ベースがガラ空きとなる。
この場合二塁手(当時は土井)がカバーして一塁で捕球することになるが、出来上がったものを見ると、三塁線に転がった打球を長島が処理して一塁に送球したあと王が何食わぬ顔して一塁で捕球していた、ということがよくあった。
■『アニマル1』(アニマル・ワン)1968年4月1日から同年9月30日までフジテレビ系列 (FNN) で放送。全27話。
番組製作はフジテレビと虫プロ商事が担当。アニメの実制作には虫プロダクション(旧虫プロ)が携わった。
本作は原作とは大幅に展開が異なっており、例として原作のアメリカ遠征が行われない他、キャプテン山彦は原作では病気の影響により途中でレスリング生命を終えるのに対し、アニメ版では最後まで東の一番の強敵として立ちはだかる。
また、学校の描写が大幅に増えている他、山彦の妹こだまなどオリジナルキャラクターも多数登場する。
監督・演出監修 – 杉山卓
プロデューサー – 池内辰夫、別所孝治
プロデューサー補 – 岸本吉功
撮影監督 – 大岩久剛
美術監督 – 影山勇
現像 – 東洋現像所
資料 – 三上康雄
編集 – 古川雅士
音楽 – 玉木宏樹
演奏 – アンサンブル57
効果・録音 – アオイスタジオ
音響監督 – 明田川進
技術監督 – 土屋旭
作画監督 – 宮本貞雄
設定制作 – 柴山達雄
■『サイボーグ009』テレビアニメシリーズは、1968年に第1作目(1968年4月5日 – 9月27日)、1979年 – 1980年に第2作目、2001年 – 2002年に第3作目が放送された。さらに「サイボーグ009」と題された劇場版アニメーション作品が1966年・1967年・1980年に公開されている。
演出は映画2作とテレビシリーズともに芹川有吾が担当。音楽は小杉太一郎が担当し、映画用の曲はテレビにも使用された(テレビシリーズ用に新曲も作成されている)。
これらの楽曲は、以後の複数の東映動画作品に流用されている(『タイガーマスク』、『マジンガーZ』など)。
映画『怪獣戦争』の主題歌(第1作では挿入歌として使用)は、テレビシリーズでも継承された。
その際、メンバーの名乗りが曲の前に入れられたが、このアフレコでは、009役の田中雪弥(現:森功至)が中々タイミングを合わせることができずNGを連発した、と述懐している。
■『あかねちゃん』1968年4月6日から同年9月29日までフジテレビ系列局で放送。モノクロ作品。全26話。第13話までは土曜19:00枠で、第14話以降は日曜19:30枠で放送されていた。
アニメ版では、茜は上条家に来てすぐ学園に通うようになる、秀麿は学園の理事長の息子であるなど、設定に違いがある。また、オリジナルエピソードも多数追加されている。
演出 – 永樹凡人、山口康男、白根徳重、田宮武、勝間田具治、芹川有吾、新田義方、茂野一清、黒田昌郎、久岡敬史、宮崎一哉、高見義雄
演出助手 – 竹内啓雄、川田武範、松橋秀夫
脚本 – 雪室俊一、山崎忠昭、辻真先、安藤豊弘、石郷岡豪
美術 – 橫井三郎、遠藤重義、千葉秀雄
キャラクターデザイン – 高橋信也
作画監督 – 小泉謙三、高橋信也、落合正宗、窪詔之、国保誠、古沢日出夫、木村圭市郎、生頼昭憲、細田暉雄
アニメーション制作 – 東映動画
■『ファイトだ!!ピュー太』(ファイトだ ピューた)は、1968年4月6日から同年9月28日までNET(現・テレビ朝日)系列局で放送されていたテレビアニメである。
毎日放送と放送動画制作の共同製作。雪印乳業(現・雪印メグミルク)の一社提供。全26話。放送時間は土曜 19:30 – 20:00 (日本標準時)。モノクロ作品。
ムロタニツネ象の漫画作品『ドクター・ツルリ』(小学館刊『週刊少年サンデー』連載)をテレビ向けに脚色した作品。
発明が得意な主人公・今野ピュー太が毎回祖父のツルリ博士と変わったメカを開発し、ライバル発明家のワルサー7世とその助手のブレーキと対決する。
反戦、水爆、米ソ問題、土地買収問題、デモ、アメコミ、サイケデリックアートなどの世相・風俗ネタが取り入れられており、洋画作品や他のアニメ作品のオマージュやパロディ、動画をコマ送りしなければ分からないような一瞬のギャグもある。
作品制作を請け負っていた放送動画制作のアニメーション製作部は本作を最後に解散し、1972年には「大日」に社名変更してテレビコマーシャルなどの制作会社として活動することになるが、後に社員の一部がオフィス・ユニを設立し、同じく毎日放送で放送されていたミニアニメ『キリンものしりシリーズ』の中期以降の作品制作を請け負っていた。
原案 – ムロタニ・ツネ象(ムロタニツネ象)
構成 – 斉藤賢、光延博愛、永沢詢
作画監督 – 小華和ためお
音楽 – 萩原哲晶
美術 – 児玉喬夫
背景 – 内田好之
撮影チーフ – 小林求
撮影 – 金沢和男
脚本チーフ – 鈴木良武
制作チーフ – 設楽雅司、清水保夫
制作進行 – 大江博宣 ほか
仕上 – 山下靖子、市川洋子
編集 – 榊原雅子
オーディオ演出 – 高桑慎一郎
効果 – 赤塚不二夫(PAG) (第1話 – 第6話)、芳野実
選曲 – 鳥居武秀
録音 – 森武、坂巻四郎
録音進行 – 田尻和世(第7話 – )
台詞担当 – 相楽りつ子
監修 – 相馬英二郎(第1話 – 第6話)
制作 – 毎日放送、放送動画制作
■『怪物くん』は、藤子不二雄Ⓐの漫画『怪物くん』を原作とし、1968年4月21日から1969年3月23日までTBS系列ほかにて不二家一社提供「不二家の時間」枠で放送されたテレビアニメ化作品の第1作にあたるモノクロ版の『怪物くん』(かいぶつくん)及びその劇場版。15分2話構成で全48回(全96話)。
前番組『パーマン (第1作)』に引き続き、東京ムービーとスタジオ・ゼロが交互に制作。
本編中の登場怪物の解説及びエンディングのナレーションは、当時NET系の『日曜洋画劇場』の解説で人気を博していた映画評論家の淀川長治が担当。時には実写スチルで登場した。
シナリオを担当した山崎敬之の著書によると、山崎が書いた最終回のシナリオに対して、原作者の藤子不二雄ⒶはOKをなかなか出さず、結局は最後のタイミングというべき日の早朝に、TBSのロビーを訪れてまで打ち合わせを行い、ようやくOKが出たというエピソードが残っている。
山崎は「あとから思えば、これほど手ごわい原作者もいなかった」と語っている。
プロデューサー:忠隈昌
監督:大隅正秋
演出:鈴木伸一、大隅正秋、石黒昇、秦泉寺博、岡部英二、甲藤征史 他
音楽:岡本道夫
制作協力:Aプロダクション
制作:東京ムービー、スタジオ・ゼロ
■『太陽の王子 ホルスの大冒険』(たいようのおうじ ホルスのだいぼうけん)は、東映動画製作の日本の劇場用アニメ映画。公開は1968年7月21日、上映時間82分、シネスコ(東映スコープ)。『東映まんがパレード』(のちの『東映まんがまつり』)の一本として上映された。
アイヌの伝承をモチーフにした深沢一夫の戯曲(人形劇)『春楡(チキサニ)の上に太陽』を基とし、舞台を「さむい北国のとおいむかし」として製作された。
制作トップに立った高畑勲にとっては初めての監督作品(当時東映動画では監督という言葉は用いず監督業を演出と呼称していた)。
興行的な成功には縁遠かったとはいえ、高畑が中編・長編アニメに進出する足がかりとなった。宮崎駿が本格的に制作に携わった初めてのアニメ作品でもある。
★東映動画の金字塔の一本。
★ヒロインのヒルダに従来のアニメ作品にはなかった描き方をしたことで、本作は公開終了後も上映会が開かれるようになった。アニメーション愛好者サークル「東京アニメーション同好会」(アニドウ)を主宰するなみきたかしは、「公開時に観た僕の世代は、みなヒルダにイカレてしまった。
それは可愛いとか萌えとかいうものとは断じて違う。二次元の作られたものではなく、考え行動する、そして主張を持った一人の人間を感じて、忘れられない実在の人物となったものなのだ。」と述べている。
1980年代には、関連書籍が複数刊行、アニメージュでも特集記事が組まれ再評価が大きく進んだ。
公開から32年が経た2000年11月、本作の「旧スタッフの集い」が開かれ、約6割のスタッフ(途中降板者は招待自体から除かれた)が参集した。
席上、元企画部長だった関政次郎は「皆よくがんばったな。私にとっても忘れられない映画になった」と述べ、大塚康生は「永年のしこりが雪のように解け」たという。
宮崎駿も2018年の高畑の「お別れの会」のコメントでこの集いに触れ、「偉い人たちが『あの頃が一番おもしろかったなあ』と言ってくれた。『太陽の王子』の興行は振るわなかったが、もう誰もそんなことを気にしていなかった。」と述べている。
■『サスケ』1968年9月3日から1969年3月25日までTBS系列局で放送。TCJ(現・エイケン)とTBS(東京放送)の共同製作。森永製菓の一社提供。カラー作品。全29話。最高視聴率は20.8%。
劇中ナレーションは勝田久が担当。勝田は劇中で使用される武器や忍術の解説だけでなく、オープニング冒頭のナレーションも担当している。
基本的に各回の冒頭でサブタイトルと話数が表示されるが、第1話では本編開始から約5分ほど経過してサブタイトルと話数が表示された。
第2話以降ではサブタイトルを表示する前に冒頭で前回のあらすじを説明するナレーションが入る回もある。
この場面で使用される映像は前回の映像を編集したものではなく、淡い色で着色された水彩画タッチのイラストを使って前回のダイジェストとして映していく形式だった。
アニメ版は原作をすべて映像化することなく、ストーリーの途中で終了している。
最終回では大猿大助とサスケがキリシタンの住む隠れ里に身を寄せて新しい家族を得るというラストとなったが、原作ではその後、服部半蔵の暗躍により隠れ里は壊滅する。
そのため、ラストシーンで流れる主題歌は半蔵の使う術「おぼろ影」を歌った3番を使用し、それを暗示するかたちになっている。
『宇宙少年ソラン』以来続いた森永製菓提供の子供向け番組は、本作の最終回をもって終了した。
このアニメ化に合わせ、『週刊少年サンデー』で白土自身によるリメイク版『サスケ』が連載された。
連載期間は1968年31号から1969年22号までの全42回。
これは先の『少年』連載分の再掲載ではなく、コマ割りや構図などを変更して新規に描き直したものである。このリメイク版の単行本化・復刻は現在のところ実現していない。
企画 – TBS<映画部>
原作 – 白土三平
プロデューサー – 大友和夫
脚本 – 田代淳二(全話)
音楽 – 田中正史
作画 – 菰岡静子、芦田豊雄、木村光男
動画 – 毛内節夫、月川秀茂、金子勲、福田皖
美術 – 大隅敏弘、遠藤守俊、久保陽彦、泉谷実
音響監督 – 小松恒弘
制作 – TCJ、TBS
■『チキチキマシン猛レース』(チキチキマシンもうレース、原題:Wacky Races)は、ハンナ・バーベラ・プロダクション制作のアメリカのテレビアニメである。アメリカでは、1968年9月14日から1969年1月4日までCBSで17回(全34話)にわたって放送。
日本では、1970年4月6日から同年7月27日までNETテレビ(現・テレビ朝日)とその系列局で毎週月曜 19時30分 – 20時00分(日本標準時)に放送されていた。
■『夕やけ番長』(ゆうやけばんちょう)1968年9月30日から1969年3月29日まで日本テレビ系列局で、毎週月曜 – 土曜 18:35 – 18:45 (日本標準時)に放送。
その後も、1969年3月31日から同年9月27日まで同じ時間帯に再放送された。全26話(全156回)。前番組『冒険少年シャダー』と同様に、1週間(6回分)をかけて1つのストーリーが完結する方式となっていた。
このテレビアニメ版では、赤城がキックボクシング部を創設する以前から木曽中に各スポーツ部が存在する、小瀬の父親が存命しているなど、原作漫画とは時系列や状況が異なっている。
原作 – 梶原一騎、荘司としお
企画 – 藤井賢祐
プロデューサー – 上野徹、岩田弘
脚本 – 吉田喜昭、雪室俊一、山崎忠昭
演出(監督と同義) – 木下蓮三(前期)、富野喜幸(後期、実際は前期の数話程度)
作画監督 – 木下蓮三、岡迫亘弘
作画 – 岡本良雄、野島進、水村十司、西城隆詞、谷口守泰
オーディオ演出 – 梓欣造
音楽 – 宮崎章、増田豊利
音響効果 – 大平隆義(大平紀義)
編集 – 沢村公子
録音 – 太平スタジオ
現像 – 東洋現像所
制作 – 新倉雅美
製作 – 日本テレビ、東京テレビ動画
■『佐武と市捕物控』NETテレビ系で、1968年10月3日から1969年9月24日まで放映。
制作は毎日放送(MBS) 。モノクロ。
当初は成人層を視聴者とする狙いで、当時のアニメ番組としては異例の21:00 – 21:30枠で放映されたが、半年後には19:00 – 19:30枠に変更されている。
端々に実写映像を使用する実験的な演出も行われている。
MBS制作アニメとしては腸捻転解消前後を通じて唯一の東映動画との作品だった。
また、NET~テレビ朝日以外の制作によるANN系列の東映動画のテレビアニメは、本作品以後、『とんがり帽子のメモル』(腸捻転解消後の朝日放送〔ABC〕制作)まで途絶える事になる。
ローカルセールス枠であり、NETではハヤミズ(速水家具センター)、MBSでは大阪ガスの1社提供で放送された。
本放送時、キー局のMBSでは『反逆者』を第1話、『三匹の狂犬』を第2話として放送したが、NETでは逆に『三匹の狂犬』を第1話、『反逆者』を第2話として放送するという異例の措置が執られた。この事実は近年になって知られ始めたものであるため、現在でも『三匹の狂犬』を第1話と記載する資料が多い。
山下毅雄によるBGM幾つかは、後に放送された「ルパン三世」における石川五右衛門関連のシーン等に流用されている。
原作:石ノ森章太郎
音楽:山下毅雄
美術:山本義也、西芳邦、沼井肇
背景:水谷昇、西原繁男、小山田哲也、竹内俊英
仕上:神田武幸、六笠有子、織田恵美、高橋光子、平賀豊彦、庵宮東世、高橋俊雄
トレス:宮土美沙子、北山礼子、横井千鶴子
彩色:尾崎宮子、小山郁子、佐藤敦子、木村和江、早川乃里子
撮影:大石久剛、森口洋輔、月岡英生、八巻馨、小林三男、浜崎敬一、板東昭雄、高橋宏固
演助:神田武幸、及部保雄、小湊洋市
記録:池田起代子、木俣時子
編集:尾形治敏、西出栄子、花井正明
制作担当:斉藤弘平、藤田鉱一
担当制作:綱田靖夫、牧元悟、おおだ靖夫、土田浩、岩崎正美、後藤靖弘、国井よういち
進行:尾崎正樹、上山憲二、大野清、石黒信一、三沢徹夫、小森徹、山田勝久
制作:角田喜代一
音声演出:浅野良一
音響:明田川進、草間良元
効果:水町正俊、大平紀義、TEO
録音:神原博巳、浅野良一
選曲:宮下滋
現像:育映社、東京テレビセンター、東映化学
企画:電通
監修:松田定次
作画:村野守美、杉野昭夫、沼本清海、飯野肇、石山卓也、森田浩光、甲藤征史、後藤静夫、津野二朗、上梨満雄、藤田真吾、山崎隆生、半田輝男、小川隆雄、高島鉄也、長谷川淑子、矢沢則夫、井上勝、所初恵、神山美智子、棚橋一徳、落合正宗、石黒育
制作:虫プロダクション、東映動画、スタジオ・ゼロ
ナレーション:小林昭二、相模太郎(18話のみ)
■『バンパイヤ』1968年10月3日から1969年3月29日までフジテレビ系で全26話が放送された、実写とアニメの合成のモノクロ作品。バンパイヤの変身シーンと変身後の動物形をアニメーションで描いている[5]。
水谷豊の事実上のデビュー作である。
■『ドカチン』は、1968年10月2日から1969年3月26日までフジテレビ系列局で放送されていたタツノコプロ制作のテレビアニメである。放送時間は毎週水曜 19:00 – 19:30 (日本標準時)。全52話(全26回、1回につき2話放送)。
ノーテンパンク博士が発明した時間再現装置「タイムゾーンマシーン」の作動により、現代(1960年代末)の文明社会の中に突然原始時代の一家が現れ、彼らが巻き起こす騒動を描くドタバタギャグアニメ。
大部分のエピソードはモノクロで制作されたが、第1回・第4回のようにカラーで制作された回も一部存在する。
前作『おらあグズラだど』から引き続き森永製菓の一社提供で放送されていた。
オープニングのラストでは「提供 森永製菓」のテロップが表示され、主人公・ドカチンの「提供、森永。ピポピポ」というナレーションが入っていた(「ピポピポ」は当時の森永製菓のCMで流れていたジングル)。
平均視聴率は15.7%(タツノコプロが所有する資料による)
原作・企画・プロデューサー・製作 – 吉田竜夫
脚本 – 鳥海尽三、山崎晴哉 他
総監督 – 笹川ひろし
演出 – 笹川ひろし、原征太郎 他
作画 – 二宮常雄、坂本雄作、須田正己、西城隆詞、水村十司 他
音楽 – 宇野誠一郎
制作 – タツノコプロ
■『妖怪人間ベム』(ようかいにんげんベム)は、1968年(昭和43年)10月7日から1969年(昭和44年)3月31日までフジテレビ系列にて毎週月曜日19時30分 – 20時00分の時間帯で放送されたテレビアニメ。全26話(以下「第1作」「前作」などと略記)。
いつどこで誰が生み出したのか誰も知らない、人でも動物でもない異形の怪物――それが「ベム」「ベラ」「ベロ」と名乗る3人の「妖怪人間」である。時には人々に迫害され、また時には友情を育みながら、いつか人間になれる日を夢見て彼らは世に仇なす悪と戦い続ける。
1話完結形式で、ベム・ベラ・ベロが3人で各地を放浪しながら妖怪を退治していくフォーマット。
制作は、広告代理店の第一企画(後のADKグループ)のアニメ部門である第一動画が担当。第一動画は東映動画とTCJの出身者から成り立っており、第一動画の日本人作画スタッフが韓国に派遣され、東洋放送の動画製作部で韓国人スタッフを指導する形態での作画作業になっていた。
日本には馴染みのない無国籍風の作りになっているのは、この制作体制の影響が大きい。
作画監督の森川信英は、こうした制作経緯から「事実上の逆輸入アニメ」と語っている。
同じく第一動画の手掛けた『黄金バット』も同様の体制で制作されたので、こちらも無国籍性を醸している。
日本国外への輸出を前提に、絵柄や時代設定は19世紀から20世紀のヨーロッパが意識されている。
当初は緑色だったベロの服が赤色に変更されるなど、アメリカのバイヤーからのアドバイスも受けていた。
アメリカでの放送は実現しなかったものの、韓国とオーストラリアでも放送された。
本放送では、関東地区で第16話と第20話が20.6%の最高視聴率を獲得。
名古屋地区では特に人気が高く、平均視聴率は23.2%、最高で28.3%(第16話)の視聴率を記録している。
本放送後もたびたび行われた再放送で人気が高まった作品である。
当初は全52話の予定であったが、フジテレビ側からの決定で半分の26話に短縮された。
打ち切りの理由は、フジテレビプロデューサーの別所孝治によればフジテレビ全体の改編で『スター千一夜』が始まるため(正確には21時台から移動)だったと証言している。
森川信英は「キャラクターの怖さによるキャラクタービジネスの不振によるものかもしれない」と推測している。
プロデューサーの草野和雄は、打ち切りが決まった後も続編を作ろうとあえて最終話をあやふやな終わり方にし、放送終了1か月後、27話以降を続編「生きていた妖怪人間ベム」として企画。いくつかのテレビ局に持ち込んだが、放送は実現しなかった。
そして、この作品を最後に、第一動画は解散した。
今日では不適切とされる表現が多く見られるため、一部のエピソードが再放送やビデオソフトへの収録を見送られたり、セリフが消されるなどの修正を受けることが多い。
一時期出回ったビデオ全集でも同様の音声カットの措置が採られた。
原作 – さかいさぶろう
連載 – 講談社「ぼくら」
企画 – 第一動画
制作担当 – 庵原和夫
脚本 – 足立明(A・L・C・A)
監修 – なついじゅん
演出 – 柳田灸次郎、佐々木治次、若林忠生[12]
キャラクターデザイン – 若林忠生
作画監督 – 森川信英
原画 – 藤原万秀、楠本勝利、鈴木道弘、ほか
美術監督 – 草野和郎
背景 – 関俊六、五十嵐忠司、小関俊之、ほか
色彩設定 – 木村和夫
撮影チーフ – 稲谷昭一郎
音楽 – 宇野正寛
録音 – 東北新社、KRCスタジオ
効果 – 赤塚不二男
制作協力 – 東洋放送
現像 – 東洋現像所
製作 – 第一動画
■1968年『花折り』川本喜八郎
■1968年 『25日・最初の日』
ユーリ・ボリソヴィチ・ノルシュテイン(Юрий Борисович Норштейн、ラテン文字表記の例:Yuriy Borisovich Norshteyn / Yuri B. Norstein、1941年9月15日 – )は、主にセルロイドに緻密に描き込まれた切り絵を用いる短編アニメーション映画などで知られる映像作家である。ソ連→ロシア国籍の東欧系ユダヤ人である。
■1969年1月放送『ワンダーくんの初夢宇宙旅行』
最近NHKの倉庫で発見された。
https://www.nhk.or.jp/archives/hakkutsu/news/detail102.html
■『ひみつのアッコちゃん』1969年1月6日から1970年10月26日まで、全94話がNET系列で月曜 19:00 – 19:30に放送された。『魔法使いサリー』に続く、東映動画製作。
東映魔女っ子シリーズの一編で第2作にあたる。
最高視聴率は27.8%、平均視聴率で19.8%を記録し、前番組『魔法使いサリー』以上のヒット作となった。
東映動画の池田宏によると本作のコンパクトは商品化を狙ったもので「これは売れるぞ」と考えながら作業をしていたそうである。
東映動画の横山賢二も鏡台が商品化が困難なためにコンパクトに変更したように述べている。
後の2作品と比較して、以下のようにシリアスな展開が多いのが特徴である。
魔法の呪文「テクマクマヤコン」や、アッコの飼い猫「シッポナ」の名は原作にはなく、脚本の雪室俊一がつけたもの。
また、原作では、ダークスーツにサングラス、ソフト帽と、スパイのようないでたちの鏡の国のおじさんが登場するのに対して、本作では女性の鏡の精が登場。これらの設定はその後のアニメのリメイクでも踏襲され、リメイクの際の事実上の原作となっている。
主人公であるアッコの性格に合わせたストーリー展開。
交通事故・病気およびそれらによる死・貧困など、主に製作時の時代背景に由来する劇中でのゲストキャラクターに纏わる不幸なエピソードが盛り込まれていること。
前作『魔法使いサリー』最終回(1968年12月30日放送)の後で放送された『アッコ』予告編は、箒で空飛ぶサリーがお別れのご挨拶を述べた後、鏡の中の空間へテレポートしたサリーが、「すごくチャーミングでお茶目な女の子、その名はアッコちゃん!」と言いながら、鏡の前のアッコを紹介するという演出だった。この予告編は、ビデオソフト版『サリー』第31巻のラストや、DVD-BOX版『アッコ』シリーズの全巻購入特典DVDに収録されている(いずれも東映ビデオ製)。さらに『決定!これが日本のベスト100』(テレビ朝日)でも、「2大少女、夢の共演」というサブタイトルで放送された。
本作は好評で、その後何度も再放送された。1970年代は圧倒的にテレビ朝日だったが、1980年代は1981年9月15日 – 1982年3月1日に日本テレビの月 – 木17:30(『まんがジャンボリー』枠)、1984年11月9日 – 1985年3月26日にテレビ東京の平日18:30(『マンガのひろば』枠)でそれぞれ放送(いずれも年末年始には休止)、さらに1990年代はNHK衛星第2の『衛星アニメ劇場』で放送し、番組では『アッコ』の似顔絵を公募していた。しかしあまりの再放送の多さゆえに中期以後のエンディングフィルムが欠落してしまい、第34・35話のエンディングに統一されるようになってしまった。
■『長靴をはいた猫』は、1969年(昭和44年)3月18日『東映まんがまつり』のうちの一作として公開された。通称長猫。演出(監督)は矢吹公郎 他。80分。
監督 矢吹公郎(「演出」名義)
★東映動画の金字塔の一本。
シャルル・ペローの原作をアレンジして、ギャグありミュージカルありアクションありの、とてつもなく楽しい一品になっている。
若き日の宮崎駿をはじめ参加スタッフたちの脂が乗りきっており、アニメーションもかなり高いレベルで動き回っている。
魔王の城はのちのルパン三世カリオストロの城のモチーフにもなっている。
■『そばかすプッチー』は、1969年3月31日から同年10月4日までフジテレビ系列局で放送されていたフジテレビ・エンタプライズ製作のテレビアニメである。全162話。放送時間は毎週月曜 – 土曜 18:55 – 19:00 (日本標準時)。
小柄だが正義感の強い少年プッチーと、欲張りで様々な悪事を企むワルジーの対決をコメディタッチに描いた作品。
明治乳業(現・株式会社 明治)の一社提供番組で、作中には牛乳を燃料にして動く陸海空対応型メカ「カップ号」が登場する。
企画 – フジテレビ・エンタプライズ
原作 – 青木たかし[要出典]
制作 – 児玉征太郎、砂川圭子
脚本 – 石黒昇、安藤豊弘
演出 – 池野文雄、青木喬、石黒昇[1]
作画 – 新世界映画社、若林忠雄、久保田彰三、秦泉寺博[要出典]
音楽 – 笠井幹男
■『ウメ星デンカ』1969年4月1日から同年9月23日まで、TBS系列(ネットチェンジ前のため関西地区はABC)で毎週火曜18時 – 18時30分に放送された。15分2話、全26回(全52話)。
放送当時はテレビのカラー化が進んでいたにもかかわらず、予算の都合でモノクロ作品として制作された。
原作:藤子不二雄(現:藤子・F・不二雄)
演出:鈴木伸一、秦泉寺博、石黒昇、他
作画:秦泉寺博、甲藤征史、角田隆、富永貞義、田中正史、他
録音監督:山崎宏
音楽:林一
制作協力:Aプロダクション、博報堂
製作:東京ムービー、スタジオ・ゼロ
■『紅三四郎』(くれないさんしろう)とは、「九里一平とタツノコプロ」による漫画及び「吉田竜夫とタツノコプロ」による漫画である。
またアニメ化され、1969年4月2日から同年9月24日まで、フジテレビ系で毎週水曜日19時 – 19時30分に放送された。全26話。
果たし合いの末、父の命を奪った「片目の男」を追って、紅流柔術の達人・紅三四郎は愛車のバイク紅号を駆って世界各地へ旅を続ける。
行く先々で出会う人々と交流しながら、さまざまな武術や格闘技の使い手である「片目の男」と対決していく異種格闘技戦が毎週のクライマックス。
毎回、敵と戦う前にはヒーローの「変身シーン」のような演出で、高く空中に投げ上げた赤い道着を鮮やかに身に付け、黒帯を締めて決めポーズをとるのが恒例となっていた。
戦いの場も荒野や森林、ビルの建築現場の鉄骨の上など、バラエティーに富んでいた。
原作:吉田竜夫(映像やタツノコプロHPによる)
企画:鳥海尽三
製作:酒井仁、前里元義
脚本:鳥海尽三、陣野修、山崎晴哉、鈴木良武、林すみ子
演出:九里一平、鳥海永行、笹川ひろし、案納正美
音楽:越部信義
効果:イシダサウンドプロ(現・フィズサウンドクリエイション)
総監督:九里一平
プロデューサー:吉田健二
制作:吉田竜夫、タツノコプロ
■『もーれつア太郎』1969年4月4日から1970年12月25日[注 25]までNET系列局で放送。全90話。1970年9月25日放送の第77回まではモノクロ放送で、同年10月2日放送の第78回からカラー放送を行っていた。
企画 – 飯島敬(第1 – 26回、第78回 – 終)、江藤昌治(第1 – 52回)、大沼克之(第1 – 77回)、原徹(第53回 – 終)
原作 – 赤塚不二夫(少年サンデー連載)
音楽 – いずみたく
NETプロデューサー – 宮崎慎一
撮影 – 菅谷正昭、高橋宏固、服部正行、熊谷幌史、高梨洋一、山崎茂、島敏之、森山一、阪東昭雄、河合汪、林昭夫、町田賢樹、井出昭一郎、白根基万、山根恵、吉村次郎
編集 – 鈴木寛、花井正明、千蔵豊、古村均
録音 – 神原広巳、波多野勲、荒川文雄、石井幸夫、小西進、二宮健治
効果 – 大平紀義 → 伊藤道広
記録 – 的場節代、田野多文恵、佐伯節子、木俣時子、池田紀代子、二宮橲代、田中千鶴、波多野紘子、馬道子、佐々木礼子、藤原繁子、早見佐代子、小林ふみ子、関根絹代、鈴木素子、熊沢直美、高野ヒサ子
選曲 – 宮下滋、賀川晴雄
演出助手 – 金子充洋、大網郁夫、西谷克和、中村進治、青鉢芳信、竹内啓雄、山口秀憲、福島一三、山形良治、山吉康夫、佐々木勝利、石井裕文、奥西武、横田和善、伴亨、萩原巧司、寒竹清隆
製作進行 – 竹村環三、佐伯雅久、大辻平八郎、磯本憲昭、富岡義和、福島一三、秋山冴子、隅要次郎、渡部一雄、堂山喜史、向坪利次、館浩二、江野沢通之、江藤浩市、堤四四三、平賀みちる、武田嘉昭、豊島勝義、奥村千賀野
現像 – 東映化学工業株式会社→東映化学
製作 → 制作 – 東映動画 → 東映、NET
■『忍風カムイ外伝』(にんぷうカムイがいでん)のタイトルで1969年4月6日から同年9月28日までフジテレビ系にて毎週日曜 18時30分 – 19時00分に放送された。全26話。提供は東京芝浦電気(現・東芝)。
第1話から第20話までは『カムイ外伝 第一部』。第21話から第26話までは、放送当時には漫画での発表がされていなかったが、白土の原作に基づく。
元々は、宣弘社プロダクション制作・東芝提供による特撮テレビ番組『光速エスパー』の次作品として実写で企画されていたが、『エスパー』で予算が掛かり過ぎたため、アニメ作品に変更された。
アニメーション制作は、宣弘社が製作した「アリナミン」のCMを手がけた縁からエイケンが担当した。
主人公カムイは原作より年長に描かれている。
内容の暗さなどから視聴率が低迷したため打ち切りとなり、同じ東芝一社提供番組で当初要望していた枠を確保できなかった『サザエさん』が後番組となった。
原作 – 白土三平(赤目プロ)
監修 – 小林利雄(宣弘社)
プロデューサー – 高橋茂人
脚本 – 田代淳二
キャラクターデザイン(美術と表記) – 関修一
アートディレクター – 小野辰雄
作画 – 芦田豊雄、毛内節夫、角田利隆、山内善英 ほか
音楽 – 水谷良一
キャスティング協力 – テアトル・エコー、東京俳優生活協同組合
企画・制作 – TCJ、宣弘社
6月14日
■1969年4月6日 – 9月28日『どろろ』は、手塚治虫の漫画『どろろ』を原作とした日本のテレビアニメ。パイロットフィルムを含め、2019年までに3度にわたって制作されている。
1969年4月6日から9月28日まで、フジテレビ系列で毎週日曜19:30 – 20:00 (JST) に全26話が放送された。
虫プロダクションとフジテレビの共同制作。
タイトルは、当初は原作と同じく『どろろ』であったが、1969年7月6日放送分(第14話)より『どろろと百鬼丸』へと改題された。
総監督を務めた杉井ギサブローは当時、独立プロダクションのスタジオ「アートフレッシュ」を主宰しており、そこに文芸として所属していた出崎哲が面白いと持ったきた原作版『どろろ』のアニメ化を虫プロに提案したところ企画が通り、音楽を冨田勲に依頼したうえ、杉井の絵コンテを元にアートフレッシュがグロス請けで作画を行ってパイロットフィルムの制作を行い、1968年1月29日に完成した。
冨田による同作品の音楽背景も、前もって必要な楽曲を溜め録り録音しておく方式が採用され、曲調も基本的に少人数のオーケストラに琵琶や鼓などの和楽器を加えた編成で、必要に応じて電気的に変調させた西洋楽器の響きと男声合唱が加えられており、冨田が「男声コーラスで魔物が迫ってくる感じを、琵琶の音で百鬼丸が呪いを打ち破る感じを表現した」と語る曲となった。
ところが、アートフレッシュは全員で仕事を空け、どろろ体制にしたにもかかわらず、放送予定が延びたと富岡厚司から告げられた。
スタジオを持っていて金が無いのは困るからと相談したが、虫プロもきつくて何ともならないと返答された。
そこで、東映時代の先輩でAプロダクションの楠部大吉郎に金を貸してほしいと泣きつき、借りることには成功するが、引き換えに『どろろ』が動き出すまでの間、メンバーはAプロを通じて『巨人の星』の作画下請けをする条件を呑む。
しかし『巨人の星』は気が進まなかった杉井はその状態を逃れようと、『ルパン三世』の企画をAプロに持ち込み、『ルパン』のパイロットを準備している最中、カルピスが『どろろ』のスポンサーに決まる。
1968年4月から8月くらいまでの頃には制作が本格的に始まるが、第1話完成は同年10月2日、放送開始は1969年4月6日と半年間のブランクがあり、DVD-BOX封入解説書には、放送予定が延びたのではと記されている。
総監督 – 杉井ギサブロー
設定 – 勝井千賀雄、鈴木良武
作画監督 – 北野英明、上口照人
作画 – 進藤満尾
美術監督 – 槻間八郎
背景 – 明石貞一
トレス – 北岡光代
彩色 – 高橋富子
撮影監督 – 熊谷幌史
撮影 – 森昭彦
音響 – 田代敦巳
録音 – 東京スタジオセンター(渡辺進)
効果 – 柏原満
現像 – 育英社
編集 – 松浦典良
音楽 – 冨田勲
演奏 – フールサンズセレナーダス(中村英夫)
製作 – 柴山達雄
製作助手 – 金沢秀一
フジテレビ担当 – 八百板勉
制作 – 虫プロダクション、フジテレビ
■『六法やぶれクン』(ろっぽうやぶれクン)は、佐賀潜の『民法入門』を原作としたテレビアニメ。1969年4月28日 – 1969年9月26日。
様々なトラブルに巻き込まれる六法クンの日常を通して、生活に関する法律の知識を紹介。
原作・監修:佐賀潜(カッパ・ビジネス「法律入門シリーズ」より)
演出:岡部英二
作画監督:北原健雄
美術監督:小林七郎
音楽:小山恭弘
製作:名古屋テレビ、東京ムービー
■1969年6月14日『千夜一夜物語』(せんやいちやものがたり)は、虫プロダクションが製作した劇場用アニメーション映画である。
予告編等では「アニメラマ」のキャッチフレーズが付けられた。有名な一大説話集『千夜一夜物語』を自由奔放に翻案し、一人の冒険商人を中心とした一大叙事詩が描かれる。配給は日本ヘラルド映画。封切は1969年6月14日。日本初の大人のためのアニメーション映画である。
★マルチプレーン・カメラによる色彩豊かで立体的なスペクタクルシーンのほか、着色モノクロームのようなシーン、漫画のような平面的な構図、鉛筆画による動画など、シーンごとに毛色が異なる極めて多彩な表現が入り混じった一種独特のスタイルを持っている。
これは、山本監督の実験精神と、各シーンを任せた作画担当者の作家性を重視したものである。スプリットスクリーンを用いた印象的なシーンも山本のアイデアである。一部のシーンでは、絵コンテもストーリーボードもない状態で作画を任せていることもある。
また、作画監督の宮本貞雄は、キャラクターごとに担当を決め作画を担当させた。主人公アルディンや敵役のバドリーは宮本自身が、女性キャラは中村和子が、脇役の男性を波多正美が主に作画した。
バグダッドの遠景や、塔の全景などがミニチュアで作られ合成された。製作は平松美術工房。山本監督によると、当初撮影時に通常のライトを当てて撮影したため非常にミニチュア然としたものになってしまい、急遽着色ライトに変更したという。
これ以外にも、砂漠や海の背景が合成素材として用いられたり、また、竜巻のシーンは、洗濯機の渦巻きを撮影し合成した。
★性的表現
本作の特徴の一つは大胆な性的表現がアニメーションで表現されている点である。
ただし、直接的な描写は少なく、メタモルフォーゼや抽象表現を多用し、またあえてピンクのフィルターをかけるなどして扇情を煽る表現となっている。
女護ヶ島におけるシーンは圧巻で、多くを杉井ギサブローが鉛筆で作画している。また、手塚自身の作画シーンもある。
■『空飛ぶゆうれい船』(そらとぶゆうれいせん 英:Flying Phantom Ship)は、1969年7月20日に「東映まんがまつり」で公開された東映動画製作の劇場用アニメ映画。上映時間60分。カラーワイド版。
原作は、1960年の月刊誌『少年』に掲載された石森章太郎(後の石ノ森章太郎)の短編漫画「ゆうれい船」。
巨大ロボット・ゴーレムと国防軍の戦闘シーンでは、攻撃する戦闘機パイロットからの視点で表現するという当時としては斬新な演出がなされている。
原画スタッフとして宮﨑駿が参加しており、ビルの破壊シーンなどを担当している。
監督 池田宏(「演出」名義)
■恐竜グワンジ (The Valley of Gwangi) は1969年(9月3日公開)に製作されたアメリカ映画。
★本作は、ウィリス・H・オブライエンが長年に渡って映画化を企図しながら果たせなかったものを、レイ・ハリーハウゼンが引き継いで実現させたものである。
劇中に登場する古生物はグワンジ(人形と実物大頭部モデルが製作された)、スティラコサウルス(撮影に使われた人形は『恐竜100万年』のトリケラトプスの改造)、オルニトミムス(アップ用とロング用の人形が製作された)、プテラノドン(アップ用とロング用の人形と実物大モデルが製作された)、エオヒプス。
■『巨人の星対鉄腕アトム』(きょじんのほしたいてつわんアトム)は、1969年9月6日に日本テレビ系列のバラエティ番組『前田武彦の天下のライバル』(土曜19:30 – 20:00)で行われた企画である。
様々な芸能人のライバル同士がゲーム合戦を行う『前田武彦の天下のライバル』の、異色のアニメ合成回。当時『天下のライバル』直前の土曜19:00(読売テレビ制作枠)で放送され、人気上昇中の『巨人の星』と、かつてフジテレビ系列で放送された『鉄腕アトム』の、キャラ同士やファンの子供同士が戦うといった趣向。
スタジオには双方の作品のファンの子供達が集合、そしてアニメパートでは、『巨人の星』と『鉄腕アトム』双方のキャラが共演した。
日本におけるアニメのクロスオーバー作品では最古の部類に入り、原作者・出版社・アニメ製作会社が全て異なるという極めて珍しい作品でもある。
対戦は3回戦からなり、アニメパートでは「投手:星飛雄馬×打者:アトムの野球対決」と、「飛雄馬とアトムのマラソン対決」が行われ、スタジオパートでは子供達による風船割りや目隠しチャンバラ合戦が行われた。
アニメスタッフは世界の違う二人の対決法の考案に苦労し、20分の動画部[1]の制作費は(当時)600万円もかかったという。
アニメパート部分のフィルムは現存し、近年では2007年12月8日開催のイベント「手塚治虫ファン大会2007」で上映された。
その後、2007年11月2日に発売されたDVD-BOX「巨人の星 特別篇 『父一徹』BOX」の特典映像として約5分の一部がDVD化されている。
演出:富野喜幸(現:由悠季)
アニメ制作:東京ムービー(『巨人の星』)、Aプロダクション(『巨人の星』、協力)、虫プロダクション(『鉄腕アトム』)
制作:日本テレビ
■『ピンチとパンチ』は、1969年9月29日から1970年3月28日までフジテレビ系列局で放送されていたフジテレビ・エンタプライズ製作のテレビアニメである。
大人に意地悪をしてへこませるのが大好きな双子ピンチとパンチが巻き起こす騒動を描いている。全156話。放送時間は毎週月曜 – 土曜 18:50 – 18:55
企画 – フジテレビ・エンタプライズ、石黒昇
原作 – 青木たかし[要出典]
制作 – 児玉征太郎、砂川圭子
脚本 – 石黒昇、安藤豊弘
演出 – 池野文雄、青木喬、石黒昇[1]
作画 – 新世界映画社、若林忠雄、久保田彰三、秦泉寺博
音楽 – 笠井幹男
■『男一匹ガキ大将』1969年9月29日 – 1970年3月28日まで日本テレビ系で放送。全156回(全26話)。『週刊少年ジャンプ』原作漫画としては初のアニメ作品となる。
企画 – 藤井賢祐
プロデューサー – 三島宏夫、高橋修之、岩田弘
脚本 – 吉田進、山崎忠昭、雪室俊一
演出 – 若林忠雄、富野喜幸
作画監督 – 金沢比呂司、山崎隆生、坂本次男、坂本三郎
美術 – 椋尾篁
撮影 – 若林敬
編集 – 鶴渕友彰
オーディオ演出 – 梓欣造
音響 – 小川正城
音楽 – 小山恭弘
効果 – 大平隆義
現像 – 東京現像所
録音 – 番町スタジオ
制作 – 日本テレビ、東京テレビ動画
■『タイガーマスク』東映動画製作でアニメ化され、よみうりテレビ・日本テレビ系列にて1969年10月2日から1971年9月30日まで全105話が放映された。
原作の連載とほぼ同時進行で放送されていたが、中盤でアニメ版の進行が漫画連載に追いついてしまったため、徐々にオリジナルストーリーが目立つようになっていき、終盤では一部原作の要素は取り入れているものの、まったく別の展開となった。
原作 – 梶原一騎、辻なおき
企画 – 斎藤侑、江藤昌治
キャラクターデザイン – 木村圭市郎
音楽 – 菊池俊輔
編集 – 花井正明
効果 – 大平紀義
制作 – よみうりテレビ、東映
■『ハクション大魔王』1969年10月5日 – 1970年9月27日
全104話(放送回は全52回)
フジテレビ系で全52回放送された。平均視聴率は13.5%、最高視聴率は第23話の19.1%(タツノコプロが所有する資料による)。
スタッフ
末尾の◎印は、DVDソフトのオープニング映像のクレジットに表示。
原作・制作 – 吉田竜夫◎
企画 – 鳥海尽三◎
プロデューサー – 吉田健二
総監督 – 笹川ひろし◎
制作担当 – 永井昌嗣
作画監督 – 山本繁、二宮常雄、白川忠志、須田正己、西城隆詞、水村十司、高橋資祐、他
美術設定 – 古原一輪
美術監督 – 中村光毅
録音プロデューサー – 本田保則
録音ディレクター – 水本完
音響効果 – イシダ・サウンドプロ
音響制作 – オムニバス・プロ
録音スタジオ – 読広スタジオ
録音 – 棚岡元、石川武人
撮影 – 池田仁男
編集 – 中溝哲生
音楽 – 若月明人◎、市川昭介◎
現像 – 東洋現像所
制作 – タツノコプロ◎
■『ムーミン』1969年10月5日 – 1970年12月27日まで全65話が放送された、東京ムービー→虫プロダクション制作のもの。旧ムーミンと呼称される。
トーベ・ヤンソンの同名の小説『ムーミン』シリーズ、および彼女と末弟ラルス・ヤンソンの共著による『ムーミン・コミックス』を原作とした、日本のテレビアニメシリーズ。
制作・放送が開始され、東京ムービーのスタッフたちは、第7話「さよならガオガオ」を原作者のトーベ・ヤンソンに見てもらうことに決定。
トーベから「大変気に入りました」とお墨付きをもらえるものと期待していたが、帰ってきたのは「これは私のムーミンではありません」などの難色を示す言葉・手紙だった。
東京ムービーはトーベの手紙をクレームとし、第26話を最後に制作から撤退。第27話『顔をなくしたニンニ』から虫プロダクションに交代する。
★トーベ・ヤンソンは、アメリカのカートゥーンや西部劇のテレビ放送などを野蛮に思っていたようで、それらの要素を本シリーズに感じていたという。
1969年版の脚本家・山崎忠昭の著書『日活アクション無頓帖』に掲載された、トーベの手紙の全文翻訳では、「出発点、即ち、ムーミン谷、ムーミン的考え方すべてが違って表現されている」に始まり、「ムーミンは蝶を虫取り網で捕まえたりしません。蝶が自然に捕まるか、逃げるに任せます」「(スノークの)自動車は使うべきでない」「(本シリーズに)都会は不向き。彼らは現代社会には生きてはいない」「ムーミン家の内装を変えて欲しい。広すぎてガランとしている。事務所のようにみえる」「手を伸ばさないと出来ないならば、ギターの演奏は止めて欲しい」「ママは常にハンドバッグ、パパはステッキを持つこと」など、作品世界の文化から各登場人物の持ち物・服装・生活様式に至るまで、こと細かに要望が書き連ねられている。
「スノークのお嬢さん」に名付けた「ノンノン」という名前も、「no」や「non」という否定的な響きに受け取れるとしていた。
東京ムービー制作期の大塚康生によるキャラクターデザインは原作小説の挿絵がベースとしつつ、当時の流行に則って大胆にアレンジしており、絵の丸みを大切にマシュマロのような柔らかさをもって描かれていた。
当時の視聴者にはこの丸みを帯びたキャラクターデザインが「かわいい」と受け入れられたが、トーベにはシャープさに欠けると不評だったようである。また、角ばった顔と彩色が「(設定では妖精の)ムーミンはカバ」という勘違いの材料の1つだったことも指摘されている。
1969年版はもとより、1972年版でデザイン変更をさらに試みても、なおヤンソン側からは「日本国内はともかく、外国での放送は認めません」の一点張りだったと言われている。その一方で、トーベは本シリーズを全否定していたわけではなく、水や空などの背景を「カラー効果が上手くでている」と褒めたり、来日時に「日本的なムーミンもあってもよいと考えるようになりました」と発言したこともあった。
1971年には、1972年版の放送開始記念にトーベが親友のトゥーリッキ・ピエティラ教授と一緒に日本に招かれた際、当時日曜に再放送されていた1969年版を見せないよう、放送する時間帯に高橋社長がトーベをホテルから連れ出して鎌倉の海岸に誘い出したり策を練っていたという逸話がある。
このように原作者は不満を持っていたものの、視聴者の子供や親達からは好評を得ていたようで、後述の『楽しいムーミン一家』放送前日までは再放送が繰り返され、ズイヨー(瑞鷹)監修のキャラクターグッズやレコード・ビデオなども発売されたり、キャラクターが交通安全運動などに用いられるなど長く愛された。そのため、原作の「スノークのお嬢さん」を「ノンノン」と認識している世代も多い。
封印作品へ
ヤンソン姉弟が直接監修した『楽しいムーミン一家』が、1990年にテレビ東京系列で放送されてからは、権利者(トーベ・ヤンソンの姪であるソフィア・ヤンソン、ラルス・ヤンソンの娘が経営するムーミン・キャラクター社)の「旧作『ムーミン』の放送、新ソフトの開発を認めない」という意向により、本シリーズ2作品のテレビでの再放送や新規の映像ソフト化などは自粛されている。
ただし主題歌の『ねえ、ムーミン(ムーミンのテーマ)』は現在でもムーミン関係のテレビ映像で使用されることがある。
■『サザエさん』1969年(昭和44年)10月5日にフジテレビ系列で第1回が放送開始して以来、2020年(令和2年)時点で放送年数51年を超える長寿番組で、平均視聴率が10%前後と高い国民的な番組として継続中である。
2014年以降は平均視聴率が1桁になることもあるが、それでもテレビアニメの中ではほぼ毎週1位となっている。
基本的な放送枠は日曜18:30枠(以下JST)だが、これは放送開始時から一切変更されておらず、同一の放送時間で続いている番組としては最長である。
■『㊙劇画 浮世絵千一夜』(マルヒげきが うきよえせんいちや)は、1969年(昭和44年)10月29日に東映系で公開されたレオ・プロダクション製作の劇場用オリジナル長編アニメーション映画。R18+(旧成人映画)指定。併映『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』(石井輝男監督、吉田輝雄主演)。
キャッチコピーは「世界で初めて!浮世絵が動く声を出す、艶笑大人のまんが」「あッ見えた、動いた、声が出た!オールカラーアニメーションでねっとり描く世界初の時代劇浮世絵巨篇」。
本作品は手塚治虫の虫プロダクションが製作した大人向けアニメ『千夜一夜物語』(配給・日本ヘラルド映画)に便乗して製作されたといわれる。
一方で製作者側の証言によれば本作は虫プロの「アニメラマ」に別段便乗したわけではなく、それ以前から製作に取り掛かっていたとのことで、当初予定されていたタイトルも「幻お流捕物控 女妖浮世絵秘帖」というものだった。
ちなみに虫プロの『千夜一夜物語』は成人映画指定を受けておらず、結果的に本作が世界初の成人指定アダルトアニメとなった(なお、2011年公開のアダルトアニメ『STAR☆jewel』が単館系劇場で先行公開された際「18禁アニメ世界初の劇場公開」と紹介されたが、これは完全な事実誤認である)。
★評価
本作はアニメ映画史上において最も出来の悪い作品の一つとして評価されており、本作を紹介したごく一部のアニメ評論家からも「内容は実にお粗末の一語につきる動画だった」と徹底的に酷評され、現在も半ば黙殺された存在となっている。
劇場で本作を視聴した映画評論家の森卓也は映画雑誌『キネマ旬報』に以下の批評文を寄稿している。
製作したレオ・プロダクションなるものを私はしらない。いずれにしても虫プロの『千夜一夜物語』のヒットにあやかろうという魂胆は誰の目にも明らかだろう。
いやはや、下には下があるものだ。失望の超大作『千夜一夜物語』も、これに比べたら「不朽の名作」である。
なんのかんのといっても、虫プロの『千夜一夜物語』には、白蛇の精の抽象的なセックスシーンのように、1つ2つは印象に残るものが無いではなかった。が、『浮世絵千一夜』には、それがない。なんにもない。
歯医者の待合室に転がっているマンガ週刊誌のエロ劇画の方がまだしもプロポーションがちゃんとしているし、第一、ヘタに動かないだけでも良い。とにかくこれほど退屈かつ不快なものが娯楽としてまかり通るのだということが、金五百円也と一時間十分を費やして私が得た貴重な教訓なのである。
— キネマ旬報社『キネマ旬報』No.511 1969年12月上旬号「日本映画批評」p.62-64
結局本作は興行的にも作品的にも全く評価されることなく、これを最後にレオ・プロダクションは活動を停止した(その後、同社はスタジオエルと改組・改称して現在も事業継続中である)。
その後、日本テレビ系平日夕方放送の帯アニメを手がけた東京テレビ動画がレオ・プロダクションと同じく虫プロの「アニメラマ」に便乗し、1971年に日本ヘラルド映画の企画で、過激な性描写が売りの劇場用ポルノアニメ『ヤスジのポルノラマ やっちまえ!!』(原作・谷岡ヤスジ)を制作・公開するが興行は大失敗に終わり、本作を最後に東京テレビ動画は解散を余儀なくされた。
1960年代後半から1970年代前半にかけて登場した劇場用アダルトアニメはこの2作と虫プロのアニメロマネスク『哀しみのベラドンナ』(1973年公開)の興行的惨敗によって、わずか数年で完全消滅する。
その後、史上初の成人向けOVA『ロリータアニメ』(原作・中島史雄)が1984年に発売されるまで新作のアダルトアニメは10年以上にわたり市場から姿を消すことになった。
★1970年にオープンリール式のビデオテープ(収録時間70分の上映版)が発売されたのち、一般家庭にビデオデッキが普及する前後の1970年代後半から1980年代前半にかけて東映芸能ビデオから収録時間60分の短縮版VHSソフトが5万5000円(のちに4万4500円に価格改定)で発売されていた。
以後は再発売もDVD化も行われていない。また、フィルムの現存状況も不明である。
■『アタックNo.1』1969年12月7日から1971年11月28日にかけて全104話が放送されたテレビシリーズ。
よみうりテレビの土曜日19時-19時30分枠における『巨人の星』で、視聴率的にも成功を収めていた広告代理店の旭通信社&提供スポンサーの大塚グループ&企画の東京ムービー(下請制作はAプロダクション)が、今回は『週刊マーガレット』に連載中であった原作漫画を題材にすることで、フジテレビの日曜日19時-19時30分枠を新たに獲得した。
『巨人の星』と同様に成功を収めたアニメ番組でもあった。
フジテレビの同枠は、アニメ番組の『マッハGoGoGo』が1967年6月末に枠移動(日曜19時台前半枠→日曜18時台後半枠)後、『爆笑ヒットパレード』(週レギュラー版、56分番組)→『リッカー スクラム歌合戦』→『爆笑ダイヤモンドショー(第2期)』→『東京ぼん太ショー』(56分番組。ただし1969年2月2日から2か月間は前半枠)→『紅白スタージェスチャー』→『モーレツ欲張りゲーム』といったバラエティ番組が続いていた。
しかし本作からは、旭通信社→アサツー ディ・ケイ時代の変化に応じて提供スポンサーや制作会社を替えながらも2004年末に終了した『こちら葛飾区亀有公園前派出所』まで、同枠を長らく担当することになった。
平均視聴率19.9%、最高27.1%(1971年1月10日放送)を記録した(ビデオリサーチ調べ、関東地区)。主題歌レコードは70万枚を売り、主題歌の中の1フレーズが流行した。
日本での放送終了後、日本国外でも放映され、イタリアでは後にトップ選手として活躍するフランチェスカ・ピッチニーニがバレーボールを始めるきっかけになった。
フジテレビにおいても、バレーボール中継に力を入れるきっかけとなり、放送期間中にはフジサンケイグループで春の高校バレーをスタートさせ、1977年からはバレーボールワールドカップの中継のみならず、運営そのものに関わっている。
原作 – 浦野千賀子
撮影監督 – 清水達正
美術監督 – 池田準(第81話まで)→福田尚朗(第82話以降)
作画 – 竹内留吉、小泉謙三、我妻宏、白土武、窪田正史、箕輪紀行、朝倉隆、星野赫子、吉原彰夫、増沢せい子、中村英一、小林治、鈴木英二、坂本三郎、外記康義、伊勢田幸彦、荒木伸吾、中村一夫、塩山紀生、米川功真、村田耕一、有原誠治、羽根章悦、百瀬義行、内山正幸 他
背景 – 現代制作集団、椋尾篁
録音監督 – 山崎あきら
音楽 – 渡辺岳夫
効果 – 片岡陽三
編集 – 井上和夫(第97話まで)→河合多恵子(第98話以降)
制作協力 – Aプロダクション(作画)、東京アニメーションフィルム(撮影)、映音(録音)、東京現像所(現像)
制作 – フジテレビ、東京ムービー